3 初孫に沸く日向家
葵が妊娠した。
この事実によっておれ達日向家はもとより、アンナさんの家すらも巻き込んでのてんやわんやの騒ぎとなった。何故大騒ぎになったのかといえば、初孫に沸くうちの親父とお袋と、ひ孫に喜ぶアンナさんのおじいさんがアレコレ準備をすべく想像の限りを尽くしたからで。
具体的に言うならばこうだ。まだお腹の大きくならない葵にマタニティー用の服を買ってきたり、赤ちゃんの産着を買ってきたり。
「ベビーベッドはうちで買いますよ」「いや、うちで買わせてください」「いやいや」「じゃあベビーカーはうちで」「ああ、それなら」……などフライングもいいところの会話が繰り広げられたり。
気づけば葵のお腹が多少出っ張ってきた頃には、二階の物置部屋がいっぱいになるほどのベビーグッズが用意されていた。ベビーベッド、ベビーカー、赤ちゃん用のお風呂におまる。大量の紙おむつやおしり拭き、よだれかけ、おしゃぶり。はたまた成長に合わせてだんだんサイズが大きくなっていく靴下、靴、そして着替えの山。
日に日に増えていく洋服を当たり前の顔で整理しているお袋を前に、おれが引きつった顔で立っていた時。
「初孫なんてどこもこんなものよ。観念なさいな」
こちらを見ずにお袋はしれっという。
「いや……それにしたってこの量……着まわしきれるのか?」
すでに――これもまた赤ちゃん用に準備されてしまった箪笥の引き出しはほぼいっぱいだ。おれだってこんなに大量の服は持っていない気がする。
「あら、赤ちゃんって頻繁に着替えするのよ。汚れやすいから」
「常識よ」と真顔で言われ、右も左も分からない赤ちゃん初心者のおれは何も言えずに降参した。
*
おれと葵、そしてアンナさんは暴走する親達を若干引きの目で見つめながらも、順調に大きくなっていく葵のお腹を愛おしく眺めては笑い合う日々を過ごしていた。
アンナさんは休みの日におじいさんと連れ立って家に来ることが増えた。おじいさんは子供のための準備に余念がないらしく、お袋、親父となにやら話し合いをするのだとかで、すでに別室へ行ってしまっている。これ以上何を買うつもりなのやら。
「あ、今! 蹴った!! 中から蹴られたよ!」
妊娠も七ヶ月目に入り、大きくなったお腹の中で子供は暴れているようだ。十一月の半ば、季節は冬。居間のコタツに足を入れた状態で、重ねた座布団にもたれかかっていた葵は、楽しそうにおれを見上げて笑った。
「はは、元気がいい赤ん坊だよな」
お腹が大きくなった葵が階段を上り下りするのは心配なので、おれたちは数ヶ月前から一階の客間で布団を敷いて寝ている。
日に日に大きくなっていくお腹を毎晩そっと撫でては子供の様子を窺っているおれとしては、赤ちゃんが中から蹴ったりするのは元気良く育っている証拠だと喜ばしいのだが、初めて妊婦に接するアンナさんにとっては驚愕の連続らしく、少し顔色を悪くしたままで葵を窺った。
「……大丈夫なの? 痛くないの?」
「うーん、痛いって言うかびっくりするだけかなぁ。……あっ、また! ねぇ、触ってみてよ! 中から蹴るのわかるかも!」
妊娠初期のころはわけも分からず体調不良になって不安げな顔をしていた葵だったが、お腹が大きくなるにつれて自分の中に赤ちゃんがいる状況にすっかり慣れたようだ。このごろはもう母親の余裕もだせるようになって、心配そうな表情のアンナさんににっこりと笑いかけ、大きく張り出したお腹を触るように言う。
促されたアンナさんはまさに恐る恐る、といった様子で手を伸ばし、そっと葵の腹部に触れた。
「……本当に、ここに赤ちゃんがいるのね……。不思議だわ……」
感慨深い様子で優しく撫でるアンナさんが、少しほっとした様子で息を吐いた。その時。
「きゃっ!」
驚いて手を引っ込めたアンナさんは、すぐに自分の手のひらと葵のお腹を見比べてぽつりと言った。
「……蹴られた、の?」
呆気にとられたアンナさんの顔は普段クールな分落差が激しくて、おれは思わず声を上げて笑ってしまった。
「はははっ」
「ふふっ、ね? 元気でしょ?」
かく言うおれも、最初に蹴られるのを触ったときは同じようにびっくりしたのだが。
おれと葵に笑われたアンナさんはちょっとむすっとした顔をした後、興味深そうにまた、葵のお腹を触っていた。適応能力の高い人だから、すぐに納得したのかもしれない。
アンナさんはしばらく葵のお腹を撫でていたが、急にふと思い出したように言った。
「そういえば、名前は考えてあるの?」
「名前?」
顔を上げたアンナさんを見つめ、葵がきょとんとしながら問い返す。
「赤ちゃんの名前よ。生まれたら付けてあげなくちゃ。……その顔、まさか考えてないの?」
あまりに不思議そうな顔をしたままの葵に、アンナさんが呆れたように言った。だが、おれが見たところ葵のその顔は、赤ちゃんの名前を考えていなかったわけではなくて、子供に名前をつけることそのものを知らなかったように見えるんだが……。
「……名前、付けるの? 私が?」
呆然とした言い方に、おれは『やっぱり』と思ったが、アンナさんは大きくため息を付いて諭すように言う。
「他に誰が付けるのよ? そりゃ栄さんとも相談して決めることだけど、母親のあなたが考えなくってどうするの?」
「……母親……そうだよね」
『母親』と言われてこくりとうなずいた葵は、お腹に手をやって早くも名前を考え出した様子だ。その真剣な表情に苦笑しつつ、おれは葵に声を掛けた。
「葵、ごめん、子供の名前付けること言い忘れてたな。おれはぼんやり考えてはいたんだけど……」
実は子供が出来たとわかったときから、あれこれ候補が浮かんでは消えている。聞いてはいないがお袋や親父もきっと案を持っているだろう。
「え、そうなの? どんな名前?」
ぱっと顔を上げた葵は、なぞなぞのヒントを欲しがる子供のようだった。おれは思わず髪を撫でながら、でも笑って首を振った。
「いや……おれがこれって言うと、葵もそれを気にしちゃうだろう? まずは自分でどんな名前がいいか考えてみたらいいよ。それで葵の案とおれの案を後で交換して、いい名前を決めたらいい」
そうは言いつつも、おれは子供の名前については葵の意見を尊重しようと思っていた。あんまり突拍子もないようなものにはストップをかけるつもりではいるが、何ヶ月も大きなお腹で苦しむ母親の方に子供の名前を付ける優先権があるような気がしていた。
「……ああ、もちろん漢字も考えてくれよ。音は同じでも漢字の当て方もいろいろあるし」
結婚前から興味深々で勉強していたが、いまやすっかり漢字マニアになってしまった葵が喜びそうなことも加えて教えておく。すると案の定、葵は先ほどよりも目を輝かせておれを見つめ返してきた。
「えっ、漢字……!? 漢字の名前を付けていいのね? わぁ、どうしよう! 何にしたらいいかしら!!」
そわそわしながら目で探しているのは漢字辞典だろうか。面白いくらいの反応におれは堪えきれずに噴出し、葵の頭をぽんと撫で漢字字典を取りに行くことにした。アンナさんはこれ以上ないくらいに呆れた顔で葵を見ていたが、その苦笑いの表情は、手のかかる妹に対する慈愛の表情のようにも見えた。
「ダメよ、アル。いくら漢字が好きだからって、四文字とか五文字とかの名前とか、難しい漢字とかは。あくまで常識の範囲で考えるのよ! ……ああ、言っててなんだか心配になってきたわ……」
言いながら頬に手を当てたアンナさんに対し、葵は驚いた表情で返す。
「えっ、四文字五文字? 名前って漢字一文字じゃなくてもいいの?」
あー、なるほど。おれも葵も漢字一文字の名前だからな。……ってこれじゃ会話が面白すぎて辞書を取りに行けないじゃないか。おれはその場で立ったまま、葵を見下ろして言う。
「葵、葵。おれたちは二人とも漢字一文字だけど、別にそうと決まっているわけじゃないんだよ。ほら、親父は『健三』だし、お袋は『さち江』だ。ひらがなと漢字を混ぜるのは……ちょっと今風じゃないかもだけど。洋一だって洋二だって二文字だろ?」
おれは笑いながらそう言い置いて居間を後にした。だが、背中から聞こえてくる会話がまた可笑しくて、自然と歩みは止まってしまう。
「ああ、そっか……。うーん。……ね、アーレリー。四文字五文字がダメなら三文字はいいの?」
「別にいいけど……。それでもしつこいのはダメよ。皆が読んで分かる漢字にしないと。……あ、アル。あなたもしかして特別難しい漢字を使おうとしてないでしょうね?」
「えっ。…………ううん、別に?」
「その間が怪しいわ……これは監督者が必要そうね……。栄さんでなんとかなるかしら?」
「えーなんでなんで? 栄は私が自分で考えろって言ったもの! とにかく考えてみるわ!」
「……心配ね……」
離れたこちらまで聞こえるほど大きなため息を付いたアンナさんに、おれも笑いをかみ殺しながら同意した。……本当にちょっと心配かも……。
立ち聞きしていたことがばれないよう、足音を立てないように階段を上がっていく。葵は一体どんな名前を考えるのだろうか。
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蔡




