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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
55/128

43 失敗、それでも



夕方、五時。ようやく一日の作業を終えて、職人達はそれぞれの持ち場を片付け道具を車に積み出した。

 太陽は傾いているが夏の昼間はまだまだ長い。おれは落ちそうにもない太陽を遠くに眺め、そして水道の脇に置いておいた花束に視線を移してふうと息を吐いた。


「栄ー! 作戦通りに気張れよ!! お前なら大丈夫だ!」


「そうだ、ばしっと決めて来い! 明日報告待ってるからな!!」


 ヨシさんとタムさんが大声でそういうと、周りの職人達も同調して口々に何かを言ってくる。「頑張れよー」の声に混じり「砕けて来い!」とか縁起でもない言葉も聞こえてきたが、ひとまず手を挙げて騒ぎを鎮めた。笑いながら去っていくみんなの背中を見ながら、挙げた手の意味を考えぎゅっと握り締める。

 葵が何を思って出て行ったかはわからないから、連れ帰れるかはわからない。でも、あれこれ悩まず、とにかく会いに行くことは決めた。会いに行って、戻ってくれるようにと伝えるつもりだ。自分の気持ちを、もう一度葵に伝えるつもりだった。


 顔を上げたら大型トラックに乗り込んだ親父と目が合った。目線だけで会話して、親父は去っていく。ひとり取り残された現場で、大きく深呼吸して花束を掴んだ。


「……よし、行くか」




 小高い丘の上、天辺近くに立つその洋館を知らない人間は町内にはいないだろう。人が住んでいなければ恰好の幽霊屋敷になっただろう古い建物は、レンガ造りの重厚な雰囲気を木々の緑の中に隠している。

 くねくねと坂道を上がっていってたどり着いたその家の門の隣にトラックを停め、車を降りた。お袋に持たされた葵の服が詰まった鞄と、菓子折りと、花束を手に。


 門の脇のところにあるインターホンを確認し、深呼吸。


「……ここまで来て怖気づくなよ、おれ。……よし」


 気合と共に小さなボタンを押す。確かな手ごたえと共に、電子音が小さく聞こえた。そしてガチャと受話器がとられる音の後に「はーい」の声。……葵、だ。


「あの……葵? おれ、栄、だけど……」


「えっ!?」


 葵の上ずった声が聞こえた後でインターホンの接続はガチャリと途切れた。


「あ……」


 これではどうしたらいいかわからない。もう一度押してみるかとボタンとにらめっこしていると、ドアの開く音が聞こえてきて顔を上げた。

 緑豊かな庭の向こう、建物の玄関から葵が顔を出してこちらを窺っているのだった。


「あおいっ!」


 思わず大声で呼ぶと、葵はびくっと肩を震わせた後きょろきょろ周りを見渡してからドアを閉め、おずおずとこちらへ向かって歩いてきた。見慣れた水色のワンピースの上にエプロンを着けて、石畳の小道をゆっくりと歩いてくる葵。たった二日、会っていなかっただけなのに、愛おしいという気持ちが溢れてきて仕方がない。

 がしゃりと鉄製の門を掴み、待ちきれずに門を開けた。ぎいっと音を立てて開いた門の先へ一二歩進む。とはいえ他人様のお宅なのでそれ以上ずかずかとは入れず、両手に持った荷物を再び握り直して葵が来るのを待った。


「あおい……」


「……さかえ……どうして、ここに?」


 おれの手前二メートルくらいのところで、葵は歩みを止めた。何かを迷っているような、そんな仕草で落ち着きなく周囲を見渡してはおれの方を気にしている。

 縮まらないその二メートルがもどかしく、しかしそれが今の葵とおれとの距離なのだと思うと、自分のしたことながら悲しかった。


「あの……葵、その、な。いきなり出て行ってびっくり……したぞ。よくアンナさんの家がわかったな」


 何を言ったらいいのかもわからず、口をついて出た言葉を並べる。葵を責める気持ちなんてこれっぽっちもない。ただ、ひとりで歩いてここまで来られたことが不思議で仕方なかったのは事実だ。


「それは……アーレリーの気配を追っただけで……あの……」


 もじもじとエプロンの端を握って小さく話す葵を、今すぐ抱きしめたい衝動に駆られて代わりに荷物を握り締める。……まずは話さなければ、ちゃんと。


「いいんだ、無事に着けてたならそれで。天使だから特殊能力とかあるんだよな。……それで、今日、来たのはな……、その…っと、どうだ? アンナさんの家での生活は? おれの家とは違ってて……いろいろ、戸惑ってると思うけど……」

 

 そんなことを聞きたいわけでもないのに、決定的な言葉を言えずに中身のない言葉ばかりを連ねる。


「葵だったら大丈夫だってわかってるよ、しっかりしてるもんな、おれよりずっと、うん。……えっと……」


「……栄」


 葵はいつのまにかじっとおれを見上げてきていて、視線を彷徨わせて逃げていたのはおれの方だと気づく。

 緑がかった茶色の、その大きな瞳が、おれの心の中を見つめるように静かに見開かれている。強い視線が責めるようにおれを射抜く。ずっとまた見つめたいと強く思っていた瞳だというのに、そのまっすぐな眼差しを受け止めることができずにまた、ふっと逸らしてしまってすぐに、唇をかみ締め後悔した。


 ……ああ、こんなんじゃダメだって、臆病卒業するって誓ったばかりなのに。


 おれはごくりとつばを飲み込み、両手を握って視線を上げた。葵の瞳はいまだおれを見つめ続けていたが、先ほどまでにはなかった、どこか不安げな色が滲んでいた。


「あ、あのな? 葵。……その、おれが、今日、ここに来たのは」


「うん」


 ――さぁ、言え。言うんだ。


「その……いつ、戻ってくるつもりか聞こうと思って……」


 ――違う、そうじゃないだろ。


「え……?」


「いやその、葵が……すぐに帰ってきてくれるならいいんだけど、もし、まだ帰りたくないのなら、お袋から洋服、預かってきたから……」


 ――だからそうじゃない。そんな風に言うんじゃなくって、言えよ、今すぐ帰ってきてくれって。おれと一緒に帰ろうって。


「栄……それって」


 葵の大きな瞳が、おれの持つ荷物に向かった後で、まっすぐにおれを映して揺れた。湖面のような深い色を宿した瞳の中に、不安と動揺が見え隠れするような。

 慌てて手を突き出して訂正しようと口を開く。


「いや、違うんだ、おれが言いたいのはっ……葵が、この家にいたいって言うんなら仕方ないけど、そうじゃないんだったら……その、えっと」


「…………とは、言ってくれないのね」


「え……?」


 ぼそっと呟かれた葵の言葉が上手く聞き取れずに聞き返す。葵は顔を伏せてしまって、どんな表情をしているのかわからない。


「あおい……?」


「……もう、帰って。……二度と会いに来ないで!!」


 顔を上げたと思ったら、葵は涙を浮かべた瞳で叫んだ。


 ニドトアイニコナイデ


 その言葉を目を見開いて脳の中で反芻しているうちに、葵は踵を返して走り去っていく。


 ――葵、葵。 ……それ、どういう意味だ?


「……っ、あおいっ!!!」


 玄関のドアのところで葵は一瞬足を止めたが、こちらを見ることもなくそのまま姿を消した。 


「……あおい……うそ、だろ?」


 膝から崩れ落ちたいくらいだったが何とか踏みとどまって、葵が消えていった玄関のドアを見つめた。

 木製の大きなドアは沈黙していて、開きそうにもない。中にいる人物に、拒絶されたのだとようやく脳が認識する。


 ――拒絶されたのだ、葵に。


 どさ、と音がした後、緩慢に足元に目をやれば、持っていたはずの荷物が全て石畳の上に落ちていた。服の詰まった鞄、和菓子やの菓子折り。そして洋一がくれた花束。

 ぎゅっと握り締めていたせいか心持ちぐったりしてしまった花を手に取りまた呆然と玄関のドアを見遣る。


 ……この花を渡して、もう一度告白するつもり、だったのに。


 なんて、なんて、大馬鹿野郎なんだろう、おれは。


 大勢の人に背中押されてやってきて、口から出るのはあんな言葉かよ。

 あんな風に言いたかったわけじゃなかったのに、言いたいことだけ奥のほうで突っかかって余計な言葉ばかり出るなんて。


「ちくしょう……」


 手の中で寂しげに首を垂れる花をぎゅっと握り締め、小声で唸ったところ。


「……あんまり自分を責めるのもよくない。あるいは今はそのタイミングではなかったのかもしれないしね」


 渋くしわがれた声が聞こえ、その方向からがさりと草を掻き分ける音と共に老人が現れた。


「あ……あなたは」


「やぁ、ヒナタ君、かな? 昨日電話をくれた。……アンナが世話になっているようだね」


 庭の植物の中から現れたのは、予想通りアンナさんのおじいさんだった。流暢な日本語を操る、でも日本人とは違った容姿。深いしわの刻まれた顔はゆったりと笑みの形を作り、腰をぐっと伸ばせばおれと大して変わらないほど背も高かった。

 手に持った籠には庭で採ってきたのだろう、トマトやキュウリなどの野菜が乗っている。たぶん収穫中にお邪魔してしまったのだ。


「あ、いやそんなことは。……日向栄と言います。あの……すみません、突然お邪魔して」


「いやいや別に。アルシェネさんを迎えにそろそろ来る頃かなぁとも思っていたしね。……でもまぁ、さっきのはなんとも。失敗だったね」


「……聞いていましたか」


 葵のことをアルシェネと呼ぶのは何か理由があるのだろうかと思いつつ、おれは視線を外した。

 情けなさと居た堪れなさで、大きな穴を掘って埋まってしまいたかった。もう地面の中に埋まってしまって、人知れず朽ちていくのがお似合いかもしれない。ありえない失態だった。……どん底だ。


「自分でちゃんとわかっていて反省できるのならば、またチャンスはやってくると私は思うよ。第一、一度や二度失敗したところで諦めるつもりもないのだろう?」


 おれを慰めるように降ってくる声が優しい。いっそ思いっきり罵られてボコボコにしてくれてもいいのに、目の前の老人はそうしようとはしない。落ち着いた深みのある声で、ゆったりと話してくれる。


 ――そうなんだ、おれの馬鹿なところと来たら、こんなに何度も失敗しても彼女のことを諦められないところなんだ。


 おれは顔を上げ、視線を合わせて頷いた。すると彼はにっこり微笑んで頷いてくれた。厳格そうな顔をしているのに、笑うととても優しい印象になる。わかってくれている、という感じがものすごくほっとする。


「……長く生きている年上の私から君にひとつアドバイスしよう。……君の言葉が出ないのは、『もしも』を想像する弱さと自信のなさが原因だ。君が自分の想いをちゃんと伝えられるようになればあの子はきっと、君の想いに応えてくれるだろう。もっとも……」


 さぁっと庭に風が吹きぬけ、緑の匂いが鼻をくすぐる。大分傾いた太陽が、オレンジの光で広い庭を染め上げる。

 穏やかな声は続く。


「私に言わせれば、自信などなくともその人を本当に大切に思うなら、そしてどうしても必要ならば、その人の気持ち如何に関わらず強引に手を引いて傍にいたらいいと思うがね」


 遠くに投げられていた視線が戻ってきて、最後はウインクとともに茶目っ気たっぷりに言い切られた。呆気にとられてすぐには反応できなかったが、次第におかしくなって自然と笑顔になってしまった。

 ……なんだか素敵なおじいさんだ。さすがアンナさんのおじいさん、といった感じか。ふたりに血のつながりはなくとも、どこか近しいものを感じる。


「ああ……ほら。あんまり顔を動かさずに目だけで見てごらん。二階の一番手前の窓……あの子がこちらを覗いている」


「……あ」


 彼の視線を追って、言われた通りに目を動かしてみたら、窓のところに人影が映って見えた。


「ふふふ、君の事を気にしている証拠だ。……そろそろ自覚した頃かもしれないなぁ」


 自覚? と首を傾げてもう一度葵のいる方を見遣ったら、気づかれてしまったようで陰はさっと引っ込んでしまった。


「……さて、そろそろこの野菜をあの子の元へ持っていってやらねばならない。今日のところは帰ったほうが良さそうだね、あの子はああ見えて結構頑固だよ。……君の荷物も預かろうか。後どのくらい、あの子がこの家にいるかわからないが着替えは必要だろう」


 おじいさんの視線がおれの足元に移り、放り投げていた荷物を慌てて拾い、差し出しながら言った。


「あ……はい、お願いします。あの、これ、良かったら食べてください。お菓子です。それから……この花を……」


 押し付けるようにして持ってもらった鞄と菓子折りのほか、手元に残ったちょっとしおれ気味の花束を見て躊躇する。……葵は、この花を喜ばないかもしれない。

 おじいさんはおれの戸惑いを汲み取ってくれたのか、荷物を左手に上手くまとめ、そっと右手を差し出してくれた。


「……渡そう。きっと喜ぶ。……口には出さないかもしれないがね」


 こんな風に素敵な大人になりたいものだ、と思った。自然に差し出された手に、当たり前のように花束は乗った。おれが躊躇した挙句渡さなければ、葵の手元には行き着くはずもなかった花束が。たとえちょっと元気がなくても、可愛らしい花たちはこれで使命を全うできるのだ。……彼の、機転によって。


「……ありがとう、ございます。よろしくお願いします」


 感動で胸を一杯にしつつ、心からの感謝とともに深く頭を下げた。


 おじいさんはそのままおれに背を向けて去っていく。右手で籠と荷物の全てを持ち、左手で木製の杖を突きながらゆっくりと玄関へ向かっていく。おれは立ち去ることも忘れその大きな背中をぼんやりと見つめて立ち尽くしていた。

 玄関のドアを開け中に入る寸前に、彼はちらりとこちらを向いて笑ってくれた。口元が何か動いていたが何を言ったのかはわからない。再びばたんと閉じられた大きなドアを眺めてから、先ほど葵がこちらを見つめていた二階の窓に視線を移す。

 さっと人影が引っ込んだ気がしたのは、希望的妄想なのだろうか。


「……葵、おれ、諦めないから」


 過去のいつよりも情けない今のおれだったけれど、不思議と自分を卑下する気持ちは起きてこなかった。今までの後ろ向き発想が不思議なくらい、前向きな気持ちが沸き起こっていた。

 さきほどのやりとりは最低最悪だったと思っている。失敗中の失敗だったし、葵に拒絶された。それは事実だ。けれども何度失敗しても諦めないだろうと、今は素直に思えた。諦めきれない強い思いが自分の中にあることにようやく気づいたのだ。


 本当は、最初から手放すつもりなんて更々なかった。葵の為にとかいろいろ言い繕っていたけれど、本心では彼女を諦めてなんていなかった。葵が出て行って、それでも彼女がこのまま帰ってこないなんて実はちっとも思ってなかった。すぐに戻ってきてくれて、そしてまた何でもないように日々を過ごしていくんだろうなんて甘いことを考えていた。

 自信なんて今でもそんなにないのが正直なところだ。でもたくさんの人に背中を押されて、おれがおれのまま彼女に気持ちをぶつけていいんだとわかったから。どんなに情けないおれだろうと、そのまま彼女を好きでいいのだとわかったから。そして彼女に自分を好きになってもらえる努力をしていいのだとわかったから。

 それがたとえ葵にとって迷惑なことなのだとしても、本気の本気で拒絶されない限りおれは、この想いを葵にぶつけていきたい。


「うーっ……」


 両拳を握って身悶える。……諦めない、この気持ちをひと言、葵に伝えたい。


 おれは大きく息を吸って、彼女の影が見えた二階に向かって大声を張り上げる。


「あおいーーっ!!! また来るからな!!」


 彼女に届いたかはわからない。でもすっとした気持ちで息を吐いた。

 うっし、と気合を入れて踵を返した。振り返らなかった。葵が驚いてこちらを見ているかもしれないと思ったけれど、振り返らなかった。

 門の外へ停めたトラックへと向かう間、心の中では自分を叱咤激励してくれた洋一の言葉と、アンナさんのおじいさんの静かな言葉を反芻していた。


 <起きてしまったことはもう過去だ。取り返しがつくことなら今、何とかしたらいい。気持ちがすれ違ったってやり直せるさ。本当にそうしたいと思うのなら、何とかなるよ>


 <私に言わせれば、自信などなくともその人を本当に大切に思うなら、そしてどうしても必要ならば、その人の気持ち如何に関わらず強引に手を引いて傍にいたらいいと思うがね>


 ……どんなにダメなおれでも、もうそれは言いっこなしだ。これがおれだ、これ以上でもこれ以下でもない。                                 


「……うん、次だ、次! 絶対諦めない!」


 “勇気”、という言葉が胸に浮かんだ。

 きっと、次のチャンスには何とかする。そういう強い気持ちで帰る夕方の光は、何だかとても優しく見えた。



相変わらずヘタレですが、ちょっとは強くなってきたようです。

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