ちょっと横道⑧-2 心に聞く
「悪いね、ここ従業員の休憩所で汚いんだけど、表でおしゃべりしてるのもマズイからさ。ちょっと座ってて」
谷中さんは言いながら椅子を引いて私に座るよう促した。私が頷くと、ポケットを探りながらどこかへ行き、戻ってきたときには手に二つの缶を握っていた。
「はい、コーヒー飲める? 一応甘いのにしといたけど」
ことん、と前に置かれた缶を眺めて頷く。缶に入ったものは飲んだことはないけれど、家でお母さんが淹れてくれたものを飲んだことがある。苦い飲み物なのだけれど、砂糖と牛乳をたくさんいれて飲んだら結構おいしかったと記憶している。
かし、と缶の蓋を開けながら、谷中さんも椅子に座った。
「遠慮しないで飲んでね。……で、おれ仕事中であんまり時間ないから単刀直入に聞くけど……栄と、何かあった?」
蓋を開けただけで飲まないコーヒーを手に、谷中さんは静かに言った。……なぜ、分かるのだろう。私がひとりでスーパーに来ただけで、なぜ栄と何かがあったと思うのだろう。私はテーブルの上の缶を見つめて、谷中さんの顔も見れずに呟いた。
「……なんで、そんなことを?」
「なんでって……だってここ栄の家からじゃ遠いし、前だって車で来ただろう? 栄がひとりで来させるはずもないけど実際一人だし。……まさかと思うけど歩いてきたの? ここまで」
そういうことか、と納得して頷く。確かに栄の家からここまではちょっと距離がある。だから私がひとりで来ることが不自然だったのだ。でも私はあの家から来たわけじゃない。
「……はい、でも今は栄の家にはいないから……」
「は? なになに、どういうこと?」
「あの家を、出てきたんです。今は、友人の家に」
「はぁ!? 嘘でしょ!!」
私があの家を出てきたことがそんなに意外だったのだろうか。私をまじまじと見つめる谷中さんの表情からは驚きしか読み取れない。谷中さんは落としそうになったコーヒーを持ち直しぐいっと煽って一口飲むと、一呼吸を置いて真剣な表情で尋ねてきた。
「……本当に?」
「本当です」
「……なんで? って聞いていい?」
慎重に言葉を選び、私の顔色を窺ってくる谷中さん。……この言葉は、本当はあまり口にしたくない。思い知るから。
「栄に……嫌われてしまったから」
「はぁっ!?」
ぽつり、と呟くと、がたんと音がして谷中さんが立ち上がった。今度は私が驚いて谷中さんを見つめる。コーヒーが衝撃で零れたらしく、ぽたぽたと床に落ちて茶色の染みを作っている。
「……なにそれ、ちょ、ちょっと待って。ありえないんだけど、栄が葵ちゃんを嫌いになるとか。……何か勘違いしちゃってるんじゃないの、葵ちゃん」
コーヒーを持っていないほうの手を上下させて、谷中さんは必死に何かを私に伝えようとする。でも私には何が言いたいのか分からない。分かるのは、「勘違いなんかしてない」ということだけ。
「勘違いなんかじゃないです。栄は、私のことを避けて、顔も見なくなった」
――どうして。どうしてみんな、『ありえない』と言うの? お母さんもそういった。栄が私を嫌いになるなんて、ありえないと。……でも。
「話しかけても答えてくれなくなったし、笑ってもくれない……! 頭だって撫でてくれなくなった。少しも私に触ろうとしないし、私がじっと見つめると困ったように笑って誤魔化すの。それなのに嫌いになるなんて『ありえない』ってどうして言えるの?」
「葵ちゃん……」
「嫌われていないのなら栄はどうして私を避けるの? ねぇ、どうして? 栄は、どうして、私を……」
以前、お母さんに話したときのように、大声を上げて泣きそうになった。涙が目の淵で溢れそうになっているのが分かって、でも零さないように必死で堪える。だってここにはお母さんはいない。抱きしめてくれる人はいないのだ。
「あー、ったく栄のヤツめ。何で早めに相談しないかな、恋愛経験ゼロのくせに」
泣くもんか、と必死で顔を上げて谷中さんを見ていると、彼はがしがしと頭を掻いてぼそっと呟いた。手に掛かったコーヒーはそのままに、缶に残った分を煽るようにして飲み干すと、近くのゴミ箱に缶を放り、エプロンで手を拭いた。一連の動作をしながら眉を寄せた表情は何かを考え込んでいる様子だった。
そして再び椅子に座りなおしてから、すっと私に視線を合わせ、口を開いた。
「あのなぁ、葵ちゃん。はっきり言うよ? 栄の行動は愛情の裏返し、だ。葵ちゃんが好きだからそうしてしまうんだ」
「……意味がわかりません」
「うん、そうだろうとは思うけど。……なんて言ったらいいかなぁ、大切すぎて臆病になってるって感じなんだろうなぁ。……んー、それとも単に自信がないか……。ねぇ、ひとつ確認しておきたいんだけど、そこまで栄に嫌われたって悲しむんなら、葵ちゃんは栄のこと好きって考えていいんだよね?」
「そ、れは……」
栄のことが、好き、かどうか。『好き』なのは間違いない。でもそれが『特別な好き』なのかどうかは分からない。『特別な好き』が一体どんな好きかが分からないのだ。
「もしかしてよくわからない感じ? ふぅむ……」
言葉に詰まった私の顔を覗き込みそう言って、谷中さんは考えこむように腕を組んだ。
私は彼から視線を外し両手を握って目を閉じる。なんだか頭の中がとても気持ち悪い。考えても考えても答えに行き着けない、靄の中を彷徨っているような気分。……わからない。栄がどう思っているのかなんて。私の気持ちすらも。
不意にかたん、と音がしたので目を開けると、顔を上げる前に知らない香りに包まれて驚く。
「や、なかさん?」
香りに包まれたわけじゃなかった。背中に回された腕が緩く私の肩を抱き、温かさを頬で感じる。
立ち上がった谷中さんに私は抱きしめられていたのだ。
……抱きしめられている、そう気づいた瞬間、私は彼の胸を押し返していた。
「いっ……嫌っ!」
元々力を入れていなかったようで、抵抗もなくあっさり離れていく腕。はっと顔を上げて谷中さんを見たら、彼は一歩二歩下がって立ち止まり、気まずそうな顔をして笑った。
「……や、突然ごめんね? 栄には内緒にしてくれよ、おれが殺されるからさ」
突き飛ばしたのは私なのに、申し訳なさそうに笑うのは何故だろう。
「あの、一体どういうことですか……?」
「うん、確かめてみようかと思ってさ。ちょっと考えてみてね、もし今抱きしめてきたのが栄だったら、葵ちゃん突き飛ばした?」
谷中さんは落ち着け、と言うように両手を前後させて再び椅子に腰掛けた。私は尋ねられた質問の意図がわからず、瞬きをして考えてみる。
「ああ、考えちゃダメなんだ、こういうことは。心に尋ねてみて。……おれのことは、すぐ嫌だって思ったんだよね? もし栄だったら? ああ、もしかして抱きしめられたことあるんじゃない? その時、押し返そうと思った? 嫌だと、思ったかい?」
心に、尋ねてみて……? 頭で考えるんじゃなくて、心で感じるままに、ということだろうか。私は自分の両腕で自分を抱きしめるようにして思い返す。栄が、抱きしめてくれたとき……。
夕暮れの川原で、抱きしめられて『好きだ』、と言われたとき。よろけた私を抱きとめてくれたとき。あの夜、私にキスをしながら抱きしめてくれた腕。栄の腕、体温、匂い。
「……それが、葵ちゃんの素直な気持ち。どう? 心はもう知ってたでしょ?」
そろりと谷中さんを見上げたら、彼は首を傾げて得意そうに笑った。私が何も言わなくても、私の答えを知っていると、そういう微笑みだった。
「私が……特別に栄を好きってこと……?」
「そうだね、ただの好きの許容範囲と特別な好きの許容範囲は違うよね。例に挙げるなら、さっきの男達なら会話するのも嫌、触られるのなんて以ての外。おれだったら一緒の部屋でおしゃべりする程度なら許容範囲。でも触られるのはちょっとって感じかな。……けど栄だったらむしろ話したいし触れて欲しい。抱きしめられても許せるんだろう?」
ああ。なんて分かり易い例えだろう。谷中さんの言うとおりだ。
私はさっきの男の人たちなんて記憶から消したい位に嫌だし、谷中さんは話しているのは別にいいけど、さっきみたいに抱きしめられたら嫌だ。でも栄は……
栄にはたくさん話しかけて欲しいし、私の話も聞いて欲しい。笑いかけて欲しいし触れて欲しい。頭を撫でてくれるのも好きだし、抱きしめてくれるときのあの体温も、力の強さも、全てが…………好き。
「……そう、なんだ……。私、栄のことが『特別に好き』、なのね……」
「はは、こりゃ栄も苦労するよな。……でな、葵ちゃん。自覚して早々なんだけど、その先の話していい?」
「えっ、あ、はい……?」
一瞬笑った谷中さんはすぐに表情を切り替えて真剣になった。
「栄が今葵ちゃんを避ける理由はきっと、栄が葵ちゃんの気持ちが自分とは違うって思ってるからだ。葵ちゃんが栄のことを好きかどうかがわからなくて、それで不安になってるんだよ、きっと」
「……あ、そういえば」
そういえば、栄が川原で好きだと言ってくれたとき。私も好きだと言ったのに、栄は自分の『好き』は『特別な好き』だから、私のとは違うと言っていた。特別な好きを知りたいと言ったら「そのうちわかるよ」って笑って濁した。
そのことなのだろうか。
「じゃあ栄は、私が『特別な好き』を知らなかったから、それで嫌いになったのね……」
考えながら呟くと、谷中さんは慌てて否定してきた。
「いや、だから嫌いになったんじゃないって! そうじゃなくて、うーん。なんて言ったらわかるかなぁ。……恋愛って計算みたいに綺麗な答えが出るわけじゃないんだよな。気持ちだって数値で計れるわけじゃないし。だから好きになってもお互いいろいろ不安になって疑ったり自信なくしたりとかは普通にあってさ。栄は恋愛超初心者だから、うまく気持ちを表現できなかったんだよ。決して葵ちゃんのこと嫌いになったわけじゃない。すぐにわかるよ」
谷中さんが懸命に話してくれる内容はなんとなくなら理解できる。でも納得はできない。
「……でも栄は……私が傍にいると辛い顔をして……」
「だからそれは……。……ああ、おれがいくら話したって、栄にばーんって言われなきゃ納得できないよな。……ったくアイツめ、おれがせっかくいろいろ教えてやったのに全然生かしきれてねぇし」
「……? あの……」
「よし、今日帰ったらおれが栄に電話してうんと脅しかけておくから! 葵ちゃんはアイツが迎えに来るのを待ってたらいいよ」
「……はぁ」
全く納得できる答えを手にできずに、私はともかくもそう答えた。不満が顔に表れていたのだろう、谷中さんは自信に溢れて握りこぶしを作っていたのに、私の顔を見て苦笑いした。
「……大丈夫、栄が葵ちゃんを嫌いになるはずがない。あんだけメロメロだったし、結婚のことまで真剣に考えてたからな。……さて、そろそろ時間的にまずくなってきた。葵ちゃん、悪いけど送ってはいけないから、ひとりで帰れる?」
「あ、はいっ。えっと……あの、ありがとうございました」
腕時計を見て谷中さんが申し訳なさそうに笑うので、私ははっとして立ち上がり、お礼を言った。そういえば仕事中だったのに長々と話し込んでしまった。大丈夫なのだろうか。
「っと、コーヒーは良かったら持って帰ってね。あ、あとさっき抱き寄せたことはくれぐれも栄には内緒にしてね。『魔王』降臨しちゃったらおれは逃げても殺される」
そういって谷中さんは結局開けることもなかった私にくれたコーヒーをビニール袋の隙間から押し込んでしまった。そしてそのまま、入ってきたドアの方へ歩いていく。がさりと音を立てる袋を持ち直して、私はその後を慌てて追いかけた。
「あのっ、最後に、ひとつだけいいですか?」
ドアを開けて私を待つ谷中さんに、私はどうしても引っかかった言葉を聞きたかった。
「はい、なんでしょう?」
「さっきの……『めろめろ』と『けっこん』の意味を教えてください」
「ぶっ……!」
真剣に尋ねたのに、谷中さんは口に手を当てて噴出した。そしてそのまま肩を揺らして笑っている。
「あのー……」
何かそんなに変なことを聞いただろうかと不安になってきた頃、谷中さんは乱れた呼吸を整えながら涙の浮かんだ目で言った。
「ひー、あー、葵ちゃん面白いっ! 栄の彼女じゃなけりゃおれが欲しかった……! っと、あのね、『メロメロ』の意味は、好きで好きでしょうがなくって、他の女の子とか目に入らないほど好きな様子。……わかる?」
「あー……そうです、か」
予想していたような答えではなかったけれど、これが本当なら栄は……。
「それから結婚だけど……葵ちゃん本当に知らないの? どこの箱入りって感じだけど……そうだな。結婚はずっと一緒だって約束交わして夫婦になること、かなぁ。うーん、我ながらくさい説明」
「ずっと一緒に……夫婦に……」
「そう。だから葵ちゃんも、栄のこと見捨てないでやって。あいつは不器用だからいろいろ上手くいかないこともあるだろうけどさ。葵ちゃんさえ傍にいてくれれば、それで大丈夫な気がするよ」
「…………」
「っと、本当にごめんね! もう店長がキレそうだからおれ行くわ! 気をつけて帰ってね!!」
谷中さんはそう言ってばたばたと走り去ってしまった。
ドアのところに取り残された私は、しばらくぼんやりと立ち尽くした後、はっとおじいさまが待っているだろうことに気づいて慌ててお店を出た。
ガサガサ音を立てる袋を右手に提げ、行きは楽しく下ってきた坂を今度は思考の中に沈みながら上っていく。
谷中さんが教えてくれたこと。
私が栄を『特別に好き』だということ。
栄は私に『メロメロ』だということ、『結婚』を考えているということ。
「……ずっと、一緒にいるって約束……か」
そんなことを考えているなら何故、私を遠ざけるような態度をとるのかがどうしてもわからない。
嫌いになったわけじゃないと誰もが口をそろえるのに、それを信じることができない。
急な坂道を一歩一歩踏み出して登っていく。緑の庭から顔を出す猫。にゃぁ、と一声鳴いて『お腹すいた』と伝えてきたけれど、猫が好みそうな食べ物を持っていなかったので「ごめんね」と呟いて通り過ぎる。
……わからない。栄の、気持ちが。
私は、どうしたらいいんだろうか。谷中さんの言っていたように、栄が迎えにきてくれるのを待っていたらいいんだろうか。……そもそも、彼は迎えにきてくれるのだろうか。
頭の中でぐるぐる考えながら、ふと顔を上げればおじいさまが門のところに立っていた。
「あっ」
慌てて残りわずかな距離を走っていくと、おじいさまはほっとしたような笑顔で私を迎えてくれた。
「お帰り。遅かったから心配していたんだ」
「ごめんなさい、おじいさま」
どのくらいここで待っていてくれたのかわからないが、きっと本当に心配させてしまっただろうと思う。門の傍にある木の陰にはなっていたけれど、早く涼しい家の中に入ってもらわなければとおじいさまを促して、玄関への小道を歩きながらはっと思い出した。
「あっ!」
「どうした、アルシェネさん」
「……お豆腐、買い忘れました……」




