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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
60/128

47 プロポーズ

 



『結婚してくれ』


 案外すんなりその言葉が出て、自分でも驚いた。

 そしてそのタイミングが今でよかったのかな、とか口に出した後で思ったりなんかした。


 アンナさんに押し付けられるようにして『嫁にしろ』なんて言われて、意識し始めて。

 もう勝手に「この娘はおれの嫁さんになるんだろう」なんて無意識に思っていたんだと、恥ずかしながら今なら認められる。


 本当は出会ったときから、彼女がまだ氷のように冷たかったあの時から。

 ほとんど一目惚れだった。


 彼女がどんなひとなのかも全くわからないうちにもう恋に落ちていた。


 触れた肌の白さも、柔らかさも、温もりも。眠り続ける彼女に水を与える口実で口付けた唇も。

 すべてがおれの心を奪い、攫い、他を考えられなくしていた。


 経験に乏しすぎて、女の人の扱いなんてわからないし、自分の気持ちだってどうしたらいいかわからなくて。ずいぶん遠回りをしたし、彼女のことも傷つけた。それでも枯れない泉のようにずっと、心の奥深くに存在し続けた想い。

 

 ――どうしようもなく彼女を求める、その気持ち。


 そして好きだと気づいてからずっと、密かに願い続けていた。

 ……いつか本当に、おれの嫁になってくれないかな、って。


 今ようやく両思いだって確認できたところなのに、さらにその先を求めてしまうのは性急な気もするが、口に出してしまったものはもう仕方がない。確実に傍にいてほしいし、他の男に付け入る隙など与えたくない。

 彼女の唯一だと、おれが彼女を守るたった一人の男だと、誰からも認められたい。その確約がほしい、……だから。


「……おれと結婚して、嫁さんになって、それで……ずっと一緒にいてほしい。ずっとずっと大切にするから、おれの、おれだけの傍にいて、」


「はい」


「ほしいん……だ?」


 ……あれ、今、『はい』って聞こえたか?


 瞬きしながら葵の顔をじっと見つめると、彼女は満面の笑みでおれを見つめていた。


「はい、栄。……栄とずっとずっと一緒にいたい。よかった、そう言ってもらえて」


 葵はそういって、胸を撫で下ろしてほっとため息をついた。その、はにかむような笑顔。 


「……う……わ……、ほんと、に……」


 おれは今の今まで爆発しそうだった感情が、急速に萎んでいくのを感じていた。逆に膨れ上がっていくのはとんでもないほどの、照れ。

 振り絞った勇気が、当たって砕けろ的な衝動が、当たる壁を見失って動揺しているような。……いや、両思いなんだし葵が断るなんてことはあんまり考えてはいなかったけれども、それでもプロポーズにこんなあっさり返事をされるとはちょっと予想していなかった。

 絶対に茹ダコのように真っ赤になっているだろう顔を両手で覆い、でも目だけはしっかり葵を追う。


 ――いま、確かに言ったよな? おれとずっと一緒にいたいって、言ったよな……?


 自分の耳が信じられなくて、もう一度葵に問う。


「あ、葵……? 一応確認したいんだけど、『結婚』って意味わかってるよな?」


「うん? ずーっと一緒にいる約束でしょう?」


「あ、ああ、簡単に言えばそうなんだけど……。えっと、結婚て、えっと、夫婦になって」


 笑顔の葵は結婚をなんとなく知っているようだ。ただあまりに抽象的だったのできちんと説明せねばなるまい。しかし、いざ説明、となると何をどういったらいいものかわからない。


「ふうふ?」


「えと、夫婦っていうのは……旦那と奥さんのことで、その、日本だとな、結婚すると苗字がふたり一緒になるんだ。その、家族になるっていうか」


 しどろもどろになりながら思いついたことを口に出していくと、葵の表情が少し変わった。


「苗字が一緒になるの?」


「え? ああ、そうなんだ。うちは『日向』だろ、だから葵は今『神原』だけど、結婚するとおれの苗字に……なるわけで」


 言いながら照れが入って、語尾が尻すぼみになってしまう。

 葵はもうおれとの結婚に了承してくれたし、戸籍上の『神原』のご両親は亡くなってるわけで、となればうちに嫁に入るんだよなぁなんて考えながら、じわじわと湧いてくる実感に身体がむずむずする。


 葵が、『日向葵』になる。


 それはおれがあの時、望んでいた通りの名前になる、ということで……


「えっと、葵? 葵の名前の話、なんだけど……」


「ふふふ、じゃあ私、『日向葵』になるのね。順番はちょっと違うけど、『向日葵』になれるのね!」


 こほん、と咳払いをしてまた話をし始めたら、葵は周囲を嬉しそうに見渡しながら満面の笑みを浮かべてそう言った。

 『ひまわりになれる』。


「……葵、ひまわりの漢字、知ってたのか?」


 まさか知っていたとは知らなかったおれは、少し呆然としながら葵に問う。葵は黄色の花に手を伸ばし、無邪気におれに笑いかける。


「うん、あの栄が貸してくれた植物図鑑に書いてあったから、その後辞書でも調べたの! 『太陽に向かって咲く花』よね、面白いなぁと思って、覚えてたの」


 ひまわりの漢字、『向日葵』。漢字があることはおれ自身、その植物図鑑を眺めていて知った。

 向日葵は成長している若い頃は太陽を追う様に東から西へとその頭の向きを変える。成長が終わると東に向いて固定されてしまうらしいが、『太陽に向かって咲く花』、そのままの漢字が面白い。

 葵はうちの庭に咲いている向日葵が好きだと言って、毎日飽きもせず眺めていた。『私も太陽が好き、ひまわりと一緒』と笑った彼女の笑顔が可愛くて、向日葵はおれにとっても特別な花になった。


 日向葵、並び替えると向日葵。


「嬉しい、向日葵と似た名前! よかった、栄が私に『葵』って付けてくれて!」


「……ああ、よ、よかったな」


 頬を指で掻きながらおれは苦笑いした。

 葵に気づかれなくてちょっとほっとする。本当は最初から狙って『葵』という名前にしたと知られたら……もうその時点から結婚を考えていたことがバレバレすぎて恥ずかしい。


 あはは……と乾いた笑いを零しながらふと空を見上げると、太陽は先ほどよりも少し、西に傾いていた。うっかり忘れそうになっていたが、おれたちは未だひまわりで作られた巨大迷路の中で立ち往生しているのだ。早く出て水分を取らないと、夏の炎天下のなか干からびてしまうかもしれない。


「葵、そろそろ歩こうか。ここから出て何か飲んで休憩して、それで帰らないと。電話し忘れちゃったから親父もお袋も首をながーくして待ってるだろうし」


「うん! 行こう」


 元気よく返事を返してくれた上機嫌の葵と手を繋ぎ、おれはまた地図を片手に迷路の中を歩き出した。


「……あ、あと、指輪も買いに行きたいけど……それは後回しだな」


 うっかり指輪もなしにプロポーズしてしまったことを思い出し、失敗した、と反省する。葵がこの世界の事情に疎いため、怒られなくて済んだが、普通の女の人なら『指輪もなしに!』と怒るのかもしれない。

 洋一が『指輪は用意したの?』と何度目かの電話の時に言っていたのに、『まだ早い』と聞き流した自分……。何がまだ早い、だ。気持ちが通じたとわかった瞬間にプロポーズするとか、後でみんなにからかわれるに違いない。


「ん? ゆびわ?」


「はは、いや、うん。後で一緒に買いに行こうな」


 きょとんとした顔で見上げてくる葵が愛おしくてたまらない。……からかわれたって構わない。葵が、頷いてくれたから。

 指輪のない、ムードも何もないそっけないプロポーズだったけど、葵が結婚についてきちんと把握できているのかも怪しいけれども、とにかく了承してくれたからもうそれでいいのだ。


「……今おれ、世界で一番幸せかも」


 呟きながら握った手に力を込めた。大切に、大切に、傷つけないようにそっと力を込める。

 すると葵も手に力を込めて握り返してくれた。俯いた横顔を覗き込めば、恥ずかしげにそっと呟く。


「……私もきっと、今一番幸せな天使だ」


 お互いの言葉に照れて、しばしまた、迷路の中で立ち尽くし見つめあった。

 繋いだ手だけじゃもの足りなくて、自然に歩み寄り、互いの背中に腕を回して抱き合う。身体全体で葵を感じる。


「葵……もう一回、確認してもいいかな」


「うん……?」


 丁度顎の下の位置にある、葵のつむじに息を吹きかけるように問う。葵はおれの胸の辺りに頬を押し付け、くぐもった声で返事をしてくれた。

 腕の中にすっぽり納まった細い肩。それでいて柔らかい不思議な感触。一度は出て行ってしまった葵を、またこうしておれの腕の中に抱きしめられる、感動。


「おれと、結婚して、それでずーっと一緒にいてくれ」


「うん」


「おれはずっと葵の傍にいるから、それで、きっと葵を幸せにする。……必ず」


「うん……」


 背中にまわった葵の腕にきゅっと力が加えられ、痛くないけれどもその締め付けにこの上ない幸せを感じる。おれのシャツをぎゅっと握っているんだろう、首元がひっぱられるようで少し苦しいけれど、それすらも嬉しい。


「……葵」


「うん?」


 呼びかけて少し腕の力を緩めると、葵は顔を上げておれを見る。

 今すぐにその薄く開かれた桃色の唇を塞いでしまいたい衝動に駆られつつ、その強く激しい想いを言葉にする。


 ……この言葉を自分が口にするときが来るなんて、思っても見なかったけれど。今、気負いなく自然と出てくる気がするのはきっと、本心からそう思えるから。


「……愛してる」


 吐息と共に言い切って葵を見下ろすと、葵は大きくひとつ瞬きをし、じっとおれの瞳を見つめてきた。

 何も言うことなく、ただ真摯に見上げてくるその顔を見ていたら、そんなにじっと見つめられるとまたキスしたくなるだろうとモヤモヤな気持ちで胸が一杯になってきた。ただでさえ今、抱き合って密着状態で、この至近距離で見詰め合っているのだ、半開きで固定された唇など破壊力がありすぎる。


「こほんっ。……あ、葵?」


 痺れを切らして雰囲気を変えようと、じっと黙ったままの葵に呼びかけた。

 何故そんなにも黙ったままなのか。まさか『愛してる』は重すぎたのだろうか……と思って血の気が引いてきた頃。


「あの……栄?」


「な、なんだ……?」


「『愛してる』って……どういう意味?」


「…………あー、そういうアレか」


 何だか以前にもあったようなやり取り。おれは心の中で気づけなかったおれ自身にパンチを贈った。思わずがっくりと肩を落としてしまったおれを見て、葵が慌てたように謝ってくる。


「栄、さかえっ、ごめんね! あの……なんとなく、なんとなくならわかるんだけど……!」


 未だ離さないおれの腕の中で身じろぎをし、葵はおれのシャツの胸元を掴み必死だ。明らかにがっかりしてしまったおれが悪いのだが、雰囲気を壊してしまった自覚があるのだろう、葵は不安そうな顔でおれを見上げてくる。その顔がまた可愛くて、おれの中に再び、意地悪な気持ちが湧き上がってきた。


「なんとなく……? なら言ってみて。『愛してる』ってどんな気持ち……?」


 そう言うと、葵は視線をふっと逸らし、顔を真っ赤にして再びおれを見上げてきた。唇をつんと尖らせ、赤くなりながらも不満そうな表情。


「……ん? 葵。ほら、言ってみて……」


 もう可愛くてしかたがなくて、意地悪だと思いつつもにやにやしてしまうのをとめられない。


「ん……っと、あのね、『好き』よりも『大好き』よりも、もっと大きな気持ち……だと思うの……」


「………葵……」


「……違う?」


 不安そうにおれを見上げるその澄んだ瞳がどうしようもなく愛おしく、おれは葵の頭をかき寄せるように抱きしめた。


「合ってる」


 ボソッと呟いた言葉は葵に届いただろうか。葵を抱きしめるこの腕の力が、どくどくと高鳴るこの心臓が、何よりおれの気持ちを証明する動きようのない証なのだが。

 葵は観察眼も洞察力も、記憶力も優れているから、系統立てて考えてその答えに行き着いたのかもしれない。けど今は、葵のさっきの答えは、頭を通さずに心で感じてくれて導き出した結果だと思いたい。おれの想いが葵に届いて、理解してもらったものだ、と。

 ……だってそうだよ、おれの『愛してる』は、『好き』より『大好き』より、大きくて強くて、そして重くて。言いようのないくらいの葵への感情を全て乗せた言葉だから。

 『愛してる』にだって本当は乗せきれないほどの想いを、全て伝えたくて紡ぐ言葉だから。


「ん~~! さかえ~! 苦しいよー!」


 腕の中で葵がじたばたしているのにようやく気づき、おれはハッと力を緩めた。あまりに可愛すぎて、我を忘れて抱きしめてしまったらしい。

 ぜーはー息をする葵をそれでも腕の中からは離せず、屈み込んで様子を窺う。


「ご、ごめん。大丈夫か?」


「だ、大丈夫だけど……栄、力強過ぎ……」


 おれにしがみつきながら肩を上下させて息を整える葵の髪を、おれはくしゃっと撫でて笑った。


「ごめんごめん。気をつける」


「本当によ? ……それで……その」


 ようやく呼吸が落ち着いてきた葵が、再び上目遣いでおれを見上げてきた。


「ん?」


「……合ってたの? 『愛してる』の意味」


 さっきおれが呟いたのはやはり小さすぎて聞こえてはいなかったらしい。もじもじと恥ずかしがりながら見上げてくるその顔が可愛すぎて、再び葵を抱き寄せ、その耳元で囁いた。


「……合ってるよ」


「……っ! さかっ……」


 耳に掛かった息がくすぐったかったのか、びくりと肩を震わせた葵が逃げようとするように身を捩らせた。腕の力を緩めないおれから、顔だけ無理矢理離して見上げてくる葵の顔は今まで以上に真っ赤で、目が潤んでいた。


「ん~~~! さかえ、今何したのー!?」


「はっ?」


 葵は何かを振り払うように盛んに耳を撫で、恨めしそうに声を上げ、フルフル震えながらおれを睨む。

 ……何をしたって、何もしてないけれども。……ん?


「あ……耳、弱い、のかな?」


 そう思い至ったおれは、試しにまた、未だ動揺した様子の葵の耳元に口を寄せ、ふっと息を吹きかけてみた。


「フッ」


「きゃあ!!」


 ゴン。


 葵が飛び上がって耳を押さえたとき、その頭がおれの額に直撃して、鈍い音を立てた。


「いったぁ……!」


「も、もうっ! 栄が、栄が悪いんだからねっ! みみっ、耳に息かけるとかっ……!」


 蹲って額を押さえるおれに、葵が指を指しながら非難の言葉を浴びせた。葵もぶつかった頭が痛いのだろう、左手で頭を抑え右手で右耳を押さえて真っ赤な顔をしている。


「ごめんね! でも栄が先に悪いんだからね! なんかっ……やだ、ムズムズするっ……」


「っぷ、ははは……!」


 おれは額の痛みも忘れて思わず笑ってしまった。なんなんだろう、この子供みたいなやり取り。可愛すぎておかしくなりそうだ。

 葵はおれが笑い出したのが気に食わなかったようで、唇を尖らせてぷいっとそっぽを向くと、バタバタと走り出してしまった。


「栄のバカっ!」


 なんて可愛い捨て台詞と共に、目の前でひらりと翻ったオレンジ色のワンピースの裾。

 

 ひらひらと風に乗る蝶々でも追いかける気分で、おれはゆっくりと葵の後を追っていく。元々おれのほうが背が高いからその分足も長い。葵がちょこまかと後ろを気にしながら走っていくのが可愛くて、しばらく追いかけっこもいいななんて意地悪な気持ちでまた笑う。

 緑と黄色で彩られた幻影の迷路の中を、鮮やかなオレンジ色を纏った葵が駆け抜けていく。曲がり道はあってもどうせ一本道。視界から小さな背中が消えることはない。


「葵ー、転ぶなよー!」


 なんて言ってみたら葵は、むっとした顔をこちらに向けた後で走るスピードを上げた。本格的におれから逃げようと考えているらしい。むきになって走る葵が愛おしくてどうしようもなくて、おれはニヤつく顔を必死で堪え、足を動かした。


 ……なんて幸せな日だろう。


 降り注ぐ強すぎる太陽の日差しも、からかうように揺れる向日葵のざわめきも。喉の渇きも、流れ落ちる汗も。普段なら不愉快に思えるだろう全ての現象すら今、幸せの一ページを彩るスパイスに思える。

 いつか時間が経ってまたこのひまわり畑の迷路に入るとき、おれはこの幸せな日を思い出すのかもしれない。想いが通じ合った瞬間を、将来を約束した充足感を。……もう失うことはないと、安心感の中でした追いかけっこを。


 無心で葵の背中を追いかけてしばらく、速度が落ちてきた葵の腕を捕まえ、そのまま腕の中に抱き込んだ。


「……捕まえた」


 自分が汗だくなのはわかっていたが、逃がすつもりのないことを葵に教えたくてわざと、ぎゅっと抱きしめた。葵はぜーはーと息を乱し、かなりの汗をかいて大分疲れた様子だった。


「葵、大丈夫か?」


「……さ、さかえっ、走るの……速いっ……!」


 眉を寄せて苦しそうに呼吸しながら葵はおれに寄りかかる。わざわざ走って逃げていたのを忘れてしまったようにしがみついてくるのを、おれは心の底から湧き上がる歓喜とともに噛み締めた。


「それはしょうがないよ、おれのほうが背が高いんだし……。でも葵、見て。頑張って走ったからほら、もうゴールだ」


 おれは葵の額の汗を指で拭ってやった後、その方向を指差した。緑の壁に大きく掛けられた、『ゴールまであと五十メートル』の文字。追いかけっこを楽しんでいる間にかなりの距離を進んできたらしい。疲れきった様子の葵には申し訳ないが、ついはしゃぎすぎてしまった。


「……よかったぁ!」


 ゴールまであと少し、と言われて安堵したのか、葵は元気を取り戻して立ち上がり、すっとおれの手を取った。


「じゃあ早く行こう! ねっ!」


「……っ、ああ」


 さっきまでおれから逃げていたはずなのに、当たり前のように繋いでいる左手。しっかり繋がれた手の中から、喜びが溢れてくるようだった。

 

 もう葵はおれから遠ざかったとしても、必ずおれの元に戻ってくる。そういう確信がおれの中に芽生えた。


 これから先は、ずっと一緒だ。


「……葵」


「なぁに?」


 おれの手をぐいぐい引っ張り前を行く葵の背中に呼びかけた。


「これから、よろしくな。……おれの嫁さん」


 可愛すぎる、おれの大切なひと。くるくる変わる感情から目が離せない。


 今は汗を流しながらも楽しそうな表情を浮かべた葵は、一瞬きょとんとした顔でおれを見た後、にっこり笑って言った。


「……うん、よろしくね! 私の……?」


 『嫁さん』に対比する言葉を知らないのだろうと思ったおれはさっと助け舟を出した。


「……旦那さん、かな」


「ふふ、よろしく、私の、旦那さん」



 ……その鮮やかな笑顔をおれは一生、忘れないだろうと思った。



  

 *



 ようやくの思いで迷路を出たおれたちは、テントの並び立つ広場で飲み物を買い、一息ついた後で車に乗り帰宅した。


 玄関を開けた瞬間、どれだけ気を張って待っていたのか、お袋が飛び出してきて葵にしがみついてきた。

 急に抱きつかれた葵は驚きながらもお袋の背を撫で、「すみませんでした」と小さく謝った。その言葉にお袋は、ぶんぶんと首を振りながらも泣き出してしまい、しがみつかれたままの葵がどうしよう、という顔で見上げてくるのに苦笑して、おれは無理矢理お袋を引き剥がした。

 葵から引き剥がされても子供のように泣き止まないお袋を宥めつつ居間に移動させると、こちらもそわそわ待っていた様子の親父に、「帰ってくるのが遅い!」と怒られてしまった。既にアンナさんによって届けられていたらしい葵の鞄が居間の隅に置いてあった。

 親父はアンナさんの家からすぐに帰ってくればよかったのに、という意味でおれに怒っていたのだが、家出した自分が怒られていると思った葵は、涙を浮かべて親父に謝った。土下座しながら謝られた親父はたじたじになって葵を宥める羽目になり、懇願の目でおれに助けを求めた。

 居間は泣き止まないお袋と謝る葵、慌てる親父と三者三様の訳のわからない状況になっていた。ひとり外野の気分でそれを見ていたおれは、何だかこれもひとつの幸せの形か、なんて苦笑しながら葵を抱き起こし、親父とお袋に告げた。


「おれたち、結婚することにした。葵にも、もう返事もらったから」


 親父とお袋は揃って一瞬ポカンとしたが、すぐに満開の笑顔になって祝福の言葉をくれた。

 お袋は「よかったわねぇ」と何度も呟きながら葵の髪を撫で(おれのところへは来なかった、なぜ)、しばらくした後で「お赤飯炊かないと!」と涙を拭いながら台所へ向かった。

 親父は「よかったな」とひと言口にした後は、新聞を広げてその陰に避難してしまった。照れ隠しだろうと思う。


 残されたおれと葵は顔を見合わせてくすりと笑い合った。

 「ここに帰ってこられてよかった」と言った葵の安堵の表情に、おれも葵を取り戻せてよかったと心から思った。


 ほっと零れたため息は、幸福なため息だった。




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