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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
59/128

46 迷路の中で




 ……甘かった。道順が単純だからすぐ出られるだろうなんて思ったのは。


「栄……道、合ってる?」


「ああ、合ってるよ。だって道はひとつしかないし」


 合っている、確かに。一応持ってきた地図を片手に歩いてきているのだ。曲がり道でもちゃんと来た道と方向を照らし合わせて右、左、と間違いなく曲がってきた。行き止まりにも当たっていないし出口の方向も大分近づいている……はずだ。そもそも行き止まりはあっても実際道は一本しかないのと同じつくりになっているから迷うはずもない。


「……疲れた……」


「ああ、ちょっと休むか」


 とぼとぼと歩いていたおれたちは、ため息と共に立ち止まった。もう何十分も代わり映えのない緑と黄色の通路の中で、燦燦と照らしてくる太陽を避けて日陰にしゃがみこむ。


 ……『一度入ったら三十分は出てこられない』 この言葉が本当に意味していたのは、迷路の複雑さではなかった。


 迷路がでかすぎる。


 通路の幅はおよそ一メートル強。人がふたりで歩いて悠々通れる広さだ。ひまわりの背丈は一本一本まちまちではあったがおれの背を越えているものはそんなにはない。にもかかわらず群のようにびっしり育っているお陰で見渡す限り緑の海。地図に示された道順の通りに歩いてきているのだが、地図上で辿るのとは違って曲がり角までの道が異常に長い。この地図の縮尺はどうなっているんだと聞きたくなるほどに果てなく続く道。

 そしてあざ笑うかのような黄色の花、花、花。幻影のように纏わり着いて目を眩ませる。

 ああ……ゴールが遠い。とてつもなく遠い。


「一体どれくらいの広さで作ってるんだ、この迷路」


 憂鬱にため息をついて、地図に目を落とす。現在地……おそらくはここ。半分以上は来ているはずなのだが、なにせ実際の迷路が巨大すぎてあとどのくらいでゴールにたどり着けるのか検討も着かない。ゴールまでの道筋を目で追ってまたため息をつき、近くに行き止まりがあるのを見て葵の手を引いて立ち上がった。


「道端でしゃがんでるのも他の人に迷惑だろうから、行き止まりに行こう」


「うん」


 汗をかいて大分疲れた様子の葵は、それでも元気に立ち上がっておれに従ってくれた。ちょっと歩いて角を曲がったら、地図どおりに現れた行き止まり。初めて行き止まりに来たのでわからなかったが、この迷路の行き止まりは休憩地点になっているらしく、休んでくださいといわんばかりに木製のベンチがどんと置かれていた。


「おお、なんとおあつらえ向きな」


 といいつつ葵を座らせ、おれも隣に座った。ちょうどよく太陽が影になる方向に置かれていたため、日陰の涼しさに思わずため息が零れる。まさかベンチの角度すら計算ずくかとも思ったが、疲れている今はとにかく座れる場所があるのがありがたかった。


「葵、大丈夫か? こんなことなら何か飲み物でも買って入ったらよかったなぁ」


「うん……そうだね。でも大丈夫だよ。ちょっと休んだらまた歩こう?」


「ああ」


 ざわざわと風にざわめく葉の音しか聞こえない、緑の香り溢れる迷路の中。上を見上げればどこまでも抜けるように高い青い空。のんびりと流れていく雲がなんだか恨めしい。


「……さかえ」


「ん? なんだ?」


 急に葵に呼ばれて、空を見上げていた首を元に戻す。


「あのね、ありがとう。迎えに来てくれて。……それから、ごめんね。ずっと、会わなくて」


 葵は申し訳なさそうにそう言って視線を落とした。

 気にすることないのに、そんなこと。今、この瞬間、ふたりでいられることがおれにとってどれほどの幸せか。だからそんな些細なことはどうだっていい。ただ、いまおれの隣にいてくれるだけで。


「いや……、いいんだ。気にしなくていい。おれのほうが悪かったから……葵にいろいろ気に病ませちゃったな。ごめんな」


 そう、そもそもの原因は全ておれにある。葵が気にすることなんてひとつもないのだ。


「……栄にもらったお花……嬉しかった、よ」


 葵がさっと視線を逸らして照れくさそうに言う。


「ああ、あれは……」


 葵に会いに行っておれが大失態を犯した日、洋一が持たせてくれた花束のことだろう。握り締めていたから茎がいくらかやられてしまっただろうが、葵が喜んでくれたならあの花も仕事を全うできたというものだ。


「あれはな、おれの友達が持たせてくれたんだ。洋一って言って、ああ、洋二の兄貴なんだけど」


「洋二さんのお兄さん?」


「ああ。今度紹介する。洋一も紹介しろって煩いし。洋一は花屋だから、ああいうの作るのは上手で。それでおれに葵に持っていけって持たせてくれた。……おれがもっと気を利かせて買いにいければよかったんだけどな、おれは本当に気が利かないし不器用だから、みんなから背中押されてばっかりで……」


 本当は言わなくてもいいことだとは思う。けれどもおれが情けないのなんて今更だ。葵にはそのままのおれを知っていてほしかった。どんなにかっこ悪くても、情けなくても、それでも葵を好きでいると誓ったのだから。そのままのおれを好きになってほしいと願ったのだから。

 苦笑いとともに葵を見たら、彼女は穏やかに笑っていた。


「……例えば?」


 楽しそうに先を促されて、おれは普段は上手く動かない口をもう一度開けて考える。


「えと……、そうだな。職場ではいろんな職人さんに叱咤激励されて……『葵ちゃん奪還作戦』とか、みんなが考えてくれたり」


 ちなみに作戦内容はとにかく家に押しかけて攫わんばかりの勢いで奪い返す、という乱暴なものだった(これって作戦って言うほどの内容かと思ったけど口には出さなかった)。

 葵に追い返された翌日、『作戦失敗しました』と言ったらヨシさんとタムさんを中心に作戦パート2が提案されたものの(内容な電話をかけまくるというもの)、『そんな相手方に迷惑なことはできません』と言ったらしょげてしまってそれ以来はとにかく、大げさに毎日励まされ続けた。考えうる作戦はそれで尽きてしまったらしい。面白い人たちだ。


「洋一もいろいろ相談に乗ってくれたし……後は谷中先輩とか、洋二とか。親父とお袋もはらはらしながら見守ってくれたし、それにアンナさんも、アンナさんのおじいさんも助けになってくれた」


「……そっか」


 『アンナさん』とおれが口に出した途端しょげ返った葵を見て、まだ気持ちの整理ができていなかったのかと驚く。先ほど車の中でおれが好きなのは葵だと言ったのだが、まだそれでは納得できないのだろうか。


「……なぁ、葵? アンナさんのこと、そんなに気になるのか?」


 尋ねると、葵はスカートの膝のあたりをぎゅっと握って唇を尖らせた。何か不満がある時の、葵の顔。


「だって……。アーレリーがあんな風に言うなんて、初めてだもの」


 すねたような物言いに思わずくすりと笑いを零して、おれは葵の頭を撫でた。これはおれのことがどうこう、と言うより、アンナさんがそんなことを言ったという変化に戸惑っているのかもしれない。


「アンナさんはおれたちの為に一芝居打ってくれたんだよ。葵よりもさ、早くこっちの世界に来ているんだもの、アンナさんのほうが人間の世界に詳しいだろう? 仕事もしてるし、処世術の一種だよ。ああやって演技するのもさ」


 アンナさんの勤める市役所ではよりああいった芝居も必要なのかもしれないなぁなんて頭の片隅で思う。職場の人間関係は一番の悩みの種だ。かつての窓口のおじさんのように暇そうな人もたくさんいたし、女性も多い市役所ではあれこれ噂話も多そうだ。


「だから気にすることはないよ。な?」


「う……ん……」


 安心させるように言ってもまだ納得いかない様子でもじもじしている葵の髪を撫でながら、おれは先ほどから聞こうと思っていたことを今聞いてみようと思った。


「な、葵。そうやってアンナさんがおれのことが好きかどうかを気にするのって……どうして?」


 あえて意地悪く聞いてみる。すると葵はぱっと顔を上げたあと、しゅん、とまた暗い表情になって言う。


「え……と……。だってもし、もしもアーレリーが栄を好きなら、私……」


「……ん?」


「私……勝ち目無いもん……」


 ぼそっと呟くように零した言葉を、おれの耳は確かに拾った。ニヤついてしまいそうなのを堪えて、何故そう思うのかを更に促す。


「勝ち目って、何の? 何でそう思うんだ?」


「だって……アーレリーは私より仕事できるし、しっかりしてるし……なんだかお姉さんって感じなんだもの。アーレリーを比べたら私、子供っぽいっていうか……顔は生まれたときから変わらないから仕方ないんだけど、アーレリーの方が美人だし……」


 ぶつぶつ言い連ねる葵が愛おしくて仕方がない。なるほど、葵もアンナさんへの劣等感を抱いていたのか。自分はダメだと思ってしまうところはおれたち案外、似ているのかもしれない。


「だからもし、アーレリーが栄のこと好きって言ったら……」


「おれがアンナさんを選ぶかもしれないって?」


 ――そろそろ決定打がほしいな。


「っ……! う、うん……」


 弾かれるように顔を上げ、まん丸の大きな目でおれを見た葵をこちらからもじっと見つめ返す。


 ――もう葵の気持ちはわかっているけど、決定的なひと言が、ほしい。


「……葵?」


「っ、は、はいっ」


 わざと低い声で名前を呟くと、葵は肩を大きく震わせて固まった。膝の上で手をぎゅっと握り締め、おれの言葉を待っている。その少し震える右手をそっと取って、おれは両手で包み込むように握った。


「……おれはこんなに葵のことが好きなのに、アンナさんを選ぶと思うの?」


「……っ……!」


 葵は顔を真っ赤にしておれを見つめる。あんぐりと開いた口がきゅっと閉じ、何かを堪えるようにかみ締められる。でも向けられたその視線が、赤くなった顔が、震える肩が、全てが物語るおれへの気持ち。


 ――もう一息だ。


「おれは、葵が好きだよ。葵は、おれのこと、好き?」


 言いながらしっかり捕まえたままの葵の手を口元に引き寄せ、その細く白い指にそっとキスを落とす。


 自分が自分じゃないみたいだった。わざと屈みこんで下から見上げるように葵を覗き込んで言う。しかも葵の右手が動揺に揺れても、がっちり掴んで離さない。

 もう洋一の王子気質が乗り移ったとしか考えられない。普段の口下手プラスど不器用のおれからしたら一体どんな状態だと、何か変なもの口にしたか、という勢いなのだがこれは多分……。


 葵が顔を真っ赤にしてこくんと頷いた。泣きそうに潤む綺麗な瞳を見つめながらおれは葵の頬をそっと撫で、そして更に意地悪く言葉を重ねる。


「……言って、葵。言葉にして、聞かせてくれ……」


 ……多分、余裕があるからだ。望んだ答えを葵が返してくれる確信が、おれに自信をくれるから。


 葵はおれを好きだと、おれはもう知っているから。


 意地悪く見つめ続けるおれに観念したのか、葵は何度も瞬きをして震えながらそっと息を吐いた。そして一度閉じた目を開き、まっすぐにおれを見つめて言った。……言ってくれた。


「……好きだよ、栄。……栄が、すき……」


 ――昇天しそうなほど嬉しくて目が眩む。


 ああ、おれは今幸せな夢を見ているのだろうか。ものすごく都合のよい夢。

 思わず全身に力を入れ、手の中に握り締めた葵の手の感触にハッとする。握りすぎていなかったかと慌てて力を緩めて葵の顔を見ると、葵は恥ずかしそうに目を伏せつつも、しっかりおれの手を握り返してくれた。


「……ありがとう」


 おれは無意識にそう零していた。


 ――ありがとう、おれを好きになってくれて。


「ふふ、どうして『ありがとう』なの?」


 葵はまだ赤い顔をしていたが、不思議そうに首を傾げて笑った。

 ベンチに並んで座って、でも身体はお互い向き合って。視線はお互い外すことはない。もう他のものなど見ることはできない。


「ん……それはもう、奇跡的なことだから。天使の葵がおれのもとに来てくれたことも、どうしようもないおれを好きになってくれたことも、信じられないくらいの奇跡と同じことだから、さ」


 ぎゅっと握りしめた手を少し緩めて、今度は指を絡めた。暑くて汗ばんでいてもそんなこと気にしている余裕なんてなかった。ただ、もっと近くにいたくて、葵を感じたくて、仕方がなかった。葵も同じように思ってくれたのかもしれない。指は自然に絡み合ってまたぎゅっと力が込められた。

 至近距離で見詰め合う、森の中の湖のような、あの緑がかった茶色の大きな瞳。星屑をばら撒いたように、今、光を含んでキラキラと煌めいておれを見る。透き通った虹彩の中に映る、自分の顔。


「奇跡……。そう、奇跡なのね……」


 葵は感慨深くそう呟いて、ゆっくりと瞼を閉じた。

 おれは爆発しそうなほど大きく膨らんだ想いを胸の中でもてあましていたけれど、何故か不思議と落ち着いた気持ちでそれに応えることができた。


「すきだよ……」


「うん……」


 広い広いひまわり畑の中で。緑と黄色の織り成す自然の絵画の中心で。

 まるで自然の摂理のように、そうすることが世界中の当たり前みたいな気持ちで、おれは葵にキスをした。


 触れるだけのキス。暑い気温よりも体温の方が少し低いのか、ちょっとひんやり感じる葵の唇。柔らかさと感触と、それ以上の込み上げるような感動がおれの胸を満たす。


 そっと唇を離してまた、鼻が擦れそうなほど近い距離で微笑みあう。

 満ち足りた気持ち。これ以上ない幸せに浸りながら見る葵の顔は、今まで以上に綺麗で、そして可愛かった。


「……ねぇ、さかえ?」


 どこかトロンとした目で葵が首を傾げておれを見る。可愛すぎる上目遣い。


「なんだ?」


「あの……えと、『特別なキス』は、しないの?」


「は?」


 ……一瞬で夢から覚めたような気がした。

 と、『特別なキス』と言うのは所謂あの……。


「だって私も栄のこと『特別に好き』ってわかったもの。特別に好きな人同士は、あの夜みたいな特別なキスをするんでしょう? 栄はそう言っていたよね?」


「あー……そう、だったな……」


 葵の純粋無垢でありながらどこか妖艶さも感じられる微笑みに、『ここは公共の場だぞ! いつ何時誰がやってくるかも知れない迷路の中なんだぞ!』と叫ぶ、一瞬起こされた理性の声が遠ざかっていく。


 ……いいじゃないか、どうせ行き止まりなんだし。誰も来ないし。見られてないし。


 心の中で盛大に言い訳をしながら、おれの右手は葵の頬に伸びていく。自分の動作ながらまるで人事のようにゆっくりと動き、滑らかな頬に触れた。……キスならもうしちゃったしな、今更だ、うん。これ以上どんなキスしたって……。


 ゆっくりと近づいていく顔と顔。瞼を伏せて……という時。


「おかぁさーん、はやくぅ~!!」


「はいはい、ちょっと待って! 急ぎすぎるとはぐれちゃうから、ダメよ、走ったら!」


「おかあさんのど渇いたよー」


 突然至近距離から聞こえてきた大声に、おれも葵もびくりと身体を強張らせた。


 慌てて身体を離して視線を走らせるが、そこには人はいない。ざわざわとひまわりを揺らしながら遠ざかっていく子供と母親の声から察するに、一列挟んで隣の通路を歩き去っていったようだ。


「…………」


「…………」


「や、やっぱりあれだ。その、キスは帰ってから! 夜になってから!! ……な?」


「え? ……うん、わかった」


 居た堪れなくなって立ち上がり、両手をじたばた動かしながら葵に言う。ああ、やっぱりこんなところでキスなんてダメだ!

 絶対に真っ赤になっているだろう顔でそっと葵を窺うと、葵は首を傾げてきょとんと瞬きをした。……どうやら人前でキスすることへの恥じらいはないらしい。


「……それもそうか、キス自体知らなかったんだし」


「うん?」


 反対側に首を傾けておれの言葉を待つ葵がちょっと憎たらしい。こんなむず痒い想いを共有してはくれないのかと、頭をがしがしと掻きながらため息をつく。恥ずかしすぎてもうこの場でじっとしていられない。じたばたする気持ちを足に伝え、おれは葵の腕を掴んで歩き出した。


「あ~っ、もう行こう!」


「うわっ、栄! ちょっと待って!」


 慌てた葵の声が後ろからついて来る。行き止まりになる曲がり角までどすどす進んで、おれは立ち止まった。

 

 ――たとえ想いを共有できなくても


「ぶっ! ……さかえぇ、何で急に止まるの?」


 おれに引っ張られるまま小走り状態で歩いてきた葵は、急に立ち止まったおれの背中に鼻をぶつけて呻いた。恨めしそうに見上げてくる大きな瞳。おれは葵の腕をきゅっと掴んだまま、意を決した。


 ――彼女以外、もう考えることなんてできない。


「葵」


「ん? なぁに?」


 静かに名を呼ぶと、葵は気まぐれなおれの行動に怒ることもなく素直に見上げてきてくれた。その、無垢な瞳。

 どんな出来事によって起こったどんな感情さえも、葵はきっと柔軟に吸収して消化していくんだろう。おれと出会ってから知った、この世界のいろいろを楽しげに受け入れてきたように。


「あのさ……突然、なんだけども」


「うん」

 

 彼女は天使だから、この世に生まれて当たり前のように成長してきた人間ではないから、これから先、“知らない”故に起こる事件もぶち当たる壁も山ほどあるだろう。そのために恥ずかしい思いをすることだって、辛い思いをすることだってきっとある。……でも、それでもおれは、その一つ一つを彼女に教え、一緒に歩いていきたい。


 たとえ世間一般の常識とかそんなものを知らなくても。

 同じ想いを共有できなくても、共感できなくても。

 葵が葵であるだけで、彼女が傍にいてくれるだけで、おれは十分だ。

 彼女だったらきっと、首を傾げてきょとんとした後、ふっと笑ってくれるから。

 いつだってきっと、その優しい微笑みをおれに向けてくれるから。


 ……だから。


「葵、結婚してくれ」



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