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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第二章
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26 出産へ




 葵の不安と、おれの心配をよそに、周囲はお祝いムードだった。

 お袋は四人目の懐妊に喜び、「大家族ねぇ~!」とテンションも高くまたお産に備えて準備を始めてしまった。親父は「ほら、でかい家を建てておいて正解だったろう?」と自慢げに鼻を鳴らしていた。

 奈津と亜希は六歳、いよいよ来年は小学校に上がる。自分たちより下の弟か妹が生まれてくることが嬉しく、また不思議で仕方がないらしく、しょっちゅう葵に「ねぇ、ほんとうにあかちゃんうまれるの? おれたちおにいちゃんおねえちゃんになるの?」と尋ねたり、「わたしはいもうとがいいなぁ、ママ、おとうとなんだったらいもうとにして!」という無理難題を投げたりしていた。

 羽留は九歳、小学校四年生になり、喜びつつもクールな反応を見せた。「お父さんがいないときは僕がお母さんと赤ん坊の面倒みるから、お父さんはしっかり働いてきてね。お金必要でしょ?」なんてすごく現実的なことを言われ。その通りです、とすごすご作業場に向かったこともある。

 だからそれまでとは全く変わらず、日々は過ぎて行った。葵のお腹はゆっくりと大きくなっていき、赤ん坊は順調に育っていった。


 これまでと違ったのは、葵がおれにお腹の中の子供と会話したのを話してくれたことだった。

 妊娠してから七か月が過ぎた頃、ある夜不意に葵が言ったのだ。「今日お腹の中の子が話しかけてきた」と。しかしその報告は、なんだか不穏な気配に満ちたものだった。


「え……本当か、葵。なんて話しかけてきたんだ?」


 ベッドの中で寝る体勢に入っていたが、おれはびっくりして体を起こした。そしてベッド際に座ってお腹を撫でている葵に声を掛けた。


「うん……、それが……」


 葵はお腹の中の赤ん坊のこととなるといつもこうして言いよどむ。それでも話してくれるから、おれはいつもじっと待っている。しばらくすると頭の中で言うことの整理がついたようで、葵はこちらを見て口を開いた。


「やっぱりこの子もね、もうすぐ生まれるよって言ったの。ハルもナツもアキもそうだったから……それはいいんだけど」


 もはやいい悪いの基準すら果てしなくズレてしまっているがそれは置いておいて。じゃあ一体何が気になるのだろうか。


「……熱いって言ったの。お腹の中が熱いって」


 呟きながら葵はまた、大きくなったお腹を撫でた。不思議に思いながらおれも、葵のお腹をそっと撫でてみる。だが別に体温が高いというわけじゃない。葵も首を振って言葉を続けた。


「熱いのは、自分のお腹の中のことみたい。ナツとアキの時と同じように、力をお腹の中にしまってみてってお願いしたの。そしたらね、力がしまいきれないみたいで、それから熱いって……」


 不安そうな顔でお腹を撫で続ける葵を、何もできないおれはそっと抱き寄せた。


「……どうしたんだろう、この子は。前の三人と違うわ……」


 ぽつりと零した言葉と同時に、涙の雫が落ちてきて慌てた。おれは中途半端に布団の中に入れっぱなしだった足を引っ張りだして体勢を整え、葵に向き直る。


「葵、泣くことじゃないよ、落ち着こう、な?」


 大きな緑色の目から大粒の涙が溢れてくるのを指で拭い、頭を引き寄せて抱きしめた。実は最近の葵は本当に不安定で、夜になるとこうやって突然泣き出すことが多かった。四人目の子供を妊娠してからこれで何度目になるだろうか。別に数えてはいないが、前の三人の時にはこんなことはなかったので、おれはおれで葵のことを心配している。葵の心配は専ら……お腹の中の子供に向けられているが。

 しゃくりあげるように大きく肩を動かした葵は、下を向いたままで何度も深呼吸していた。落ち着こうと本人も思っているようだ。おれは背中に回した手を広げ、宥めるように擦る。


「大丈夫だよ、おしゃべりしてくるような子なんだ、ちゃんと順調に育ってるじゃないか。熱いっていうのだって、これまで誰も言わなかっただけで本当は熱かったのかもしれないしさ、な? 大丈夫だよ、ちゃんと生まれてきてくれるよ」


 何と声を掛けていいものか分からないまま、とにかく落ち着かせられそうな言葉を選ぶ。だって本当に、他に何を言ったらいいのか。


「……力が、しまいきれなかったっていうのは? それくらい大きいってことなのよ……? どうして、こんな……」


 だが葵の方もおれの当たり障りない返答に気づいているのかいないのか、納得できない部分をさらに問い直してくる。いや、だから、おれには何が何だかわからないんだって……。

 葵の背中を撫でながら、どうすることもできずにただ寄り添う。今七か月。話しかけてきたということは、前例を踏まえるならお腹の中の赤ん坊はあとひと月もすれば産まれてきてしまうのだろう。

 これほどまでに葵を不安にさせる四番目。


 前の三人とは違うということは明白だった。でもだからってどうしたらいい? 

 葵にすらわからないことがおれに分かるはずもなく、何もすることもできずにまた、夜は更けていった。おれにできたのはただ、不安定に泣き続ける葵をなだめることだけだった。


   *


 おれの予想通り、その日は訪れた。

 十月十日という一般的な妊娠期間の常識なんて、うちの子たちはすべて吹っ飛ばしてきている。だから四番目のこの子だってそうだろうと思っていたけど、やっぱりそうだった。

 ただいいと捉えるべきか、悪いと捉えるべきか……予想を上回る早さで陣痛は始まった。それは12月も終わりに近い、雪の降りそうな寒い夜のことだった。


「葵、大丈夫か?」


「う、うん……なん、とか……はぁ」


 布団に横になった葵の腰を擦りながら声を掛ける。少し前から陣痛が始まって、今は助産婦さんの到着待ちだ。電話をしたら助産婦さんもさすがに三回目、早く産まれるかもしれないことを予想済みで、準備はしてくれていたらしい。すぐに来ると力強く言ってくれた。


「アルちゃん、しっかりね! 大丈夫よ!」


 こちらも電話をしたらすっとんできたお袋が、準備万端整えて葵の手を握った。親父は二階で子供たちの相手をしてくれている。三人がそわそわしているのは分かるが、明日は平日なので学校も幼稚園もある。適当な時間に寝てもらわなければ困るのだ。


 ストーブで暖められた部屋の中、葵の荒い息遣いと薬缶のシュンシュンと鳴る音だけが響く。


 お産は三回目だけれど、夜は初めてだった。冬の夜の静けさの中、突然苦しみだした葵に驚いて、おれは方々に電話を掛けることしかできなかったけれど、葵は多分、なんとなく分かっていたんだと思う。一階の和室には布団を敷きっぱなしにしていて、枕元にはアレコレの出産に必要な物が準備されていた。 そして痛みが引いた隙に子供たちを二階に行かせ、自分は和室まで這って行ってしまった。なんて段取りがいいのだろう。うっかり感心してぼーっとしてしまったが、陣痛には波があるのでまた苦しみだした葵の元へ飛んで行って、ワタワタとすることになった。


「……はっ、はっ……うぅ……んっ……」


 お産に立ち会うのは双子の時に続いて二回目だが、どうも葵の表情が前回よりも固いような気がする。汗もたくさん掻いているし、眉間には常に皺が寄っていて非常に苦しそうだ。


「葵……大丈夫か?」


 さっきから同じ言葉しか繰り返していない。今のおれには不安を抱きながら見守ることしかできないからだ。

 ああ、もっと何かしてあげられたらいいのに。

 ただ痛みを逃がすように腰を擦ってあげるしかできない。それだって葵の役に立っているのかもわからない。


「うぅ……さかえ、あの、お願い……」


 喘ぐ息の間で、葵が振り絞るように声を出した。薄く目が開いて、こちらを見る。


「なんだ!?」


 思わず身を乗り出して葵の顔を覗き込むと、苦しそうな表情のまま、葵が小さく言った。


「あのね、アーレリーを……呼んでほしいの……多分……力が、うっ!」


 再びの痛みに体を丸めた葵の後ろから、大声になりすぎないよう加減して聞き直す。


「アンナさんを呼べばいいんだな? 来てほしいんだな?」


 聞き返すのも申し訳ないくらいに苦しんでいる葵にそう言うと、葵はうんうん頷いた。おれはお袋に目線を遣ってから立ち上がり、すぐに電話しに行った。


 アンナさんに来てほしいなんて、今まで言ったことなかったのに。


 不思議に思いながら受話器を持ち上げ、電話番号を回そうと思った時。

 玄関ドアの向こうに人影が見えて、ノックの音が聞こえた。引き戸なのでガチャガチャ、という音だったが。


「は、はーい」


 助産婦さんが来たのかもしれないと思って、受話器を置いて返事をすると、ガラガラ、と戸が開いた。そしてそこにいたのはコートを着込んだアンナさんだった。


「こんばんは」


「こ……こんばんは、アンナさん、どうして……」


 今まさに電話をして呼び出そうとしていた人だった。夜も遅いので車で迎えに行こうと思っていたのに。道路の方を見遣ると車のテールランプが見えた。多分タクシーに乗ってきてくれたのだろう。


「さっき陣痛始まったって連絡をくれたでしょう。だから生まれるのは分かってたけど……力が。大きな力の乱れを感じて……アルじゃないかと思って気になって、それで来たの。あの子は大丈夫?」


「あ、うん、大丈夫といえば大丈夫だけど……今ちょうど、葵がアンナさんを呼んでほしいって言うから、電話しようと思っていたところだったんだ。よくわからないんだけど、アンナさんに来てほしかったみたいで……」


 言いながら体をずらし、アンナさんを家の中に招き入れた。外の空気がふっと入り込んでくる。

 アンナさんはコートを脱いで、上り込む。勝手知ったる家の中、和室の明かりを確認してからおれを振りかえった。


「……来てよかったみたいね。とりあえず洗面所を借りるわね。手洗いうがいをしないと……」


 何かを確信したような表情だったが何も聞けず、おれはこくこく頷いて玄関の戸を閉めた。

 アンナさんが歩いていくのを見送って吐いた息が、一瞬だけ白くなった。





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