50 幸せな夜
「葵、そんなところにいたら湯冷めするぞ。髪は乾かしたのか?」
おれ自身、湯上りの髪をタオルでがしがし拭きながら、縁側でぼんやりと座り込んでいる葵に声を掛けた。明かりもつけない夜の闇の中、満月に近い月明かりに照らされた葵がこちらを向き、こくりと頷いた。
「うん、ちゃんと乾かしたよ」
夜とは思えないほど明るい視界で、おれは迷うことなく葵の隣にどっかりと座り込んで息を吐いた。
「あ~、それにしてもしかし、疲れたなぁ! 葵は大丈夫か? 疲れたろ?」
「ふふ、疲れたけど楽しかったから。眠いけど、まだちょっと眠れない感じ」
首をゴキゴキ鳴らしながら尋ねると、葵はくすりと笑って小さくあくびをした。
宴会はあの後、レンタルしたカラオケで更に盛り上がり、予想通り大量の酔っ払いを転がして終わりを迎えた。
今座り込んでいる廊下の閉じた障子の向こう、いつも葵が寝ている客間には今、たぬきのおじさんことおれの叔父が大いびきをかいて眠り込んでいる。そんなに遠くに住んでいるわけではないのだが、最初から大酒を食らって泊まる予定だったようで、おばさんも今頃他の親戚と共にもう一つの和室で寝ているだろう。
おれ達がすぐ近くで話していても、絶対にあの人たちは起きては来ないと確信している。なにしろ準備していたビール、日本酒、すべてを皆で空っぽにしたのだ。お袋が多めに準備しておいたはずの酒が底をつきそうになり、慌てて追加を注文したほどだったのだが、実にその半分近くを消費したのがたぬきのおじさんだった。おれの結婚が嬉しかったわけではなく、酒が飲めることが嬉しかったことは明白で、でかいビール腹にこれでもかと入っていく酒に顔を引きつらせながら眺めていたのだが……。障子越しにぐごーと聞こえてきた暢気ないびきに、葵と顔を見合わせてクスクス笑った。
「あ……そうだ、栄に聞こうと思ってたの。私、今日……」
ふと思いだしたように口を開いた葵は、そこまで言いかけて視線を泳がせた。
「ん? どうした?」
言いにくそうにする葵を促すと、葵は客間に視線を遣ってからおれを見上げてきた。
「あ、あのね……? 私、今日はどこで寝たらいいのかな、と思って……」
もじ、と上目遣いで見るのは、だから禁止だって言った! ……あれ、言わなかったっけ。
「あ、いや、それは……。お袋、何も言ってなかったか?」
あまりの可愛らしさに我を忘れかけたのを誤魔化すように視線を泳がせ、咳払いをする。……うう、この話、おれからするのか。
「うん? なにを?」
……ああ、やっぱり。と思いながら、おれは深呼吸をする。いや、今日、まさに今日、おれ達は夫婦になったんだし。うん。夫婦なんだから、変なことでもないんだしな、うん。
必死に息を吸ったりはいたりしているおれが不審だったのか、葵は眉を寄せた表情で首を傾げた。
「……栄?」
「いや、その……。今日、は。というか今日からは。こほんっ」
赤くなってはいないだろうな、顔は。いや、多少明るいが暗いし、顔色までは見えまい。
「……その、おれと一緒に……寝ればいい、ってか寝よう。おれの部屋で」
……言った! がんばった! ……褒めてもらおうとも思わないけれど。
「いやあの、ベッドはちょっと小さいかもしれないけどあれ、一応セミダブルだから……そんなに窮屈にはならない、だろうし。あ、葵が狭くて嫌だって言うならもちろん、もっと大きいの買ったっていいんだし、だから」
「うん。……でもいいの? 栄は私と一緒じゃ眠りにくくない? 狭かったら……」
言い訳がましく無意味なことを言い連ねていると、あっさりとした返事の後で葵はおれのことを心配してくれた。
「いや、おれは大丈夫。むしろ、葵と一緒に……その、寝たい。……夫婦ってそういう、もんだから……」
申し訳なさそうに見上げてくる視線が逆に居た堪れない。葵が『一緒に寝る』意味を絶対にわかっていないことは俺だってわかっているし、別にそればっかりじゃないのだけれど、何だか言いにくい。
「そうなの? じゃあ私も栄と一緒に寝たい。夫婦だもんね」
その無邪気な発言にちょっと肩を落としつつ、おれは葵の頭を撫でて笑った。
「……んじゃ、寝るか。疲れたし」
今日が所謂新婚初夜であることはおれだって重々承知なのだが、葵が何にもわかっていない状況下でどうこうする気にはなれなかった。そりゃ……健全な男子である以上、そういう感情があることは認めるし、許されるならば……とは切実に思う。しかし“夫婦の営み”というものがあることを全く知らない葵にいきなりは無理というものだ。できればそっち関係の知識の伝授はお袋にお願いしたかったのだが、結婚式の準備で忙しくて手が回らなかっただろうと推測する。
まぁ……いい。今日は寝る。とにかくもう寝てやる。疲れているし。
投げやりな方向に思考を巡らせながら階段を上がり、二階の部屋までやってきた。親父もお袋ももう眠っているだろう。家の中は時折どこからかいびきの音が聞こえてくるだけで、静まりかえっている。ドアノブを握る手が少しばかり緊張しているのに気づき、苦笑しながらドアを開ける。後ろから黙ってついてきていた葵を先に部屋に通し、おれは音を立てないよう静かにドアを閉めた。
もうこのまま寝てしまおうと灯りもつけないまま、月明かりを頼りにベッドサイドまで葵の手を引く。
「葵、布団と違って落ちると困るから葵が奥な」
「うん」
掛け布団を捲って葵をベッドに座らせる。自然と離れていく指先に、ふと忘れていた大事なことを思い出してハッとした。
「あ、そうだ、アレ」
そういうことにあまりに疎くて忘れるところだった。おれは慌てて葵から離れ、机に向かった。
「栄?」
葵の声が背中から追いかけてくるが、「ちょっと待ってて」と言い置いておれは引き出しを開ける。ああ危なかった。これを渡していないなんて、後でどれだけ洋一に馬鹿にされることか。
二番目の引き出しの一番上に来るようにしまっておいた小さな箱を取り出して、大人しく待っている葵の隣に戻った。布団を更に捲り、葵の隣に腰掛けるとベッドは深く沈んだ。
「あのな、葵。これ……結婚した証につけるものなんだ」
灯りをつけようかとも思ったけれど、カーテンを引いていない窓から入ってくる月明かりは意外と明るく、手元まではっきり見えた。もしかしたらこういうほうが雰囲気がでていいのかもしれない、と勝手に言い訳をしてそのまま、小箱の蓋を開いた。
――入っているのはもちろん、指輪。
滑らかな手触りの小箱に並んで入っているのは、ペアの結婚指輪だった。
「これ、指輪って言ってな、お互いの薬指に交換して嵌めるんだ。それが夫婦の証になる。左手の薬指に指輪をしてるひとは、結婚してるか恋人がいるって印になるんだ」
「ふうん……そうなの。きれいね」
月明かりを反射してきらりと光る指輪に顔を近づけて葵は言った。やはり女の子はこういうものに興味を示すものなのだな、と数週間前に一緒に買いに行ってくれた洋一に改めて感謝の念を送った。
思い出せば数週間前、「まだ指輪を贈ってない」と言ったおれに見せた洋一の顔といったらもう、氷の王子なんて二つ名はどこかへ返上したんじゃないかって位の怖い顔だった。「どんだけ間抜けなの?」と散々つつかれどやされながら宝石店に行き、右も左も分からないおれに「こういうのがいいんじゃないの」とアドバイスをくれたのだ。
指輪のサイズはお袋情報だった。お袋に葵の指輪のサイズを尋ねると「見てわからないの?」と呆れて言われたが、「女性の指のサイズが見て分かるような息子なら、もっと女性の扱いが上手いはずでしょ」と洋一に突っ込まれて「それもそうか」とケラケラ笑っていた。……馬鹿にされているのはわかっていても、言い返せない情けないおれ。
そんなこんなで選んできた指輪は、プラチナ製で本当にシンプルなデザインのものだった。おれは疎すぎで分からないのだが、婚約指輪ではなくて結婚指輪ならば普段しておくものだから大きな石は使わないんだそうだ。おれのほうにはなにもついていないが、葵のほうの指輪には小さなダイヤモンドが五つ、並んで埋め込まれている。
一生懸命選んできたから、できれば気に入ってくれると嬉しいと思いながら、おれはダイヤの埋め込まれた小さいほうの指輪を手に取った。そして葵に向き直り、その柔らかな手をそっと取った。
「……本当は指輪の交換って結婚式のときにするものなんだけど。別に神前でも仏前でもないし誰に誓うわけでもないから……飛ばしてもらったんだ。……おれはむしろ、葵に誓いたかったから」
式の中での指輪の交換をするかどうかを親父とお袋と話し合ったが、おれがしたくないのなら別にしなくてもいいのではと話が落ち着いたのでしなかった。古式ゆかしき結婚式の作法ではとにかく三々九度が大切なようだ。
おれとしては誰かの前で指輪を交換して誓い合うより、ただ葵のためだけに誓いたかった。……みんなの前では照れるから、とかいう理由が全くなかったとは言えないが。
「……栄?」
何が起きるのかわかっていない葵は手をつかまれたままきょとんと首を傾げた。
「指輪をな、お互いの指に嵌めるんだ。そして誓い合う。……これからずっと一緒にいることとか、幸せになること、とか……」
言いながらやっぱり照れてきてしまって、誰も見ていないのに周囲を見回してしまった。
「……誓い……?」
こほん、と咳払いをしておれは、背筋を伸ばした。
「葵、改めて誓うよ。……おれは、必ず葵を幸せにする。ひとりにしない。ずっと一緒にいる。ずっと……」
こんなときはなんていうんだっけと必死に記憶を掘り起こす。結婚式の誓いの、常套句。ああ、そうだ。
「ずっと傍にいてほしい。おれもずっと傍にいる。……死ぬまで、一緒だ。“死がふたりを別つまで”、一緒に、いさせてくれ」
立派な教会でもなんでもない、しゃれっ気も何もない自分の部屋で、でもまるで神に祈るような真剣な気持ちを込めて誓った。
葵の大きな瞳は光を放つように輝いておれを見つめ返してくれた。ゆっくりとした瞬きが、おれの言葉を許して受け入れてくれているような、そんな気がした。だからそのまま葵の指に、ゆっくりと指輪を嵌めていく。細い指にぴたりと指輪が嵌り、白い肌を彩った。
ふぅ、と緊張の息を吐いてそのまま葵の手を握っていると、空いた右手で葵がおれの手に触れた。
「……私は、どうしたらいい?」
分からないながらも真剣な顔つきで尋ねてくれる葵に愛おしさが募り、自然と笑顔になる。張り詰めていた緊張感がふっと緩み、おれは傍らに投げ出してしまっていた箱を片手で引き寄せ、葵に差し出した。
「この指輪を、おれの指に嵌めてくれ。えっと……葵と同じ、二番目の指だ」
葵は頷くと細い指先で小箱の中の指輪を取った。そしておれが先ほどしたのと同じように、おれの左手を取り薬指に指輪をはめてくれる。何の飾りも無い、銀色のリング。でもおれにとってはたった一つの、葵との関係を証明してくれる大切な指輪。
指の付け根まで指輪をしっかり押し込むと、葵はおれの手をそのまま両手で包み込み、祈るように目を閉じて呟いた。
「……ありがとう、栄。ありがとう、私と出会ってくれて。……好きになってくれて」
瞼が小さく震えて、泣くのかと思った。でも次に目が開いたとき、葵が零したのは涙じゃなかった。月光に照らされる横顔に零れたのは、美しい笑顔。まるで月明かりの下で微笑む、女神のような。
「大好き、栄。ずっと、私と一緒にいてね」
……ああ、葵が離れたいって言っても、絶対放したりしない。
「私も必ず、栄の傍にいるから」
……ああ。
「だから栄も、ずっと私の傍にいてね」
……ああ、言われなくたって大丈夫だ。葵。絶対に絶対に、死ぬまできみと離れたりしないんだから。
「……栄? どうしたの?」
美しい微笑みを浮かべた葵に手を握られたままで欲しい言葉を次々に投げてもらったせいか、身体は感極まって固まってしまっていた。心配そうに見上げてくる葵を見下ろしながら、何だか胸が苦しくなって慌てて誤魔化す。
「いや、なんでもない」
「きゃっ」
顔を逸らしたと同時に右手を伸ばし、葵の体を引き寄せ、抱きしめた。パジャマ越しに伝わる体温。同じシャンプーを使っているはずなのにどこか甘い、葵の髪の匂い。
抱き込まれる恰好になった葵は小さく悲鳴を上げたものの、文句も言わずおれの腕の中に納まってくれている。ゆっくりと背中に回された腕が、温かい温度を分けてくれた。
――ようやく、ここまで来た。
出会ってから数ヶ月。こんなにも心を乱され、また落ち着く相手とめぐり合い、そして結婚できた。
今、間違いなくおれは、世界で一番幸せな男だと思う。
「……ふふふ、温かいね、栄」
ちょうどおれの胸の辺りで、葵が小さく笑いながら呟いた。暖かな吐息が肌をくすぐる。
――ああ、愛おしい。
こんな感情があったことを、数ヶ月前のおれは知らなかった。
葵に出会って恋に落ちて、好きになってもらいたくてずいぶん無様なことを経験した。たくさん傷ついて、傷つけた。手放そうとも諦めようとも思った。だけど心の奥に眠った素直な気持ちは、彼女を求めることをやめなかった。……だからこそ知ることができたのだ。自分の中にも溢れていた、豊かな感情と言葉を。
「……あおい」
「うん……?」
「……だいすき、だ」
「ふふ、うん」
照れくさくて言えないような言葉が、ころりと零れ落ちるように口をついた。だってこんな夜だ。こんな幸せな夜だ。
一生に一度、結婚式の夜なんて最高に幸せな夜じゃないか。
腕の力を緩めて隙間を空けると、葵は体を寄せたままおれを見上げてくれた。薄明かりの下でも、大きな瞳は濡れたように輝き、おれを射抜く。
――ああ、もう本当に。
「……敵わないなぁ、葵には」
完璧に踊らされている、彼女に。
「ええ? 何が?」
彼女が笑っていてくれれば、幸せでいてくれさえすれば、ほかの事はきっとどうでもよくなってしまうだろうと、未来の自分の行動が目に浮かぶ。おれはきっと、葵を笑わせるために必死になるだろう。泣かせないように必死に宥めるんだろう。
ちょっと情けないけどしょうがないな、なんて思ってニヤついていると、葵はおれの言葉に首を傾げ、訳のわからなさからか、不満げに唇を尖らせた。
「んもう、なぁに?」
「はは、いや、別に」
不満げにしているが、おれの背中に回った葵の腕は緩まない。その温かさが嬉しくて、おれは調子に乗ることにした。……多分、葵も嫌がったりはしないだろうと、半ば確信を持って。
「……ただ、愛してるってだけだ。葵を」
その場に必要な一言を呟き、おれは葵との距離を縮めた。葵が何か言う前に、そっと唇は重なった。
指輪よりもきっと、おれの気持ちを証明してくれるはずの、キス。葵を想う気持を込めて、おれは柔らかさと温かさに身を委ねた。
しばらくして顔を離すと、葵がとろんとした目でおれを見上げて言った。もうこれ以上煽らないで欲しいと願うおれの内心をかき乱すようなひと言を、この天使の顔をした小悪魔は平気で呟くのだ。
「栄、そういえば“特別なキス”はしないの? 夜にするって言ってたけど、まだしてない」
「…………したい? 葵は」
あくまで無邪気な問いかけに、わざと質問で返す。……ああ、今気づいたけど、おれって葵限定でちょっと意地悪になるみたいだ……。
葵は瞬きをひとつして視線を少し落とした。そしてこちらを見ないまま、恥ずかしげにこっくりと頷く。
「……じゃあ、しようか」
予想通りに頷いてくれた葵に内心ではニヤつきを堪えながら、その滑らかな頬に触れ、顔を上げさせた。
唇同士が触れた瞬間、いつか見た夢が現実になったような不思議な感じがした。
……かつて口移しで水を与えるために触れた唇に、今は愛を伝えるために触れている……。
すっかり抜けたはずの酒がぶり返してきたような酩酊感にクラクラしながら、おれは葵とのキスに没頭した。
*
その夜のおれは、この先何が起こるかなんて全く考えてもいなかった。
幸せが積み重なっていくことだけを想像し、それは確かに叶うのだけれど。
“ずっと一緒にいる”と言った誓いが、どんな風に揺らぐかを想像することもなく、
葵が何のためにこの世界に来たのか、その根本的な理由を考えることもなく。
だた無慈悲かつ平等に過ぎ去る時間が黙ってその時を迎え入れた時、初めて気づく。
いつだって、逃げられない運命がこの世界にはあるのだと。
生きている存在が、生きている以上、終わりを迎える日が来るのだと。
残酷なカウントダウンは確かに始まっていた。
誰にも気づかれぬまま、葵に残された時間は音も無く削れていった。
これで第一章は終了となります。
最後なかなか更新が進まずお待たせしてしまいましたが、ここまでお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございました。
どこまでベタ甘路線で行くべきか迷ったお話ではありましたが、自分史上もっとも多い読者様に支えられた作品でもありました。こんなべたべたラブラブなお話を書くことになろうとは夢にも思っていなかったのに、それもこれもヘタレのくせにどこかSが入ってる栄のせいかと思います。彼が立派なお父さんになるのを見届けたいですね。
しかしあくまで第一章が終わったと自分の中でも位置づけているのですが、諸事情で第二章から先の更新ができるかどうか曖昧な状況にあります。そのため一旦“完結済み”とさせていただき、少し時間をいただいてからお話の続きを書いていきたいと思います。
いくつか小話などを挟んでからの第二章開始、となる予定でいますが、いつになるかはっきりとは言えない状況です。「待っててください」としか言えないのが心苦しいですが、必ず続編は書きますのでぼんやり待っていてくださると嬉しいです。
葵がお母さんになり、栄がお父さんになり、そしてその先の展開まで必ず形にしたいと思っています。どうか応援ください。
これからもよろしくお願いします。
蔡鷲娟




