25 相談
数日後、おれは仕事帰りにアンナさんの家に寄った。
「いらっしゃい。アルから話は聞いているわ。……赤ちゃんができたんですってね」
葵は既に電話でアンナさんに知らせていたらしい。おれはとりあえず頷いて、勧められた椅子に腰掛けた。
「おや、めでたいことだと言うのに表情が沈んでいるね? 何かあったのかい? ナツくんとアキちゃんは失踪したといってもすぐに見つかったんだし、心配はいらないのだろう?」
「はい、ナツとアキのことはもう、大丈夫なんですけど、今日は葵のことで……」
相変わらず鋭いおじいさんの指摘に苦笑いを返して、さてどこから話そうか、と思う。
「実は、葵は……出産の度に弱っていつも寝込むんです。ハルの時は本当に長くて……双子の時はそうでもなかったですがそれでも数日は起き上がれなかった。誤魔化しているつもりだったようなんですが、調子悪そうにしていた期間が二回とも結構長かったんです。それで心配して……もうこれ以上負担を掛けないように子供は三人でいいと思っていたのですが……」
「ふむ、四人目が予想外、というわけだな?」
「嬉しくないわけじゃない、けど複雑なのね?」
絶妙の間合いで会話を引き継ぎながら、アンナさんがお茶を運んできてくれた。カチャリ、と微かな音を立てて、綺麗な色のアイスティーが置かれた。多分アンナさんお手製のフルーツティーだろう。夏の時期にぴったりの味なのだ。
「もちろん嬉しいですよ……元気に産まれてほしいと思っているし、産まれたら大切に育てます。でも今はそれよりも葵の体が心配で……正直……その、持ってくれるのか、と」
口に出したくもない不安が零れ落ちる。飲むわけでもなく手にしたグラスの中で、涼しげな音を立てて氷が解けた。同じ天使であるアンナさんなら何かの情報を持っているんじゃないかという期待を込めて目線を上げる。しかしおじいさんと並んで座ったアンナさんは、思案顔であらぬ方向を見ていた。
「持ってくれるか、というのは葵さんの体が、かね? 病気をしているわけでもないし、子供を産んでもしばらくすれば元気になるのだろう? ならばそんなに心配することでも……」
おじいさんはそう言って優雅な動作でアイスティーのグラスを傾けた。
普通はそう思うだろう。おれだってそう思いたい。普段の葵はいつも元気で、結婚してこの方病気なんてしたことはない。風邪すら引かないのだから体は基本的に強いのだ。……でも。
「毎回、子供たちに力を持って行かれるんだそうです。葵の持っている天使の力を。元々どのくらいあって、今どれくらいに減ったのか葵に聞いたことはないんですが……なんだか残りが少なくなっているんじゃないかって、変に想像してしまって」
そこまで言ってごくりと唾を飲み、喉が渇いていることに気づく。目の前のグラスを煽るようにしてお茶を飲み、ほっと溜息をついた。
アンナさんはおれの話を聞いているのかいないのか、視線を下の方で固定したまま何かを考えている様子だが、アンナさんにしかわからないだろうから思い切って尋ねる。
「アンナさん、その……天使の力をすべて使い切ってしまったら……その時はどうなるんだろうか」
ずっと気になっていたことだった。子供たちに渡った力が葵の中で回復したと聞いたことはない。満タンの水瓶でもその中からひとすくいずつ水を取っていったら最後にはなくなる。人ならば蓄えていたすべてのエネルギーを消費したら最終的には動けなくなる。寝っころがるしかなくなって……そして死を待つばかりになる。怖い想像ばかりが頭を過ぎる。だからアンナさんには「そうはならない」と言ってほしかった。それを聞きたくて来たのだ。
しかしアンナさんはおれが質問をしてもこちらを一瞬見遣ってすぐまた視線を外し、考え込んでしまった。ああ、嫌だ。嫌な方の想像が正しいんだろうか。涼しい部屋の中の温度が、さらに下がっていくような気がした。
「アンナさん……はっきり、言ってくれて、も……」
いい、とは言いたくなかったけれど誤魔化されたくもなかった。
おれの強い視線と、おじいさんの案じている視線を受け、アンナさんは大きく息を吸って、吐いた。
「……あなたの言いたいことはわかるわ。でも昔言った通り……私たちの、いいえ、アルの存在の仕方については前例がないの。人間との間に子供を成して、子供に力が渡るなんて私も予想してなかったし、誰も知らなかったのよ」
アンナさんはなんだか疲れているみたいに首を振った。頭の中で知り得る知識を探し回っていたように。
「天使が天界で存在している間、力が枯渇することはまずないわ。私たちは周りから常にエネルギーを吸収している。最初から持っている力の大小は様々だけど、あまりに力を使い過ぎて倒れた、なんてことはほとんど聞かないの。力の小さい者が見合わない仕事をした時くらいで……それだって少し経てば回復してしまうし」
そう言って紅茶のグラスを持ち上げ、そしてまた下ろした。口をつけることもなく。それはイライラしているような、どうしようもない不安に動揺しているような、そんな動きだった。
「私に分かるのは、アルの力はここでは回復しないことくらいね……。使えば使った分だけ、減る。食べ物は私たちの体を動かすエネルギーにはなり得るけれど、私たちの力の助けにはならないのよ、残念ながら」
今度は言い終わってすぐにカップを持ち、一気に、という勢いでお茶を飲んだ。そしてさっと立ち上がると「おかわりを持ってくるわね」とキッチンへ向かってしまう。
……ここでは回復しない。つまりは天界に帰らなければ葵の力は戻らない、ということか。
何をするでもなく、目の前のグラスを持ち上げ、また一口飲んだ。透き通った氷の上に、自分の顔がぼんやりと映り込んでいる。グラスを少し揺すると、情けない顔は波立ったお茶の中に消えて行った。
「……どうなんだろうね。天使の力というのは、今この世界で生きるのに必要なのだろうか。今の葵さんやアンナを見ている限りでは、なくても支障はなさそうなんだが……」
おじいさんがぽつりと呟いた。確かに、普段生活する上で、何か問題がある気はしない。葵はいつも元気だし、アンナさんだってそうだ。健康そのものだ。なくたって良さそうだ。
「でも……葵もアンナさんも、人間と同じような体に作り変えるのに、天使の力を使っているはずです。それがなくなれば、葵は今のように生活することはできなくなるということじゃないですか?」
「いや、そうかもしれないが……なにも空っぽになってしまうわけでもあるまいし……。すべては推測の域をでないが、葵さんは自分の体を維持するくらいには力を残すことができるんじゃないかね?」
「そうだと……いいんですけど、でもそれなら最初から子供たちに力を与えないようにすることもできたんじゃないでしょうか」
「ううむ、葵さんにだって初めての体験だったのだし……それに戻らないことを考えたって仕方ないよ、栄くん。今はこれからどうするかを考えないと」
ダイニングに取り残されたおじいさんとおれは、お互いに考えたことをぼそぼそと話し合った。二人とも断定の言葉は使っていない。「~じゃないか」「~なはずだ」……なんて不毛だ、と思いながらも思っていることを吐き出すしかできない。しかし、言葉にして、そしてそれを冷静なおじいさんに否定してもらっているうちに、少しずつ気持ちが楽になっていくことに気づく。
「そ……そうですよね。これからどうするかを考えないと……。でもできることはもう決まっているんです。葵が子供を産むのをできるだけサポートして、できるだけ負担のないようにする……おれにできることはこれくらいで……あとは祈ることしか」
できるだけ、四番目の子が葵の力を持っていかないように、と。
前向きに先のことを話しているつもりなのにどこか消極的になってしまう自分の考えに苦笑いしながら、少なくなった紅茶を傾けた。するとアンナさんが今度はポットとカップを持って戻ってきた。おかわりを淹れにいったにしては遅すぎるほど十分な時間を取った後で。
いつもながら洗練された無駄のない動きでアンナさんが温かい紅茶をカップに注いでくれた。その間唇はきゅっと結ばれ、眉が少し寄った険しい表情になっていた。三つのカップがそれぞれ満たされて席に座り直した後も、アンナさんは口を開かなかった。ずっと何かを考え続けている様子で……でもそれを言いたくはないのだろうと思った。
同じくアンナさんの様子を横目で伺っていたおじいさんとアイコンタクトをし、アンナさんを追及しないことにした。することもなく温かい紅茶を口に含み、この重たい空気をどうしたものか、と考える。
「あ、アンナさん……実はもうひとつ聞きたいことがあるんだけど……」
ふっと聞こうと思っていたもう一つのことを思い出した。アンナさんがきっといい顔をしないことは百も承知で、おれは疑問をぶつけるつもりだった。この世界ではアンナさんにしかわからないこと。……そう、あのものすごい力をもった謎の存在について。
「あの……なんて言ったらいいかな、そう、ハルが、ハルの力を封印した、葵に乗り移った存在って……アンナさんは誰なのか知っている……の、か」
言いながらみるみる険しくなっていくアンナさんの顔を見て、尻すぼまりになってしまった。
いい顔はしないと思ってはいたが、こんなにすごい形相になるなんて。
「えっと……すいません、あの、やっぱりいいです……」
隣のおじいさんも静かに驚いていたから、アンナさんがおじいさんの前でこんな表情をすることなど今までなかったのかもしれない。だからそれ以上続けることもできずに引き下がったのだが。
「……私たちにはどうすることもできない存在よ」
低い声でアンナさんは呟いた。そして見開いた目でおれを見つめる。
「まさかまたあなたの前に?」
自分の悪いところをずばっと指摘された時のように、すぐには答えられなかった。それほどの圧力をアンナさんは持っていた。怒られているわけでも、責められているわけでもないのに、どう答えたらいいのかわからない。
「……え、っと……その、いや、おれの前に現れたわけでもなくて、その、ただの推測なんだけど……」
そう、双子が失踪して葵とともに森の入り口で見つかった時、何が起こったのかを頭の中で想像しただけだ。だから全く根拠もないし、ただアンナさんの意見を聞きたかっただけなのだが。
「その、双子がいなくなった時、葵が山に先に行って、それで一緒に倒れてた話はしただろう? あの時、もしかしてここに、あの存在がいたんじゃないかって……そう思っただけなんだ。だって葵が気絶させられるなんて、ちょっと考えにくいし……」
「あら、お腹を殴られでもしたら気絶くらいするわよ。……でもそういう話じゃないわね……」
アンナさんはおれの言葉に乗っかって反論し、すぐに首を振った。そう、ただ気絶していただけじゃない。葵は子供たちと一緒に倒れていて、三人とも記憶がなかったのだ。そんなことは普通に起こる現象じゃない。
「記憶がなかった。単純に考えればあまりの衝撃に、とかそういうことはあるんでしょうけど。三人そろってというのは作為的だとしか思えないわよね。……もしかしたらあなたの考えている通りなのかもしれないわ。アルは常に監視されているのかも」
「……監視?」
監視、とは何て物々しい。そう思って思わずアンナさんを見返した。アンナさんは固い表情を崩さずに頷いた。
「あくまでもしかしたら、の話だけれども。アルは恐らく重要なカギを握っているの。だから折々に現れて、自分の予定の通りに行くように修正するんだわ。邪魔するものを排除して……」
アンナさんはぶるりと震えたように見えた。でもそれを隠すようにふっと首を振って温かい紅茶に手を伸ばした。今の気持ちには温かいお茶が合っていたんだろう。お茶を少し口にすると溜息と共に目を閉じた。
「……ごめんなさい、私にもわからないことだらけなの。すべては推測でしかない……そしてこれ以上、私が知っている情報もないのよ。あなたが心配するのも分かるし、私も心配しているけど……心配する以外にできることがないの」
アンナさんはおれと目を合わせることなくそう言った。おじいさんはそんなアンナさんを案じるように見つめて、それからおれを見て首を振った。まるで代わりに謝るように。おれは無言のままおじいさんに向かって同じく首を振り、そして頷いた。
多分みんなの気持ちは一つだった。
「こちらこそ、ごめん、アンナさん。話しにくいこと話させて……。アンナさんにもわからないことなんだもんな、誰にもわからないよな。おれにわかるはずもないし、考えたってしょうがないよな、ごめんな」
はは、と乾いた笑いを零し、お茶をぐっと飲み干した。ここは退散した方がいいだろう。
「突然来てすみませんでした。おじいさん、アンナさん。また今度葵と子供たちと一緒に遊びに来ますね。今日は帰ります」
さっと立ち上がり頭を下げると、そそくさと玄関に向かった。この話題はアンナさんにとってはタブーだったんだろう。分からなかったとはいえ、無神経なことをした。
「お邪魔しました。お茶、ごちそうさまでした」
靴を履いて頭を下げ、もう一度上げると、律儀にもおじいさんとアンナさんが見送りについてきてくれていた。
今日はそもそも何をしにきたんだっけ、と間抜けな疑問が頭を過ぎった。結局、何も解決はしていないけれど。
「アンナさん、葵がまたお産で迷惑掛けるかもしれないけど……よろしくお願いします。なんだか今回は特に不安になっているみたいだから……できれば話し相手になってもらえると助かる」
そう、このお願いをしておくことは重要だ。おれにはできないこと、アンナさんにしかできないことなのだから。
「……もちろんよ、わかったわ」
アンナさんは少し疲れたような表情だったけれどもふわりと微笑んでそう言ってくれた。
「ありがとう。……じゃあ」
おれはもう一度頭を下げ、家を出た。夏の夕方、時刻は六時半を回っていた。まだ太陽は落ち切っていないようで、空は薄暗い程度だ。薄紫色に染まる空を眺めながら庭を横切り、門をでる。多分表情は変わっていないだろうけど、頭の中はいろいろな言葉でぐちゃぐちゃになっていた。
「少し整理しないと……」
ぼそりと呟いて車に乗り込んだ。おれの頭の中をぐるぐるとまわっていたのは、三つのこと。
葵は監視されているかもしれないこと。そして邪魔者は排除されること。
葵の天使の力は、ここでは回復しないこと。
何も解決されてはいないし、やっぱりおれにできることは何もないんだと分かった。でも先ほどの話の中で見えてきた可能性について、自分なりに整理する必要があった。
たとえすべて推測の域を出なくても、考えすぎだったとしても……。
この後はまた空きます。ごめんなさい!!できるだけ早く書きます…!




