小話 氷の王子の小さな秘密
「にいちゃーん、おれ、どうしたらいいんだろうっ!?」
発端は四つ年下の弟が、ガキみたいに半泣きで鼻水を垂らしてすがり付いてきてことだった。丁度閉店してシャッターを下ろし、さて今日の夕飯は何にしようかと考えていた時で。
「……何がどうしたらいいの、だ。相談したかったら筋道立てて説明しろ」
冷蔵庫の中身を確認し、メニューを考えながら言う。情けない面を全面に晒してくる弟に対しては、どうしても乱暴な口調になってしまう。いじめたくなるような顔をしている弟が悪いと思うが。
「うっ、うんっ! それがっ、兄貴のことなんだけど……!」
「は? 栄の?」
冷蔵庫の野菜室を開けっ放しにしたまま、思わず弟――洋二を振り返る。涙と鼻水でべしょべしょになった顔をまずどうにかしろ、と思ったがそれより気になる単語が出てきてしまった。
栄――僕の唯一無二の親友。相手がどう思っているかは知らないが、僕にとってはたった一人、心を許して話せる友人だ。洋二は何故か栄のことを『兄貴』と呼び、僕のことは『兄ちゃん』と呼ぶ。どう区別をつけているのかは知らないが、栄と僕とが兄弟になったような気がするから訂正させずにそのままにさせている。
「兄貴の、彼女さんっ、葵さんって言うんだけど、その人っ……」
「はぁ? 彼女?」
「こないだ家を出てっちゃったみたいで、それ、もしかしたらおれの所為かもしれなくって、だっておれが葵さんをデートになんか誘っちゃったからきっと、二人の間が……!!」
「…………うん?」
待て待て待て。……栄に、恋人、だと?
あの口下手で女の子苦手で、黙ってりゃカッコイイのにそれを自分では認めようとしない唐変木な栄に?
恋人が?
…………聞いてないし。
「……洋二」
「ふぇ?」
床にしゃがみこみ、半泣きでわぁわぁ何かを言い続けている弟を見下ろして呼んだ。洋二は間抜け面100パーセントでおれを見上げてくる。
「……大丈夫だ、十中八九それはお前の所為じゃない。まぁ気になるならコトの真相を僕が聞いてくるから、とりあえず泣き止め」
「……う、うん。兄ちゃん、ありがとう!」
栄に恋人ができていたとして、その彼女と上手くいかなくなった理由がこの愚弟にあるなんてありえない。まずそれだけは断言できる。だからとりあえず、このまま泣かせていると正直煩いので洋二には黙ってもらう。……それよりも、栄だ。
なぜ恋人ができたことをこの僕に黙っているのか。
……問い詰めてやる。
「覚悟しろよ~、栄!」
ダンッと包丁を叩きつけるようにキャベツを切ったら、近くにいた洋二がビクンと肩を震わせた。そろりとこちらを窺う様子が感じられたが気にしない。大事なことを黙っている栄に対する鬱憤を投げつけられ、無残にもザクザク切られたキャベツはその後、塩ダレドレッシングを掛けただけのサラダとなって腹の中に消えた。
*
……いやはや、びっくりした。
まず正直な感想はそれだった。
栄を問いただすぞ、と気合を入れて配達途中に寄った建築現場。最初はつい手が出てしまったけれど、後は努めて冷静に話を聞いたつもりだ。まぁ途中、あまりの栄のだめっぷりについ、キレてしまったのはご愛嬌だろう。
しかし……本当に栄に彼女ができていて、しかもその彼女が……天使、とか。
「あいつの話を信じてないわけじゃないけど、本当かな……」
パチンパチンと切花の茎の先を鋏で切り落としながら呟いた。考えながらも手は勝手に、花束の形へと整えていく。
洋二が会っている以上実在している人物な訳で、栄が妄想という病にとり付かれたわけでもなさそうだ。『天使』という言葉だけが妙に非日常ではあるが、まぁ諸事情あってそう言い張っているのかもしれないし(羽がどうこうとか言ってたが、それもまぁ……目の錯覚、とか)。そこに目を瞑ってしまえば……。そもそも栄が好きになって、そしてあの栄と普通にお話をしてくれる女性だったらもうなんだっていい。よろしくお願いします、と熨斗をつけて送り出してやろう。
ばさりとセロファンで覆い、仕上げのリボンを掛ける。幅広のと細いのと、二つ一緒に掛けたら可愛いかな、なんて考えながら手を動かし、栄はあの即席で作った小さな花束をどんな顔をして渡したのだろうかとふと思った。
栄がちょくちょく入れてくれる報告によれば、『天使の葵ちゃん』は未だ友達の家にいて戻ってきてはくれないらしい。「それでも諦める気持ちはないんだ」なんて一丁前に男らしく告げてきたあの声を思いだすとついにやけてしまう。地を這うほどに情けなかった栄が一皮向けて男になっている。まったく手のかかる友人だよ、と苦笑しながらも花束は完成した。
「……あの、すみません」
カラン、と店のベルが鳴ると同時にドアが開き、控えめな声が響いた。ドアの隙間から顔を出して店に入ってきたのは、初めて見る顔だった。
「いらっしゃいませ」
配達もしているし年中店にいるので、商店街に買い物に来るようなご近所さんの顔は全て頭に入っているが、今入ってきたお客の顔は見覚えがない。というより、この辺にこんな美人……いや外人さんいたっけか、と思わず二度見したくなるほどの美人だった。が、そういう下世話な感情は全て営業スマイルの下に隠す。
「……こちらに、花の苗はありますか?」
おどおどと小さな声で尋ねてくる目は、茶色のような緑のような、不思議な色彩の瞳だった。茶色のくるくるとした巻き髪は染めたような色ではなくて透明感のある自然な輝きを放ち、彫りは深くないものの顔立ちははっきりとしたもので、何より零れんばかりの大きな瞳と小さな唇が美しい印象をいや増していた。鮮やかなオレンジのワンピースが違和感なく馴染んでいるのは顔だけでなくスタイルもほっそりと美しく、また姿勢がいいからだった。
まっすぐに僕を見つめてくるその視線にも、その口から出る流暢な日本語にも内心驚きながらも返事を返す。
「ああ、苗もありますよ。種類は何をご希望で?」
花の苗は店の外に出してあったので、手で促して一緒に外に出た。彼女が身を翻したとき、花とも果実とも言えない芳しい香りが鼻腔をくすぐった。
「えっと……ひまわり、はありますか?」
「向日葵、ですか」
申し訳なさそうにもじもじと言う彼女に、こちらも申し訳なく返す。
「向日葵は、今咲いている花ですから……苗はないんです。あるのは切花くらいで」
「……そうなんですか……」
みるからにがっくりした様子の彼女を見ていたら、普段だったら掛けない声を掛けてしまっていた。
「えっと、庭に植えたい、とか?」
「え? ……はい、そうです。……でもよく考えたら無理ですよね。今咲いている花なのに、今から植えたって間に合わないし」
自分の考えに苦笑する顔すらも太陽の光の下で輝いて見える。どこまでも控えめな様子が好感度を上げていく。
「残念ながらそうですね。向日葵なら種を蒔いておけば結構簡単に育つ花ではありますが……あ、でもよかったら」
普段なら絶対にこんなことを言わない。そもそも若い女性客に対しては一歩引くのが常の僕だ。こんなに積極的に会話しようと思えるのは稀だ。
「家の裏手に咲いている向日葵をお分けしましょうか? 鉢にいれて土ごと持ち帰って植え替えていただければ……といってもそんなに多くはないんですが」
この人がうんと言うなら向日葵を全部掘り返し、バンで配達してあげても構わない、そう思った。だが彼女は僕の言葉を聞いて一瞬目を輝かせたがすぐに首を横に振って身を縮めた。
「いえ、いえっ! そんなことしていただかなくてもいいんです! ……ただの、我侭、なので……いいんです」
しゅん、と萎れてしまった花のようにうな垂れた様子に訳も無くうろたえるが、掛ける言葉が見つからない。
「あの……」
「すみません、ご親切に言っていただいたのに。でもやっぱりいいです。庭に咲くひまわりを見たいなんて、本当にどうしようもない我侭なんです。あの家に、帰れば……いつだって見られるのに……」
「……?」
「ごめんなさい、邪魔をしてしまって。私……そもそも自由になるお金はあまり持ってなくて……」
僕が訳も分からず首を傾げている間に、彼女は自分の中で気持ちを整理したらしく、鞄の持ち手をぎゅっと握って申し訳なさそうに頭を下げた。
『自由になるお金』がいかほどかもわからないが、確かに苗を買うつもりだったのなら切花を買うより安い。種ならなおさらだ。僕が向日葵を「お分けする」と言ったのはもちろん無料で、という意味だったのだが、彼女はそうは受け取らなかったようで、しょげたように肩を落とす様は全く演技ではないと思えた。
……本当に、こんな人もいるんだなぁ。こんな純粋な人も。
「ただの我侭だから」、と彼女は言うけれど、人が動く理由のほとんどが実は『ただの我侭』なんじゃないかと思う。僕がさっき考えたことも、今こうしたいと思うことも、全て僕の我侭。……だから。
「……なら花束を作りましょう。ちょっと待ってくださいね」
「え……?」
戸惑う彼女を再び店内に促し、僕はあちらこちら動き回って花を集める。赤いガーベラをメインにカスミソウを寄せ、彼女に似合いそうなピンクや白のバラも入れてしまう。そして最後は小さな向日葵も。
あえてセロファンで包まずに、感触の優しい不織布でさらりと包んでリボンを掛けた。ガサゴソ音がするのは大人しい彼女に似合わない気がして。
「はい、どうでしょう?」
ささっと作った小さな花束を手渡す。途端にぱっと華やぐように零れる笑み。その純粋な笑顔が嬉しい。
「わぁ……! 素敵……!」
彼女は大きな目を輝かせてひとしきり花束を見つめていたが、ハッと我に返り僕の顔を見た。
「えっと、すみません、おいくらでしょうか?」
「いえ、ただの寄せ集めですし。僕が勝手に作っただけですから、もらっていただければ」
ふっと苦笑しながら僕は言った。本当は寄せ集めでは無く、結構高いバラも入っている。でも御代はもらわないつもりだった。彼女にはもう、お金よりも素敵なものをもらっていたから。
「えっ、でもそれでは私……」
「いいんですよ、小さな花束ですし遠慮なさらず。あなたの笑顔は十分、報酬に値してますから」
自分でもくさい台詞だなと思いながら本心からそう告げる。にっこりと、営業スマイルではない笑顔で。……なぜそんなことをするのか、高揚する気持ちが知っているような、いないような。
彼女は一瞬きょとんと僕を見て首を傾げ、その後ぺこりと頭を下げた。また、優しい香りがふわりと舞った。
「……ありがとうございます。……ふふふ、前にもらった花束に似てる……。」
それはどこの誰にもらった、どんな花束ですかと思わず聞き返したくなったのを堪え、笑顔のまま彼女を見つめていた。感情を抑えることは得意だ。誰にもそれを悟らせないように感情を隠すことは。……こんなときにはむしろ、出してしまったほうがいいのかもと思ったけれども。
「本当にありがとうございます。また来ます」
何度も頭を下げながら、彼女は店を出て行った。翻ったオレンジ色のワンピースの裾が、鮮やかな花の花弁のように目の中に残る。
「はい、またどうぞ。お待ちしています」
気持ちを込めてそう言って、去っていく後姿を見送った。こんな風に客を見送ったのはもしかして初めてかもしれない。こんな清清しい気持ちで見送れたのは。えもいわれぬ満足感が胸いっぱいに広がり、ため息とともに思わず吐き出した。
「……僕の顔に見惚れなかった女性なんて……初めてかも」
ものすごく自惚れの強い台詞に聞こえるが、大げさに言っているわけでも自慢したいわけでもない。ただ事実として、ほとんどの若い女性客が最初は純粋に花を買いにくるのに、僕の顔を見た途端、まじまじと見つめてはぼんやりする。そして必ず真っ赤な顔をしてこう言う。「美人ですね」と。その後うるうると期待感溢れる視線を残し、もじもじと去っていく。
美人、は僕に対する形容としてまぁ確かに間違っているとは言えないが(もう一度断っておくが自慢ではない、事実だ。)、僕自身誰にも彼にもそう思われたいわけではなく、この顔を持っている所為でこれまで要らないトラブルに散々巻き込まれてきた。それも全て、女性関係のトラブルだ。
中学、高校の頃から、知らないところで僕の彼女だと言い張る女の子同士が大喧嘩していたり、ストーカーに遭ったり。彼女を盗られたと男が殴りこみに来たり。この手の問題が絶えず起こっていた。だから起こるトラブルの元凶が僕の顔で、僕が余計に女の子に気を遣うところだと気づいてからは、極力女の子との接触を避け、且つ無駄に惚れさせることのないように気を遣ってきた。
でも先ほどの女性のように、僕の顔をはっきりと見ておきながら顔色一つ変えず、思わせぶりな笑顔で笑うこともないような女性は、記憶を探る限り初めてだと思う。最初から最後まで、彼女は僕に興味を示さず、純粋な言葉と笑顔で去っていった。
「……また、会えないかな。どこに住んでいるんだろう」
僕に興味を示さなかった人に惹かれるなんて、と苦笑しながら零す。好きになった、とはまだ言えない。ただ、興味がある。向日葵の苗を欲しがった彼女に。
和やかな気持ちで時計を見上げ、花束を予約した客が見える時間だと、緩んだ頬を引き締めた。
*
幸せなため息とともに抱いた願望は、意外なところで叶うこととなった。
婚約者を紹介するからと栄に呼ばれて行った日向家で、“向日葵の彼女”は当たり前のように栄の隣で微笑んでいた。
「……あ」
……ああ、彼女が『天使の葵ちゃん』だったんだ。
何だか妙にすとんと納得できて、自分らしくもなくぼんやりしてしまった。
……そうか、彼女だったのか。
栄を変えたのは、この人だったんだ。
彼女は僕を認めた途端やはり声をあげ、「あの時の親切なお花屋さん」とにっこり笑いながら頭を下げてくれた。隣できょとんとしている栄が面白くて、僕はあえておちゃらけて言う。
「初めまして、じゃなくないけど、僕は斉藤洋一。栄とは小学校より前から一緒の悪友だよ。栄は口下手だし要領悪いしいろいろ大変でしょ? 何でも相談してね、葵さん。よろしく」
栄から紹介される前に名乗って呼びかける。だって『天使の葵ちゃん』の話なら、お腹一杯聞いている。あんなに口下手で女の子が苦手だった栄を変えた『葵ちゃん』が、どれだけ素敵で魅力的な女性なのか僕は十二分に知っているのだ。
「はい、私はえっと神原葵、です。よろしくお願いします、洋一さん」
自分の名前を何故か言いにくそうにして頭を下げた彼女を不思議に思いながら、隣でやに下がった顔をしている栄を見た。
……ホント、よかったな、栄。
「急だけど十月の末に式を上げることにしたよ」と照れながら言う栄に心からの「おめでとう」を伝える。
「……それで洋一、ちょっと相談があるんだけど……」
目の前で寄り添う二人の間には、お互いを信頼して好意を寄せる自然で温かい空気があった。
「結婚式のときにさ、こう花束のプレゼントをしたいんだよ。家の両親と、葵の家のおじいさんに」
栄は身振りで大きな輪を描いた。
「それくらい大きな花束を贈りたいってこと? いいよ、僕が準備してあげる」
花屋の本領発揮でお安い御用だ。あっさりと僕が受けると、栄はほっとした様子で胸を撫で下ろした。
「ありがとう、洋一。おれ、花とか良くわかんないから、全部任せるけどよろしく」
……しかし本当によく笑うようになったな、と目じりを下げて笑う栄を見て思う。僕の前ではわりと笑っていたけれど、元々の性格故か、他人の前で笑うことは滅多になかったから。口数が少なくて表情も変わらなくて、その中の気持ちを探るのが僕の役目だと思っていたのだけれど、それもそろそろお役御免、なのかな。
「洋一に任せたら安心だから」とかなんとか、適当なことを言っている栄から、葵さんに視線を移す。
あの日着ていたオレンジ色のワンピースは、今でも瞼の裏で鮮やかに翻る。
あの時の彼女はあまりにも印象的で、綺麗で。だから僕の心の中に、小さな想いの芽が芽吹いたって誰にも責められないだろう。
偶然にも彼女は僕の店に来て、僕は花束をあげた。あの花束は僕の下心の表れではあったけれども、彼女があの時誰を思っていたのかは今ならはっきり分かる。
栄の隣で楽しそうに笑う彼女。相変わらず純粋で、裏表のない笑顔に見ているこちらが癒される。
……でもその視線も、声も、思いも、何もかもが栄の方向に向いているのがはっきり感じ取れる、だから。
もしも栄よりも僕のほうが早く彼女に出会ってたらと思わなくもないけれど、あの時出会ったのは、僕がいいなと思ったのは栄に出会った後の彼女だったから。栄を想って寂しげに笑う彼女だったから。だからやっぱり、この小さな想いはこのまま、消えてしまうまでしまっておこうと思う。そもそも咲く前の想いだ。栄の婚約者と知ってそれでも思い続けるような馬鹿じゃない。
……むしろ、こんな純粋な人に栄を任せることができてよかった。逆にこの純粋な人に寄り添うのが栄でよかったとも。
僕は今はまだ、少しだけ複雑な思いも抱きながら、それでも心から告げた。“幸せ”を体現するふたりに。
「……栄、葵さん。本当におめでとう。よかったね」
返ってきた二重の「ありがとう」と輝くばかりの笑顔に、ちょっとだけ泣きそうになったことは、絶対誰にも言えない秘密だ。
ご無沙汰しております。
今回は番外編、洋一にスポットをあててみました。
葵に出会った洋一さん、うっかりちょっと好きになってしまいましたが(予定外)、冷静そのものの『氷の王子』様なので、彼ならばこうなるでしょう。
いろいろ書きたい番外編もあって、もちろん本編も進めたいのですが、諸事情ありまして遅々として進みません(泣)またお話が出来上がり次第上げていきたいと思いますので、のーんびりお付き合いください。
よろしくお願いします。
蔡




