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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第二章
97/128

29 記憶

葵視点です



 内側から燃える炎に、身を焼かれそうだった。


 いつの間にかお腹の赤ちゃんの中に宿った炎の力は、赤ちゃんが大きくなるにつれてその大きさを増すようだった。

 本人が力をしまいきれないと言っていたのも頷けるほど、その力は強大で。

 私はその子が「もう生まれる準備はできた」と告げてきても、なかなかその気にはなれなかった。とてもではないが、出産のときに力を制御できないと思ったのだ。暴れるような強い力を押しとどめる余力が、自分にあるのかどうか自信がなくて……。

 でも、その日は来てしまった。始まってしまった陣痛の痛みの合間を縫って、ぎりぎりの思考の中でもうアーレリーに頼るしかないと思った。発現しようとする炎の力の気配を感じ取って、自分には抑えることができないと悟ったのだ。

 ……どうして。いつの間にこんなことに。

 栄が心配そうな顔で腰を擦りながら大丈夫だと声を掛けてくれるのに、なんとか返事をした……と思う。

 息をするのもつらくて、笑顔を返せたかどうかわからない。


「うぅ……さかえ、あの、お願い……」


「なんだ!?」


 声も出せずに小声になってしまったけれど、栄はすぐに反応して私の顔を覗き込んでくれた。


「あのね、アーレリーを……呼んでほしいの……多分……力が、うっ!」


 断続的に続く痛みの中に不意に大きな波がやってきて、思わず息を止めてしまう。


「アンナさんを呼べばいいんだな? 来てほしいんだな?」


 何も言えずとにかく頷くと、栄は立ち上がって去って行った。きっとアーレリーを呼んできてくれる。そうすれば……。

 今にも立ち上りそうな炎の気配におびえながら、それを必死に抑え込んでいた。このままじゃ危ない。何故か分からないけれどそう思った。とにかくアーレリーが来てくれるまで耐えないと……。


 どのくらいの時間があったのかわからない。でも呼んでほしいと栄に告げてからすぐだったような気がする。


「……アル、来たわよ」


 アーレリーの低めの声が聞こえて、私はそっと目を開けた。


「……アーレリー……」


 きてくれたことに安心して手を伸ばすと、アーレリーはすっとその手を握ってくれた。手はひんやりと冷たかった。多分外は寒いんだろうなとぼんやり思ったけれど、体の内側からの熱に苦しんでいる今、その冷たさが心地よかった。

 アーレリーは一目で私の状況を把握してくれたようだった。眉を顰めて呟く。


「……まさかこんなことになってるとは思わなかったけど……間に合ってよかったわ」


 無理に笑おうとして、うまくいかなかった時のような表情だった。私は迷惑を掛けることを先に謝ってしまう。


「ご、ごめん……なさい、どうしようもなくって……」


 もう本当にアーレリーに頼るしか手はない。自分で結界を張れるほどの余力は残っていない。集中力も。このままではどうにもできなかった。でもその切迫した事情さえもアーレリーは分かってくれたらしい。私の手を握ったまま、気にすることはないと言う風に首を振ってくれた。


 だからその瞬間、もう大丈夫だと思って力を緩めた。限界はとっくに超えていた。だから手放すだけだった。


 ごおっ、と大きな音を立て、炎が立ち上るのが見えた。目を開けているのも辛くて、見たのは一瞬だったけど、それで十分だった。赤々と盛大に燃え上がる炎。ただそれが実際に物を燃やす火ではないことが分かり、少し安心した。

 栄が声を上げて驚いているのが聞こえる。そうだよね、びっくりするよね。私だってここまでと思っていなかったからびっくりしてる。もうあとは……アーレリーに任せるしかない。

 近くにしゃがんでいたから、アーレリーの呟いた言葉ははっきりと聞こえた。


「……大仕事になりそう」


 うん。ごめんね、本当に。心の中で何度も謝って、そしてお礼を言って、その後ようやく私はお腹の中の子に意識を集中させた。


 ……ごめんね、ようやく準備が整うわ。もうすぐ出してあげるから、もうちょっとだけ待っててね。


 心の中で語りかけると、すぐに返事が返って来た。


『おかあさん、だいじょうぶ……?』


 心配そうな声音に思わず緊張がほぐれた。そんな余裕などないはずなのに。


 ……大丈夫よ、大丈夫。ちゃんと産んであげるから、あなたもしっかりね。


『うん、ぼくもがんばる。ちょっとあついけどもうなれちゃったよ』


 お腹の中がどのくらいの熱さになっているかなんて考えたくもなかった。多分機械で計ったらありえないくらいの温度なのだろうと思う。でも慣れちゃったと笑って言う赤ん坊に呆れて、余計なことを考えるのは止めた。ここからが本当のお産だ。アーレリーが結界を張ってくれるから、この子の力の影響は外に出ないだろう。私はこの子を産むことだけを考えたらいい。


『じゃあおかあさん、そろそろいくね。おそとであおうね』


 ……ええ、そうね、元気に産まれてね。


 状況をわかっているのかいないのか、よくわからない息子の声に苦笑しながら返事をし、意識を切り替える。アーレリーが結界を張ってくれたのが気配でわかった。準備は整った。

 そう意識した瞬間、陣痛の痛みが増した。炎の力もぐっと増す。


「葵っ、大丈夫か!?」


 栄の大きな声が聞こえて薄目を開いた。立ち上る炎は視界を遮る程だった。身を乗り出してきた栄に手を握られ、その力に少しほっとして握りかえした。


「……さ、かえ……はぁ、だい……じょうぶっ……あぁっ……!」


 大丈夫と言った傍から痛みが押し寄せて、どうしようもなく呼吸が乱れ、身体を縮めて痛みが通り過ぎるのを待つ。


「しっかりしてくれ、葵! がんばれ!」


 栄の声が遠のいていく。痛みと耳に響く炎の音で、平衡感覚すらも失いそうだった。

 必死で呼吸をして痛みを逃がしていると、不意に体に力が加わった。横向きに寝ている自分の体勢を変えようとしているのだと分かった。でも。


 ずきん、と特大級の痛みが、動いてはいけない、と私に警告を発した。


「ああっ! ダメ、待って……!」


 思わず声を上げて動かさないように言う。

 何故急に大きな痛みが走ったのかわからないが、連動して炎が大きくなったのを感じた。お腹の中で産まれようとしている赤ん坊が、頑張って這い出ているのを邪魔しないでくれと意思表示したのかもしれない。どうすることもできずに痛みに耐えていると、そっと元の位置に戻され、大きな痛みはすっと引いて行った。


「頭が出てきているわ! アル、頑張っていきむのよ!」


 アーレリーの声がした。確かにさっきこの子は頑張るとは言っていたけれど、さすがに早すぎるのではないだろうか。赤ん坊のあまりの行動力に唖然としながらも、鈍い痛みはまだ続く。


「……っつ、ああっ……」


「アル、大丈夫、五重で結界を張っているから! 心配しないでとにかく産むことだけを考えて!」


 アーレリーが耳元で叫ぶように言う。自覚はなかったけれど、うまくいきめていないようだった。炎そのものよりも、そこから感じる大きな力の気配が怖くて、いつの間にかいきむ力を制限していたのかもしれない。


「葵、がんばれ……!」


 栄もそう言って顔中の汗を拭ってくれた。

 うん、うん、がんばる、がんばるよ……。そう思いながら頭にも響いてくるずきん、ずきんという痛みに顔を顰め、遠のきそうな意識を掴み直す。


「アル、大丈夫よ! 炎は結界に遮られてる! 周りへの影響はないわ! 大丈夫だから……!」


 アーレリーは何度もそう言ってくれた。

 うん、アーレリーが五重で結界を張っているなら大丈夫だよね。結界を壊すほどの力はない……よね。暴走しないよね、大丈夫だよね……?


「アル……! 大丈夫よ、頑張って……!」


 アーレリーの声に応えて、やるしかないと思った。途切れそうな意識を捕まえて、痛みに立ち向かう。炎はアーレリーが防いでくれる、信じてる、きっと大丈夫……。そして大きく息を吸い、吐くと同時にいきんだ。


「んっ……、ああっ!」


 ぐっと引きつるような強い痛みにもうすぐ産まれるんだと思った瞬間に、ただでさえ薄れた意識がどこかへ強く引っ張られていった。その瞬間に痛みからすら意識が切り離される。


 布団の上に横になっているはずなのに、浮遊して落ちていくような感覚。

 暗闇の中を、風を切るように落下していく。







 途切れる意識の狭間で再生される、一瞬のフラッシュバック。








「付いてこないでよ! もううんざりなの。ここは私のいる場所じゃない、私だけ皆とは違うんだもの!」


「アルシェネ! 違うからと言ってなんじゃ! 誰もそんなことは気にしておらん、お前はそのままおればよい!」


 私たちは大きな川の上にかかる橋の中央にいた。

 雲じいに掴まれた腕を思いっきり力を入れて抜き取ったら、雲じいの顔が悲しげに歪んだ。その顔を見て自分も泣きそうに辛くなったけれど、譲ることはできない。もう我慢できない。


「……私がここにいるのは、きっと何かの間違い、でしょう? 生まれる場所を間違えたのよきっと。ほら、私っておっちょこちょいだし? 天使の中で唯一の落ち零れでしょう」


 笑いながらそう口に出してみると、どことなくしっくりくるような、納得できるような気がした。雲じいの顔は見ることができなかった。わざと顔を逸らした。


「はは、そうだよ、間違えたのよ。天使なんかに生まれるべきじゃ……」


 ――ぱちん


 一瞬、何が起きたのか分からなかった。右の頬が痛いと感じたのは、そこが熱を持ってじんじんし始めてからだった。目の前に立っている雲じいを見下ろすと、歯を食いしばるような苦悶の表情でじっと私を見つめていた。


 ……叩かれた。初めて。


 痛む頬を押さえながら私は後ずさった。言っていけないことを言った。それが分かった。雲じいがゆっくりと口を開くのを見ながら、もう何も聞きたくないと思った。


 もう何も押し付けないで欲しい。私が私として存在できないのなら、もう解放してほしい。これ以上、保てない。この無感情な世界でひとり、生きていくことなどできない。


「……間違いだというのなら、間違ったのはわしじゃ、お前じゃない。……じゃがわしは間違いだったなどとは思っておらぬ。お前が生まれてからずっと、わしは……」


 私の目をじっと見て雲じいは静かに語る。普段は白い眉毛の下に隠れている小さな碧い瞳が、深い湖のように透き通って私を包むように語る。


 ……雲じい。雲を司る古くから存在する神。

 私を創り出した、神。


「……雲じい、私は……」


 何かを言おうとした。何が言いたいのか分からないまま。

 でもその時いきなり突風が吹いてそれどころではなくなった。


「きゃあ!!」


 一陣の風に飛ばされ、まさか浮くとは思っていなかった。背中の六枚もの翼が浮力を増してしまったのかもしれない。

 目を開けていられないほどの突風の中で、雲じいの手が私の手を掴んで支えてくれた。しかし更に強い風が吹きつけ、手が離れてしまった。吹き飛ばされながらも必死で手を動かしたら橋の欄干に引っかかった。片手で赤い橋の下の部分を掴んでぶら下がり、風が止むのを耐えて待った。


「アルシェネ! どこじゃ!」


 私を探す雲じいの声が聞こえた。ここだ、と声を上げようとした瞬間、頭の隅で囁く声が聞こえた。


 ……このまま……ここからいなくなれれば。どこか別の場所へ行くことができたら。



 私を、私のまま受け入れてくれる誰かに出会うことができたら。



「アルシェネ!」


 頭の上から降ってきた大声に、ぼんやりしていた思考を叩かれて驚いた。そして体を支えていた左手がずるりと、橋から滑り落ちた。


 ――落ちる!


 橋の上から乗り出していた雲じいの腕に向かって手を伸ばした。反射的な反応だった。でも一瞬、ほんの一瞬の迷いだったと思う。この手を取っていいのだろうか、と。


 指先が掠った。


 雲じいの口が動き、私の名前を呼ぶのを見ながらも声は届かなかった。

 全てがゆっくりと動いた。何か大切なことを、この意識に刻み付けたいように。

 伸ばされた腕が宙を掻く。伸ばした腕が遠ざかっていく。


 落ちる。

 落ちていく。


 最後に見えたのは、雲じいの必死な顔だった。私の名を叫び、腕を伸ばし。


 河に落ちた瞬間に、耳元に誰かの声が聞こえた。


 【叶えてあげよう、キミの願いを。キミの運命を変えてあげるね】





   *




 はっ、と意識を取り戻した時には、おぎゃーおぎゃーという元気な泣き声が響いていた。

 訳も分からず息を乱しながら、戻ってきた痛みの感覚に眉を顰める。と、アーレリーがこちらに顔を寄せてきた。


「アル、このままではこの子は力を制御できないから、このまま私の結界の中に過剰な分を閉じ込めるわ。……いつまで持つかはわからないけどね……」


 ……産まれたんだ、無事に。耳をつんざくような泣き声に安堵してからアーレリーの言葉の意味を考える。

 自分の中に押しとどめることができないほどの、強い力を持ってしまった赤ちゃん。盛大に泣きながら、溢れる力を漏れさせている。きっと、制御するための能力はお腹の中にしまいこんでしまったから、本人にもどうにもできないはずだ。そして今の私にもどうすることもできない……。私は喘ぎながらもそう結論し、アーレリーの言葉に頷いて承諾する。

 大きく深呼吸をして呼吸を整えようとして、突然ひどい眠気が襲ってきた。強烈な眠気に抗いながら、私はアーレリーに告げた。


「……アーレリー、ごめん、任せる……。私、しばらく眠る……何かに……呼ばれてるみたい……」


 最後まで言えたのかわからない。ただ眠くて、目を閉じたくて仕方がなかった。





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