小話 はじめてのバレンタイン
ピーンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。昼食の後片付けをしていた手を止めて時計を見上げる。日曜の午後一時、一体誰が訪ねて来たのだろうか。慌てて手についた泡を水で流し、玄関に向かう。
「はい……」
「こんにちは、アーレリー」
「あら。アル……」
ドアを開けたらそこに立っていたのは、数ヶ月前に結婚した私の妹だった。正確に言えば血の繋がりはないが、昔からの付き合いで私を姉のように慕ってくれていたから今更違和感もない。旦那の日向さん曰く、「顔は似てないけど雰囲気が似てるから姉妹って言っても納得する」らしい。
にこにこと立っているアル――今の彼女の名前は葵だが、私はついアルと元の名前で呼んでしまう。それはアルの方も同じなのだが――を家の中に招き入れ、いつも一緒にいるはずの人がいないことに気づく。
「今日は一人で来たの? アル」
彼は過保護なくらいにアルを心配して、いつも一緒にいるのにと不思議に思うと、アルは笑って言った。
「そこまで送ってくれたよ? でも何だか仕事のお話があるとかで忙しいみたいで。電話くれたら帰りは迎えに来てくれるって」
「ふうん、そうなの」
まぁこの家でアルに何か危険が及ぶことも考えられないから、安心して預けたのだろうと察する。アルは人間から自分がどう見られているかに無頓着で、一人でうろうろすると訳のわからない男達に絡まれることも多い。日向さんの苦労はよくわかっているから、彼がアルにべったりなことに私も文句はない。
「それで? 何か用事があって来たのよね」
ダイニングに通してお茶を淹れながら尋ねた。後で書斎に篭っているおじいさまにも持っていこうと思って、棚にカップを取りに行く。
「あのね、バレンタインって知ってる? アーレリー」
「は?」
嫌な単語が聞こえた気がして振り返ると、アルは紅茶を一口飲んでにこっと笑った。
「好きな人にチョコレートをあげる日だってテレビでやっててね」
「……うん、それで?」
また変なことに興味を持ったのね、と半ば呆れながらテーブルに戻って話の先を促す。
「えーっと、『本命』には手作りチョコがいいって言ってたんだけど……。アーレリーは作り方わかる? 私、本で調べたんだけど、チョコレートってカカオ豆からできるのね。カカオ豆ってスーパーにあるかしら……」
「…………」
何も知らないって平和だわ、と子供の様に……いや、子供以上に無邪気なアルを見てため息を付いた。どこにバレンタインのチョコをカカオ豆から精製する女がいるか。
「アーレリー? どうしたの?」
ため息を付いた私に気づいたアルがきょとんとした顔で尋ねてくる。……ああ、いつもこんな調子なら本当に、日向さんの苦労は絶えないわねぇ。新しいこと全てにこんな反応するのかしら。苦笑いしながら根気良くアルの質問に答えていた彼の姿を思い出して首を振った。
「……あのね、アル。手作りチョコレートといっても、カカオ豆から作る人なんて普通はいないの。皆その辺で売っているチョコレートを一旦溶かして、別の形に作り変えてお仕舞いなのよ」
「えぇ、そうなんだ。じゃあ簡単なのね?」
「まぁ簡単ではあるけど……バレンタインなんて」
暖かい紅茶を一口飲んで気持ちを落ち着かせようとしたが、過ぎってしまった記憶が連鎖して苦々しい思い出が溢れてきた。
バレンタインなんて……なんて厄介な行事を人間達は楽しんでいるのだろう。
「――あーゆーのはやりたい人だけやったらいいのよ……誰も彼もを巻き込まなきゃ害はないのに……」
「ア……アーレリー……?」
「なんで私がチョコレートを配らなければならないの? 今年は絶対にごめんよ。何があってもチョコレートなんて……」
ぶつぶつ呟いている私をアルが不審気に見ているのは分かっていたが、嫌な思い出が一気に噴出してきて止まらない。
――バレンタイン。私にとっては一年で一番無くてもいい行事。いっそ消えてしまったらいいのにと思うくらいに。
あれは、そう。市役所に勤め始めて最初の二月。周りの顔色を伺いながら必死に人間に溶け込もうとしていた時期だった……。
*
『バレンタイン』というイベントがあることなど全く知らない私は、日に日に殺気立つ男女の気配を不思議に思っていた。近々何かがあるのかもしれないと思いつつ気配を殺して過ごしていたのだが、その当日に何が起こるのかがようやくわかった。
朝から飛び交うチョコレートの箱。部屋中に満ちるチョコレートの匂い。あまったるい笑顔の男性達にしたたかに何かを狙って笑顔とチョコレートを振りまく女性達。チョコレートを渡すことで何か女性にいいことがあるのかもしれない程度に状況を把握した私は、明らかにがっかりと肩を落としつつ、こちらを期待溢れる目で見つめる男性達の視線には気づかない振りをしていた。
……ところが。昼休みに外へ出ようとした私に、ひとりの男が縋りついて来た。何を言うかと思えば、「義理チョコのひとつもないと情けなくって仕方ないんだ」と。そう私に言ってくることが既に情けないだろうと思いつつ、「チョコをください」と直球で言われては波風を立てたくなかった私はどうしようもなく、その辺の店で売っていたチョコレートをその男性に買い与えた。
何故私が稼いだお金でこいつに物を買ってあげなければならないのかと思ったが仕方がない。女性達が期待しているように、私にも何かいいことがあるように期待するかとただため息を付いた。
「やったー! 神原さんからチョコもらったぞー!!」
役所中に響くように大声を張り上げたその男性にぎょっとしていると、役所中の視線が一気に私に集まった。
「おー、マジか! 本命か、本命なのかっ!?」
「いや、そんなはずはっ……神原さん、義理ですよねっ!」
「お前っ、何抜け駆けしてんだよ!! くそ羨ましいっ!」
……がやがやする会話についていけなかった。一体何が起きているのかと思って、年のいった、他の女子曰くお局の佐藤さんに必死の視線を送った。佐藤さんは他の女子には何かと厳しいが、私にはわりと優しい。化粧がけばくないのがいいと以前言われたことがあるが、そんなことはどうでもよかった。
「佐藤さんっ、今これは何がどうなっているのでしょう?」
「あら、神原さん。田中君にチョコあげたの? 本命とも思えないけど」
佐藤さんはおっとりと、でも楽しそうに笑っている。
「ほんめいって何ですか?」
「えっ、好きな相手ってことよ! バレンタインに本命チョコをあげたら告白してるのと同じなのよ! 好きですって! ……まさか知らなかったの? 神原さん」
驚いている佐藤さんよりも私のほうが驚きだ。いつの間にそんな話になっている。それに……
「本命……告白? じゃあみなさんがあげているチョコレートも全て本命チョコなのですか? たくさん配っていたようですが」
「ああ、あれは違うの、義理よ、義理チョコ。告白のためのチョコじゃなくって、なんていうのかしらねー。ポイント稼ぎよね、要は。バレンタインにチョコ渡して、ホワイトデーにお返しをもらえるように媚売ってんのよ、みんな」
佐藤さんがけらけら笑いながら、「ほとんど義理チョコよー! 男性はチョコを一個でも欲しいみたいだけどねー」なんて言っているのを笑えないまま見下ろして、
「……詳しい話を後で聞かせてください」
と言い置き、先ほどの男性――田中さんに歩み寄る。
田中さんを囲んでなにやら盛り上がっていた男性達は、私が来るのを見て輪を広げた。
「田中さん」
「あ、神原さんっ! 本当にありがとね! おれ大事に食うから……」
全開の笑顔で近寄ってきた田中さんに私は無表情で答えた。
「言っておきますがそれは完全なる義理チョコです。そもそもあなたに頼まれなければ買うこともありませんでしたし、本命ではありませんので勘違いなさらぬように」
瞬間、周囲の空気が凍りついたように止まったのを感じたが(実際に田中さんも周りの男性達もすべて固まったように動かなくなった)、ここまではっきり言っておけば後々の誤解も生まれないだろうと思っていた。
言うだけ言って私はすぐに踵を返して佐藤さんのところに戻った。ざわめきを取り返していく背後の視線を感じながら、私は『バレンタイン』と『ホワイトデー』について更に情報を収集しなければと考えを巡らせていたのだ。
休憩スペースで座っていた佐藤さんは笑顔を引きつらせていた。
「か……神原さん……すごく、すっぱりいったわねー、さすがよ」
佐藤さんはぼんやりと私を見つめながら手で何かを切るような動作をした。私は何を言われているのか分からずに首を傾げ、田中さんを振り返った。男性達に囲まれた田中さんは、まるで石像にでもなったように動かず、「お前が無理に抜け駆けするから!」「自業自得だ、この!」「やべー、おれ無理に行かなくてよかった」「やー、田中、お前よくやったよ。おれじゃなくてよかった」などの慰め(?)の声を掛けられていた。
「あれ~どうしたの? 何かあった?」
その時、暢気な声を掛けながら入ってきたのは総務部の部長だった。温和で陽気な人だが仕事ではほとんど役に立たない。能力が無いのに部長とはどうして、と思いつつも何も言わずに距離を保ってきた人だ。
部長は大きなお腹を揺らしながらニコニコとやってきて何故か私の前で止まる。……なんだというのだろうか、今日は。
「あ~、神原くん? 君はここへ来て一年目だよねぇ? 知ってる? 一年目の女の子はねぇ、初めてのバレンタインは男性職員全員に義理チョコを配るって慣習があるんだよ~」
「は?」
……何なのそれ? 何なのそれ。
思わず自問しながらあまりのことにぽかんとしてしまう。そして部長のこの、間延びした語尾が妙に腹立たしいのは何故だろう。
「あれ~? 佐藤さん教えてあげなかったの~? どうして~。毎年のことじゃない~」
「だってそれは男性の間で勝手に言っていることでしょうが。そんな身勝手な慣習、押し付けないでほしいわね」
さすがは長年勤めているだけあって、佐藤さんは部長にも厳しい声を掛ける。後で知ったことだが実は同い年らしい。
――何なのだ、慣習? バレンタインに男性全員にチョコをあげる? この私が? 私のお金で買って?
「え~。財務部の小川ちゃんも、食堂の荒川さんも配ってたよ~? 神原くんだけ配らないってのもねぇ~?」
にやにやと笑いながらこちらを窺う部長の視線に私は無言で立ち上がった。言いたいことは分かった。
「……わかりました。用意します」
デスクに置いておいた鞄を引っつかみ、私は出口に突き進んだ。ぽかんと口を開けたまま道をあける周囲の視線に気づかない振りをして。
こうした突発的な行動をしたことは実は今まで無かった。だがどうしようもない苛立ちと吐き出したい不満が爆発しそうで、立ち止まってなどいられなかった。あの下卑た部長の笑いを見ていたくなかったのもあるし、とにかくここから一刻も早く出たかった。
……何なの!? なんて面倒なの人間って!!
ああ、今すぐ宮にある鍛錬専用の施設に行って、蹴っても蹴ってもダメージの無いあの不思議生物を何時間でも蹴り続けたい。千切れるものなら粉々になるまでちぎりたい(でもあの生物はぽよんと弾力があるから多分ちぎれない)。
この世界にあるものは脆すぎでダメだ。公園にある細い木など本気を出して蹴れば粉砕できてしまう。いっそやってみたくもなる今の気分だが、そんなことをしては事後処理が面倒すぎる。……ああ、なんてイライラするの!!
その後の行動は単純な話だ。
市役所から程遠くないところにチョコレートを売る店があることを知っていたのでそこに向かい、片っ端から買い集めて戻り、言われた通り男性全員にチョコを配ったのだ。それこそ部長、課長から普通の職員、果ては掃除をするおじさんまで全て。
無表情でチョコを差し出す私に、呆気にとられて受け取る部長。そのぶよぶよのお腹を蹴飛ばしてもいいですか、と口を開けば出てしまいそうだったので何も言わなかった。
「うーん、いいキレっぷりね。神原さん、私これからもあなたを応援するわ!」
何故かそんなことを佐藤さんに言われ、佐藤さんの私への態度はそれ以降ますます良くなった。仕事でもたくさん助けてくれてそれはいいことだったのだが……。
*
「……思えばあれが、私が初めて”キレた”日だったのよね……。あそこまで気持ちが制御できなかったのは初めてで、ちょっと戸惑ったわ」
持っていなかったはずの感情がどこからともなく湧き上がるのが不思議だった。人間に囲まれているうちにどんどん近づいている自分が不思議で。それが怒りや不満といった負の感情であっても、わきあがってしばらくすると収まってしまうのも面白くて。この先どうなるんだろうかとちょっとわくわくしたのも、そういえばあの日の夜だったっけ。
「きれる? 切れるってなにが?」
「あー、知らないなら別にいいんじゃないの、そうね、日向さんもキレそうにはないしね。無縁かもよ、この言葉とは」
「ふうん?」
「あ、ほら、沸騰させてはいけないのよ、生クリームは。よく見てて」
「あっ、うん、大丈夫!」
だいぶ過去になりつつある思い出を回想しながら、私はアルとチョコレート製作に取り掛かっていた。
職場でのバレンタインはあの年以来一切知りません、という態度を貫いていて(とはいえ物欲しそうな視線は毎年感じてうざったい)、別に渡す相手もいないしと思っていたが、アルは別だ。バレンタインに日向さんに渡すためのチョコレートを作りたいというのだから、仕方がない、姉の私が協力しなければ。
「小さな泡が立ってきたよ! この後はどうするの?」
「さっき刻んだチョコレートを入れて溶かすのよ」
「わかった!」
私達は簡単なトリュフを作ることにした。多少形が歪んでもココアパウダーで誤魔化せるし、初心者向きだろう。
生クリームの中で溶けていくチョコの香りがキッチン中に広がる。にこにこ笑いながらチョコレートをかき混ぜるアルは何を考えているのか。きっと食べてくれたときの日向さんの顔を思い浮かべているのだろうと、ふっと思った。
……渡したい誰かの顔を思い浮かべて作るなら、バレンタインのチョコも別にいいかもね。
不意にそう思って私は残ったチョコレートの塊を見る。……うーん、足りそうね。
棚を開けて調理器具を出し始めた私にアルが尋ねてくる。
「アーレリーも何か作るの?」
冷蔵庫にはバターと卵。小麦粉もココアパウダーもある。
「ええ、チョコレートケーキを焼くわ」
不思議と清清しい気持ちで笑えた。バレンタインが近づく度に、男性の視線に辟易して気疲れしていたけれど。今年はそういうものを一切無視してただ、贈りたい人の顔を思い浮かべて。
「わぁ、ケーキ? でも誰に?」
無邪気に聞いてくるアルの笑顔が眩しい。多少は言葉を包むことも教えないといけないかしらと思いつつ、苦笑して答える。
「もちろん、おじいさまに、よ」
ホールで焼いて半分はあなたのお持ち帰りよ、と心の中で思いながらそれは帰りまでのお楽しみにと言わないでおく。手早く材料と器具を準備して腕まくりをする。時刻は二時前、三時のおやつに間に合うかしら?
「ふふふ、なんだか楽しいね、お菓子作るのって!」
チョコレートの鍋をかき混ぜながらアルが言った。トリュフの完成にはまだまだ遠い。これからこれを冷やして固めた後で丸く成形するのだ。どうせアルのトリュフは明後日のバレンタインまで冷蔵庫にしまわれることになるのだろうし急ぐこともない。でも私のケーキは間に合うなら今日のおやつにでもしてしまおうと思っている。だってバレンタインなんて特別な日じゃなくたって、いつだって私はおじいさまにチョコレートを贈れるのだから。
「……うん、そうね」
バレンタイン当日には何か別のものを用意しようかしら、と楽しく想いを巡らせながら、手を動かしていく。今までのバレンタインとは全く違った特別な日になりそうだった。
「こんな風に間逆に感じられるなんてね」
――全く人の感情って面白いわ。
そう呟くとアルがこちらを見て微笑んだ。いつの間にか大人びた表情もするようになった、手のかかる妹分。
「……よかった、アーレリーがいてくれて」
脈絡もなく言われた言葉が妙に照れくさくて、でも今思っていた通りの言葉で。
「それはこちらの台詞よ、アル」
――あなたのお陰で、新しい感情をどんどん知っていくの。
二人で顔を見合わせてふっと笑うと、またそれぞれの作業に戻る。
穏やかな時間が流れる日曜の午後。甘いチョコレートの香りの向こうに、大切な人の笑顔を思いながら。
やー、バレンタインぎりぎりで間に合いました!!(やった!)
ところが葵の話と思いきや…アーレリーのお話になりました(計画性がまるでない)。
いや、アンナさんならバレンタインにいやーな思い出ありそうと思ったら、しゃべり出してしまって(苦笑)
女の子二人でお菓子作りとか、可愛いですよね。この後栄くんは葵のチョコレートを貰ってものすごく喜ぶんでしょうね。目に浮かぶようです。
葵さんが義理チョコの存在を知らないため、お父さんにはチョコレートはいかなそうです(苦笑)アンナさん、教えてあげて!!
期待したとおりラブラブあまあまな話にはなりませんでしたが(笑)うちのバレンタインはこんな感じでございました。
本編再開まで今しばらくお待ちください!(何とか目処がつきそうなところまで来ました)お気に入り登録してくださっている皆様本当にありがとうございます!!




