11 神の力
羽留がその後も順調に成長し、一歳になろうかという頃。
葵もすっかり体調を回復して、おれも心配することなく仕事に打ち込めるようになって、すべてが順風満帆と思えていた。親父と一緒にやっている工務店にも仕事は途切れることなく舞い込み、嬉しい悲鳴を上げつつ毎日を慌ただしく過ごしていた。
疲れた顔をしたアンナさんが日向家にやってきたのは、年の瀬の十二月、クリスマスの前日だった。
「アルはいる? ちょっと話がしたいんだけど」
いつになく憔悴しきったその姿に首を傾げつつ、おれは頷いて葵を呼んだ。葵はお袋と夕飯の支度をしていたが、少し待つとエプロンをしたまま玄関までやってきた。
「アーレリー? どうしたの、いらっしゃい」
「アル……なんて言ったらいいか、わからないんだけど……」
葵を見たアンナさんはホッと息を吐き、そう言ったが、それっきり黙り込んでしまい、後ろの言葉をどう続けるか悩んでいるようだった。
「アーレリー?」
おれは玄関先で立ち尽くしたアンナさんと葵を傍で見ていたが、なんだか不穏な空気を感じ、また玄関で立って話すような話でもない気がして、アンナさんに上がるよう促した。
「アンナさん、とりあえずあがりなよ。あと、おれは聞いてていい話、なのかな?」
アンナさんはハッと顔を上げておれと葵の顔を見、数度瞬きをしてからこくりと頷いた。
「……あなたにも関係のある話だと思うわ」
意味深にもそう呟いて、アンナさんは靴を脱いで玄関に上がった。さてどこで話そうか、客間でいいかと思ったら、羽留がふよふよ浮いておれのところへやってきた。
「おとーしゃん、おばあにゃんあ」
『……おばあちゃんが、おはなしはあとにしてごはんたべない? って。アンナさんもいっしょにどうかっていってるよ』
羽留は勢いよく話し始めたが、途中からテレパシーになってしまった。口で話せと諭して以来、頑張って話すようにはなったが、まだまだ本格的なおしゃべりには早いのだろう、声は出るもののはっきりとした発音にはならず、ちゃんと伝えたいときにはやはり思念を送ってくる。これは仕方ないことだし、そもそも赤ん坊を伝令役に使うお袋が悪いと羽留の頭を撫でた。
「そっか、どうする? アンナさん」
アンナさんにも羽留のテレパシーは聞こえていたはずなのでそのまま尋ねてみると、アンナさんは首を振った。
「家でおじいさまが待ってるから。手短に話すから先にいいかしら」
「ああ、おれは別に構わないけど」
あまりに弱弱しいアンナさんの様子がおかしかった。いつも自信と迫力に満ちた張りのある声を出すアンナさんなのに、今日は一体どうしたのだろうか。葵に目線を遣ると、葵も了承の様子で頷き、そのままアンナさんを客間に促した。
「ちょっと先に話しちゃうなー!」
と、台所にいるお袋に声を掛けてからおれも二人の後に続く。羽留は自力で移動する様子がないので抱っこしたままだ。
客間に入り、障子を閉める。普段使っていない部屋だから炬燵もストーブもなく、ちょっと寒い。すっかり暗くなっていたので電気をつけ、とりあえず座布団を出して座った。
「それで……? どうしたの、アーレリー。様子が変よ?」
口火を切ったのは葵だった。アンナさんの隣に座り、アンナさんの手をそっと取った。顔は全然似ていないが、心配しあう姉妹のようだ。
アンナさんは葵の顔を見上げ、一瞬躊躇した後、思い切ったように吐き出した。
「雲じいが、夢を渡って私のところに来たの」
「うん?」
誰だ? 夢を渡って? おれはわけがわからなかったので黙ってアンナさんを見ていた。おれの足の間に座っている羽留が大人しくアンナさんを見上げているのはいいのだが、当然その“くもじい”という人物を知っているはずの葵が、隣で同じように首を傾げているのはおかしかった。
「……くもじい? それは、誰?」
その瞬間、いつも冷静沈着で取り乱したところなど見たことのないアンナさんが、大きく目を見開いた。信じられないようなものを見る目で葵を見、しばらく口を開けたり閉じたりを繰り返した後、ふっと葵から目を逸らして自分を落ち着かせるかのように大きく息を吐いた。
「……どういうこと? なぜ雲じいを覚えていないの」
アンナさんは戸惑うようにそう呟いた。おれとしてはアンナさんが戸惑っている理由が知りたかったのだが、当の葵はきょとんと首を傾げているのみで緊張感がまるでない。
「えと、アンナさん。おれが口出すのもアレかとは思うんだけど……その、くもじいって……葵と深い関わりが?」
葵がぼんやりしすぎているのでおれが代わりにアンナさんに尋ねた。アンナさんはため息交じりに答えてくれた。
「……アルの直轄の神よ。感情を持っていて失敗ばかりするアルをそれでも優しく見守っていた。いつも私と話をするとき雲じいの愚痴を言っていたし、一番交流があったはずなのに、なぜ忘れているの? ……ねぇ、アル。本当に覚えていないの、雲じいを」
「知らないわ。私、だってアーレリー以外の誰かとちゃんと会話できたことないもの。あなたがたった一人、私を分かってくれる天使だったのよ」
葵に嘘をついているような様子はなかった。それが余計にアンナさんを慌てさせたようだ。アンナさんは葵の腕を掴んで頭に手を遣った。
「嘘よ……そんなはずはない。ねぇ、白髪で、白くて長い髭が自慢の、小さな神よ。雲を司る……笑い方が独特だったわ」
葵の額に触れたアンナさんの指が淡く光った。だがその瞬間、葵が弾かれるように目を開けて後ずさった。
「いたっ……! 何、今の?」
葵は額を押さえて涙目になっている。おれは全く状況についていけず、葵とアンナさんを交互に見遣った。一体……いま、何が起こっているのだろうか。
『きおくが……そうさされているの』
意外なところから声が上がった。正確に言えば、頭の中に響いた。
羽留がじっと葵を見て、そしてアンナさんとおれに向かって思念を飛ばしたのだった。
「何、ハル。どういうこと?」
アンナさんは噛みつきそうな形相で羽留に尋ねた。だが羽留の方は至って冷静に……怖いくらいに無表情のままで静かに語った。
『おかあさんのきおくがね、ちからのあるかみによってそうさされているの。たぶんあんなおねえさんのちからじゃおかあさんのきおくをとりもどすことはできない。かみのやったことだから』
「なぜ……ハルがそんなことを?」
知っているのか。おれとアンナさんは同じ疑問を羽留に抱いた。葵が知らない葵のことを、こんな赤ん坊が知っている理由は。
「だってぼく、おかあさんのおなかのなかでみてたんだもの。ちゃんとおはなしきこえてた。あのかみがおかあさんとおはなしおわってきおくをけしたときも、ぼくのきおくまではけさなかったんだ。だからおぼえてる」
まるで決められた台詞を読み上げるかのように、羽留はよどみなくそう伝えてきた。だが訳がわからない。その神と葵はいつあったんだ? 羽留がお腹の中にいる間、葵がひとりでどこかへ出かけたなんて聞いていない。
すると羽留はおれの心の中を読んだかのように、おれを見上げて言った。
「ゆめのなかで。ぼくがうまれるちょくぜんのゆめに、かみがあらわれたんだよ。ぼくがおかあさんのおなかのなかではなしをきいていることをあのかみはしってた。しっててぼくにかんしょうしなかったのは、ぼくがこうしてはなすこともそうていないだから……だとおもう」
我が息子ながら難しい言葉を使う。干渉とか想定内とか。一体それらの語彙をどこから得て来たのか不思議で仕方がないがいまはそれどころじゃない。
羽留の話は分からない方向へ進む一方だ。記憶を操作されているという葵は、羽留の話が聞こえているだろうに他人事のようにぼんやりし、逆にアンナさんは眉間にしわを寄せて怖い表情で何かを考えている。
……ああ、嫌だな、これはおれの力の、思考の、及ばない範囲の話だ。羽留を抱っこして温かいはずなのに、冷や汗が滲んでくる。
「それで……ハル。その神は何者? 一体どんな話を?」
アンナさんが怖い表情のまま、さらに羽留に詰め寄った。羽留も瞬きをし、考えながら思念を飛ばしている様子だったが、その声はラジオの音声が途絶えるように急に聞こえなくなった。
『すべてをしっているんだって。むかしおきたことも、みらいのことも。おかあさんも、ぼくたちもそのかみのけいかくのために…………』
突然途切れた声に首を傾げていると、羽留はぱっと葵の方を見上げた。
「ハル? どうした」
様子のおかしい羽留の視線を追って、おれも葵を見た。葵は座ったまま目を閉じていたが、ゆっくりとその眼を開きこちらを見た。その瞳は、なぜか金色に光っていた。
「あ、おい……?」
「……そこから先は、話しちゃいけない。過去のことを話すのは別にいいけど、未来のことはね、不確定だから。キミが話すことによって未来は変わるよ? そういうところも学んでほしいな、ハル」
ふっと笑って羽留に手を伸ばし、頭を優しく撫でるのは葵そのもの……なのに葵じゃない。その口調も、仕草も、目の色も。
何がどうなったのかわからずに羽留をぎゅっと抱き締め、豹変した葵を見つめていると、その金の瞳がふとおれを見た。
「ああ、ゴメンゴメン。ハルが余計なことを言おうとしてたから、つい止めに入っちゃった。すぐに帰るしこの子にも影響はないから安心して、旦那さん」
葵は自分の体を指し、『この子』と言った。別人が葵の体を乗っ取っていると、そういう認識でいいんだろうか。
安心して、と言われても不安を隠せないままアンナさんを見ると、アンナさんは驚愕に慄いた表情で身を引き、葵を見つめていた。
「やあ、アーレリーだね。キミもご苦労さま。でも最近楽しそうで良かったよ。ああ、あの老神のことは話してくれて構わないよ。ただこの子自身の記憶は時が来るまで封じておくから、この子に何かを聞いても意味はない。まぁあっちもなにもできないだろうから、そっとしておけばいいよ」
葵の体の中の別人は、葵の声でアンナさんに言う。だが、中身が違うだけでこんなにも印象が変わるのかと言うほど、軽薄そうでいて否やを許さない物言いと纏う雰囲気が、なんだか恐ろしかった。
アンナさんは大きく目を見開いて瞬きもせずに目の前の存在を見つめている。アンナさんにはこれが誰なのか分かっているのだろうか。
「ボクとしてはね、みんななるようになってくれればそれでいいから、キミも何も気にせず今まで通り過ごせばいい。ただこの夫婦のことだけは干渉しちゃダメだ。もしボクに不都合な事態を招いた場合は、キミのことも排除するからそのつもりでね」
恐ろしい言葉を笑顔で言って、葵を乗っ取った存在はおれに向き直った。おれと羽留を見て目を細めるが、先ほどの脅し文句といい、妙な圧迫感と言い、怖くて愛想笑いすらできそうにない。大好きな、葵の顔なのに。
「さて……ハル。キミの能力はちょっと封じた方がいいかな。赤ん坊はそこまで賢くなくてもいいし、キミはちょっとおしゃべりすぎる。確かに想定内だったけど、ある意味想定外だから。キミにそこまでの能力が備わるとは思っていなかったからね。まぁ嬉しい誤算ではあるんだけど……」
葵は――正確に言えば葵の体の中にいる誰かは――楽しそうな様子でハルの頭にそっと手を乗せて、何かを小さく呟いた。明るい部屋の中でも見えるような、プリズムのような光がふわっと巻き上がり、すぐに消えた。羽留はいつの間にか目を閉じて寝息を立てている。一体、何が起こったのか。
「勝手しちゃったけど、ハルはもう浮かないし、思念も送って来ない。完全に普通の、人間の赤ん坊になった。でもそもそもこれが普通の人間なんだから、文句も言わせないけどいいよね?」
金の瞳はおれを見つめていた。だからおれはこくこくと頷いて了承を伝える。もともと赤ん坊らしくしろと散々言っていたし、天使の力のことはおれには手を出せない領域の問題だった。嫌も何もなく、自分にはどうしようもできないことも理解できた。
「理解が早くて助かる。キミのような人間がいたことが世界の救いだ。……ああ、そろそろ時間切れだな。奥さんの体、返すね。何も覚えてないけど思い出させる必要はないよ。時が来ればすべてわかる。だからそのままで。キミは奥さんを愛してあげればそれでいい。よろしくね、キミに期待しているよ」
矢継ぎ早にそう告げて、不思議な存在は葵から抜けた。口を閉じた瞬間に葵の目も閉じ、ふっと体の力を抜いたと思ったら、葵はすぐに目を開けたからだ。緑がかった茶色の、見慣れた葵の瞳がおれを見る。いつもの葵に戻ったのだとすぐに分かった。おれを見て、ふにゃっと嬉しそうに笑ってくれたから。
「葵……体、変なところはないか?」
葵に影響はないと言っていたが、気になるので一応尋ねた。葵は首を傾げて不思議そうにおれを見る。
「体? どうして? 何も変なところはないよ。変な栄」
変な呼ばわりされるのはちょっと癪だったが、おかしなところがないならそれでいい。おれは抱っこしたままの羽留を抱えなおしたところで、そういえば羽留の能力を封印されたんだっけ、と思い出す。
もうテレパシーを送ってくることも、ふよふよ浮くこともないのかと思うとちょっと寂しいような、残念な気もしたが仕方がない。
「葵、ハルがな、もう浮いたりしないってさ。テレパシーもなくなるから、これからはちゃんと様子見てないとな。お腹すいたとか、オムツ替えるのとか、全部泣いておれたちを呼ぶのかな。ちょっと新鮮だな……」
「え? そうなの? なんで急にそんな……。……アーレリー?」
先ほどの一連のやり取りを全く覚えていない様子の葵が驚いていると、不意にアンナさんが立ち上がってこちらへやってきた。アンナさんは電灯を背中に逆光の状態だったが、暗い影の中でもその表情が苦しげに歪んでいるのが分かった。
「アンナさん? どうした……」
「ハルっ! ハル、起きなさいっ! ハル!」
アンナさんの様子がおかしいと声を掛けた瞬間、アンナさんはおれの腕の中で眠る羽留に向かって大声を出した。おれたちがその声に驚いていると、眠りから呼び起されたらしい羽留が、うっすらとその瞼を上げ……泣いた。
ぎゃー、ぎゃーと何が悲しくて泣いているのかわからないがおそらく、安眠を邪魔されて怒っているのだろう、慌てて抱き直してあやすと、しゅんと大人しくなって再び眠り始めた。今までしたことのない指しゃぶりまでしながら、羽留は小さく縮こまった。
「……びっ、くりしたな……。そうか、こうなるのか」
いきなり泣き出していきなり眠った羽留に、おれは単純に驚いていたのだが、羽留を起こした張本人であるアンナさんは、眉間のしわをさらに深くして羽留を見つめ、険しい表情のままで凍り付いていた。
「アーレリー? どうしたの、大丈夫……?」
一番訳が分かっていないであろう葵が、それでもアンナさんを心配して声を掛けた。普段は羽留を無理やり起こしたりしないと分かっているので、アンナさんを責めたりはしない。
声を掛けられたアンナさんは蒼白な顔のまま、ぎぎぎと音でもしそうなくらい不自然に首を巡らせて葵を見た。
「……もう……何が起きているのか……。アル、あなた大変なことに巻き込まれて……いいえ、私も、ね」
独り言のように呟いて、アンナさんはよろりと立ち上がった。全然大丈夫そうな様子ではなかった。葵も心配そうに立ち上がったが、アンナさんはふらつきながらも部屋を出ていこうとする。
「アンナさんっ。元々しようとしていた話は……? その、くもじいって人……」
そもそもの発端を思い出し、アンナさんを呼び止めると、アンナさんは生気を失ったような顔で振り返った。
「……いいわ、もうそれどころじゃない。それにその話を理解できる人がもうここにはいないのよ」
アンナさんはそう言って葵を見、羽留を見た。……そうか、葵の記憶は操作されているから覚えていないし、羽留も能力を封印されて、記憶はともかくもう意思を疎通する術がない。おれはくもじいなんて知らないし、どんな話をされてもよくわからないはずだ。
「帰って頭の中を整理するわ。落ち着いたらまた連絡する。……ごめんなさい、ハルを無理やり起こすような真似をして」
アンナさんは混乱しているようだった。額に手を当て、疲れ切ったようにそう言った。
「いや、それは別に……あの、何か言って楽になるような話なら、おれ、聞くから」
「ふふ、順応性が高いのは相変わらずね……。その時はよろしく……」
そのままアンナさんは帰っていった。律儀に「お邪魔しました」と親父とお袋に声を掛けるのはいつも通りだったが、歩き去っていく後ろ姿が弱弱しく、とても心配になったが送らなくていいと言われてしまって動くこともできなかった。
玄関先でアンナさんが帰っていくのを見ていたが、不意に葵が羽留を抱きたいと言った。眠っている羽留をそっと渡すと、葵は小さな体をきゅっと抱きしめ、ぼそりと言った。
「……そう、ハルの力は封じられたのね……。よかった……」
羽留のおでこに頬を摺り寄せ、葵は安堵の息を吐いたが、何がいいのかおれにはわからなかった。赤ちゃんらしい赤ちゃんになったことが良かったのか、と思ったが、問いかけても葵は笑って首を振るばかりで、ちゃんと答えてはくれなかった。
多分やっぱり、おれの考えの及ばない、途方もない領域の話なのだと思った。記憶を操作されていても葵は天使だ。元々持っている知識がおれとは違うから、考えることも違う。すべてを理解することはできないと分かっている。けれどもだからこそ歯がゆい。
大切そうに羽留を抱きしめる葵を見ながら、おれは空の上で瞬く星に願った。
どうか……どうか。
おれの力の及ばない何かが、この二人を連れ去ることがないように。
ここで、家族みんなで暮らせるように。
澄んだ冬の空に輝く星々は、素知らぬ顔でただ、光るだけだった。




