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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
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小話 氷の王子と暗黒魔王


 それは、おれが高専生一年、洋一が高校一年の夏のある日のことだった。


「あれ、栄。買い物?」


「おう、洋一。今帰りか?」


 スーパーの駐車場でばったりと会ったおれたちは、お互い頷きあってそのまま連れ立って店内に入っていく。中学時代はほとんど一緒に過ごしていたから、高校が分かれてもこうして落ち合えば自然と一緒に行動する。違和感なんて全くない。むしろ会って声かけて、じゃあねっていうほうがおかしいような、そんな関係。

 それぞれカゴを手にして店内をうろうろする。おれは学校帰りにちょこっとおつかいを頼まれているだけだが、洋一は本格的な買出しだ。花屋を営んでいる洋一のお母さんは花には詳しくても料理はからっきしで、物心ついたときにはもう洋一は自主的に料理の勉強を始めていたらしい。今ではプロ顔負けの料理の腕で冷蔵庫を支配し、また明晰な頭脳で家計を一手に握り、台所の主と化している。


「栄、お前の家今日おかずなに?」


「うーん、何だろな。でもなんか賞味期限間近のラーメンとかになりそう。お袋が冷蔵庫の中身整理するって言ってたから」


「はは、暑いのにラーメンか、じゃ僕はそうめんにしよう。冷たいヤツ」


「うわ、ずるいな。じゃあおれ食べに行こうかな、洋二の分」


「ははは、あいつ泣くぞ」


 他愛のない会話をしながらそれぞれ目的のものを買い、ついでに買ったアイスを齧るべく外へ出た。


「あっついなぁー、毎日。早く秋にならないかな」


「そうだな……。ん? 何だ、あれ」


 暑い日の夕方にはソーダ味のアイスを齧るのがうまい。まぁ正直アイスなら何だっていいけれども。制服の襟をつかんでパタパタさせている洋一に相槌を打ちながらふと眺めた視線の先に、なにやら人だかりがあった。

 おれと洋一は顔を見合わせ、ただの興味本位でそちらに近づいていく。


「……うわぁ、何こいつら」


 ぼそっと呟いた洋一の表情は、いつもの美麗顔はどこへやら、嫌そうに歪んでいた。

 それもそうだ、人だかりの先にあったのは所謂ヤンキーの集団。なぜわざわざそういう格好を、と突っ込みたくなるような大してセンスのよくないシャツやズボンを着込んだ勘違い野郎共が数人、なにやらもめている。遠巻きに見ている人たちは一様に眉を顰め、関わりを避けるように去っていく人が半分、残り半分はにやにやと状況を見ている状態だ。


「……帰るか」


 見ていても面白くないし、と踵を返したおれの耳に、小さな声が聞こえてきた。


「にいちゃんっ……!」


 一瞬おれは洋一と顔を見合わせたが、どうやら空耳ではなかったらしい。ヤンキーの集団をよくよく見ると、中央に見覚えのある顔が蹲っている。小学六年生の洋一の弟、洋二だった。ランドセルを背負ったままで、半べそでこちらを見ている。


「……よーじ……なんでこんなところで」


 洋一は頭を押さえてふう、とため息をついた。


「何でいつもトラブルに巻き込まれてるんだ……」


 長年この兄弟と付き合いがあるおれは「それはちょっと同感だ」、と心の中で頷く。この兄弟の面白いところは、しょっちゅうトラブルに巻き込まれる弟と、何故か必ずいいところで助けに入れる兄、という組み合わせにある。よくもまぁ毎回やらかすなぁと洋二の不運ぶりには苦笑いしかないが、どこぞのヒーローか、とでも言いたくなるような洋一の助けに入るタイミングのよさは拍手を送りたくなるほどだ。洋二は兄のことを半ば本気でヒーローだと思っている。……多分。


「栄、ちょっとこれ持ってて」


 洋一はそう言って買い物袋をおれに手渡してきた。さっき買ったばかりのものをぐちゃぐちゃにしたくはないからだろう。だが渡されてしまうとおれは加勢に入れない。


「いいよ、すぐ済むから。栄は洋二を確保して」


 おれの内心を読んだようにそう言って、洋一はすたすたと集団に近づいていく。あー、あれは若干キレ気味の顔だなぁなんて思いながらおれはその後をゆっくり追っていく。多分時間が気になっているんだろうな。夕飯が遅くなっちゃうとか、もうすぐ暗くなっちゃうとか。

 ……大怪我しないように上手く避けろよ、相手共。と心の中で合掌し、おれは野次馬達を掻き分けた。


「何だ兄ちゃん、なんか用かー?」


「うっわお前男だろ? うひゃひゃ女みてー!」


「はは、何しに来たんだ? まさかこのガキ助けに来たとかいわねーよな、ヒーロー気取りかよ」


「んなひょろひょろじゃなんもできねーだろーよ」


 がっはっはと大笑いで洋一を迎えた男共に、おれはもう一度合掌した。……あーあ。押さなくてもいいスイッチ押したぞ。


「……で? 洋二。何でこんなことになってる? 簡潔に説明して」


 無言で立っていた洋一は男達の言葉を完全に無視して洋二に話しかけた。背中しか見えていないけれど、顔は多分笑顔だ。その笑顔が綺麗なほどに怖いのだけれど。


「にっ、にいちゃ……! えっと、友達がっアイス食べようって、それで買って食べてたんだけどっ……! 歩いて食べてたらこの人に……」


 と、洋二の隣を見れば隠れていたがもう一人、子供が小さくなっていた。小学生で買い食いかよ、と突っ込まずにはいられないがそこは仕方がない。

 洋二の視線を追って近くに立っていた男のズボンを見ると、まぁよくある話だ、バニラアイスの溶けたのがくっついていた。ただしべっとりついているわけではない。ちょっと洗えばすぐに落ちそうなくらいの量だった。


「そーそー。このボクがな、おれのズボン汚しちゃったわけよ、兄ちゃん。どうする? クリーニング代とか出してくれるのかなぁ~?」


 にやにやと下卑た笑いを浮かべた男が洋一に話しかける。二人の会話から兄弟であると分かったのだろう。


「……お前からぶつかったのか? 洋二」


 洋一は男の言葉も視線も無視して、べぇべぇ泣き出した洋二を見下ろして聞く。洋二は一瞬泣き止んできょとんとし、勢いよく首を横に振った。

 それを見た洋一は「あー、そう」とか言いながらめんどくさそうに首を回した。完全にマイペースだ。


「おい、兄ちゃん、無視してんじゃねーぞてめぇ。どーすんだよ、このズボン!」


 無視されていると分かった男が洋一につかみかかろうとすると、洋一はその手をひらりと避けて腕を組んだ。そして普通の声音で何てことないように言う。


「……弟は自分からぶつかっていないと言っている。だとすればそれはあなたの不注意であって、こちらがどうこうする理由もないかと思いますが」


「ああん?」


「そもそも小学生の子供にですよ? こんな風に周りを囲んで脅して楽しいですか? どれだけ情けなく見えるかちゃんと分かってやってます?」


 ……おーおー、挑発するなぁ。おれは完全に外野の気分で思った。

 男達の顔から表情が消え、面白いくらいに殺気立ってきた。洋二とその友達を囲んでしゃがみこんでいた男達はゆっくりと立ち上がって洋一に近づいていく。洋一はすこしもたじろぐことなく尚も言葉を続ける。多分いつもよりも怖い笑顔でにっこり笑っているだろう。


「それにそんな安っぽいズボン、クリーニングなんかもったいない。お家で手洗いしてもらいなさい、おかーさんに」


「てんめぇ!!」


 殴りかかっていったのはズボンを汚された男だった。洋一はそれをひょいと避け、おれを振り向いて言う。


「――さて最初に殴ってきたのはこの人ですよね、みなさん見ました?」


 余裕綽々の笑顔で野次馬に同意を求めた洋一に対し、おれはうん、と大きく頷く。おれの背後でざわめく人々がどうしたか分からないが、あんな風に言われて頷かない人はいないだろう。とくに女性は。


「……ちっ、余裕ぶってんじゃねーよ!!」


 それが合図のように乱闘は始まった。洋一はすっと男の拳を避けると、するりと男達の間を抜けて少し離れた場所へ移動していく。


「洋二、栄のところへ走れ!」


 いつになく鋭く放たれた言葉に洋二はびくりと反応し、すぐに友達の手を取ってこちらへ走ってきた。おれの位置をちゃんと把握しているところが抜け目なく、その辺はさすが洋一の弟と言ったところか。男達は子供ふたりに興味を失ったのか見向きもしない。

 顔中を涙と鼻水でぐしょぐしょに濡らして駆け込んできた洋二とその友達を抱きとめると、洋二は安心したのか更に泣き出してしまう。目だけは洋一の動向を追いながら洋二の二人の頭を撫でてやると、驚いたことに洋二の友達は女の子だった。……あー、ほんと間抜けなくせしてよくもてるよな、洋二は。学校帰りにアイスを食べたいお年頃だよな、なんて遠い目になったのも一瞬、乱闘中の洋一を探すべくおれは目を凝らした。


「……っ、何だこいつ、強ぇ!」


 当たり前のごとく、数だけの男達は押され気味だった。洋一の見た目の細さに騙されて、殴る蹴るの一方的な喧嘩を予想していたのだろうがどっこい、突き出した拳はかわされ、捕まえようにもすばしっこくて捕まらない。踊るように優雅に男達の間をすり抜けながら繰り出される蹴り技に、いつの間にか急所を突かれ、少しずつ立っている仲間は減っていく。

 洋一は冷静そのものの涼しい顔でひとり、またひとりと蹴り飛ばしては移動する。多分蹴り技自体に慣れていないのだろう、いきなり顔の高さに伸びてくる靴底に驚いている間に気絶、もしくは脛をやられて悶絶、というパターンだ。

 洋一が蹴り技が好きなのには理由がある。拳で殴ると手が痛くなり、手を痛めると料理するにも勉強するにも支障が出るので蹴った方が楽だ、と言うのだ。そう言いながらにっこり笑った洋一を恐ろしく思ったが、かく言うおれも蹴るほうが好きだ。何しろ喧嘩して手を怪我したりしたら、親父の仕事を手伝えない。以前バスケでつき指したとき、指には気を遣わなければと心底思ったのだ。


 さてぼんやりしているうちに勝負はついたらしく、唯一立っている洋一の前には例の汚れたズボンの男が座り込んでいた。周囲には屍……ではなく、腹やら脛やらを抱えてのた打ち回る情けない男達がゴロゴロしている。もちろん致命傷は負わせていない。洋一はそういう部分も抜け目ないのだ。


「……さて。それで、どうします? クリーニング代、欲しいですか?」


 見下ろされた形の男は屈辱に顔を歪ませながらもまだ、洋一を睨み返していた。力の差を把握しているのかいないのか、まだやる気のようだ。


「おいっ! おめーら起きろっ!! こんなヤツ一人にやられてたまるかよ!」


 その怒声に反応した何人かが身体の痛むところを押さえながらも立ち上がる。おお、なかなか根性あるなぁなんておれは子供二人を抱えたまま観察を続ける。洋一は首の後ろに手を置いてまためんどくさそうにため息をついた。


「……ちょっといい加減にしない? 帰って夕飯の仕度したいんだけど」

 


「そもそもおめーの弟の不始末じゃねーか! 兄なら落とし前つけろよっ!」


「だからそれはそっちの不注意じゃないのって言ってるでしょう? 子供相手にどうしろって言うのさ。なんなら僕が洗ってあげようか、そのズボン。なら今すぐ脱いでよ」


 心底めんどくさそうな顔でスーパーのトイレの方角を顎でしゃくって示した洋一に対し、男は顔を真っ赤にして押し黙った。と、こちらに視線を投げてくる。睨むように見ているのはおれじゃなくて洋二……か?


「……くっそ、一発殴ってやんねーと気がすまねぇ! おいお前らガキを捕まえろ!」


 おー、今度は人質作戦か、手段を選ばないなぁ。バラバラと動き出した男達を視界に、おれは洋一に視線を遣った。洋一は静かにこちらを見ていたが、声に出さずに口だけ動かして言った。


『ま か せ た』


「……はいよ」


 自ら先陣切って走ってきたズボンの男が近づきすぎる前に、おれはゆっくり立ち上がりながら子供達を背に回す。洋二も女の子もおれのシャツを握ったまま離さないがまぁ問題ない。


「離れるなよ、洋二」


 ひと言言い置いて背筋を伸ばしたら、近づいて来た男があんぐりと口を開けてスピードダウンした。多分しゃがんでいたおれの身長が意外にも大きかったので驚いたのだろう。


「……っ!」


 少し離れた場所で立ち止まった男をおれは冷静に観察した。しゃがんでいたから分からなかったのだろうが、おれは親父の仕事を手伝ううちに自然とがっしり筋肉がついたし、背も最近にょきにょき伸びて百八十近くある。細身の洋一がものすごく強かったからおれはそれ以上だと思っているのか、一人で勝手にビビッているのが面白くてニヤけてしまいそうになるのを堪える。……ここは勘違いしてもらって自滅してもらった方がいい。


「……やるか?」


 できるだけ恐ろしく響くようにぼそりと低い声で言った。威圧するように睨んだら、果敢にも睨み返してきた。……おおやっぱり根性あるなぁ。その勢いを別の方向へ持っていったらいいだろうに、と人事ながら残念に思う。男は一瞬躊躇を見せたものの、おれの腰に張り付いている子供達と、両手の買い物袋を見て大して動けないと判断したらしい。にやりと口角を上げて拳を突き出してきた。


「おりゃ! 避けられるもんなら避けてみな!」


 自信たっぷりに繰り出された拳をおれは半身でかわし、回った遠心力でそのまま中段蹴りを放った。右足を軸に左足だけ自由に動けば一発入れられる。子供達に手を置けばなおさら軸は安定するから庇いながら攻撃できる。そう思って子供達は右側に寄せておいたのだ。


「ぐえっ!」


 体重の乗ったおれの左足は男の右わき腹から背中にかけて食い込んだ。苦悶の顔で倒れこむ男から子供達を避難させ、また背中にかばう。どさっと崩れ落ちた男はわき腹を押さえて悶絶していた。気絶させる程度じゃないが痛みで呼吸は苦しいらしい。そりゃそうだろ、最初から殴る蹴るの結果は痛いだけ、だ。


「……で? どうする。続けるか?」


 骨は折れてないだろうなぁとちょっと心配になりながらおれは男に言った。もうこれ以上続けるのは面倒なので、また勝手にビビッてもらえるようにできるだけ低い声を出す。

 すると男は完全に恐怖を貼り付けた表情でおれを見上げ、もがきつつも立ち上がって撤退を始めた。周りの男達もその男に従ってバラバラと逃げ出していく。定番の捨て台詞が聞けるかと思ったけれども男達は何も言わずにおれと洋一の顔をチラチラ見ながら逃げていく。できれば覚えていてほしくないなぁ、おれ達の顔は。


「栄、ありがとな」


 いつの間にか洋一が近くに戻ってきていて、制服についた埃を手で払っていた。


「おう、怪我はないな?」


 全ての攻撃を避けていたのは見ていたが一応確認した。洋一はふっと笑って頷く。……と、綺麗な笑顔も一瞬、すぐに冷たい表情になって未だおれに引っ付いたままの洋二を見下ろした。


「……洋二、兄ちゃんと栄にお礼言え。ったく、毎回毎回何だってこうトラブルに巻き込まれるんだ、お前は」


 洋二のランドセルを引っ張っておれから引き離し、洋一は礼を強要した。洋二も洋二で素直に頷いて涙を拭った。あーあ、まだ鼻水が垂れてるぞ。


「にいちゃん、栄にいちゃん、ありがとうっ!!」


 にかっと笑った洋二の顔を見て不思議と晴れ晴れしい気持ちになる。しょうもないトラブルに巻きこまれ体質の洋二だが、なんだかんだいっても可愛い弟分だ。洋一はふんっと鼻を鳴らし、至極不満そうな顔でハンカチを取り出して洋二の鼻水を拭っている。全く、そんな顔してたって弟を可愛いと思っていることは駄々漏れなんだが。


「……王子さま……魔王さま……」


 ……ん? と思って後ろを振り向けば、未だおれのシャツの裾を握ったままの女の子が、うっとりした顔でおれを見上げていた。なんか今……王子って聞こえた?


「やだー!! 洋二くんのお兄様かっこよすぎるっ! 本物の王子様みたいっ!! あのっ、王子さまって呼んでいいですか? いやだ、ただの王子じゃつまらないわ、そうね……『氷の王子さま』はどうかしらっ、ねぇ? 洋二くんっ!」


 勢いよく捲くし立てられた言葉の半分くらいは意味不明だった。なんだ……この女の子。洋一も洋二もぽかんとした顔で女の子を見ているだけだ。

 女の子は洋二に同意を求めていたがそれはどうでも良かったらしく、また更に言葉を続けた。


「そしてこちらのお兄さまは……『暗黒魔王さま』にそっくりだわっ……!! まさかこんなところでお会いできるなんてっ……!! 王子さま、魔王さま、助けてださってありがとうございます! ユリは本当にラッキーですっ!」


「「「…………」」」


 キラキラと目を輝かせて遠いところを見つめている女の子――ユリちゃんを、男達三人は無言で見守った。何だか……ついていける気がしない。暗黒魔王って……なに……?


「えーっと、ユリちゃん? お家はどこかな。近いのかな?」


 いち早く気を取り直した洋一が、現実的な話を振った。そうだ、よく分からないがとにかくお家に帰すのが一番だ。もうすぐ暗くなるしこんな女の子を放っておくわけにもいかない。


「まぁ! ユリの名前を覚えてくださったの!? はい、王子さま、お家はすぐそこです! ひとりで帰れますわ!」


 なんだかお姫様にでもなりきったような口調に、洋一は苦笑いで言う。


「もうすぐ暗くなっちゃうし、送っていくよ」


「きゃー! 王子さまが送ってくださるの? 魔王さまもご一緒かしら!? ユリ、幸せすぎて死んでしまいますわー!!」


「…………」


 『捨てて帰ってもいい?』

 『いやそれはダメだろう、流石に』

 『じゃあ栄に預ける』

 『それはやめろっ』


 おれと洋一は無言のまま目で語り合った。どうしよう、どうしたらいいんだこんなわけの分からない子。だらだらと流れていく冷や汗を感じていたら、未だに少し残っていた野次馬の外から、「ユリっ!?」と声が聞こえた。

 声の主は若い女の人だった。格好から見るにユリちゃんのお母さんだろう。


「あ、お母さん! ねぇ見てみて! ユリね、王子さまと暗黒魔王さまに助けてもらったのよ!」


 お母さんにもそのネタか……! と驚いていると、更なる驚愕が俺たちを襲った。

 ユリちゃんに近づいてしゃがんだお母さんが、ふと俺たちを見上げた。すると一瞬の間の後で先ほどのユリちゃんと同じうっとりした表情に変わったのだ。


「……まぁっ!! 本当、素敵だわ!! 王子ね、王子さまの顔ねっ! そして『暗黒魔王』そっくりだわ! すごいわユリちゃん!! よく見つけたわね!」


 親子二人は手を繋いできゃっきゃきゃっきゃ騒ぎ出した。……おーいお母さん、そっちへ行かないでくださーい。おれはなんとも言えずにうな垂れて立ち尽くした。


「おい、栄。母親が来たならおれ達は帰るぞ」


 おれの袖を引っ張って洋一が小声で言う。ああ、そうだな。家まで送ることもないな、と洋一に頷いておれ達は訳のわからないキラキラ空間からの離脱を図る。

 できるだけ気づかれないようにこっそりと距離を開けた後で洋一が、夢の世界にいる親子に向かって声を掛けた。


「あのー、おれ達帰るんで! さよならー!」


 そのまま走り出したおれ達の背中に、「やだー、もう帰っちゃうのー?」と黄色い声が掛かる。付き合ってられん、とばかりにスピードを上げた洋一に、おれは慌てて洋二を抱き上げてついて行く。足の長さの問題もあるが、洋一とおれの本気の走りに小学生の洋二がついてこられるはずもないからだ。

 と、洋二がずっと無言なのに気づいて走りながら声を掛けると、洋二はなんだかユリちゃんの豹変振りにショックを受けているようだった。その気持ちはわからなくもない。ぶつぶつ何かを言っている洋二を肩に担ぎ上げ、おれは買い物袋をガサゴソさせながら走る。


「おーい、何かあったのかー?」


 走っている途中で声を掛けてきたのはスーパーの店長さんだった。騒ぎに気づくのが遅すぎるよ、と思ったがすでに終わったことだ。


「何でもないでーす」


 と洋一が手を振ると「そうかー」と言って手を振り返してくれた。暢気な店長でよかったとおれ達はそのまま走っていく。駐車場で喧嘩してたとか補導の対象になるんだろうか。めんどくさいことはできるだけ避けたい。

 「待ってー!!」と後ろから声がしたのにぎょっとして振り向くと、あの親子が手を振りながら走って来る。ここで捕まってはと妙な焦りが働いてスピードは更に上がる。多分明日学校で洋二は質問攻めにあうんだろうな、とかどうせ家とかばれるよな、とか思わないでもなかったが、今はとにかく逃げなければという気持ちが先だった。


「栄、次の角曲がるぞ」


「おっけ」


 珍しく必死の形相した洋一に短く返事をして走る。

 変な事件だったけど、こうして走っていると何だか楽しく感じてしまうのはなぜだろう。肩に担いだ洋二は後ろを見る係りになってくれたようで、「にいちゃんもう追いかけてこないよ」なんて既に立ち直っている。


 ……本当に面白いなぁ、この兄弟。細身の背中を追いかけながらおれは込み上げる笑いをかみ殺すのに苦労した。




              *




「……で、ですよ? その後なんですけど、兄ちゃんと兄貴、近所で評判になっちゃって。実は『暗黒魔王』ってその時流行ってたアニメの敵キャラで、おれも後から見たら相当兄貴に似てて。兄ちゃんは兄ちゃんでカッコイイから二人揃ってスーパーとか学校とかで待ち伏せされて女の子に追い掛け回されて……思い返せば毎日走ってたなぁ……しかも全力疾走で二キロとか」


「ふーん……そうなんだぁ?」


「顔もカッコイイし喧嘩も強いしで。あの後から兄ちゃん達、『氷の王子と暗黒魔王』のコンビで恐れられてたんですよ、近くのヤンキー達に」


 ……ああ、そうだった。あの時のグループは実は近隣のヤンキー達のリーダー格の集まりだったらしく。おれが蹴ったズボンの男はリーダーの中のリーダーと言われていた男で(そのわりには弱かったが)、あの一件以来俺たちにはその後手を出すなと命令が下ったようで報復行為も一切なかった。ある意味ラッキーと洋一は笑っていたな。


 ――ってあれ? おれはなんでこんなことを思い出しているんだ?


 ぱちっと目が開いてがばっと起き上がる。縁側に足を出して座っている葵と洋二が、起き上がったおれに気づいてこちらを振り向いた。


「あー、兄貴起きたっすか」


「おはよう、栄。よく寝てたね」


 ……なんだ、転寝してたのか。そういえば直前まで葵と縁側で話をしていたのだった。しかしなぜ洋二が。


「焼肉食べたいって兄ちゃんに言ったら、兄貴に連れてってもらえって。ねぇ兄貴、焼肉行きましょうよー、葵さんも一緒に! ってか葵さん焼肉行ったことないってホントっすか? 行きましょうよー!」


 ……意味が分からん。なぜいきなり来て焼肉なのだ。しかもそれは誰の金で行くんだ。その流れはおれが出す羽目になるじゃないか。

 したり顔で笑う洋一の顔を思い浮かべる。……が、それよりも今は気になることが。


「……焼肉より先に聞きたいんだが洋二。さっきまで葵に何話してた?」


「は? 兄貴と兄ちゃんの武勇伝っすよ。葵さんが『氷の王子と暗黒魔王』って知ってる? って聞いてきたんで」


 きょとんとした顔でそういう洋二から、葵に視線を移す。なぜ葵がその名前を知っているのだ?


「葵? どこでその話聞いてきたんだ。洋一か?」


「え? あの、谷中さんだけど……。えっとまずかったかな?」


 ――谷中先輩。余計なことしか言わないな、あの人は。


 おれはすっと立ち上がり首の骨をゴキっと鳴らした。そしてふう、と息を吐き出して洋二を見下ろす。


「……洋二、焼肉に行く前に谷中先輩捕まえるぞ。んで洋一も誘って大人数で押しかけ、ヤツの財布をすっからかんにする」


 葵に余計なことを吹き込んだ罰としてこのくらいいいだろう。ふっふっふ、と思いついた名案に黒い笑みが零れる。


「兄貴、悪い顔してるー。でも了解っす! おれは谷中さんにナンパ必勝法聞きたかったんで丁度いいっす! 兄ちゃんに電話してくるっす! あ、電話借りまーす」


 バタバタと廊下を走り去る洋二を送り、さてどうやってヤツを捕まえるかとふん、と鼻息荒く気合を入れた。と、いつの間にか葵が立ち上がっておれを見上げてきていた。


「葵? どうした?」


 葵はじっとおれの顔を見上げ、首を傾げて言った。


「……魔王、降臨?」


「うっ……!」


 そんなに悪い顔してたのか、と思わず顔を覆ったら、葵は楽しそうにクスクス笑った。

 ……魔王なんて渾名、嬉しくもなんともなく、昔から微妙な気持ちでいたけれども。


「ふふ、怖くないよ、栄は」


 なんて言って葵が抱きついてきたから、まあいっかと目を瞑り、これ幸いと葵を抱きしめた。何だっていいさ、葵が楽しい気持ちになってくれるなら。

 おれに抱きついたまま葵はクスクス笑い続けている。何がそんなに面白いんだか、と息を吐いておれは葵の髪を撫でた。



ゆるーく小話更新続きます。次は何かなー。

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