27 炎の中から
「こんばんは、おばさま」
「あら、アンナちゃん? ずいぶん早く……」
和室に入ったアンナさんはお袋に声を掛けた。あまりに早い到着にお袋は一瞬目を丸くしたが、すぐに納得した顔で横にずれ、アンナさんに場所を譲った。アンナさんは葵の枕元に座り、身を屈めて葵に呼びかけた。
「……アル、来たわよ」
「……アーレリー……」
アンナさんの声に反応した葵が薄く目を開け、その存在を確認する。と、ゆっくりとそちらに手を伸ばし、アンナさんも躊躇なく葵の手を握った。
「……まさかこんなことになってるとは思わなかったけど……間に合ってよかったわ」
薄く笑いながらそう言ったアンナさんの目は笑っていなかった。深刻そうな、蒼白な表情。
「ご、ごめん……なさい、どうしようもなくって……」
何故か葵は謝りの言葉を口にした。アンナさんは葵の手を握ったまま首を振った。
一体何がどうなっているんだ?
「葵? アンナさん? あの……何が、どうなって……?」
おれがそう言った瞬間、葵が大きく深呼吸をした。そしてごおっと立ち上ったのだ、真っ赤に燃え上がる炎が。
「えっ!? な、なんだ!?」
驚いて体を大きくのけぞらせた。火? 炎!? 火事なのか? 火元は何だ、ストーブか?
混乱のままストーブを見るが、先ほどと何も変わらなかった。火は正常に燃えていて、全く炎なんて上がっていない。
へ? と思って視線を元に戻すと、目の前の炎はどうも本物ではなかった。透明に透けている。炎は葵の身体から上がっているように見えるが、布団は燃えていない。焦げ臭いにおいもしない。まるで映像を映し出したみたいに、温度のない、燃えることのない炎が、それでもものすごい勢いでそこに立ち上っているのだ。
「あ、アンナさん、これって一体、葵は、大丈夫なのか!?」
心臓の大げさな音が耳に響いている。アンナさんの隣でお袋がおれと同じように驚いた顔をしているのが見えたが、そりゃそうだろう。しかしアンナさんは炎の中心をじっと見つめ……まるで睨みつけるかのように見ていて、ちっとも驚いてはいなかった。
「……大仕事になりそう」
ぼそっと呟いてから、おれとお袋を交互に見た。
「これからここに結界を張ります。そうしないとアルシェネはうまくいきめなくて出産できないから。結界内で動けるのは多分、栄さん、あなただけ。私たちで赤ん坊を取り上げるのよ」
衝撃の言葉に、数秒の間おれは動けなかった。え、今、なんて言った?
「アンナちゃん、ごめんなさいね、その、アルちゃんは大丈夫なのね?」
口もきけないおれを見遣って、お袋が遠慮しつつアンナさんに声を掛けた。アンナさんは立ち上がって腕をまくり、髪を纏め、何かの準備を始めていた。
「はい、すみません、説明が足りなくて。でももうあまり余裕がないんです。アルシェネとお腹の中の赤ん坊を守るにはこれしかありません。――栄さん」
「はっ、はい!?」
突然呼ばれ、動転しつつも返事をする。一体おれは何をどうしたらいいんだ!?
「おばさまには結界の外から指示を出してもらいます。あなたはその指示通りに動くだけでいい。――いいでしょうか?」
おれとお袋両方に向けられた確認の言葉に、ただ頷くしかできなかった。それほどアンナさんの言葉には有無を言わせない強さがあった。
アンナさんはおれたちを見て頷くと、葵に視線を戻し、両手をかざした。
葵は声もなく、気絶しているようにも見えた。炎が葵の身体を焼いているわけではないのだろうが、本当に大丈夫なのだろうか。
「始めるわよ」
低く響いたアンナさんの声に、おれははっとして頷いた。いまだに状況は把握できていないが、アンナさんの言う通りにするしかない。腹をくくって腕まくりをし、アンナさんを見上げた。
アンナさんはおれが決意したことを見取ったのだろう、一瞬目線を送って合図をしてきたと思ったらすぐに目を閉じた。意識を集中するように息を吸って、両手を動かした時、何か透明な膜のようなものが下から浮かび上がってくるのが見えた。ちょうど葵のいる布団の周りを覆って、自分とアンナさんを囲うように、膜は上へと上がっていく。ドーム状の囲いができたと思ったら、その少し外側からまた膜がせり上がっていく。一枚、二枚、三枚……。ぼんやりとみているうちにおれたちの周りには五重の膜が張られていた。これが結界なのだろうか。
五枚目のドームが完成するとアンナさんは目を開いて少し息を吐いた。目線を周囲に送り、結界が正常に張られたことを確認したらしく頷くと、すっとおれに視線を移してきた。ぼーっとしていたのを無言のうちに怒られたような気がして居住まいを正し、さて何をどうすれば?とアンナさんを見上げ、お袋を見遣る。
「声は聞こえているの!? 栄」
結界の向こう側から戸惑うようなお袋の声が聞こえる。透明なのでもちろん顔も見えている。向こうからどう見えているのかはわからないが。
「大丈夫、ちゃんと聞こえてるよ。それで、どうしたらいい?」
本当に何をどうしたらいいのかわからないので若干声を張り上げるようにしてお袋に尋ねたが、その瞬間、葵の身体から上がる炎の勢いが増した。
「うわっ!」
ごぉっ、という音を立てて盛大に上がった炎は、アンナさんの結界の内側で渦を描くように燃えている。先ほどまでは感じなかった温度も、じりじりと上がってきているようだ。
葵は大丈夫か、と枕元に這いずるようにして近づくと、葵はしっかりと目を開けて――でも苦しそうに顰めつつ――荒い呼吸を繰り返していた。
「葵っ、大丈夫か!?」
ごおごおと騒ぐ炎の音に負けないように大声で聞くと、葵はごくりと唾を飲みこんで横目でおれを見た。思わず背中側から葵の手を取り、左手で握り締める。
「……さ、かえ……はぁ、だい……じょうぶっ……あぁっ……!」
大丈夫と言った傍から痛みが押し寄せたのだろう、苦しげに声を上げ、身体を丸め、瞼を固く閉じてしまう。
「しっかりしてくれ、葵! がんばれ!」
何と声を掛けたらいいか分からなかったが、母親が負けてしまっては子供も産まれては来られないだろう。
結界の外にいるお袋も、
「アルちゃん、頑張って! 栄、あなたはとにかく励ましなさい! 気を失ったら危険よ!」
と大げさなくらいに手を振りながら葵の意識を引き寄せようとしていた。そして同様に大きな声でアンナさんに指示を出す。
「アンナちゃん、子供はどのくらい下りてきてるかしら!? もしかするともう近くまで……膝を立ててあげて、入り口から見えるか確認して!」
指示を受けたアンナさんは真剣な顔で頷き、おれに目を遣った。炎を間に挟んだままでもアンナさんが言わんとすることが分かったので、おれは葵の手を下ろし、代わりに腰の辺りに両手を添えた。
「無理に大きく動かしてはダメよね、そっと動かしましょう」
アンナさんは自分に言い聞かせるように言い、同じように葵に手を回す。横向きに寝ている葵を仰向けに。
そう思って少し力を入れたのだけれど。
「ああっ! ダメ、待って……!」
当の葵からストップがかかり、中途半端な体勢のままおれは動かすのを止めた。
「どうした葵!?」
葵の叫び声と連動するように炎は大きくなり、おれの前髪を揺らした。実体のない炎なのに、焼けることもないのに風が起きている。わけのわからない空間で、それでもできることは一つしかない。
「アルちゃん、そのままの方がいいのね!? 栄、動かすのはやめてそっと戻してあげるのよ!」
葵の意を汲みとったお袋が、叫ぶような大声でおれに言う。おれとアンナさんは再び示し合わせて力を入れ、葵を元の横向きの体勢に戻す。戻すとは言っても実際、数センチしか傾いていなかったが。
「ど、どうしたらいいんだ、それで……」
葵の荒い呼吸は相変わらずで、断続的な痛みもやはり変わらず続いているようだ。アンナさんは布団をめくり、葵の足元から何かを確認した。
「頭が見えているわ! アル、頑張っていきむのよ!」
「……っつ、ああっ……」
はぁはぁと荒い息をしながら葵は頷くが、どうもうまく力が入っていないように見える。お腹に力を入れると炎が上がり、浅く呼吸をしている時は収まる。これでは。
「アル、大丈夫、五重で結界を張っているから! 心配しないでとにかく産むことだけを考えて!」
アンナさんが葵の耳元に顔を寄せ、手を握ってそういう。
おれはおたおたしながら腰を擦ってやったり、葵の顔中に玉のように浮いた汗を拭ってやったりする。
「葵、がんばれ……!」
「アル、大丈夫よ! 炎は結界に遮られてる! 周りへの影響はないわ! 大丈夫だから……!」
気づくと結界の中は高温の蒸し風呂状態になっていた。ストーブは結界の外なので、これはやはり葵の身体から出ている炎の影響と考えるしかないだろう。だんだん暑くなっていく空気の中で、葵は必死に何かと戦っているようだった。
アンナさんは何度も大丈夫だと安心させるように言う。葵はもしかして、この炎の影響を気にしていたのだろうか。炎から他を守るためにアンナさんを呼んでほしいと言ったのだろうか。
「アル……! 大丈夫よ、頑張って……!」
「んっ……、ああっ!」
アンナさんの何度目かの呼びかけに応えるように、葵は大きく息を吸い、吐くと同時にいきんだ。
するとどうだろう、するりと赤ん坊の頭が出てきたのだ。
「あ、アンナさん! 頭! 頭が出てきた……!」
思わずうろたえてアンナさんを見たが、アンナさんは葵の手を握って……というより葵にしっかりとしがみつかれて身動きが取れない状態だった。多分痛いくらいに握られているだろう手に顔を顰めながら、アンナさんは鋭く言った。
「あなたが取り上げるのよ! 私は動けない!」
同時に背後からお袋の声も飛んできた。
「栄! 赤ん坊の頭をそっと支えて! すぐに体もでてくるわ!」
えええー!? と思いながら言われた通りにする。まさか産まれてくるところを取り上げることになろうとは思ってもみなかった。緊張しながら真っ赤に充血した赤ん坊の頭の下に手を入れ、多分羊水だろう、べたべたな液体まみれの体を支えると肩が出てきた。
「うおっ……! こ、これでいいのか!?」
お袋に助けを求める視線を送ったが、ほぼ同時に葵がぐっと最後の力を振り絞るようにいきんだ。と、ものすごい勢いの炎が上がって視界が効かなくなる。
ごおっと音を上げて立ち上る炎。これまでで一番の勢いで燃え盛るのをびっくりして見ていたら、手の中にずるりとした感触と重みが降ってきた。
手の中にはへその緒の巻き付いた小さな体。血にまみれた姿でぶるりと震える。
「葵! うまれた、うまれたぞ……!」
「おぎゃーおぎゃー」
すぐに泣き出して元気なことにホッとするも、ここからどうしたらいいのかもわからない。
通常の状態で赤ん坊を取り上げてもわからないだろうが、さらに困ったことが一つ。
炎は葵の身体からではなく、この赤ん坊から立ち上がっていたのだ。
揺らめくだけでなにも燃やさない炎は、わんわん泣く元気な赤ん坊の気持ちと連動しているのかどうなのか、立ち消えることがない。その小さな体のあまりの心もとなさに赤ん坊を持ち上げることも出来ず、おれは平伏した体勢のままでアンナさんを見た。
アンナさんは葵の耳に顔を寄せ、何事かを話しているようだった。葵の足元に這いつくばったおれは、葵の様子が見えない。
「アンナさん……! おれ、どうしたら……!」
困り果ててそう言うと、アンナさんは葵との話を終えたのか、身体を起こし、こちらを見た。
そして無言の内に手を動かし、目を閉じた。
すぐに周りにあった結界の膜が動き出したのが見えた。五重に張られた結界が少しずつ内側に寄ってきている。何が起こるのかと思いつつじっとしていると、結界は産まれたての赤ん坊へ向かって収縮していった。
炎をそのまま包み込み、結界は縮み続けてついに赤ん坊の腹の中に消えた。おれの手の上で赤ん坊は泣き続けているが、とくに変化は見られなかった。ただ周りを覆っていた炎が結界とともに消えたのだった。
「……と、だいじょうぶ……なのか? ……よくわかんないけど……」
結界が消え、なんだか体が軽くなった気がして、もぞもぞと足を動かして正座の状態になった。するとお袋がタオルで赤ん坊を包み、おれから奪っていく。
「よくやったわね、栄。とはいっても特に何もしてないから……頑張ったのはやっぱりアルちゃんね」
血だらけの赤ん坊をそっと拭きながらほっとした表情でお袋は言う。普通に褒めてくれればいいのに、と思ったけどお袋の言う通りなので、ただ赤ん坊を取り上げただけのおれは任務を果たしぐだっと畳に横になった。ものすごく気持ちが張りつめていたらしい。しかし横になった瞬間に、寝た体勢のままの葵が目に入り、がばっと体を起こしてすぐに葵の顔を見るために移動した。
「葵……! 元気な赤ん坊生まれたぞ……!」
さぞやほっとした顔を見せてくれるだろうと思って葵を覗き込んだが、葵は眠ってしまったようだった。
「……しばらく眠るって……さっきそう言って目を閉じたわ」
おれの表情から察したのだろう、アンナさんがフォローするようにそう言ってくれた。
「葵は……大丈夫なのか……?」
産んですぐに眠るなんて、羽留の時以来だった。穏やかな寝息を立ててはいるが、疲れ切った表情をしている葵が心配でならない。
「……何とも言えないけれど……とにかく寝かせておいてあげて。多分数日間は目を覚まさないと思う。そういう意味だと思うわ、しばらく眠るっていうのは」
アンナさんは目を伏せてそう言い、会話はこれまでだ、というように首を振った。
おれとしては納得がいかない気もしたが、葵が眠ってしまった以上、アンナさんを問い詰めることもできない。やり場のない気持ちを抱えつつ、息を吐いてその場に座り込むと、廊下からどたばたと音がした。
「あっ! 間に合わなかったですか!? やっぱり早かったですね~ごめんなさい!」
がらっと障子を開けた助産婦さんが、肩を上下させながら申し訳なさそうに言った。
「あら~無事に産まれてよかったですね! 代わりましょう、ここからは」
へその緒も付いたままの赤ん坊を見てそう言い、そしてその場の固まった空気を読まずに腕まくりをし、鞄から必要な物を取り出し始めた。
おれとアンナさん、そしてお袋の心の内は一つだった。
……遅れてきてくれてよかった。
苦笑いを浮かべながら、障子の向こう、窓の外に白いものがちらついているのが見えた。よく見ると助産婦さんのコートにも結晶が張り付いている。
雪が味方してくれたみたいだ。そうでなければさっきの状況を、どう説明したらいいか分からない。
助産婦さんに体を拭かれながら、泣き続ける生まれたてのわが子を見て、どっと疲労感が押し寄せた。とにかく無事に産まれてきてくれてよかった。
ふう、と額に手を当てて汗を拭おうとしたとき、べたっとして驚いた。赤ん坊に触れていたため血だらけになっていたのを忘れていたのだ。ああ、とため息を吐きながら、意識は葵に向かっていた。こんな時、おれの失敗を見て笑ってほしかった。
目を閉じたまま動かない葵を見て、思う。
……必ず、必ず目を覚ましてくれよ。万が一にももう目を覚まさないなんて嘘だからな。
心の隅に生まれた不安をぎゅっと押し流すように息を吸い、手を洗うために立ち上がった。
でも不安は消えてはくれなかった。どうやったって消えないことは自分でも分かっていた。




