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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
61/128

横道の横道  アーレリーとアンナとおじいさま

長らくお待たせしてしまって申し訳ありません。そしてまさかの番外編…。

ちょっと長めですがお付き合いください。


 日向さんの方へ一直線に向かっていくアルの背中を少しだけ見送って、私は玄関の中に入った。

 ようやく想いの通じ合った二人がこれからどうなるかなんて明白なこと。その先を見守るのも馬鹿らしく、ふぅ、とため息をついてから靴を脱いだ。

 敢えて選んだ高いヒールの赤い靴から、踵のない部屋履きに履き替える。出て行くのは庭まで、という のは自分の中では折込済みだったから、玄関にはいつも家の中で履いている柔らかい靴を置いたままにしていた。屈んで靴を履き替えていると、頭の上から聞きなれた低い声が降ってきた。


「アンナ」


 少し擦れ気味の、それでも威厳と重みを持って響く低い声。今日はその声の中に、慈しみのような優しさが篭っているように聞こえた。


「おじいさま。長いことご面倒をおかけしてしまってすみませんでした。……今日のことも」


 身を起こして声の主を探すと、おじいさまは私よりも先に家の中に入っていて、何だか楽しそうな様子で食堂のドアの脇に立っていた。


「いや、アルシェネさんが来てくれて私も楽しかったし……今日だって、いやぁなかなか面白いものが見られた」


 おじいさまに今日どんな計画で日向さんを呼んでいるのかは事前に話してあった。アルとおじいさまが意外にも仲良くなっていることは知っていたし、聡いおじいさまがアルの抱える気持ちに気づいていることも私にはわかっていた。

 だからおじいさまに協力を頼んで、アルが自分の素直な気持ちを表に出せるよう仕組んだのだ。


「案外役者だったのだね、アンナは」


「……おじいさまこそ」


 くっくっく、と上体を揺らしながら笑うおじいさまを少しだけ睨んで私は返した。

 アルにそうと悟られないように、でもわざとらしく日向さんに視線を送ったり。アルの後ろでにやにやしていたと思ったら泣き出したアルにスマートにハンカチを差し出してみたり。私に言わせればおじいさまのほうがよっぽど役者だ。


「ふふふ。すれ違う二人それぞれから話を聞く、というのもなかなかない経験だったね。アルシェネさんも日向君も素直でいい青年だったから、うん。……収まるべきところに収まってよかった、と言うべきなのだろうが」


 言いながらおじいさまはこつん、と杖をついて私の方へ歩み寄ってくる。


「……だが、本当によかったのかね、アンナ。……お前の気持ちは」


 踵のない靴を履いた私より、おじいさまの方が少しだけ背が高い。その身長差で見下ろされ、思わず半身を引いたが、海のように深い青を宿した瞳は私をじっと見つめ、逃げを許したりはしなかった。


「……おじい、さま?」


 何が言いたいのだろう、と思った。こんな風に私に詰め寄ってくることなど何年も一緒に暮らしてきて初めてのことだった。

 私から近づくことはもちろんなかったのだが、おじいさまだって私に必要以上に近づいてくることはなかったから。


「好きだったのだろう? 彼のことが」


「……え?」


 一瞬、おじいさまが何を言い出したのかわからず、素で驚きを返すと、おじいさまはとたんに眉を顰めて顔を曇らせた。


「……まさか自分の気持ちに気づいていなかったわけではあるまい」


「…………」


 返す言葉が見つからない。おじいさまが何を言っているのか、頭では理解できている。

 私が、日向さんを好きだ、とおじいさまは勘違いしているのだ。


「あの、おじいさま、私は……その、別に日向さんを好き、な……」


 『わけではない』、と続けようとしていた。そう思っていたのに、私の口は上手く動かずに止まってしまう。


 ――日向さんが好き


 否定のつもりであったのに、口から零れた言葉に何故か動揺する。


「……ありえません……だって……」


 好き、そんなはずはない。

 だって私は――。


「だって私はアルの応援をしたんです、日向さんと上手くいくようにって考えていたのはおじいさまだってご存知のはずです」


 彼のことが好きだったのなら、彼にそういえばよかった。アルを想っていることを知っていても、彼に自分の気持ちを伝えたらよかったのだ。でも私はそうしようと思わなかった。彼を好きだから、彼を自分のものにしようとか考えなかった。

 そもそも彼にアルを任せたのは私だ。川岸でアルを見つけただけの彼に、押し付けるようにしてアルを任せて、そして彼がアルを好きになっていくのを喜んでいたのも私だ。アルを任せられる、いい人でよかったと安心したのも私なのだ。その私が、まさか彼を好きになるなんて……


「だからありえないんです、私が彼を好きになるなんて。だって彼はアルの相手だと、誰より私が知っているのですし、そもそも私は誰かを好きになるような感情は……」


 持ち合わせていない、と言いかけてしまった。言ってしまえばおじいさまに疑われるかもしれない。人間は誰しも人を好きになる感情を持っているはずなのだ。だからないなんて言い切れない、言い切ってはいけない。

 いつもより大分近い距離にあるおじいさまの顔を見上げ、誤魔化すように笑ってみる。澄んだ空のような青い瞳が、寂しげな色を湛えて揺らいだ。


「……アンナ」


 掠れた声に胸の辺りがぎゅっと縮むように痛む。……なぜ?


 でも、おじいさま。そんな風に見つめられても、ありえないものはありえないの。

 だって、私は。

 ……そもそも、私は。


「アンナ、お前がそんなにも否定するのは」


 おじいさまは少し眉を寄せ、躊躇うように視線を外した。


 ……わたし、は。


 天使なのだから。

 感情を持たないただの人形、なのだから。


「私に対する遠慮なのかな。それとも、本当の“アンナ”に対しての?」


 ――――え?


「……おじいさま、なに、を……」


 今おじいさまはなんと言った?


「何をおっしゃって……」


 瞬きをしながら勤めて冷静に問い返す。

 ただ、ぐらぐらと足元から揺れるような感覚にも気づいていた。……動揺、している、と。


「……いや、もし彼のことが好きならば、誰に遠慮することなく恋愛したらいいと思っただけだよ。まぁあの二人を引き離すことはできないだろうから、今度ばかりは諦めるほかはないとは思うが、それを最初から自分の中でなかったことにするのは辛いだろうと思ってね……」


 おじいさまはふむ、と考え込むように顎に手を当て首を傾げた。私は身体の中が冷えていくような感覚に思わず両腕で自分を抱きしめた。


「つまりそうやって自分の気持ちを隠すのがね、もしも私や“アンナ”に対する遠慮ならば無用だ、と言いたかったのだよ。お前もいい年のお嬢さんなんだし、いずれは結婚してここを出て行く日も来るだろう? アルシェネさんの……いや、葵さんのように」


 少し寂しげな笑いを滲ませながらそう言って、おじいさまはまた、視線をこちらに向けた。遠慮深くも、探るような、瞳。

 私はおじいさまが何を言っているのか一瞬本当にわからなくて、ただ目を開けたまま、おじいさまの顔を凝視した。見つめながら、足が自然と一歩下がる。


 ……本能的な危機感。

 こわい、ではなく、どうしたらいいか、という逃げ。


 私が本当はアンナではないことを知らなければ、今のようには言わない。『アンナに対する遠慮』なんて表現はおかしいはずだ。


 無意識のうちに一歩どころではなく、大分後ずさっていたようで、背中が玄関のドアにぶつかった。


 ――知っているの? おじいさまは。 私の正体を? 私が“アンナ”ではないことを? 


 お互いにじっと見詰め合っていた緊張感が、おじいさまがふっと息を吐いたことで少しだけ緩む。そしておじいさまは柔らかい笑みになって右手を上げて言う。右手はひらひら動く。安心しなさい、と言うように。


「……やぁ、そんなに怯えなくたっていいんだ、アンナ。お前が本当の“アンナ”ではないことくらい、とっくの昔に知っていた。知っていて一緒にいてもらっていたのは私自身なのだよ。ただ、アルシェネさんを見ていたらね、無理矢理……私に縛り付けるようにここにいてもらうのも心苦しくて、ね」


「…………?」


 話の内容が理解できずに固まった。言葉の意味はわかる。でも理解できない。


「何を言っているのかわからない、といった表情だね。無理もない。……しかし長い話になりそうだし、移動してお茶でも飲みながらと話すとしよう。せっかく休みの日なのだしね」


 おじいさまは私の顔を見て苦笑し、さっさと食堂に向かっていってしまう。そのいつも通りの背中を見つめながら、玄関に取り残された私はどうしたらいいかわからない。


 “アンナ”ではないことが知られて、まだここにいられるの? 

 このままどこかに消えるべきではないの?

 だってずっと彼を騙してきたのだ、このままでいられるはずが、ない。


「おーい、アンナ、早くおいで。紅茶の茶葉は何がいいかな? 選んでおくれ」


 後ろ手にドアノブを探っていた右手がびくりと震えた。……私を呼ぶ声。いつもより明るい、弾むような声。


「アンナー? どうしたんだ?」


 動けない私が立ちすくんでいると、おじいさまが食堂のドアから顔を覗かせてくる。両手には紅茶の茶葉を持ち、子供のような無邪気さで私を呼ぶ。

 だが尚も動けない私を見つめ苦笑したおじいさまは、無邪気な雰囲気をすっと抑え、改めて私を呼ぶ。 


「……さぁ、おいで」


 その、厳格な空気。気配を伺いながら暮らしてきた私にとって、慣れ親しんだ彼の雰囲気。

 ……他でもない、おじいさまの。


 吸い寄せられるように私の足は食堂に向かった。夢の中で漂っているように、足には感覚がなかった。ぎぎぃ、と鳴る床板が、私が歩いていることを私に教えてくれていた。




  *




 カップから立ち上る、豊かな紅茶の香り。白い湯気をぼんやりと眺めながら、内心、私は今まで遭遇したことのない事態に混乱していた。


 ……どうする、どうしたらいい、こんなとき。


 初めての事だって今までなら難なくこなしていたじゃないか、天界にいた時だって、こちらに来てからだって、どうにでもなっていた。やり方がわかった。こんな風に動揺することなんて……。


 ……待って、私いま、動揺しているの? どうしたらいい、なんて考えているの?

 考える前に方法が分かるでしょう、だって私は。……私は、能力だけを与えられた、天使なのだから。


「……そもそもね。“アンナ”はお前ほどロシア語に堪能ではなかったのだよ」


 おじいさまが不意に話し始め、私はハッと顔を上げた。私は一体どんな顔で彼を見たというのだろう、おじいさまはふっと頬を緩め、くしゃりと笑った。


「私は確かにあの子にロシア語を教えた。日常生活には困らない程度には話せていたと思うよ。でも致命的なことにね、発音がさほど上手ではなかったし、まして高度な……学術的な話などできはしなかった。そもそも勉強はあまり好きではなかったから難しい話をあの子とした覚えはないんだ」


 くすくす笑いながらおじいさまは紅茶を口に運ぶ。


「ところがお前ときたら、発音は完璧、あらゆる専門用語すら理解し、すぐに反応を返してくれる。……飛行機事故で頭を打って、賢くなったのかと思った。……まぁ半分冗談だったのだが、ものは試しと思ってね。私の知りうる様々な言語でもってお前に話しかけた。……気づいていたかね?」


 問われて私は記憶を探る。……あれはおじいさまに出会って間もない頃だったと思う。

 私自身、自分の能力を把握しきれていなかったし、人間としての正しい振る舞いができているのかに注意を払いすぎていた。だから、自分が何語を話しているかなんて意識してはいなかった。


「中国語、英語、ドイツ語。果ては私の生まれた地域の方言まで、変なところで切り替えてみたり、単語単語で混ぜてみたり。面白い実験だったね、実に。お前は首も傾げず自然に私の話した言語で返してきた」


 ……何語で話しているかを意識できるようになったのは、大体三ヶ月ほどが経過してからだった。おじいさまの本棚の書物を読んだり、テレビや映画を見ているうちにこの世界にはいくつもの言語が氾濫していること、民族毎に違っていることなどにようやく気づいたのだ。気づいたときにはひやりとして、かつてのおじいさまとの会話を思い出そうとした。でもなぜおじいさまがいくつもの言語を混ぜていたのかも分からず、おじいさまの態度も変わらなかったのでそのままにしてしまっていた。……まさか方言まで混ぜて実験していたとは。


「ははは、そんな顔をするものではないよ。今だって完璧にロシア語を理解しているだろう? 言い訳は無用だよ」


 思わず眉を寄せてしまっていたようだ、おじいさまは私を見て楽しそうに笑う。

 アンナはロシア語に堪能だと思い込んでしまっていた。まさか天使の持つ能力が仇になっているとは思わなかった。私がアンナに成りすます、いい手段があってよかったと思っていたのに。

 冷め始めた紅茶を口に含んで、飲み下す。こんなにもやりきれなさを感じたのは初めてだ。


「……ふふ。だが言葉だけじゃないんだ、“アンナ”との違いは。お前はアンナの残した日記を読んで、懸命に“アンナ”を学んでいたようだったが……」


 おじいさまの言葉にまた驚く。そんなことも知られていたのか。


「あの日記はアンナの『だったらいいのにな』という日記だった。つまり、現実にはそうではなかったが、『そうであったらどんなによかったか』、というアンナの理想の毎日が綴られていた」


「……え? ……そ、んな……」


「ふふ、そうだ。アンナはね、決して闊達で、運動の得意な元気な子ではなかった。……本当は病弱で、それが故に小心者でまた臆病だった」


「…………」


 私は頭が真っ白になったのではないかと思った。思考が停止する、とはこういうことかと人事のように思っていたらいつの間にか思考が戻ってきていた。


 ……アンナの残した日記。

 私がアンナに成りすますため、全てのページを読み込み、記憶を写し取ったあの日記が。



   体育で鉄棒をやった。私が一番に逆上がりができたの!

   プールの授業は大好き。だけど日に焼けちゃうのは嫌だな。

   水着のところで色が変わっちゃうしヒリヒリするんだもの。

   運動会のリレーの選手に選ばれた。嬉しい。絶対一位になるんだ。

   みんなとたくさん練習しなくちゃ。

 


 ……書き連ねられた日記の文章は、全て私の頭の中に記憶されている。一枚一枚、ページを繰りながら、なんて楽しそうな子供だろうかと、きっと元気で可愛らしく、みんなに愛されていた女の子だったのだろうと思っていたのに。


 あれが間逆、なのだとしたら。


「アンナは子供の頃から体力がなくて、医者通いが日常だった。小学校に上がってからだって、ろくに体育の授業に出たこともないし、まして運動会のかけっこで一位になるなんてありえない。プールでたくさん泳いだとか、山にキャンプに行ったとか……楽しそうに書いた日記を見せられた私も妻も、内心ではなんてかわいそうな子なんだと涙を流したよ」


 日記の中でだけ、アンナは素敵な自分になれた。現実では実現できない、理想の自分を日記の中に作り出していた。本当の自分を見つめることができなくて、虚構の中に埋没するように。


 どんなに素敵な女の子だったのかと、私は“アンナ”になりきれているのかとはらはらしながら過ごしたというのに。

 ……本当のアンナは。感受性も想像力も豊かだったけれど、きっとずっと、寂しい、子。

 

「成長してからも病弱なのは変わらなくて、太陽の下に長時間いることも辛そうだった。大学を卒業しても果たして働けるのだろうかと、親でもないのに心配していたときだったな。……あの子は、二十歳だった」


 日記は何冊にも渡って続いていた。ところどころ、涙とおぼしき水の跡を残しながら、それでも続く筆跡。今思い返してみれば途中からの内容はかなり現実に近い部分もあったように思う。日記に愚痴を零し、辛いことを吐き出してはそれを乗り越えようと必ず最後は明るい言葉で終わっていた日記。

 思い通りにならない自分の性格にも人生にも、嫌気が差しながらそれでも踏ん張って生きていこうと。希望と理想を書き連ねては涙し、それを逆に自分の支えにしていたのかもしれない。

 だから日記の日付は途切れることなく、毎日続いていた。あの、事故の起こる日の、直前まで。



   初めての飛行機での旅行、楽しみだな。

   海外に行って、そして帰ってきたら何かが変わるかもしれない。

   新しい出会いがあるかもしれないし、運命の人に出会えるかも!

   だからたくさん楽しもうと思います。

   帰ってきたらまた日記に書けるように置いていくけど……



「……初めて乗る飛行機だと、はしゃいで出かけていった。両親と共に、ほんの短い旅行だった。……まさか遠い遠いところまで旅立ってしまうとは夢にも思わなかったが」


 おじいさまは空のカップを両手に握り締め、虚空を眺めた。私は掛けられる言葉を見つけられずにただ、黙って瞼を閉じる。

 ぐっと喉の奥で何かがつかえているように苦しい。せりあがって来る圧迫感をやり過ごすことができずに胸に手を当てた。


 『楽しかった!』と綴られることを待っていた日記帳は、捲られることもないまま数ヶ月沈黙し、もはや永久に日付が進むことはない。


 おじいさまの記憶の中の本当のアンナ。たとえ病弱で臆病で可愛くない女の子だったとしても、おじいさまにとっては唯一無二の孫娘で。愛しい家族の一員で。


 ――私はそれを穢したのかもしれない。


 アンナになりきればここに置いてもらえると、人間の世界で生きていくことができると自分を優先にして。上手くおじいさまを騙せていると思い込んで日記に書かれたとおりのアンナになろうとした。


 それがどれくらいおじいさまを傷つけてきたのかも知らないまま。


「……ごめん、なさい……」


 テーブルの上のカップが膜を通してみるように揺れる。瞬きをしたらぽたりと雫が落ちて、ソーサーの淵に引っかかった。


「ごめんなさい……わたし……」


 ぼろり、と落ちていった水滴が涙だと、一瞬考えた後でわかった。


 ――ああ、天使(わたし)でも泣くことができるのか。


「……アンナ……謝ることはない。そして泣くこともないんだよ」


 俯いた視界の端に、白いハンカチが見えた。テーブルの向こうからおじいさまがそっと差し出してくれている。思わず顔を上げるとまた、大粒の雫が頬を伝っていくのが分かった。


 ああ涙って、こんなに熱いものだったのか。

 ……初めて、泣いた。

 こんなに苦しくて、辛いことだったのか。

 胸が潰れそうなくらいぎゅっと押し付けられて、息も上手くできない。どうやってとめたらいいのかもわからないから、おじいさまのハンカチを借りて目に当てる。


「謝るのは……むしろ私の方だと思っているんだ。自分の寂しさを埋めるために、お前を私の傍に縛り付けた。……外見は孫娘にとてもよく似ていても、他人だとわかっていたお前を……」


 私はハッとおじいさまを見つめる。……そうだ、そもそも私がアンナではないと知っていて一緒に過ごしたのは何故だったのだろう。おじいさまは何を考えていたのだろう。


 おじいさまはゆったりとした動作で紅茶の入ったポットに手を伸ばし、温かいお茶をカップに注いだ。私の手元のカップにもちゃんとお代わりを注いでくれる。立ち上る優雅な香り。滲んだ視界が更に白くなる。


 ――ああ、あの日と同じだ。出会ったあの日も、おじいさまは私に紅茶を淹れてくれた……


 ふわりと空気に馴染む少しだけ甘い香りは私を落ち着かせ、そして私におじいさまと出会ったあの日のことを思い出させた。

 庭に大きく枝を伸ばした桜を見上げていたら、おじいさまに声を掛けられたこと。私の話したロシア語を聞いて、おじいさまが泣いたこと。おじいさまの書斎に通されて、今のように紅茶を注いでもらったこと……。


「……事故から何ヶ月経った頃だったかな。二階から庭を眺めていたんだよ。そうしたら桜の木の下に佇む女の子が見えた。白いワンピースで長い黒髪で……夢の中にいるような気分で、私は庭に出た。アンナもよく、そんな恰好をしていたからね……」


 おじいさまは温かい紅茶を一口飲むと、大きく深呼吸をしてから話し始めた。


「死んだアンナが幽霊になって帰ってきてくれたのかと、門を出てみた。近くで見れば見るほどアンナにそっくりだったから、思わず声を掛けて……お前は一瞬たじろいだね。足が動いた。だが私はどこにも行ってほしくない、たとえ幽霊でも傍に、と思って手を伸ばした。そうしたら腕が掴めるじゃないか。……ふふ、幽霊じゃなかったのだと的外れなことを考えた」


 ――そう、おじいさまはあの時、とても真剣でそして切羽詰った表情をしていた。地上に降りてきて間もなかった私は、どう反応を返したらいいかわからなくて立ち尽くすだけで。


 笑みを零しながら、おじいさまはどこか楽しげな様子で話を続ける。


「幽霊じゃなければ、アンナでもないのか、こんなに似ているのに……と思ったら、聞こえてきたのはロシア語だった。……その時の私の感激が、分かるかね? ……祖国を離れ、日本に暮らし数十年。伴侶さえなくして母国語を聞く機会さえ失われた私に掛けられた、『おじいさん』の言葉にどれだけ心が震えたか」


 真剣に私を見つめるその眼差しに、私は口を開くこともできずにゆっくりと頷いた。

 ……多分、私がアルを見つけたときの気持ちに近いだろう。たった一人、天界を追われて過ごしてきた地上で予想外に会えた同胞。しかも唯一仲良くしていたアルだった、あの時の気持ちと。


「お前を家に招き入れ、事情を聞こうと思ったが何も分からない様子で。致し方ない、酷い事故だったのだから五体満足で戻ってくれただけ良かったのだと、記憶を失っただけだと思って暮らし始めた。……本当に、アンナだと思っていたのだよ、最初はね」


 おじいさまは苦笑しながらため息をついた。


「我ながら冷静さを欠いていたと今なら思う。死んだと思っていた孫が帰ってきたと本気で思っていたのだから。……確かに行方不明者の多い事故だった。だが……不幸中の幸いと言うべきか、私の大切な三人の遺体は見つかった。気力も体力もなくて対面にはいけなかったが、娘の夫の家族はきちんと確認しているだろう。だからアンナが生きていたなんて、どんな奇跡が起ころうともありえるはずがないんだ……」


 肘を突いた右手で額を支え、俯きながらおじいさまは呟くように言った。言いながらそのままの姿勢で頭を振る。自嘲するように。


 ――でもなら何故、なおさら何故、私をここに置いたの? アンナと呼んで、本当の祖父のように振舞ったの?


「……なら、なぜ……わたしを、ここに……?」


 疑問がぽろりと零れ落ちた。

 今まで黙って話を聞いていたが、おじいさまがそんなにアンナを想っていたのなら、私をアンナの代わりに置くのはおかしいではないか……。


 おじいさまはゆっくりと顔を上げ、困ったように微笑んだ。


「言っただろう? 寂しい私の傍にいてほしかったからだ。記憶喪失の孫に一から教えるつもりで生活や世の中のいろいろを教えていたが、お前は本当に何も知らなくて、毎日が新しい発見のようで。一緒にいる私の方が楽しくなっていって。他愛もない話をロシア語でできるのも楽しくて仕方がなかった。それにお前がアンナになりきろうとしていることも微笑ましかった。……そして一番は……お前には行くべき場所も帰る場所も持たないように思えた。ならこのまま、赤の他人でも構わないし何者であろうと構わない。とにかく傍にいてくれはしないだろうかと願った。……我ながらずるい願いだとは思ったがね」


「…………」


「お前は何も言わなかったな、アンナの戸籍を復活させるときも、自分の戸籍があるとは言わなかった。むしろようやく自分の居場所ができるみたいなそんな様子で。……だから私は私の我侭を押し通すことにしたんだ。お前が私から離れたいと言わない限り、このまま、孫としてここにいてほしい、と」


 私がアンナでないことをずっと、ずっと知っていたのに、それでも私が傍にいることを望んでくれていたの……?

 私で、いいの?

 私が傍にいて、いいの……?


「……おじい、さま……」


 何を言っていいかも分からず、口から零れたのはそれだけだった。にもかかわらずおじいさまはほっとため息を落とし、表情を明るくして笑顔になった。


「ああ……よかった、そう呼んでくれるのだね……。お前に拒絶されることが今は一番辛い。本当は何も言わずに墓の下まで持っていこうと思っていたのだが、アルシェネさんを見ていたらこのまま黙っている訳にもいかないだろうと……」


 おじいさまは大きくため息をついて笑った。ずっと重く圧し掛かっていた負担が一気になくなったような、解放された安堵感に満ちるようだった。


「……では私は、変わらずここにいていいのですか? ……アンナ、として……」


 思わずハンカチを握り締めていた。おじいさまは歓迎してくれると分かっていても。

 私が緊張していると分かっているのか、おじいさまは安心させるように柔らかく微笑んで、大きく頷いてくれた。


「もちろんだよ。……ああ、だけどせっかくだから知っておきたい。お前にも名前があるのだろう? アルシェネさんのように。……差し支えなければ教えてくれないか」


 アルのもうひとつの名前『葵』が知られたのはいつだろう、とぼんやり頭を巡らせてみると、そういえば日向さんがうっかりおじいさまの前で葵と呼んでいたな、と思い至った。……詰めが甘かった、でも今更だった。おじいさまは最初から私がアンナではないと知っていたのだから。もう隠す必要などない。


「……私の本当の名前は……アーレリーと、いいます……」


 それでも戸惑いながら呟くように言うと、おじいさまは大きく頷いて口の中で転がすように何度か呟いた。


「アーレリー……、ふむ、アーレリーか……」


 しばらく考え込むようにそうしていたが、不意にこちらに顔を向けておじいさまは尋ねてきた。


「それで……やはりアーレリーと呼ぶのがいいのかな。それとも……」


「いえ、アンナでお願いします。ここにいる間私は、『アンナ』で『おじいさまの孫娘』、なのですから」


 おじいさまの言いたいことが分かって、遮るように私は言葉を被せた。……いいのだ、自分の名前など。私は本当のアンナではないけれども、『もうひとりのアンナ』としてここで過ごしていく。


「……そうか、ありがとう。アンナ」


 おじいさまはくしゃくしゃの笑顔で大きくため息をついてそう言った。少し泣いているように聞こえたのは気のせいだろうか。私も何だかほっとして、身体の力が抜けた。


 本当にこんな日が来るとは思っていなかったけれども、でもおじいさまの本心が知れてよかったように思う。私はこれ以上『完璧なアンナ』を演じる必要がないし、おじいさまに別人であることを知られないよう必死に隠す必要もない。

 先ほどのおじいさまと同じように、私自身、この上ない解放感を全身で感じていた。



 *



「ところで最初の話に戻るのだけどね」


 ポットとカップを片付け、キッチンで昼食の準備をしているとき、思い出したようにおじいさまが切り出した。


「本当に、日向くんのことはいいんだね?」


 サンドイッチ用のレタスを冷蔵庫から取り出しながら、一瞬何のことかと呆けた後でああ、と考える。

 そもそもの発端はそこだったのだ。


「……そうですね、考えてみれば……」


 歩きながら考えておじいさまの横に戻り、台の上にレタスを置いた。おじいさまは隣でトマトを輪切りにしていたが、私がそういうと包丁を動かす手を止めた。


「アンナ、そういうことは頭で考えてはいけないんだよ。考えなくても心が知っている。考えてしまえば理性が衝動を抑えてしまうこともあるのだから」


 真面目な顔でおじいさまがそういうので、私はなんだかおかしくなって思わず笑ってしまった。私が誰を好きかなんて、そんなに大した問題ではないと思うのに。しかも私にとっての日向さんは、やっぱり……。

 笑いながらレタスはぐいっと力を入れたら素晴らしい音を立ててふたつに割れた。瑞々しく新鮮なレタスは存分に水を含んで、しゃきしゃきと音を立てて千切れる。はじけた水滴に日の光が反射して煌めいた。


「笑い事ではないのだよ、アンナ。恋というものはとても厄介でね、たとえ諦めざるを得ない恋だとしてもどういう終わり方をするかが次の恋に向けて重要になったりもするんだ。だから……」


「いいえ、おじいさま違うのですわ。少し考えてみたのですが、ああ、もちろん心が知っていたこと、なのですけれども」


「……うん?」


 手の止まってしまったおじいさまからまな板ごとトマトを奪って切りながら言う。おじいさまは私の顔を見つめたまま、興味津々の様子で動きもしない。

 トン、トン、と包丁がまな板に当たる音すら何だか楽しい。キッチンの窓から入り込む暑い日ざしさえ愛おしいような。


「……嫉妬、というより苛立ちなのでしょうね、私の行動の原動力になったのは。なかなかくっつこうとしないあの二人に苛立っていた、それは確かです」


「うーむ、それで……?」


 おじいさまは納得がいかないように眉を寄せた。私はそんなおじいさまを見てまたおかしさが込み上げてくる。

 トマトとレタス、そしてもう切り終わっていたキュウリを脇によせ、手を伸ばしてテーブルの上のパンを取り、真ん中に切れ目を入れていく。


「確かに今日、デートだと言って彼を呼び出したし、アルに見せ付けるようにいろいろしてみました。でもそれは早くくっついてもらって、この苛立ちから逃れたいと思っただけで、アルのようにどうしても彼を私のものにしたいというような激しい気持ちはなかったし、奪うつもりなど更々なかった……」


 そう、確かに日向さんは特別な人だった。

 職場にいる人や仕事関係で会う人、道端ですれ違った人にさえ男性にはよく声を掛けられてはいたが、それは面倒以上の何者でもなく、できるだけ気配を殺し目立たぬように過ごしてきた私にとって、何の気もなく会ったり話したりできる彼は異質だった。

 私が人間ではなく、別の世界から来たと分かってもすぐに受け入れて普通に接してくれたその性格にも、アルに対する考え方や接し方から分かる優しさにも、私は密かに感動して彼への印象はいや増すばかりだった。

 ……でも。


「私の日向さんへの好意は、ただの羨望、でしょう。単に、愛されているアルシェネが羨ましかっただけ。彼ならアルシェネを幸せにできるだろうと思う反面、私にも同じように接してほしいと思っていた……。いえ、私にもそういう誰かがいてくれないだろうかと思っていた……」


 ……本当は、本当に正直になるなら彼のことは、少しだけ好きだった。


 惹かれていることにどこかで気づいていたけれど、天使である私が人を好きになるという感情を持ち合わせているはずもない、なんて否定してみたり。彼はアルの相手なのだし、私が好きになるなんて許されないと思ってみたり、……した。

 ……正直に言えば彼のことが好きだった。気持ちもだんだん膨らんでいた。だけど二人の幸せを引き裂こうなんて思ったりしなかったことも、確かで。


 ……でも、それ以上に今は、私の心に喜びをもたらす存在が隣にいるから。

 だから、そんなことは、もう。


 

「でも、おじいさま」


「……ん? ああ、なんだい?」


 パンにバターを塗りながら呼びかけると、私の言葉に不満げに考え込んでいた様子のおじいさまはぼんやりと顔を上げた。


「あのですね、おじいさま。もう私が日向さんを好きかどうかなんてどうでもいいんです」


 ――心から湧き上がるような歓喜。人間はこんな感情に動かされて美しい笑顔になるのか。


「……は? どうでもいい?」


 おじいさまは私の言葉を反復してぽかんと口を開けた。珍しすぎる、呆気に取られた顔。その顔を見ながらもっともっと湧き上がってくる楽しさが、どうしようもなくくすぐったい。


「はい、どうでもいいんです。……もうなんであろうと全てどうでもいいことなのですわ。……おじいさまが私に気づいてくださったから」


 ――いま、私は確かに笑えていると思う。


 今までになく美しい笑顔だったらいいと思う。


「おじいさまが私を受け入れてくださったから、もう何もかもがどうでもいいのです。私にとって唯一大切なのは、おじいさまの傍にいることだけなのですから」


「アンナ……」


 ――ずっと引っかかっていたのは、おじいさまを騙しているという罪悪感と、私自身が認められていないことからくる孤独感。

 日向さんに魅かれたのはその孤独を埋めてくれる優しさを彼が持っていたから。


 でも、もう私はひとりではない。


 アンナと呼ばれていても以前のアンナとは違う。いなくなってしまった彼女の影を追うことなく、私は私として生きていけるから。

 ……おじいさまの、隣で。


「アンナ……いやアーレリー……お前は、本当に……」


 青い瞳をまん丸に見開いたおじいさまはポツリとそう零すと、片手で口元を覆った。一拍置いて美しい青の瞳から、宝石のような雫が頬を伝って流れ落ちた。震える肩。でも悲しくて泣いているわけではないことは私にも分かったから。


「おじいさま、泣く必要などありませんわ。……さぁ、サンドイッチができますから、一緒に食べましょう?」


 自分でも驚くほど明るい声が出て驚く。驚きながらパンに具材を詰めていく。野菜も、ハムも、今日は特別に全て多め。


「……ああ、そうだな……」


 おじいさまが鼻を啜り、袖で涙を拭いながらとぼとぼと歩いて冷蔵庫に向かい、ミルクを取り出すのを見ながら、私もなんだか泣きそうになって慌てて笑った。涙を堪えるために笑うこともあるのだと、何だか不思議に思いながら。


「ふふ、……感情が人間に近づいているような気がするわ……」


 泣いたり笑ったり、緊張したり動揺したり。今日は忙しい。そして楽しい。

 ひとりごとのつもりで小さく零したら、おじいさまが食器棚からマグカップを取り出しながら冗談めかして言った。


「おやアンナ、その言い方ではまるで自分が人間ではないみたいだぞ?」


 目じりを赤くしたまま、ふふふ、と笑うおじいさまを見ていたら、どんな反応をしてくれるだろうかと意地悪な気分になった。

 だから敢えて何でもない風に言ってみる。


「……あら、おじいさま。私人間ではないのですよ? 気づいていませんでした?」


 わざとらしく小首を傾げてみたら、棚に手を伸ばした姿勢で顔だけはこちらを向いたまま、おじいさまは固まってしまった。


 固まってしまったけれどもおじいさまは、きっと日向さんのように私の話を受け入れるだろう。頭のいい人なのだ、人間ではないかもしれないとなんとなく察していただろうし。

 

 私は完成したサンドイッチを皿に盛りつけ、テーブルへ運ぶ。

 窓から入る緑の匂いを纏った風が妙に清清しい。眩しすぎる日差しも、今日ならどれだけ射したって構わない。

 楽しい午後になりそうだった。


「おじいさま、お話は食べながらにしましょうか」


 ……きっと今頃アルと日向さんも、楽しい午後を過ごしているだろう。

 私は窓の向こうに広がる青空と白い雲に視線を遣って、大きく息を吐いた。



お読みいただきありがとうございました。

あともう少し本編は続いて第一章完結になります。

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