表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
7/128

6 気付いた気持ち


 現場に到着してまず向かったのは親父のところだった。彼女の意識が戻ったことを報告しておいた方がいいだろうと思ったのだ。鉛筆を片手に図面とにらめっこしながら今日の計画を頭の中で練っている様子の親父の近くまで行くと、親父はすっと視線を上げておれを見て、また視線を図面に戻した。


「おう、遅かったな」


 遅刻ではないが親父の出勤よりだいぶ遅れてきたおれは、殊勝な面持ちを保ったままで簡潔に告げた。


「ああ、彼女の目が覚めて、それでお袋といろいろ話をしていたから、それで」


 おれの言葉に親父ははっと顔を上げて、ほっとした表情を見せた。そっけない態度が標準装備の親父だが、彼女のことは親父なりに心配していたようだ。おれは今朝お袋と話した内容をもう一度語って聞かせた。


「まだ起きられる体力が戻ったわけじゃないから、食事も様子見ようって。スープをあげてみるってお袋は言ってたけど。それで、親父。今晩多分彼女と話せるだろうけど、その……」


「?……なんだよ、はっきりしろよ」


「……その、け、結婚、の話とかは、言わないでほしいんだ」


「……なんでだ」


「…………」


 ……是非とも察して欲しい。目が覚めたばかりで右も左も分からない彼女に、息子と結婚して欲しいとか言うのはあんまりだと。彼女は天使で、人間のあれこれに詳しくないだろうことは親父にだって分かるだろうに。


「いや、だから、彼女が混乱するだろ? いきなり目の前のよくわかんない男と結婚しろとか言われたらさ」


 おれは呆れつつ焦りつつ小声で親父に詰め寄った。大声は出せない。洋二みたいな噂好きに聞かれたら後々面倒だ。親父はおれの切羽詰った表情を見ながらも、だからなんだ、という表情で、持っていた鉛筆のお尻の部分で頭を掻いた。


「……わかったよ」


 一応了承の言葉が返ってきたものの、その言い方と表情からはとても安心できなかった。ふと気づいたときにぽろっと零してしまうかもしれない。ああ、親父と彼女が話をするときには気をつけなければ……とおれは心の中で決意した。



 そわそわしながら一日の仕事を終え、おれは家路についた。親父はもう少し確認しておきたいことがあるというので、おれは先に帰ることにした。ずっと帰りたいオーラを出していたのもバレバレだったのだろう、定時になって親父のところへ行ったら犬を追い払うかのような仕草をされた。

 普段なら何か怒られているのかそれとも馬鹿にされているのかと勘ぐるところなのだが、今日のおれはそんな親父に心の中で感謝をしてうきうきと車に向かってしまった。

後日洋二に言われたところによると、目を輝かせたその時のおれは、『ご主人様に邪険に扱われて喜ぶ、可哀想な大型犬』のようだったらしい。


 軽トラをいつもより急がせていつもの道を走る。家が一件建つまで数ヶ月通うことになる道だ。土手沿いの道は夕日の色に染められ、心を揺さぶる美しさなのだが、今日は寄り道をしようとは思わない。あの子が倒れていた川原の辺りを横目でちらりと見て、おれは家に向かって急いだ。……彼女が待っている、家へ。




「おかえりなさい」


 そう言って迎えてくれたのは、お袋だった。玄関のドアを開けるときにちょっと期待してしまった顔がでてしまったのか、お袋は呆れたように笑った。


「あの子なら客間にいるわよ。眠ってはいないと思うけど」


 彼女が迎えてくれるかもしれないと思っていた自分が恥ずかしくなりおれは返事もできずに頷いて、しゃがみこんで足袋を脱いだ。すぐに客間へ行きたかったけれど、作業服を脱いで、シャワーも浴びておきたい。こんな汚い格好で会えない。

 おれは大急ぎでシャワーを浴び、身なりを整えて客間へ向かった。Tシャツとジーパンというなんてことはない格好だったが、木屑だらけの作業着と比較すれば、おれにとっては何だって整った身なりなのだ。


 客間に近づくにつれて妙に騒がしくなる心臓を押さえながら、そっと歩いていった。縁側に面した客間の障子は開け放たれて、夕暮れのオレンジが部屋の中に差し込んでいた。

ノックもできない和室でどうしようかと思い、おれは部屋の手前でしばらく考え込んでしまった。声を掛ければいい、とようやく気づいて、喉の調子を確かめようと「ごほん」と咳払いしたら、その音に彼女は気づいたようだった。


「あ、えっと、サカエ、さん?」


 障子の影で見えないというのに、咳払いのちょっとした声で気づかれてしまった。しかもおれの名前を知っているなんて。

 おれは照れ隠しのつもりで頭を掻きながら、一歩、二歩と踏み出して客間に入った。


「……こ、こんにちは」


 客間の中央にはまだ布団が敷かれていて、盛り上がっているのが見えた。しかし彼女の顔も見れないまま、下を向いてそれだけを言うのが精一杯だった。何故かものすごく照れくさかった。

 顔を上げないおれに、彼女は優しげな声を掛けてくれた。


「あ、はい。こんにちは。お仕事終わったんですね、お疲れ様です」


 ずっと聞いてみたかった彼女の声をかみ締めるように反芻しながら、おれはきっと微笑んでいるだろう彼女の顔が見たくて仕方なかった。顔を上げれば済む、それは分かっているのだが、ものすごく緊張してしまって体が動かない。おれは客間の隅っこで、未だ立ちすくんだまま、両こぶしを握り締めている状態だった。


「……あの、具合でも悪いんですか?」


 何も言わず顔も上げないおれを心配してくれたのだろう、彼女は気遣うような声を掛けてくれた。ああ、なんでもないというのに女性に心配を掛けているなんて、おれは何てダメな男なんだ……! と心の中で自分を叱咤激励した。そして数歩歩いて布団の傍まで行き、がばっと正座してそれから顔を上げた。


 ……天使が、いた。


 挙動不審なおれを首を傾げてみている彼女。布団の中にはいたが、今朝とは違って状態を起こして座っている。お袋が用意したのだろう、座椅子に背を持たせるようにして、足だけ布団の中に入れていた。手には何かの本を持ち、読書をしていたようだ。傾げた首の傾斜にあわせるように、ふわふわした茶色の髪が頬に少しかかっている。

その顔立ちは何度か想像したとおり、外国人のような、人形のような整ったつくりで、くりっと丸い大きな瞳が不思議そうにおれを見つめていた。とんでもなく美人だった。想像していたより、ずっと。


 早く目覚めないかな、とずっと願っていた彼女が、こうして目を覚まし起き上がって、おれを見ている。そのことにとても感激して泣きそうになった。


「……あの……?」


 尚も話さないおれがよっぽど変に見えたのだろう、彼女は傾げていた首を反対側に傾げなおした。……か、可愛い……。


「い、いや、なんでもないです。おれは大丈夫。……それより、その、良かった。意識が戻って。……ずっと、心配していた」


 でれでれしている場合じゃない、とおれはなんとか言葉を振り絞った。途切れ途切れではあったが、言いたいことを言って大きく息を吐いた。彼女はおれの言葉を聞いて二、三度まばたきをし、そして花が開くように笑った。もっと的確な言葉があるだろうが、おれには思いつかない。とにかく、綺麗に、嬉しそうに笑った。


「……ありがとう。あなたが助けてくれて、看病してくれたのだと聞きました。……その、『おかあさん』、から」


「……おか、あ、さん?」


 彼女の笑顔にうっとり見入りそうになったが、彼女の口から零れた単語におれは衝撃を味わった。『お母さん』とは、どこのお母さんなんですか!?


「はい、あの、そう呼んでくれって言われたので……」


 少し顔を赤らめて視線を外した彼女を見て、おれは犯人はお袋だと確信した。これは間違いない、お袋が彼女に強要したのだ、いずれ本当の『お義母さん』になるのだからうんたら……と。


 ―お袋ー! 何やらかしてくれてるんだ……!!!


後でどこまで話したのかを問い詰めなければ、とおれは訳の分からない使命感に駆られたが、目の前で彼女がおれを心配そうに見上げていたのに気づいて、はっと険しくなっていた表情を元に戻した。


「……やっぱり失礼だったんでしょうか……」


 明らかにしょぼんとしてしまった彼女を見て、おれは慌てて両手を振って否定した。


「いやいや、失礼なんかじゃ……! お袋が悪いんです、無理矢理でしょう? そう呼べって」


「いえ、あの、無理矢理、というほどでも……」


「本当にすみません、うちのお袋が。あなたのせいではないので、いやむしろ、お袋の言うとおりにしてくれてありがとうございます」


「い、いえ、そんなお礼を言われるようなことは……」


 ふと気づいたら、お互い頭を下げている格好になっていて、そろりと顔を上げたら目が合って、おかしくなってふたり笑った。何だか漫才みたいにやり取りし合って面白かった。女性とこんな風にテンポよく話せたことなどないおれにとってはすごく新鮮なやり取りだった。


 ひとしきり笑った後で、おれは再びしげしげと彼女の顔を見つめた。お袋の望みどおり『お母さん』と呼んでくれる彼女はとても優しい心の持ち主なのだと思う。可憐な外見でさらに中身も素敵だなんて、……完璧だ。


 おれの視線に気づいて、彼女も大きな瞳でおれを見つめてきた。長い睫毛で縁取られた、緑がかった茶色の不思議な色の虹彩。彼女の、名前は、確か……


「……アル」


 記憶を掘り起こして呟くと、彼女の大きな瞳が、更に大きく見開かれた。


「……何故、その名前を……?」


 彼女から言われていないというのにおれが知っているなんて、それは驚くことだろう。動揺している彼女を安心させるように笑って、おれは川岸で彼女を発見してからの話を語り始めた。あの、黒髪の美人のことを。


「黒い、髪の?」


 彼女が聞き返してきたので、女性が自転車から降りてきた(くだり)で話を中断させた。


「黒、というかちょっと群青っぽかった気がする。紺色っていうのかな? 長い髪で、えっと腰くらいまであったかな」


 身振りを加えながら説明するおれに、彼女は身を乗り出すように聞いてきた。


「瞳も、同じ色? 一重(ひとえ)じゃなかった? 切れ長の」


「あ、ああ。そうだったな。切れ長の黒い瞳だった。その人があなたのことを『アル』と呼んだんだ。『アル、どうしてこんなところに』って」


 彼女の勢いに押されて、おれは少し身を引きながら答えた。あの黒髪美人が彼女のことを知っていたように、彼女もあの美人を知っているのだろう。おれの言葉に彼女は考え込むように顎に手を当てた。眉間に少し皺を寄せた様子すら、可愛らしく見えるおれは何かの病気だろうか。


「……アーレリーだわ。地上に、いたのね……」


 彼女はそう呟いた後、再び勢い込んでおれに詰め寄ってきた。


「その人、他に何か言っていなかった? 何でもいいの、教えて!」


 いきなりぐいっと近づいてきた顔に驚いて、おれは上半身を後ろに反らせて逃げた。……くっつきそうなくらい近かった。キス、しそうなほどに。


 一瞬あの晩のことを思い出しそうになっておれは慌てて頭を振って煩悩を消した。今は彼女の知りたいことを教えなければ。深呼吸をひとつし、彼女を宥めようとその腕に触れた。彼女も乗り出しすぎたことに気づいたのか、少し恥ずかしそうにしながら体を元の位置に戻した。



 おれは彼女に話した。彼女が天使であると教えられたこと、川の水で冷え切っているから家に連れて帰って風呂に入れるよう言われたこと。羽が消えると息を吹き返すと言われて本当にそうなったこと。そして彼女を守る為に結婚しろ、と言われたことを。



「……け、結婚なんて、そんなどさくさにするものじゃないっておれは言ったんだけど、あの人はそうするのがいいって……」


 言い訳のようにおれはそう言って彼女を見たが、彼女は思いつめたように下を向いていて、表情が読めなかった。自分と結婚する話など気を悪くさせたかと焦り、おれは何か言うことはないかとほんの数日前の記憶を掘り起こす。


「えっと、あとは、そう、あなたが目を覚ましたらふたりで役所に来いって言ってたな。書類関係をなんとかするからって……え、あ、ちょっと!」


 おれの言葉を遮るように、彼女が再び、おれに詰め寄って来た。しかも今回は勢いが強く、彼女の体を抱きとめようとして一緒に後ろにひっくりかえってしまった。


「いたた……」


 腰と後頭部を畳に打ち付けてしまって痛みに呻いているおれの上で、彼女が焦った顔で言う。


「役所ってどこ? そこにアーレリーがいるの? 連れて行って! アーレリーに会わなくちゃ!」



 おれは彼女の腰に腕を回したまま、呆然と彼女の必死の表情を見上げていた。

 


 ―彼女の中で、おれとの結婚の話はあまり気に留めるほどのことではないらしい。


今彼女の脳を占めているのはあの黒髪美人。そうでなければこんな、密着した体勢が気にならないはずはないのだから。彼女の柔らかい体と体温、その重みに心臓をどくどく言わせているのはおれだけで、彼女はおれのことを全く気にしていないのだと、なぜか冷静な頭の隅で思った。


 ひどく、打ちのめされた気分だった。


 心臓を滅多打ちに殴られて、血がどんどんなくなっていくような気分。

 ひんやりと冷え切った頭で、おれは言葉だけは冷たくならないようにと細心の注意を払いながら口を開いた。


「……今は、ダメだ。役所はもう閉まっている時間だし、それにあなたはまだ外を歩けるような状態じゃない」


 じっと彼女の大きな瞳を見つめながら冷静に告げた。事実だ。彼女をあの黒髪美人に会わせたくないわけじゃない。おれの視線に真剣さを読み取ってくれたのか、彼女はしゅんとしながら頷いた。


 そのあからさまにがっかりした様子の彼女を、このまま力の限り抱きしめたかった。右手は彼女の腰の上にある。あとは左手を重ねるだけ、ちょっと動けばいいだけの話だ。……でもできない。彼女はおれのことをなんとも思っていないのだ。混乱させてはいけない、これ以上。


 おれは右手を渾身の力でもって彼女から離し、その細い肩に添えて起き上がるよう促した。その時になって彼女はようやく今の体勢に気づいたのだろう、ぱっと顔を赤らめて申し訳なさそうに体を起こした。


「……ごめんなさい、わたし……」


 彼女が照れた様子を見せてくれただけで十分だった。おれは少しだけ救われた気分がした。


「いや、いいんだ。あの、黒髪の、彼女のことは……あなたが、元気になったら一緒に行きましょう」


 ……結婚の話は、考えなくて、いいですから


 そう付け足すことはできなかった。あまりに落胆しすぎている自分を冷静に分析したら答えが出てしまっていたから。



 ―好きだ、と気づいた瞬間に、失恋していたなんて認めたくはなかったから。



 おれは彼女を安心させられるようにできる限りの笑顔で笑った。守ろう、と思った。彼女のことを、彼女が元いた場所に帰るか、ここで安心して暮らせるようになるまで。


 ……自分から、離れていく、その時までは。



「……私の名前は、アルシェネ、と言います」


 彼女はぼんやりとおれを見つめてそういった。お互い自己紹介をしていなかったことにおれもようやく気づいて、名前すら知らないのに結婚とか考えるなんて本当に馬鹿だ、と思った。


「……おれは、(さかえ)日向栄(ひなたさかえ)だ」


「はい。私のことはアルと、呼んでください、サカエさん」


「……栄、でいい。呼び捨てで。……アル」


「……はい、サカエ」


 冷静さを取り戻した様子の彼女はおれの名を呼び、笑った。おれはまた、錯覚に陥りそうになる自分を引き止めるために必死だった。……好きになってはいけない、これ以上。彼女は、アルは、おれから離れていくのだから……と。


 「さかえー、ご飯よー!」と、台所からお袋がおれを呼ぶ大きな声がして、おれは顔を上げた。アルを見ると『私はどうしよう』という顔をしていたので、おれは彼女に「もし立てるなら一緒に行こう」と言った。親父も挨拶したいだろうから、と。

 彼女はこくりと頷いて足を動かした。立ち上がるときに少しよろめいたので慌てて支えると、彼女は申し訳なさそうに「すみません」と言った。おれは「そんなことない」というつもりで首を振って、彼女を促し歩き出した。まだ不安定な足元を支えるように、そっと背中に手を回した。疚しい気持ちなんてない、と自分に言い聞かせながら。




……へたれです、ただの。微笑ましく見守ってあげてください(笑)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ