2 特別な日
意識がふわりと上昇し、自然と開いた瞼で辺りを見渡す。わずかに開いたカーテンの隙間から、まだ明けきっていない薄闇の空が見える。
「……んぁ、朝か……」
朝が来たと認識しつつも再び目を閉じて布団に潜り込む。なんだか眠り足りないようなふわふわとした思考。ごそっと身じろぎすると、腕が温かいものに触れた。
もう当たり前に横にいる、慣れ親しんだ存在。目を閉じたまま手探りでその温かいもの――葵を引き寄せると、彼女はまだ眠っているのだろう、すんなりとおれの腕の中に転がり込んできた。
葵を抱きしめて二度寝を決め込む、この上なく幸福な時間。ふんわりと香る優しい髪の香りにも癒されながら、あれ、今日って何曜日だったっけと不意に思った。
……昨日日曜だったような……。ん? ってことは今日は……
「月曜だ!」
言いながらがばっと布団を捲って起き上がる。するといきなりの温度変化に驚いたのか、葵はぎゅっと身体を縮めて猫のように丸くなった。
「あ、ごめん」
五月も終わりになってきたが、朝はまだ少し寒い。羽毛布団を葵の上に掛け直し、おれはそろりとベッドを出た。葵はむにゃむにゃと何か言っているようだったがはっきりとはせず、まだ夢の中にいるようだ。
ちょっと床板が冷たくも感じたが気にせず箪笥から着替えを出す。パジャマを脱いで下着に袖を通していると背中から葵の声がした。
「さかえ……おはよう……」
「ああ、起こしちゃったか。おはよう、葵」
布団に包まったままのうつ伏せの状態で、上半身だけ起こして目を擦っている葵は猫のようで本当に可愛い。
「今日……月曜か、お仕事だね。でもこんなに早く?」
薄い暗がりの中で葵が枕元の時計に目を遣って言う。時刻は朝五時半。
「うん、今日から新しい現場だから。早めに作業場行って準備しようかと思って。葵はまだ寝てていいぞ? お袋だってまだ起きてないと思うし」
言いながら靴下を出して履いていると、葵が布団を捲って起き上がった。未だに眠そうに目を擦っているところを見ると、寝不足のようだ。
「ううん、栄が起きたなら私も起きる。朝ごはんの準備しないとね」
にこっと笑って自分の箪笥に向かいてきぱきと身支度を始める葵は、よき妻の手本のようだと思う。別に他人の奥さんを知っているわけじゃないから比較論ではなく、ただののろけだという自覚はもちろん、ある。
着替え終わったおれは、あくびを零す葵に近づいていってそのふわりと巻いた髪を撫でた。
「ん? どうしたの?」
昨夜無理をさせたかと申し訳なく思っていたのだが、首を傾げておれを見上げる葵の瞳にはおれに対する不満やら文句やらは一切見えない。ただ純粋におれの行動に疑問を持っているのだと分かる綺麗な瞳に苦笑して、おれは葵の髪をぐしゃぐしゃに乱した。
「あーもうっ! 寝癖が余計にひどくなるじゃない!」
ぶつぶつ言うその姿さえ愛おしい。おれは懸命に髪を整える葵の頭をぽんと叩き、ドアを開けた。
「大丈夫だ、どんなんだって葵は可愛いから。……先に下りてるぞ」
可愛らしい文句を言う声を背中で聞きながら、階段をリズムよく降りていく。こんな普通の、何気ない朝だって、葵と一緒にいれば特別な始まりになる。毎日がいつも、特別な日に変わる。
――結婚して一年半。おれはいまだに自分の幸運が信じられないまま、この幸せを噛み締めている。
*
階段を下りていくと台所の電気が付いていた。
ひょこっと顔を覗かせると、お袋がコンロの前でお玉を握ったままこちらを振り向いた。味噌汁のにおいがする。
「おはよう」
「あら、栄。おはよう、早いのね」
「おふ……母さんこそ……どうしたの?」
いつもは六時に起きるのに、三十分も早くどうしたのかと思ったら、お袋は苦笑いで肩を竦め、作業場の方向を示した。
「お父さんが張り切ってるからよ。新しい現場は栄に仕切ってもらう代わりに、しっかり準備してやらなきゃって。小さいお家だからって、気ぃ抜いてたらお父さんに張り倒されるわよ?」
と、言うことは親父は既に作業場ということか。先を越された悔しい気持ちと、見守られているむず痒い気持ちが同居して複雑な気分だ。
「分かってるよ。お袋に言われなくたって。おれだって準備しようと思って早起きしたのに……」
「ベテランとペーペーの差、かもね」
「……くっそ」
お袋にも見透かされているなんて、と悔しさに頭を掻きながら洗面所に行って顔を洗った。豪快に流れる水音の向こうで、下りてきた葵がお袋に挨拶をする声が聞こえる。あーあ、せっかく早く起きたのに全然格好がつかない。葵はこんなことでおれに呆れたりはしないだろうが、なんだか情けなくって落ち込む。
「栄、もうお母さんが朝ごはん作ってたわ。もうご飯食べて出かける? まだ時間早いけど」
タオルで顔を拭いていると葵も洗面所にやってきた。
「うーん、親父と相談してからだなぁ。とりあえずご飯の前に作業場行って親父の様子見てくるよ」
「そう、分かった。じゃあお父さんも呼んできてね。朝ごはんできてますって」
「ああ」
葵はそう言って顔を洗い始めた。おれが親父に先を越されたことについては何の意見もないらしい。まぁいつも泰然としていて大抵のことには動揺しない親父におれが勝てるはずもなく、葵としてもそれが当たり前なのかもしれない。もしくはおれの気にしすぎか。
早く親父のようになりたいと思っても、親父が積み重ねてきた年齢と経験を越えることなど早々出来るわけもないし、とにかくおれはおれなりに努力するしかないんだよなと思う。
勉強していた二級建築士の試験には無事に合格し、そういう面では少しは成長できている気もするが。二十台前半の若造にしてはまぁいいな、と言われる程度には立派になりたい、そう思った。
*
作業場で親父と少し話をし、とりあえず朝ごはんを食べてからあれこれ進めようということになって二人で家に戻った。
朝食はすっかりテーブルの上に準備されていて、お袋がタイミングよく味噌汁をよそっているところだった。そしてふたり連れ立っておれ達が居間に入ってきたのを確認した葵が、しゃもじを手にご飯を盛り始める。まずは親父の、そしておれの。
はい、と差し出された大盛りご飯を受け取って箸を持つ。当たり前の朝ごはんの風景。四人でテーブルを囲み、他愛ない話をしながら箸を進める。
ところが今朝は少し様子が違っていた。葵が味噌汁に口をつけようとして怪訝な顔をした。そしてそのまま首を傾げ、固まってしまったのだ。
「葵? どうした?」
もぐもぐと玉子焼きを咀嚼しながら葵に声を掛ける。味噌汁に何か変なものでも入っていたのだろうか。しかし葵は真っ青な顔でこちらを見て、泣きそうに顔を顰めている。親父もお袋も葵の異変に気づき、心配そうな目で箸を動かすのをやめた。
「……葵?」
途端に葵は味噌汁を置き、口元を手で押さえて嗚咽した。
「えっ、葵、どうした!?」
「アルちゃんっ?」
慌てて箸を置いて立ち上がり、葵の背に手を回す。気持ち悪そうにしているのでとりあえず背中を擦ってみたが、葵は口を押さえて身体を丸め、呼吸もままならない様子だ。
「栄、洗面所に」
お袋に言われてはっとする。よく考えてみたら葵は今まで何かを吐いたことはなかった。吐きたいのに吐けないのかも知れないと思って身体を抱えて立ち上がり、そのまま洗面所に向かった。
「葵、なんかせり上がってきたらそのまま吐き出すんだ、大丈夫だから」
背中を擦りながらそう言う。一体どうしたんだろうと思いながら擦っていると、不意に葵が大きくえずいて胃液を吐き出した。まだ何も食べていなかったのに変だよなぁと思いつつ、息を荒くしながらも少し落ち着いた様子の葵に、口をゆすぐように言う。
タオルで水を拭きながらもまだ息の整わない葵は、おれに寄りかかるようにして大きく息を吐いた。
「葵……? 大丈夫か、気持ち悪くなったのか?」
「気持ち……? うん、多分、そう……」
青い顔で呟いて深呼吸を繰り返す葵を抱きかかえて居間に戻る。お袋と親父が心配そうな顔でおれ達を待っていた。
「葵さん、大丈夫か?」
食べようにも食べられない朝食を前におたおたと親父が言う。お袋はなにやら思案顔で葵を見つめている。
「うーん、よくわかんないけど……まだ気持ち悪いみたいだな」
おれに体重を預けてじっとしたまま、葵は顔を上げられずに目を閉じている。よほど気持ちが悪いのだろう。
「おれ二階へ連れてって寝かして来るよ。温かくすれば多少よくなるかもしれないし」
「ああ、そうしろ」
「栄、ちょっと待って」
うんうん頷いておれを促す親父とは対照的に、お袋がおれにストップを掛けた。
「うん? なに、お袋」
おれはもう葵を抱きかかえて、階段を上る準備を整えているというのに何だろうと思った。しかしお袋は真剣な顔をしてとんでもないことを聞いてきた。
「アルちゃん、最後に生理来たのって……いつ?」
「ぶっ!」
思わずお茶を吐き出したのはおれじゃなくて親父だった。おれも何かを飲んでいたらそうなっただろう。
「はっ? そ、それっておれに聞く……?」
どもりながらも問い返すが、お袋はじっとおれの顔を見て黙っている。大真面目に聞いていることが分かって、おれは少し照れつつも観念して答えた。
「えっと……多分先月の頭だったと思うけど。今月は……まだ、だな」
言いながらあれ、まさか、と思う。お袋が言いたいのってもしかして。
「うーん、もしかしたらアルちゃんおめでたかもしれないわね。検査薬、試してみた方がいいかも」
――うわ、本当に、やっぱり?
お袋はさらりとそう言っておれを見た。親父が驚愕の顔でお袋、おれ、葵を順に見るのが視界に入る。おれは自分の予想が当たったことよりもその内容に驚いて、思わず腕に抱きかかえた葵の顔を見た。だが苦しそうに眉を寄せた顔を見て、跳ね上がった気持ちがしゅんと萎んだ。
「な、なぁ、お袋。葵は……これ、大丈夫なのか……?」
腕の中で震える葵をぎゅっと抱きしめ直す。おめでたって、妊娠したってことだろ? こんな具合悪そうなのは大丈夫なんだろうか。
「つわりよ。みんなそうなるものなのよ、程度の差はあるけど」
何でもないように言うお袋が妙に頼もしい。おれは縋るような気持ちでお袋の指示を待つ。
「じゃあとりあえず、薬局が開いたら検査薬買いに行って調べましょ。もし本当におめでただったら……ああ、でも産婦人科よりも助産婦さんとかに頼んだほうがいいのかしらね。アルちゃん大きな病院で調べられるのは、やっぱりあんまりよくないでしょう?」
てきぱきと段取りを組むお袋が語尾を濁した。
ああ、そうだ。葵は本当は人間じゃないから、天使だから、もし血液検査とかで異常が出たりしたらどう誤魔化したらいいか。
「うん、そうだな。その辺は後でアンナさんにも相談してみるよ。とりあえず葵は寝かした方がいいんだよな?」
葵は軽いがずっと抱えているとそれなりに腕が辛い。よっと持ち上げ直しても葵は先ほどの顔のままで、目を開かない。
「そうね。辛そうだから寝かせてあげましょう。後で洗面器持っていくわ」
「わかった」
おれは返事をしてそのまま二階へ上がった。結婚してから二階がおれたち夫婦のスペース、一階が親父達のスペースと決まってそれぞれが荷物を移動させた。葵はもちろんおれの部屋で一緒に寝ており、他の部屋はひとまず物置として使っている。
迷いなく自室に向かってドアを開けると、さっき起きてきたベッドの布団はきちんと整えられていた。葵はこういうところがちゃんとしてるんだよな、と思いながら、かがんで布団を捲り葵をベッドに横たわらせた。
「葵、大丈夫か?」
羽毛布団を首まで掛け、乱れた前髪を整えながら尋ねる。葵は閉じていた目をうっすらと開け、おれを見上げた。
「……うん、ごめんね、なんか……」
「謝ることなんてないよ、それより……」
申し訳なさそうに言う葵におれは首を振った。ひとつも悪いことをしてないし、迷惑とも思っていないのだ。ただ、結婚してこの方一度も体調を崩したりしていなかった葵が、まるで出会ってすぐの頃のように弱っている姿が少し恐ろしかった。そして、いま考えられる体調不良の原因、その可能性。
言うべきかどうか、と思ったが原因がわかったほうが葵も安心するかもしれないし、後で検査する心積もりもできるだろう、と思って正直に言った。
「あのな、びっくりしないでくれよ? その……もしかしたら葵が気持ち悪いのって、子供ができたからかもって……お袋が言ってる」
「こども……?」
「ああ、子供ができるとそうやってみんな気持ち悪くなるときがあるんだって。お袋が後で本当にできてるかどうか検査する薬? を買ってくるから、今日調べられるよ……」
妊娠検査薬のことなど聞いたことはあっても実物がどんなものか、どういう検査をするのかなんて全く分かっていない。その辺はお袋が何とかしてくれるだろうと心の中で投げ、おれは無言のまま瞬きを繰り返す葵の手を握った。
「葵……? 不安、か?」
子供ができるのは女性にとって一体どんな気持ちなんだろう。お腹の中に芽生える、自分とは違うもうひとつの命。男のおれには女性の気持ちなんて想像もつかなくて、葵が今どんな気持ちかなんて全く分からない。どうしたらいいのかもわからないまま、どことなく不安げな辛そうな様子にただ手を握ることしか出来なかった。
でも葵はおれの目を見て言ってくれた。
「ううん、そうじゃなくて……驚いているだけ……。本当に、子供ができたんだなぁって。私にも……」
そういって葵はふぅ、と息を吐いた。そして笑った。
「……嬉しい。栄との子供ができて、私嬉しいよ」
「葵……」
微笑む葵におれの方がほっとして、葵の頭を抱き寄せた。額をくっつけてしばらくじっと感慨にふける。
……ああ、なんか……良かった……。
「ありがとう、葵……」
自然とこの言葉が零れた。何に感謝しているのかも分からないまま、ただ“ありがとう”と言いたかった。全てに感謝していたのかもしれない。葵にも、子供を授けてくれた運命にも、本当にいるらしい神様にも。
*
午前中にお袋が買いに行ってくれた検査薬で、すぐにも結果はわかった。さすが、と言うべきかお袋の予感は当たっていた。
葵は本当に妊娠していた。
おれ達は子供を授かったのだ。
ここから先がスロー~ペースになります……。
1~2週間での更新になるかと思います。気長にお待ちください。




