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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
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ちょっと横道⑨ アンナの挑発




開け放した部屋の窓辺に椅子を持っていって、私は庭を見下ろしていた。真っ暗な庭は一階のおじいさまの部屋から漏れる明かりだけに照らされて、一部だけがその姿を浮き上がらせていた。遠くに視線をやれば背の高い木の黒い陰がざわりと風に揺れる。

 コンコン、とドアをノックされる音が響いて、私は返事をした。開かれたドアから入ってきたのは、アーレリーだった。お風呂上りのようで濡れた髪をタオルで拭きながら、パタパタとスリッパの音を立てこちらへ向かってくる。


「アル、お風呂空いたわよ」


「うん、ありがとう」


 私は返事をして立ち上がった。お風呂、と聞いてとりあえず着替えの用意をしようと移動し始めた私を見て、アーレリーは何故かため息をつく。


「はぁ……」


「……なぁに、アーレリー。何か言いたいことでも?」


 らしくなく髪を乱しながら渋い顔をしているので足を止めて尋ねてみた。するとアーレリーは更に苦い顔になってこちらを見る。


「アル。今の私はアンナ。気をつけてよね。……言いたいことなんて盛り沢山よ、あなただってわかっているでしょうに」


 もちろんおじいさまの前で名前を呼び違えたことはない。でも私の中では彼女はやっぱりアーレリーなので、ふたりきりのときはどうしてもそう呼んでしまう。

 アーレリーは先ほどまで私が座っていた窓の傍まで行って、ちょうど入ってきた夜風に吹かれた。濃い色の髪が涼やかな夜の風に少しだけ靡く。視線はまっすぐ、遠くを見つめている。


「……今日でアルがここへ来て五日目よ。明日は土曜日。六日目になるわ。一体いつ帰るつもりなの? 日向さんの家に」


 真っ暗な庭を見ていたと思ったら、アーレリーは不意に視線を私に向けた。きつい目つきだが怒っているわけではない、でもなんだか呆れたような表情で何度か瞬きした。


 ――帰る、栄のところに。

 その言葉は今の私にとって聞きたくない言葉だった。そのことを考えるたびに、胸が苦しくざわついて、全ての思考が停止するから。


「別に……いつ、なんて決めてない。……それに私、帰るなんて一言も……」


 何をどういっていいのかわからず、でもアーレリーへの反抗心も手伝ってそんな言葉が出た。


「日向さんが毎日ここへあなたに会いに来てるって、おじいさまが言ってたわ。あなたが会おうとしないから、おじいさまが彼と親しくなってしまったじゃない」


「…………」


 ……実はそうなのだ。あの日、突然夕方やってきた栄が『また来る!』と叫んで帰った日の翌日から、彼は毎日、夕方仕事が終わるとその足でここへやってくるようになった。

 大体同じ時刻に鳴らされるインターホンのベル。ピンポーンとあの音が鳴る度にどうしたらいいかわからずおろおろと立ち竦む私を見て、おじいさまはにっこり笑って私の代わりに出て行って栄と話をしてくれる。

 私は息を潜めて栄が帰るのを待つ。栄も無理に私に会おうとはしない。ただおじいさまと話をして帰っていく。


「……いいんじゃない、おじいさまと楽しそうに話をしてるなら」


 そろえた膝の上で両手を握り苦し紛れにそう言うと、アーレリーは大きなため息をついて嫌そうな目で私を見た。


「本気で言っているの? 毎日毎日会いに来ているのはおじいさまでなくてあなたで、でもあなたが会おうとしないからおじいさまの顔を立てておしゃべりしていくのに、そんな風に言うわけ? 彼の気持ちなんて言われなくてもわかっているでしょうに!」


「……っ、わからないよっ! 言ってもらえなきゃわからないっ!!」


 わかっている、などと言われて頭の中がかっと燃え上がるような気がした。


 わかるはずがない、彼が何をどう考えているかなんて。わかっていたらこんなに悩まない、考えない。どうしたらいいかと迷って、不安になって、身動きが取れなくなったりしないはずだ。

 

「アル……」


 アーレリーの目が、先ほどまでとは違って心配そうな色を浮かべて私を見下ろしている。


「栄がどう思ってるかなんて、私にはわからない。彼が本当に、私に帰ってきてほしいって思ってるかなんて分からない!」


 今度は私が大きく息を吐いて、視線を逸らした。空気と一緒に、この胸の辺りに燻る靄も吐き出せたらいいのにと唇を噛む。


 栄がここにやってきたあの日から、もう何が何だか訳がわからなくなった。

 谷中さんと会って、私は栄のことが特別に好きなのだとわかった。だけどだからといってどうしたらいいのかなんてわからなくて、谷中さんの言うとおりに栄が迎えに来てくれるのを待っていようと思っていた。

 けれどもまさにその日、やってきた栄は私の服の入った鞄を差し出した。替えの服を持ってくるということは、家に帰ってこなくてもいいということではないか? 

 それに栄は『いつ帰ってくるのか』と私に聞いた。『帰ってきてくれ』とは言ってくれなかった。

 

 「一緒に帰ろう」と、その一言が聞きたかったのに。

 

 私は急に悲しくなって、思わず『二度と来ないで』などと言ってしまってそのまま逃げた。栄の顔も見られなかった。もう会えないかもしれないと、どうしようもなく悲しかったのに振り返ることもできなかった。

 玄関のドアを閉めて少し落ち着いてから、栄がどうしたかがすごく気になって、二階の部屋に上がって窓から門の様子をこっそり眺めてみた。栄はおじいさまとしばらく話して、ふとこちらを見上げた。思わずさっと引っ込んでしまったけれど、栄には気づかれていたと思う。もう一度、彼はこちらを見たから。

 おじいさまが家の中に入ってくる音が聞こえて、門のところにひとり立っている栄が見えた。帰っていくのだろうと思った。でももし、私の言葉通りに、彼がもう二度とここへ来ないのだとしたら、もう本当に彼を見ることはない。そう気づいて、でもどうしたらいいかと落ち着きなく部屋をうろうろしていたら栄の大きな声が聞こえたのだ。――『また来るから』、と。


 言葉通り、彼は毎日ここへ来る。

 毎日毎日、ほとんど決まった時間に鳴るインターホンの音。


 栄だ、とわかる自分が悔しい。

 “また今日も来てくれた”、と安心して次の瞬間、“でも、会えない”とそう思ってしまう。


 何故だかわからない。でも会うのが怖い。

 会いたくない、わけじゃない。……でも会えない。会うのが怖くて仕方がない。

 理由なんてわからない。ただ、会えないと思ってしまうのだ。


 そして栄は私が会いたくないと出て行かなければ、無理に会おうとはしない。会えもしないし話もできないというのに、それでも彼は毎日やってくる。

 ……何故、来てくれるのか。知りたいのに、会えない。



 私がどこともなくぼんやり床を見ていたら、アーレリーの冷静な声が降って来た。


「じゃあ直接会って聞けばいいじゃない。私に帰ってきてほしいかって」


「それはっ……、聞けない、よ」


「どうして?」


 ……聞けるはずがない。そんなこと。


「だって……怖いもの、もし想像と違ったら……栄に、もう帰って来ないでくれって言われたらどうしたらいいかわからない……」


 ……そうだ、それが怖い。


 毎日来てくれるのに頑なに会おうとしない私に愛想をつかしてもう来なくなったら?

 最初から、親しくなったおじいさまに会いに来ているのだとしたら?


 嫌な想像は後から後からやってきて、私の頭を一杯にする。栄は優しいから、きっとそんなことは言わないって思うのに、一時期冷たかった彼の態度を思い出しては有り得なくもないかも、なんて思ってみたり。


 栄を信じたい。

 たったひと言、望む言葉が欲しい。


 ……でも、聞くのは怖い。



「…………あなたは馬鹿なの? アル」


「だって……」


 何故かアーレリーの声の調子が変わって思わず顔を上げた。アーレリーは呆れを通り越した表情のない顔で、腕組みをしてこちらを見下ろしていた。


「だってもさってもないわ、ぐだぐだと不安がってばかりいて、行動を起こせない。……あなた達ってなんでこう似ているのかしらね。彼が急に積極的になったかと思えば今度はあなたなの? ……付き合ってられないわ」


 アーレリーは言い捨てるように言うと疲れた様子で首を回し、つかつかと部屋を横切りどさっとベッドに腰掛けた。いつも颯爽として隙のない動きをするアーレリーらしくない粗野な動作と言葉に私は首を傾げる。


「……アーレリー?」


「そもそもお互いでちゃんと話し合って二人で解決すべき問題よ、よくも巻き込んでくれたわね。……でもいい加減面倒になったわ」


 ベッドに腰掛け、さっと足を組んだアーレリーは、顎に手を当ててぶつぶつと考え込むように呟いている。その目は私の顔を見ているが、でもどこか遠くを見るようにぼんやりしていて怖い。


「えっと……ごめんなさい、何の話なの?」


 再度アーレリーに問い直すと、彼女は今度はじっと私の顔を見つめてきた。


「アル」


「な……なに?」


「もういい加減、決着つけましょう。イライラするわ、本当に」


 アーレリーはそういうが早いか、すたすたと部屋を出て行ってしまう。


「えっ、えっ?」


 私は訳もわからず、とにかく後を着いて行く。階段を降り、向かったのは居間だ。無言で電話の前に立ったアーレリーはおもむろに受話器を持ち上げ、ちらりと私を見た。……もしかして。

 迷いのない手つきでダイヤルし、受話器を耳に当てる。私はアーレリーの顔を見上げ、何をするつもりなのかと息を潜めた。アーレリーの顔には何の表情も浮かんでいなかった。冷静そのものの、いつもの彼女の顔。でもそれが逆に変な気もした。


「……もしもし? 日向さん?」


 繋がったらしい。予想通りの相手に。……一体何を話すつもりなのだろうか、栄に。

 私はひとり緊張して、両手を胸の前で握り締めた。


「あのね、明日土曜日よね。あなたお仕事は休みなのかしら? ……あら、そうなの。じゃあ午後からでも構わないわ、デートしましょう、私と」


「えっ!!?」


 思わず声を上げてしまって、慌てて口を押さえた。アーレリーがじろりとこちらを睨んでまた会話を再開させる。


「……いえ、気にしないで。それで、返事はいかが? 別にいいでしょう、アルはどうせあなたと会おうとはしないのだし、私は逆に暇なのよ。付き合ってくれてもいいわよね」


「……っ、アーレリーっ……」


 私はアーレリーの服の裾を引っ張って彼女の注意を引く。一体何を言っているのか、アーレリーは。

 でも彼女は私の顔をちらっと見ただけで、何の変化もなく話を続ける。


「……ええ、そうよ。……場所はどこだっていいわ、あなたに任せる。車で来てくれると助かるわ。……ええ、ええ。そうね。……わかったわ、では明日の一時に家の前で。……おやすみなさい」


 そのままガチャン、と切られてしまった受話器をしばらく見つめた後で、私は瞬きを繰り返しながら顔を上げた。

 目の前のアーレリーはいつも通りの表情で私を見下ろし、ゆっくりと一度瞬きをした。そしてふっと笑う。


「明日、彼と出かけることになったわ。デートよ。もちろんふたりきりで出かけるから、あなたは付いて来ないでね、アル」


 その微笑は、決して温かいものではなかった。冷たく綺麗な微笑み。


「な……んで、アーレリーが、栄と?」


 それだけがようやく喉から搾り出せた。口がからからに渇いている気がした。上手く動かせている気がしない。

 アーレリーが私を見つめてその笑みを深くした。冷たかった微笑みに何か壮絶な、複雑な感情が乗る。


「……彼のことが好きなのは、何もあなた一人じゃないのよ、アル。……じゃあ私はもう寝るから、おやすみなさい」


「え……?」


 呆然としている私を残し、アーレリーはすたすたと立ち去ってしまった。


 しばらく立ち尽くした後で、彼女が去っていったドアをゆっくりと振り返る。いるはずもない人影を探し、瞬きを繰り返す。


 ……なんと、言った? アーレリーは。


 彼のことが好きなのは、何も私一人じゃない。

 それは、つまり……


「アーレリーも、栄が、好きってこと……?」


 答えるもののいない問いを口に出し、暗がりの廊下を見つめた。……あの、アーレリーが。栄を。


「う……そ……」



 私がその後、どのくらいの間そこに佇んでいたかはわからない。しばらくの間そこにいて、ハッと気がついて電気を消し、二階の部屋に戻った。ベッドに腰掛け、私はただぼんやりと中空を見つめる。


 カーテンを閉めずにいた窓から、月明かりではないもっと明るく優しい光が差し込んできて朝を迎えたことがわかった。


 その夜は初めての、“眠らない”のではなく“眠れない”夜になった。



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