ちょっと横道①
女性視点です
深い深いところで漂っていた意識がゆっくりと浮上していく感覚。長いこと暗い闇の底で丸く縮こまっていたような気がする。寒くなったり、熱くなったり、今まで感じたことのない温度。不思議な重さ。
水底から水面に上がってきたときのように揺れる光を感じて目を開けると、木製と思しき建物の天井がぼんやりと見えた。覚醒していく、意識。
……木? 天井に?
それはやけに低い天井で、今までそんな建物を見たことがない。おかしな所、とゆっくりと瞬きをしてぼんやりとそんなことを思っていたら、近くで誰かが動く気配がした。
すぐに体を動かそうとしたけれど、重くてうまく動いてくれない。仕方なく首だけを動かしたら、目の前に座り込んでうな垂れている様子の男の人がいた。彼は搾り出すようにぼそぼそと呟いた。
「昨夜の……ことは……。その、悪かった……」
昨夜のこと? 何だろうか。はっきりしない頭で何も考えられずに、素直な疑問だけが口から零れた。
「……な、にが……?」
声に出したら、疑問のことよりも自分の声がひどく掠れていてびっくりした。喉が痛いなんて感覚、いままで味わったことがない。
私がびっくりしていると、目の前の男の人も驚いた顔をして私を見つめてきた。目線がしっかりあって、私はその人の顔を見つめた。黒目、黒髪。その色自体はよくある色だけど、こうまで真っ黒な髪の人は天界ではお目にかかったことはない。ああ、そういえば闇の属性の神は真っ黒だって聞いたことはあるけど。
男の人は私を見たまま固まってしまっている。視線を動かしたら彼の後ろに花と緑が溢れる地面が見えた。惜しげもなく降り注ぐ光、緑のにおいのする風。茶色の大地。
「……ここは、どこ?」
「あ、えっと、ここは、その……」
不安になってきた。天界にだってこんな場所はある、でも何だか感じが違う気がする。答えを返してくれるだろうと期待して男の人に目線を遣ったけど、彼は説明にならない言葉を零すだけで、わけがわからない。
どうしたのだろうと内心で首を傾げていると、また他の人の声が聞こえた。今度は女性だった。
「あら、目が覚めたのね? よかったわ」
にこにこと笑って室内に入って来た女性。見慣れない服装。前掛けをしているということは、何かの職人なのだろうか?
男の人はその人が現れたと知ってほっとした様子だった。女性はにっこり笑って私を覗き込んだ。
「……具合はどう? 何か食べたいものはあるかしら。お腹は空いている?」
お腹が空いているか? そう聞かれて目が点になった。生まれてこの方、食べるという行為をしたことがない。食べる必要なんて私達天使にはないからだ。何を言っているんだろうと思いつつ、私はとりあえず首を振って否定しておいた。
そして再び、先ほど男の人に聞いた質問をしてみる。この女性ならちゃんと返してくれそうな気がする。
「……あの、ここは、どこ、ですか?」
「あら、ここは私達の家よ。あなたが川岸で倒れていたのをこの子が連れてきたの」
「……川、で……?」
あまりに意外な答えに、私はぼんやりと単語を聞き返した。……川? そういえば、私、川に落ちた気がする。橋の上から風に煽られて羽ばたく前に落ちてしまって、流れが速すぎてそのまま流されたところまでは記憶があった。
……川に落ちて流された。そして川岸に倒れていたところを助けてもらった? 考えれば考えるほどおかしい。あの川は流れ出た先は滝なのだ。滝が落ちる先は『魂の海』、どこまでも続く浮遊する海だ。川岸なんてありえない。
「そうよ、でも大丈夫。体も温めたしね、後は体力を回復させるだけよ。意識が戻ったのなら何か食べないとね。温かいものを何か持ってきてあげるから待っていらっしゃい、ね」
私は女性の顔を見つめて二、三度瞬きをした。……おかしい、天界の住人にこんなことを言う人はいない、天国にならいるかもしれないけど……。そこまで思って、私はある事実に行き当たった。……まさか。
慌てて起き上がろうとして背中を起こし、いつも通り羽で体を支えようとした。でも何故か上手くいかなかった。その時、まさか、のその考えが現実に確信へと変わった。
――羽が、翼が、ない。
いつも背中にある、ふわふわと柔らかいクッションを今感じられない。持っていたはずの力も出せない。急に不安になって泣きそうに苦しくなった。
「あ…の……、わたし……」
状況はつかめてきたがどうしたらいいのかわからず、目の前の二人を見上げた。こうして私を介抱してくれているのだ、悪いようにはしないのだろう、そういう望みを込めて。
「大丈夫よ、心配することなんてないわ。元気になるまで寝ていていいのよ」
……やさしい、人なのだ、と思った。こんな柔らかな雰囲気を纏って、優しく声を掛けられたことなどない。やっぱり、ここは天界じゃない。天界にこんな心を持った人などいないのだから。
かけられた言葉を素直に受け取って頷いた。今の体の状態を考えると、とてもじゃないけど動ける気はしない。意識ははっきりしているけれど、体がとても重く感じる。手足すら自由に動かないような。
私が考え込んでいる間に、女性は立ち上がり、黙って座っている男性に向かって声を掛けた。
「ああ、栄、早くご飯食べないと遅刻するわよ。お父さんはもう出かけましたからね」
ご飯、遅刻、お父さん……。これは、きっとあれだ。“資料”で読んだ家族、だ。きっと親、なのだ、彼女はこの男性の。私はもぞもぞと布団の中で動き、見慣れぬ低い木の天井を見つめた。
母親、父親。二人の両親がいて生まれてくるのが子供なのだという。私にとっては不思議な、未知の世界だ。そんなコトを考えていたらふと、川に落ちるときに見た、じじいの最後の顔が浮かんできた。喧嘩してばかりの、憎たらしく口うるさい、くそじじい。それでもあの人は唯一の、私の……。
「……ここは、地上なの?」
答えを求めたわけではなかった。ただ、自分の中で確認したくて呟いてみただけ。だから、それに返事が返ってきたことに驚いてしまった。
「……地上、だよ」
私ははっとしてまだ私の枕元に座り込んだままの男性を見つめた。「地上だ」と答えた彼の真意が分からず、じっとその目を見つめる。吸い込まれるような、どこまでも黒い瞳。曇りのない素直な人柄が表れているかのような、純粋な色。
彼もしばらく無言で私を見続けていたけれど、不意に目を逸らして小さくため息をつき、私に向かって微笑んだ。
「……大丈夫、後でゆっくり話をしよう? 危ないことは何もないから、安心して」
そう言いながら、彼は伸ばしてきた左手で、私の額の辺りを撫でた。その優しい笑顔と優しい感触に一瞬ぼんやりとしてしまったけれど、見ず知らずの男性にこんな風に触られるのは初めてで、どうしたらいいかわからずに私は布団の端を両手で掴んで持ち上げとっさに顔を隠した。ものすごく照れくさかった。
「あ、ご、ごめん……」
謝らなくてもいいのに、と言ってあげたかったけど、もう一度顔を出したときには彼は私の方を見ていなかった。明らかに肩を落としてしょげた様子で、そのまま廊下の方へ出て行ってしまう。
「……じゃあ……」
そう呟いてとぼとぼと歩いていく彼を、黙って見送った。なんだか手を叩いているように見えたけれど、何をしているのだろう。
私は布団から右手を出してそっと、先ほど彼に触れられた場所に触った。初めての感触、優しい……温もり。照れくさい、そんな感情が胸にわきあがったのも初めてだった。こんな感情が溢れる世界、ここが地上……。
「……ふふっ」
思わず笑い声を漏らすほどの嬉しい感情に心を満たされて、ひとりにやにやと笑ってしまった。彼が戻ってきたら、ゆっくり話を聞いてみよう。多分きっと、優しい人だと思うから。
作品執筆の進行状況&作者仕事の都合上、更新がゆっくりになります。
申し訳ありませんがご了承ください。