44 帰ろう
夕飯が終わってシャワーを浴びて、タオルで髪を拭いていた。どしどしと廊下を歩いていて、リリリリ……という電話の音が聞こえたとき、一番近くにいたのがおれだった。
一瞬取るか取るまいか迷った。先日の悪夢のような電話を思い出したからだ。
数日前の夕方かかってきた谷中先輩からの電話。
『ったく、何やってんだよ栄!! あんな可愛い子、ひとりでふらふらしてたら一メートル歩くごとにナンパされるよ! お前がしっかりガードしてやらなきゃダメだろが!!』
と開口一番に怒られ。事情もよくわからないまま黙っていたら、やれ『お前は昔から女の子には弱いのに』やら『だからいろいろ教えてやったのに全然役立ててない』とか、『おれというものすごいアドバイザーが近くにいるのに何故活用しようとしない』とか、散々愚痴愚痴と罵られた。挙句、
『とにかくお前がしっかりしろ、葵ちゃんは待ってるんだから!』
と勝手に葵の気持ちまで代弁され、不愉快極まりない電話に疲れ果て、がっくりしたのだ。
それ以来、出てみれば洋一からの進捗状況の確認電話だったり(状況を話しては怒られる)、はたまた洋二からの勘違い泣き電話だったり(宥めるのに苦労する)と、なんだかいい電話なんて掛かってこない気がして、極力自分からは電話に出ないようにしていた。しかし。
「さかえー、そこにいるんなら早く出て!」
台所から顔を出したお袋が、呆れたように声を上げ引っ込んでしまったので、おれが出るほかなくなってしまった。
しぶとく鳴り続けるベル。しかたなくおれは受話器を取り上げた。
「はい、日向ですが」
『……もしもし、日向さん?』
「え、あ、アンナさん? ど、どうして……」
完全に予想外のひとからの電話だった。
葵がアンナさんの家に行っておよそ一週間。おれは突撃して撃沈したあの日以来、毎日アンナさんの家に通ってはいたが、アンナさん自身に会うことはなかった。多分定時で上がって車で速攻向かっていたおれと違って、アンナさんは自転車通勤だし夕飯の買い物なんかもあったせいだと思う。しかしアンナさんから電話があるなんて、一体何の用だろうか。葵に何かがあったとか。
『あのね、明日土曜日よね。あなたお仕事は休みなのかしら?』
「え、あーっと、明日は午前中は仕事なんだ。午後からは休みなんだけど」
何の話だ?と思いながら、聞かれたことに素直に答える。
『あら、そうなの。じゃあ午後からでも構わないわ、デートしましょう、私と』
「はっ?」
『えっ!?』
電話口のおれの声と、向こう側の誰かが驚いた声が重なった気がした。
「……もしかして、葵……傍にいる?」
驚愕のアンナさんの提案に一瞬思考が飛んだが、かすかに聞こえた葵の声に思わずそう口走っていた。
『……いえ、気にしないで。それで、返事はいかが? 別にいいでしょう、アルはどうせあなたと会おうとはしないのだし、私は逆に暇なのよ。付き合ってくれてもいいわよね』
「気にしないでって……」
何だその気になる状況。……アンナさんは何を思っておれをデートになど誘うのだろうか。しかも葵にわざと聞かせるような状態で。
おれのことが好きになったとか、そういうのは十中八九ありえないだろう。おれはアンナさんに好かれるような要素を彼女に見せてなどいない。アンナさんが知っているおれは、洋一に貶され谷中先輩にこき下ろされ、そして両親に慰めてもらうような情けなさ満点の男なのだ。だからこそ腑に落ちなくて首を傾げる。
「確かに葵はおれに会おうとはしないし、お世話になってるアンナさんに付き合うのはもちろんダメとはいえないんだけど……それってもしかして、おれと、葵のため……とか?」
言いながらなんとなく閃いて疑問系で尋ねる。まさかアンナさんは、葵を挑発しようとしているのではないだろうか。
『……ええ、そうよ』
あっさり認められて逆に拍子抜けしたおれは、やっぱりそういうことだよな、とほっとして息を吐いた。一瞬、ほんの一瞬、本気でアンナさんにデートに誘われているのかもしれないと焦ってしまった。
「ははは、びっくりしたよ。……じゃあアンナさんの作戦に乗るよ。どちらにしても、明日も行くつもりだったし。えと……そしたら、実際どうなるのかな? アンナさんとデートに出かける振り、をするってこと? 場所は?」
『……場所はどこだっていいわ、あなたに任せる。車で来てくれると助かるわ』
「じゃあアンナさんの行きたいところに付き合うよ。買い物とか? せっかくだから足に使ってもらって構わないし」
どういう状況でそういう発想に至ったのかはわからないが、アンナさんはおれに協力してくれるらしい。アンナさんのそっけなく、いっそ冷たく響く口調はきっと、隣で耳をそばだてている葵のためなのだろう。葵の気持ちを波立たせるための。
葵が、どんな顔でどんな様子でおれたちの会話を聞いているのかがとても気になる。
……葵は、少しは意識してくれているのだろうか。一週間、出てきてくれることのなかった葵は。
葵もおれのことを意識しているからこそ頑なに会おうとはしないのだと、それだけを強く願って毎日通っていた。なんとも思っていないのならば、さっと出てきて引導を渡してくれるだろう、と。
だから出てきてくれないことを怒っているわけではない。でも今日こそは、と意気込んで尋ねて行って顔も見られない日々を重ねていけば、だんだん気持ちも落ちてくるというものだ。もちろん諦めてなんかないし、まだまだ葵に気持ちが届くまで通い続けるつもりだった。だけど、もしも葵がおれのことで感情を荒立てることがあるならば、それがどの方面の感情でも構わない、とにかく一目会いたかった。
「そしたら、明日仕事が終わったら車で行くよ。一時くらいでいいかな?」
ひとまず時間の確認はしておく。実際明日どうなるかはわからないが、一時になら仕事が終わってシャワーを浴びてご飯を食べて出かけるくらいの余裕はある。
『……ええ、そうね。……わかったわ、では明日の一時に家の前で』
「うん、よく分からないけど、よろしく。いろいろ世話になって……本当にありがとう」
アンナさんには頭が上がらない。葵を押し付けるような形で預かってもらって、そしてこんな風に気を回して協力してくれているのだ。おれはその人の良さに敬服する気持ちで感謝の言葉を呟いた。
『……おやすみなさい』
「あ、ああ、おやすみなさい」
何らかの返事が返ってくるものかと思っていたけれど、アンナさんが呟いたのは会話の終わりを告げる文句だった。おれは慌ててそれに返し、向こうが電話を切るのを待って受話器を置いた。
「……ふー……」
なんだかよく分からなかったけれど、とにかく明日は葵に会えるかも知れない。
うきうきし始めた心をもてあましつつ、明日の仕事の算段を考える。なるべく早めに切りあがるようにしないとな……。
明日はきっと、何かが変わる。
そう思えるような、久しぶりの上向いた気持ちで夜を過ごした。
*
既に通いなれた坂道。アンナさんの家の門の脇、道路になるべく寄せるようにして車を停めた。
今日は軽トラじゃなく、親父の白いカローラを借りてきている。実はうちには親父の大型トラックと、おれの軽トラのほかにもう一台乗用車があるのだ。仕事には乗っていかないのでもっぱら休日にしか使われない車だが、この間の親父とお袋の同窓会のときのように、一張羅を着込んで出かける際などに活躍する車だ。何年も乗ってはいるが、使用頻度が低いために新車さながらに光っている乗用車の白いボンネットをひと撫でし、おれは車の前を回りこんで門のところへ行った。
『明日アンナさんに呼ばれたから行ってくる』と、親父に言ったら無言で貸してくれた車のキー。
別に出し惜しみしているわけでも、普段貸してくれないわけでもないが、今日が何かの変わり目だと親父も察したのかもしれない。『やっぱり軽トラじゃカッコつかないよな』と笑ったら、『そうだ、精一杯カッコつけて来い』なんて背中を叩いてくれた。
今日は、今日こそは。
葵に会って、そしてこの気持ちをちゃんと伝えたい。
帰ってきてくれと、頷いてくれるまで頼み込む。
……よし。
気合を込めてインターホンを押す。腕時計をちらっと見たら丁度一時を指したところだった。
ガチャ、と遠くで音がしたので顔を上げると、玄関のドアが開いて誰かが顔を出した。
「あ、アンナさん」
「……こんにちは。時間ぴったりね」
アンナさんはいつも通り美人オーラを撒き散らしているのが遠目にも確認できたが、今日の彼女はいつも以上に何だか……すごい。深い群青色の髪に似合うダークレッドのワンピースは、スタイルの良さを引き立てるのと同時に彼女の華やかさを強調しているようだ。それに高いヒールの赤い靴。
一体どこに行くつもりかと一瞬呆けたが、あれそういやデートって話だったっけ、と自分の恰好を見下ろす。
おれはと言えば、多少カッコよく決まるようにと選らんだベージュの綿パンに、上は紺色のポロシャツ。一応名のあるメーカー品で、なんとか取り繕えればなとは思っていたのだが、あのアンナさんの恰好と比べてしまえばみすぼらしさに撃沈してとても隣なんて歩けないと思えた。
そうこうしている間にアンナさんはカツコツとヒールの音も高く、こちらに近づいてきていた。
「……ちょっと気合入れすぎたかしら。でもこうでもしないとあの子、動かないかなって思って」
アンナさんが後ろを気にしながら小声で呟いた。見えはしないがおそらく、玄関のところに葵がいて、こちらを窺っているのだろう。
「えっと……それで結局、おれはアンナさんと出かければいいのか? どういう作戦か教えてもらえるとありがたいんだけど」
おれも声を落としてアンナさんに合わせて言う。なるべく向こうを気にしない素振りでいるのがいいかと、じっとアンナさんを見つめてみる。
「そうね……それもあの子次第なのだけれど。……少し脅してみましょうか」
アンナさんはそう言って、おれの腕を取った。そしてわざとらしく声を張り上げる。
「おじいさまー! では私いってまいります!! アルをよろしくお願いします」
アンナさんに腕を組まれて隣にぴったりと寄り添われたおれが驚き目を丸くしていると、玄関からのっそりとおじいさんが現れた。杖をついた反対の手を上げ、こちらに笑顔を向けた。
「ああ、アンナ。行っておいで。日向さん、よろしく。……おやアルシェネさん、そんなところにいないで出てきたらどうだい?」
おじいさんもなんだかわざとらしく声を張り上げ、そこにいるのだろう葵に声を掛けた。視線を移すときに一瞬、おれにウインクをしてくる辺り、手慣れているなぁと感心してしまう。
「アルー? 日向さん連れて行っちゃうけど、いいのよね? アル、要らないって言ってたものね」
アンナさんは口に両手を当てて言う。……ものすごい挑発だな、と隣でたじろいでいたら、葵が玄関前に走り出てきた。ひどく混乱しているようすで、斜め下を向いたまま振り絞るように声を出す。
「栄はっ……! 物じゃないよっ! 要るとか要らないとか……。それに私、要らないなんて言ってな……っ!」
言いながら顔を上げた瞬間、葵はハッとして後ずさった。大きく見開かれた目に、動揺が走った。
どうしたのだろうかとおれが一歩葵に近づこうとしたら、組まれていた腕がアンナさんによって引き寄せられた。
「まだ、ダメよ」
アンナさんは小さくそう呟くと、わざとらしく大きな動作でおれと腕を組み直し、頭をこてんとこちらに倒してきた。丁度おれの肩のところにアンナさんの頭が来て、彼女のまっすぐな髪がさらりとおれの胸の前に落ちる。
「アル? 要らないって言ってないけど要るとも言ってないわよね。ならもらっちゃっても文句はないのよね、だって別にアルのものでもないんでしょ?」
近すぎてアンナさんの表情は見えない。でも声の調子や動作から察するに、きっとすごく妖艶に見えているのだろう。向こうにいる葵が、ぐっと押し黙ってでも何か言いたそうにしているのが見えた。……何だか泣き出しそうな顔。
「…………」
「沈黙は肯定。……じゃあそろそろ行きましょうか?」
そっけなくもアンナさんはそう言って、おれの腕を引いて体の向きを変えた。おれとしてはあの泣きそうな顔をした葵が気になって仕方がないのだが、何をどういったらいいのかわからず、アンナさんに引っ張られるままに一歩踏み出す。
背を向ける瞬間、葵の大きな目が更に大きく見開かれるのが見えた。アンナさんがぼそりと呟く。
「……もう一押しってところね」
「……え?」
少し歩いただけで立ち止まったアンナさんに合わせ躓くように立ち止まると、おれは何がもう押しなのかわからないまま聞き返した。ちょっと屈んでアンナさんを窺うようにすると、アンナさんはサッと顔を上げてにっこりと笑った。
どういう意味の笑みなのかと考えているうちに、アンナさんの手がおれの肩に乗った。
「え?」
……この体勢は。
おれがそう思った瞬間、アンナさんは悪そうな笑みを深めた。
肩に置かれたはずの手はいつの間にかそのまま首の方へと回っていて、スマートに痩せているのに女性特有の柔らかさを持った身体が、おれに寄りかかるように体重を乗せてくる。ふわりと香る芳しい香り、近づいてくる顔。
……え?? は? 何、何なんだ、この状況。アンナさん? ちょっと、あなた何するつもりで?
顔中に疑問符を貼り付けてアンナさんに瞬きを繰り返していると、遠くから悲壮な叫び声が上がった。
「だ、だめぇっ!!」
その声にハッとして、咄嗟にアンナさんの身体を引き離す。
両手で腰を掴んで力を込めたら全く抵抗なくすっと離れたその身体に、最初からキスなんてするつもりはなかったのだとアンナさんの意思を読み取る。一瞬呆然としてアンナさんを見たが、彼女はしてやったりといった表情で葵を見ていた。
「えっ……と、あの、一体どういう……」
何がどうなっているのかとアンナさんに尋ねようとしたら、葵の大きな声に遮られた。
「や、やだよぅ、栄とキスしちゃやだ!! ……やだ……栄を、連れて行かないで……」
葵を見れば彼女は泣き出してしまっていて、ダダを捏ねる子供のように涙を拭きながら何やら文句を言っている。その後で小さな孫娘を宥めるように背中を擦るおじいさんはどこか嬉しそうにおれを見て、準備万端のハンカチをスマートに差し出していた。
「……葵……」
思わずぽつりと名を呼ぶと、葵ははっと気づいたようにこちらを見、おじいさんのハンカチを握り締めよろよろとこちらへ向かってくる。ぼろぼろ零れる涙を手の甲で拭い必死の様子で呼吸しながら歩いてくる。
「……っ、さかえっ……やだぁ。っく、私以外と、っ、キス……しないでぇ……!」
「葵、それって……」
一歩一歩、ふらつきながら近づいてくる葵の言葉が信じられない。
それは、その言葉は、まるでアンナさんに嫉妬しているようじゃないか?
まるでおれを好きだと、言っているようじゃないか?
「ふふ、作戦成功。後はよろしく。……ああ、アルの荷物なら後で持っていってあげるから気にしなくていいわ。好きなところにデートに出かけてらっしゃいな」
アンナさんはおれの隣でふっと笑ってそう言った。その不敵な笑みをぼんやり見た後、葵の歩いてくる方を見ればその向こうでおじいさんがひらひらと手を振っている。よかったね、と言わんばかりの笑顔で爽やかに笑うのを見ながら、呆然と瞬きだけを繰り返す。
アンナさんは挑発する言葉と行動を繰り返していた。
……葵の気持ちを知っていて、わざと。
そうこうしているうちに葵がおれたちのところまで歩み寄ってきた。涙でぐしょぐしょになった顔を握り締めたハンカチで拭くこともせずに、真っ赤になった瞳でキッとアンナさんを見上げて口を開いた。
「……栄は、アーレリーにあげない。……連れて行かないで」
意を決して告げられた言葉に、アンナさんはまるで手のかかる妹でも見つめるような表情でふっと笑った。そして手を伸ばし、葵の髪をそっと撫でる。
「……最初から、連れて行くつもりなんてないわよ」
そう言うとアンナさんはすっと身体を引いて、葵が歩いてきた石畳の小道を颯爽と歩き出す。
カツコツと鳴るヒールの音がだんだん遠ざかっていくのを聞きながら、おれは信じられない思いで葵のことを見下ろしていた。
……なぁ、葵。さっきの言葉は本当か? それともおれの勘違いか?
「……葵」
そっと呼んだら葵の肩がびくりと震えた。そして恐る恐る、と言った様子でこちらを見上げてくる。涙と鼻水が一緒になってぐちゃぐちゃになった顔がどうしようもなく可愛らしく、愛おしい。
おれは葵が握り締めたままのおじいさんのハンカチの代わりにポケットから取り出した自分のハンカチで、その顔を拭ってやる。『ちゃんとハンカチも持ちなさい』と渡してくれたお袋に感謝だ。
涙を拭かれながらも葵はじっとおれの目を見つめ、離さない。大きなその澄んだ瞳が語る想いを何とか汲み取ろうとおれも見つめ返した。
……が、今するべきことはそうじゃない、想いを汲み取ることではなくて。
「葵。……好きだ」
囁くように告げると、ぴくりと細い肩が震えた。葵がひとつ瞬きをして、大粒の涙が頬を伝っていく。おれはその真珠のような煌めきを親指で掬い、頬に手を当てたままじっと目を見つめて思う。
……いま、今だ。……今、言うんだ。
「今まで……その、いろいろごめん。でもおれは、葵のことが好きなんだ。おれは葵にあの家にいて欲しい。……傍に、いて欲しいんだ」
葵はゆっくりと瞬きをするばかりで何も言わない。涙だけが瞬きに合わせて零れ落ちていく。何に対する涙なのかわからない。でも悲しげな顔ではないことだけがおれに勇気を与えてくれた。
「葵……一緒に、帰ろう?」
……言いたいことの全てだった。言わなくてはならないこと全部。
積もり積もっていた気持ち、胸の中でごちゃまぜになっていた気持ちがようやく整理されて言葉になった。
葵が出て行って一週間。
そもそも自分から彼女と距離を置いた。自分は彼女には不釣合いだと、これは遂げることの叶わない気持ちだと勝手に思い込んで。でももう葵はおれの心の中にしっかりと根を張っていた。
葵が実際にいなくなって、彼女がどれだけ自分の中の大きな部分を占めていたのか改めて思い知った。どうやったって埋めることのできない空洞。心に穴が開くなんて歌の中にしかないと思っていたのに、本当に深い深い穴がぽっかりと開いたような気がした。黒い黒い闇に、痛みを伴ってどんどん吸い込まれていくような恐ろしい感覚。
そして痛みの中に知る、ただひとつ残った真実。それはどんなに言い繕ってなかったことにしようとしても、誤魔化すことのできなかったまっすぐな気持ち。……その証明。
「…………好きだよ、葵」
諦める必要はないと教えてくれた親友。チャンスはまだあると励ましてくれたおじいさん。面白がってはいたが真剣におれの為の言葉をくれる仕事の仲間達。じっと見守ってくれる両親。
「好きだ」
もう隠すことも、迷うことも、しない。
その必要なんてない。ただ、葵を好きな気持ちだけが確かなんだ。
「好きだ。……だから、」
紡ごうとした言葉が、遮られた。
葵が泣き笑いの顔でおれに抱きついてきたから。
腰に回された腕。胸元にぴたりとくっついた顔。温かい息。ふわりと香る髪の香。
「……あおい」
名を呼んだら抱きしめられた腕にぎゅっと力が篭った。
……それが返事だ、と言われているようで。
おれは叫びだしそうな喜びを必死に堪え、葵の背中に腕を回した。埋もれた頭ごと抱きかかえ、柔らかい髪に頬ずりをする。
……ああ、なんて。
しばらく目を閉じたまま、葵を抱きしめるその感触を堪能した。柔らかさも温かさも優しい香りも、何もかもが幸せで泣きそうだった。葵もおれの背中に腕を回し、シャツをしっかり握り締めているらしい。下に引っ張られている感覚とくっついて離れない小さな頭。きっと涙と鼻水でおれのシャツは変色してるだろうなぁなんて思ったけれど、それは些細なこと。おれの傍で泣いてくれるならば、おれのシャツなんていくらでも濡らしてくれればいい。
腕の中にすっぽり納まって、もう逃げも隠れもしない葵に安心して息を吐き、視線を上げた。
はた、とここが人の家であったことを思い出して家主を探すと、アンナさんもおじいさんももうそこにはいなかった。葵の気持ちもおれの気持ちも知っていて一芝居打ってくれたふたりだ、おれ達に気を遣ってくれたに違いない。
「……あおい、葵。落ち着いたらそろそろ行こう。アンナさん達に悪いから」
おれ達がずっとここにいれば、アンナさんもおじいさんも庭に出ることも外出することもできないだろう。人の家の庭先で抱き合うなんて非常識なことを……。と、顔を赤くしながら思って葵を促す。
葵は持っていたおじいさんのハンカチで顔を拭きながらおれから離れた。一歩後ろに下がって顔を上げる。
「……うん」
赤く腫れた目じりで、まだ涙に潤む瞳で、葵は笑った。
憑き物が落ちたようなすっきりとした笑顔。今日の日の晴天のような、どこまでも澄んだ綺麗な笑顔。
おれをまっすぐ見て、また笑ってくれた。
……細かい話は、後だ。
「行こう」
おれは葵の手を掴み、門へ向かって歩き出した。
歩いていく間に、繋がれた手に加わった力。おれの手をぎゅっと握ってくれるその気持ちがむずがゆくも嬉しくて、葵に見えないように顔を背けて幸せをかみ締めた。
……やっと、伝えられた。そして、受け入れてくれた。
「っ、痛いっ!」
興奮しすぎて力を加えすぎたらしい。慌てて手を離して、葵の手を擦る。
「ご、ごめん!」
ああ、またやってしまった、と身を屈めて葵の手を両手で擦っていたら、葵がふっと噴出すのが聞こえた。思わず視線を上げると、口元に反対の手を当てて笑いを堪える葵の姿。
「……前にも、こんなことあったよね」
……うん、あったな。あの時も手を繋いだのが嬉しすぎて力が入ってしまったんだっけ。
「ああ、ごめんな。……気をつけるよ。だから……」
だから、また、手を繋いでくれるか?
言おうとする前に葵の手がおれの手を握った。細く小さな指がおれの指に絡む。前に引っ張られる力につんのめるように歩き出すと葵がこちらを振り向いて笑った。
「帰ろう、さかえ」
……繋がれた手。おれに向けられる笑顔。
「……ああ」
自然と、おれも笑顔になった。だってこんなときに笑わないなんて嘘だろう?
こんな、こんな幸せなときに。これ以上ない、喜びの中で。
「帰ろう、家へ。……一緒に」




