7 食卓にて
居間に行くと、既に飲み始めてテレビを見ていた親父がこちらに視線を投げた。親父は目を覚ましたアルとは初対面だ。おれの少し後ろに立っているアルに気づくと、ぎこちなく頭を下げた。そんな親父を見て、アルは慌てた様子で大きく頭を下げた。もう少しで額が膝につきそうなほど上体を倒して頭を下げたので、今度は逆に親父が慌てて腰を浮かせた。
「アル、そんなに頭下げなくっていいんだよ」
親父の代わりにおれが言った。おずおずといった様子で顔を上げたアルが恥ずかしそうに笑い、そんなアルを見て親父も珍しく相好を崩した。立ち上がりかけていた足を元に戻し、おちょこを手にとって呷る様子は、どう見ても照れ隠しだったが。
「あらあら、栄。可哀想じゃない、こんな格好で連れて来たら。着替え用意しておいたの気づかなかったの?」
お袋が台所から料理の皿を持って出てきた。そう言われてアルの姿を見てみれば、二日ほど着たままの浴衣はすっかり皺皺になっており、着方のよく分からないアルとしては直すに直せなかったのだろう、襟元や胸元が少し崩れていた。
あ、と気づいたおれに呆れたため息を落としたお袋は、さっと部屋を出て行って、すぐに戻ってきた。
そして何が起きたのかと戸惑っているアルにカーディガンを羽織らせた。薄手のものだったが一番上のボタンを留めれば、マントのようになって乱れた浴衣の襟も胸元も隠れた。ようやく事態を飲み込んだアルは、機転を利かせてくれたお袋に礼を言った。
「ありがとうございます、えっと、おかあさん」
ちょっと照れくさそうに呼ばれた「お母さん」に、お袋は飛び上がって喜んだ。
「まぁ~、本当に可愛いわね! 素直でいい子だわ、ね、お父さん!」
「……そうだな」
にこにこ顔で話題を振られた親父は、手酌で酒を注ぎながら頷いた。その様子を見ながらおれは、この暴走夫婦をどう止めたらいいかと途方にくれた。アルはおれの嫁にならないのだとはっきりいってやらなければと思いつつも、喜びを露にする二人を前にして何も言えなかった。
畳敷きの居間の入り口で立ち尽くすおれの隣にいたアルが、すっと動いて親父の前に座った。いつ覚えたのだろう、きちんと正座して座る様におれは驚いて目を丸くした。
「おとうさん……ですね。私はアルシェネと言います。助けてくださってありがとうございました」
『お父さん』と呼ばれてじっと見つめられた親父は、ぐっとたじろいで、お袋に助けを求めるように視線を投げたが、すぐにアルを見て咳払いした。
「こほんっ……。いや、お礼はいい、助けたのは栄だ。アル……しぇねさん」
「アルと呼んでください」
言い辛そうにしてアルシェネと言った親父に、アルがにっこりと申し出た。親父は再びお袋に視線を投げ、もごもごと言った。
「……アル、さん。あーっと、ゆっくり休むといい、気にすることは何もないから」
顔が赤く見えるのは酒のせいではないだろう。ちょっと位の酒では全く酔わない親父が頬を赤らめているのをみて、お袋は面白そうに笑っておれを見た。
「ふふふ。 さぁ、栄、早く座りなさい。アルさんはまだご飯は無理よね。また違う味のスープを作ってみたから味を見てちょうだい?」
笑いながら座ったお袋に内心でため息をつきながら、おれは正座したままのアルを促し食卓についた。
テーブルの上に並べられた料理や皿、箸を眺めてきょとんとするアルの横で、おれは胡座を組んだ。親父もそうだが、正座は長時間していられないからおれはいつも胡座だ。そのまま箸を持とうとして、緊張気味に座布団の上で正座をしたアルに声を掛けた。
「……アル、正座だと足がしびれてくるぞ、少し崩したって大丈夫だから」
そういうとアルは首を傾げ、おれや親父の座る格好を見た。そのままおれ達の真似をするように足を崩しかけたので、おれは慌ててそれを止めた。浴衣の足で胡座を組もうなんて……無理だ、おれが耐えられない。
ちらりと見えた白いふくらはぎを頭の隅に追いやって、おれはアルに横すわりを教えた。女性の座り方なんてよく分からないが、これであっているだろうかとお袋を見たら笑って頷いていたからいいのだろう。足を斜めにそろえて座ったアルは、とても可憐な佇まいでどこぞのお嬢さんのようで、おれはまた心の中で自分をボコボコにぶん殴った。
ようやく落ち着いた食卓で、ご飯を食べ始めたおれ達を、アルはスプーンを握ったまま興味深げに眺めていた。お袋がアルのために用意したのは枝豆のスープだった。ずっと寝込んでいた胃袋に固形物を入れるのは早いと、朝は味噌汁の汁だけ、昼はコーンスープだったという。
アルは白っぽい緑色の液体を眺めてそっとスプーンをいれ、ひと掬いして口に運んだ。味を確かめるように少し口を動かし飲み込んだ後でおふくろに向かって微笑んだ。
「……おいしい、です」
その笑顔に満足した様子のお袋は、この上ないご機嫌な笑顔で返事をした。
「そう言ってもらえると作り甲斐があるわ~。早く他のものも食べられるようになるといいわね、おいしいものたくさん作るから」
「……はい」
そのやり取りを、おれは第三者の目線でぼんやりと眺めていた。もし彼女が、ずっと家にいるならこんな光景は珍しくもなくなるのだろう。親子三人のちょっと寂しい食卓が、一気に華やかになって和らいだ。彼女の存在が増えただけで。
アルはゆっくりとスープを口に運びながら、おれが食べている様子をじっと見つめてきた。おれはイカとキャベツを炒めたものを口に入れ、続けて白米を大口で頬張ってもぐもぐと咀嚼していた。その様子が面白いのか、興味津々、と瞳が煌めいている。ごくり、と飲み込んでから、彼女をじっと見つめ返すと、はっとした様子で視線を逸らした。
その無言のやり取りは、おれが何かを口に入れるたびに続いた。途中でそれに気づいたお袋が親父に視線を送り、ふたりのにやにやした視線に晒されながらアルを注意することもできないおれは、夕飯の味も分からないまま満腹になり箸を置いた。
おれが箸を置いてしまうと、今度はアルの対角線上にいた親父が、晩酌をしながらおかずを摘んでいくのをじっと見つめていた。親父はアルの視線に気づいてちょっと赤くなっていたが、何も言うことはなく無言で飲み続けた。
「……アル?」
何も言わないものの、親父が飲み辛そうにしているのがわかったので、おれはアルに声を掛けて注意を引いた。彼女はおれの声に反応してすぐにこちらを向いた。親父がほっとため息をついたのが視界に入る。多分、若くて美人な女の子に見つめられて柄にもなく緊張していたのだろう。
おれに声を掛けられてきょとんとしているアルに、おれは気になっていたことを聞いてみた。
「もしかしてご飯食べている姿が珍しいのか?」
そう問いかけられたアルは、はっとして申し訳なさそうに俯いた。
「す、すみません。じろじろ見てしまって……」
頭の回転が速いらしい。おれの質問から自分の行動を責められたと思ったのだろう、おれ、親父、お袋と順番に見て頭を下げた。でもおれは別に責めているわけではないのだ。
「いや、別にいいんだけど、その、天使……は、ご飯食べない、とかなのか?」
「わ、私が天使だってご存知なんですか?」
彼女は目を丸くして、『天使』という単語に全く動揺していないおれ達をさっと見渡した。彼女の驚いた顔に今度はおれが首を傾げてしまった。さっき黒髪美人の話をしたときに話したのだけれども、聞いていなかったのだろうか。アルはすぐにおれの表情を読み取ったようだ。
「……あ、アーレリーですか? 彼女が私が天使だと話した?」
「うん、そうだよ。親父もお袋も、アルの翼が消える瞬間を見ていたんだ」
「そう……だったんですか」
彼女はなにやら考え込むように下を向いてしまった。天使だとおれ達が知っていることが何か不都合なのだろうか? そういわれても彼女の翼を目撃してしまった以上、おれ達にとっては信じざるを得ない事実なのだが。
おれがなんと声を掛けたらいいものかと思案しているうちに、お袋が興味津々と言った様子でアルに声を掛けた。
「ねぇ、アルちゃん、さっきの話だけど、天使ってご飯食べないの?」
お袋ののんびりした声にアルは考えるのを止め、頭を上げた。呼び方が軽い「ちゃん」呼ばわりになっているのは、お袋の人見知りしない性格のせいだろう。
「はい、天使は食物からエネルギーを摂取することはありません。空気中に溢れるエネルギーを無意識のうちに集めているので、本来食事も睡眠も必要ではないんです」
あら、という顔をしたお袋を見て、アルは真面目に頷いた。そしてひとつ息を吐き、大きく吸ってまた吐き出した。
「……私が天使だと、皆さんがご存知ならば少しお話してもいいでしょうか?」
アルの真剣なその言葉に、お袋はすぐに表情を改め頷いた。親父もおちょこを卓の上に置き、聞く体勢だ。アルはおれを見て、目線で尋ねてきた。おれはゆっくり頷いて先を促す。何の話だろうか、きっと大切な話だろう。
「今の私の状況は、おそらく『擬似的に人間になっている状態』だと思います。ここは私の住んでいた“天界”とは違うので、必要なエネルギーがないんです。だから天使のままだと存在できなくなる。サカエが言っていた黒髪の、アーレリーは私の友人で、彼女も天使です。アーレリーは私がここに存在できるように、羽を媒介にして私の体を人間と同じ状態にした、そう私は考えています」
そこでアルはちらりとおれを見た。
「私はこの世界で、見知っている人はいません。アーレリーがここにいるのならば、彼女に話を聞きに行きたい。でも私の体は、まだ思うようには……動きません。だから、皆さんにはご迷惑だとわかっています。でももうしばらくここに置いてください、お願いします」
彼女は深く頭を下げた。この世界の人間じゃなく“天使”だというのに、なぜこうも日本人の習慣を知っているのだろう。無意識なのだろうか。
彼女はいつの間にか横座りしていた足を正座に戻し、手を畳につける正式なやり方で頭を下げている。『何故知っているのか今度聞いてみよう』、おれはそんなとんちんかんなことを考えていた。彼女の願いは、もちろん聞くつもりだったからだ。彼女が出て行くと言ったとしても、まだこんな弱っている状態で放り出すつもりはさらさらなかった。
お袋も親父も同じ考えなのだろう、深々と頭を下げた彼女を見て顔を見合わせた二人は、どちらからともなくくすっと笑った。
そしてアルの横に座っていたお袋が、アルの傍までにじり寄ってその手を取った。アルは顔を上げてお袋を見つめた。その表情は弱弱しく、不安に震えるようで。
「……アルちゃん? そんな風にお願いされなくても、私たちはあなたを追い出したりしないわよ? むしろずーっとここにいていいの。ここにいて欲しいと思っているわ、ねぇ? お父さん」
『ずーっと』という言葉の中に、おれとの結婚が含まれていることがひしひし伝わってくる。お袋はおれに思わせぶりな視線を投げたあとで親父に向かって言った。親父も親父でおれをちらっと見た後でアルに向き合った。
「ああ、そうだ。ずっとここに居ていい。体が元気になったあとも、ずっと。……おれらの子供になったらいいんだ、おれは娘も欲しかったからな」
親父の真意は分からないが、おそらくせっかくの嫁候補を逃がすまいと必死に考えての台詞だと思う。お袋はそんな親父の言葉に喜んで乗っかった。
「そうそう! 私も娘が欲しかったのよ~。ほら、こんな大きいだけでぶすっとした息子ひとりじゃ面白くないでしょう? 華がないのよね、華が。だからうちの子供になって~アルちゃん!」
だったら妹を頑張ればよかったじゃないかとおれは内心、大声でつっこんだが口には出せない。
『うちの子供になって』発言の裏は、『養子になる』ではなく、『嫁に来い』、だからだ。
……頭が痛くなってきた。まだはっきり口に出さないから黙っていられるが、おれとしてはアルがプレッシャーに追い詰められて出て行かないかが心配だ。こんなに『嫁に来い』と圧力を掛けられたら『結婚したくない』と言えないじゃないか。
思考の渦から意識を持ち上げ、アルの様子を見たおれはぎょっとして固まってしまった。親父とお袋はその異常事態におれより早く気づいて、おれに必死に助けを求める視線を送ってきていたのだが……。
アルは、泣いていた。