信号が赤になった時、横断歩道でジョギングを継続したまま汗を流す男を、少年はちらりと覗いた。
午前八時。改札を抜け、駅のホームを後にする頃には分針も折り返し地点を通過していた。学校の決まりであるから、五十分のチャイムが鳴るまでには着席していなければいけない。いや、実際には教師が教卓に付くまでには、なのかもしれないが、その時少年の脳裏には遅刻の文字が浮かんでいた。
高校までは徒歩二十分の道のりだ。いつもならもう少し時間に余裕があった。今は十分もない。後悔が足を、膝を重くする。一時間前、目の前を通過した緑色の電車を心の中でひっそりと詰った。
首元にぶら下げていたイヤホンを耳に当てると、垂れ流していた音楽のサビが聞こえてくる。体の芯が少しだけ揺れた。まだ、走れば間に合うかもしれない。手提げの鞄を肩に背負うと、顎を上げる。両腕に自然と力が入り、踵が僅かに浮いた。
「……やっぱり、やめた」
道の少し先の方では塊を作る学生が見えた。制服から同じ高校であることが分かる。先輩か後輩か、同級生なのかはわからない。それでも、それを追い越すことはなんだか気が引けてしまう。遅刻に焦り、規則に追われ、汗を流す男の姿を思い出した。その時僕は「かっこわるい」と、その男の後ろ姿を目で追っていた。
結局は学生の集団を追いかける形で半分の所まで来てしまった。時間は後五分あるかないかというところだった。このままでは確実に間に合わない。目の前の集団はそれ程までにノロマだった。
一分一秒、あの電車に乗れていれば、こんな状況になることもなかったはずだ。時間は巻き戻らない。なんで巻き戻らない? ケチな神様もついでに詰る。もう、朝のホームルームは諦めるしかない。適当な遅刻の言い訳を考えた。
そんな時、少し先の信号が点滅を始めた。目の前の集団は相変わらず雑談にふけっている。寝坊は少し無難すぎるだろうか。信号の色が変わった。
学生の塊が白線の手前で足並みを揃える頃には信号の色が変わり、その少し後ろで少年が待機する。我先にと動き出した車が目の前を駆けてゆく。学生達のはしゃぎ声が音楽に混ざり耳の奥をくすぐった。堪らず機器の音量を上げる。そのためか、軽いジョギングで信号を見上げる男が隣にいた時には少なからず目を見張った。
十一月の中旬、空は高く、学生の中には分厚い制服の内に薄地のセータを着こむ生徒があちらこちらに見られる時期だ。それなのに、彼はというと白いワイシャツに赤い短パンでその筋肉をさらけ出している。ゴツゴツとした足は見かけによらず軽やかに地面を踏み鳴らし、元々薄地だったからか、汗を染み込ませたワイシャツは透け、分厚い胸板を激しく強調していた。
男の頬を時期はずれな熱い雫が流れて落ちる。視界の端で誰かがカメラのフラッシュを炊いていた。きっとあの学生達だろう。見なくても分かる。彼らと男の間に立つ僕の姿も写っていたに違いない。
普段なら耳が痛くなる音量で曲を流すイヤホンを間にしていても、クスクスという笑い声を肌に感じた。堪らずイヤホンの片方を外し、ちらりと覗くと、案の定彼らはそれらを話題に談笑を始めている。声を潜めようともせず、その声は男の耳にもはっきりと届いているに違いない。
男の足がピタリと止まった。僕が恐る恐る男の顔を覗くと、どうしてか視線が重なった。そのまま角刈りの男がこちらへ近づいてくる。そんなに距離はなかったはずだが、自分の身長より数十センチは高い巨漢の男の歩みは重たく感じられた。慌てて身を引こうとしたが、肩を男の分厚い左手が抑えて、とても振り切れそうにはなかった。――なんで僕が、とばっちりじゃないか。と、目では威嚇しようとも、唇は震えて吐息だけが漏れるばかりだ。
涙腺に危うさを感じるが先か、下半身の力が根こそぎ奪われるのが先か。男の右手がゆっくりと伸びると、慌てて瞼をぶつけた。
来る!
今だ!
来る!
来るぞ!
しかしいつまで立っても体に変化は起きない。恐る恐る、ゆっくり瞼を持ち上げると、男の笑い皺が視界を圧迫した。気づくと、彼の耳には見慣れた青いイヤホンが挟まっている。その黒く細いコードは僕の首元から右耳まで伸びていた。男が親指をこちらに付きだして大きく笑う。
「オークレイジー!」
耳の奥に鋭い痛みを感じる。後からそれが大音量の音楽だということに気づいた。
男は涙を流す。
なんて綺麗な音楽なんだ、と。
それは言葉となって、口から飛び出した。