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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
53/128

ちょっと横道⑧‐1 ひとりの買い物で



 <同日、午後>



「ひとりでなんて。やっぱり私も一緒に行った方が……」


「大丈夫ですよ、おじいさま。スーパーって坂を下りたところにある大きな建物ですよね? 私一度行ったことがあるし、買い物ならお母さんと何度か行きましたから分かります。大丈夫です」


「いや、だが……」


 玄関前のホールで私とおじいさまは押し問答をしていた。

 今晩の料理を私が作ることにしたはいいが、冷蔵庫の中の食材を見ても、調味料を見ても、あまり知っているものはなくて首を傾げた。私の作れる料理は和食が中心なのだが、普段アーレリーが作る料理はそうではないようだ。野菜や肉などはいいとしても調味料の中で塩や砂糖などの他に唯一見知っていたものは味噌と醤油だけで、これでは料理ができないと途方にくれているとおじいさまがやってきて、では買い物に行こうという話になった。

 杖をついた足では歩くのが大変だろうと私は一人で行くことにした。だが、おじいさまは心配して一緒に行こうと譲らない。おじいさまが案外機敏に動くことは分かっているが、長距離をしかも坂を上り下りするとなればきっと疲れてしまう。そう言っているのにおじいさまは私を心配して、こうして玄関前で言い争って十五分ほどになる。


「私は小さな子供ではないんですよ、おじいさま。大丈夫です」


「……では何かあったらすぐに電話しなさい。番号はこれだから、スーパーで貸してもらいなさい」


 しぶしぶ、といった様子で番号の書かれた紙と一緒に財布を差し出してくるおじいさまの手ごと包み込むようにして、私はお礼を言った。


「ありがとうございます。わかりました」


 にっこり笑って見上げると、おじいさまは悔しそうな顔で笑った。アーレリーもいつもこんな風に心配されているのかなと思うと、くすぐったい気持ちになる。私は紙を財布の中にしまい、財布を落とさないようにしっかり握り締めた。


「ではいってきます」


「……いってらっしゃい」


 暑い日ざしを遮るように、とつばの大きい帽子を被らされた私は、うきうきしながら庭に出る。玄関で心配そうな顔のまま手を振るおじいさまに門のところで振り返って大きく手を振り、歩き出した。


 濃い緑、空の青、そして強い太陽の光。

 耳にうるさいほど必死に鳴く虫の声を聞きながら、長い坂道をひとり、下っていく。


 昨日はただアーレリーの気配を追ってのぼってきた道は、歩くのに必死で周りを見る余裕もなかった。今きょろきょろと見渡してみれば、坂の両側に並ぶ家々のそれぞれの様子がとても面白い。形も、色も大きさも様々な家。庭から零れるように色とりどりに咲く花や、時折顔を出す犬や猫。ピチピチ鳴く小鳥達。


「楽しいなぁ、地上は」


 以前の独り言は寂しいものだった。天界にいるとき、無駄なおしゃべりをしない天使たちの間で、私は返ってくることのない質問を投げてはひとり、寂しい思いをしていた。だから自然とたった一人でぶつぶつと呟いていることも多くなった。誰も構ってくれない世界で、植物や動物、時には精霊を相手にしながら過ごす時間。地面に寝転がっても表情を変えない灰色の空は見ていてもつまらなくて、一定の明るさを保つその空に眩しいほどの太陽もなかった。


 でも今、この世界は。ありとあらゆるものがはっきりと色を持ち、輝いている。木々も花も光を浴びて嬉しそうに風に揺れる。


「ふふふ、楽しい」


 気づけば飛び跳ねるようにして坂を下っていて、あっという間に坂下のスーパーにたどり着いていた。


 一度、栄と一緒に来た大きなスーパーだった。アーレリーの家の近くとは知らなかったけれど、初めて栄と外出した場所。もっと家から近い小さなスーパーなら、お母さんと何度か行ったことがあった。だから買い物の手順は分かっている。自動ドアの前で籠を手にして中へ入る。重たいカートは押さない。ひとりでは動かせないから。


 驚くほど多くの食品が並ぶ売り場を時間をかけて覗いていく。どこに何があるのかわからないが、お母さんに教えられたものを買わなければ、料理を作ることができない。あっちこっちを彷徨って、何度も店の中をぐるぐるして、ようやくの思いで食材と調味料を買うことができた。


「うーん、ナス、南瓜、ひき肉、生姜。トマトは家にあったし……。だしの素、みりん、お酒、で一応大丈夫だよね?」


 白いビニール袋に買ったものを入れながらもう一度確認する。献立はナスの素焼きと南瓜とひき肉の煮物、そしてトマトのサラダにする予定だ。「だしは本当はちゃんと鰹節からとったほうがおいしいけど、便利だから」と言っていたお母さんの言葉を思い出し、赤いパッケージのだしの素を買った。これがあれば味噌汁を作るのも簡単なのだ。


「あ、そうだ、お味噌汁に入れるお豆腐買い忘れた」


 だしの素を見つめていたら白い豆腐を忘れたことに気づいた。うーん、こういう場合ってどうしたらいいのかな。荷物をここに置いておいて、それでお豆腐だけ取りにいったほうがいいのかな。買ったものを持って売り場に行ってもいいのかな。怒られないかな。


「おねーさん、どうしたの?」


 思案していると急に隣から声を掛けられて顔を上げた。そこには見知らぬ男性が立っていた。栄より若い感じがした。多分洋二さんくらいの年齢。にこにこと笑って私の返事を待っているので、迷ったけれど正直に困っていることを告げた。


「あの、えっと……お豆腐、買い忘れちゃって、それで、でも荷物をどうしたらいいかと……」


「は? 豆腐? おーい、キイチー! お豆腐一丁ー!」


「えっ……」


 若い男の人は私の話を聞くと一瞬きょとんとしたが、すぐににやっと笑って遠くに向かって大声を張り上げた。


「はー? 何、豆腐ー? ぎゃははお前なに、料理すんのー?」


 すぐに別の男の人がやってきて私の隣に立つ。ふたりの男の人に囲まれて、訳もわからず縮こまる。何、この人たち。


「ちげえよ、このおねえさん、豆腐買い忘れたんだってー。なぁやべー可愛くね? お人形さんみてぇ。ってか日本人じゃなくね? 日本語めっちゃうまいけどさ」


「ううわ超可愛いし。あれじゃね? ハーフとか。……ね、おねーさん。おトーフおれ買ってあげるから代わりに遊ばねぇ?」


 言葉と同時に私の肩に手が置かれた。ぽん、と何気ない動作で置かれた手にぞっとしてすぐに振り払う。


「……っ、やめてくださいっ」


 よくわからないけれど嫌だった。触れられたところが気持ち悪いと思った。だからこのふたりから離れたくて後ろに下がったのだけれど、すぐに何かにぶつかってしまって、慌てて振り向く。


「あっ、ごめんなさいっ」


「いーよー、可愛いお姉ちゃんなら足踏まれても問題なしー」


 私の後ろに立っていたのはまたも知らない男の人で、背がすごく高かった。壁のようにそこにいた男の人に両肩を捕まれ、身動きが取れない。そうこうしていると前にいたふたりの人もにやにや笑いながら詰め寄ってきた。


「ひどいじゃん、おれの手振り払うなんてー」


「ぎゃははは、お前そっこーで嫌われてんのー」


「……っ、離してっ!」


 両肩を押さえられたままで三人に囲まれてしまった。辺りを見渡しても男の人に遮られてよく見えない。手の中のビニール袋をぎゅっと握り締め、右へ動いても左へ動いても男の人たちは私の動きに合わせて動いてくるのでどこにも行けなかった。


 ――怖い。


「おいおいおねーちゃん泣きそうじゃん。おれらそんな怖くねーよ? ちょっと遊ぼって言ってるだけだし」


「そうそう、たのしーところに連れてったげるからさ、泣かないでー?」


 嫌だ、何この人たち。怖い、怖い。 ……助けて、誰か。


 ――助けて、栄っ……!!


「……すみませんがお兄さんたち。店内、店外どちらにしてもナンパはお控えください。お客様のご迷惑になります」


 ぎゅっと目を閉じて身体を縮めた瞬間、他の人の声が降って来た。また男の人の声。でも目の前に立ちふさがる三人のように声に笑いが篭っていない、真面目な話し方。

 そっと目を開けると、私の目の前に大きな手が差し出されていて、男の人たちとの距離が少し開いたのを感じた。赤いエプロンの裾が見える。


「はぁ? 別に誰の迷惑にもなってないじゃん。なぁ?」


「誰もいねーし。おれらただ困ってるねーちゃん助けてあげよっかなって思っただけなのによ」


「……迷惑を掛けられているお客様がいるでしょう、ここに」


 真面目な声の男の人はそう言ってぐっと私の肩を引いた。後ろから押さえつけていた手が離れ、私はよろけながらその人に掴まった。やっぱり知らない人だけれど、赤いエプロンをつけているからお店の人だ。きっと助けてくれる、そう思った。


 必死でエプロンにしがみついたら、その人がこそっと私に囁いてきた。


「……葵ちゃん、大丈夫?」


「えっ?」


 名前を言われて驚いて顔を上げたら、赤いエプロンを着ている人に見覚えがあった。

 

「あ……谷中さん」


「もうちょっと我慢してね、追い払うから」


 赤いエプロンをつけていて前に会った時とは大分印象は違っていたけれど、谷中さんは私にそう囁くと笑顔で男の人たちに向き直った。私は谷中さんの後ろに回り、エプロンを掴んだままで様子を窺った。

 こそこそと話をする私たちが気に入らなかったのか、三人の男の人たちは分かりやす過ぎるほど不機嫌な表情になっていた。

 

「知り合いかよ、くそっ」


「ええ、そうですね。返してもらいます。……てゆーか、おれの大事な後輩の彼女にもう近づくんじゃねーぞ。お前らもいっぱしのワルなら聞いたコトあんだろ? 『氷の王子と暗黒魔王』」


「こっ、『氷の王子と暗黒魔王』……まさかその子……」


「『魔王』のほうの彼女だ。婚約者とも言う。……あー、魔王に告げ口しとくかな。ちゃらい三人組に襲われそうになってたぞって。したらアレだな、魔王はこのスーパーに罠張るよな。待ち伏せするな。……お前ら次、ここへ来たら……」


「ひっ……こ、来ねぇよっ! ってかナンパしねー!! だから告げ口は止めてくれっ!」


「た、頼む……! いや、頼みますっ!! お、おい、帰るぞ!!」


 三人の男の人たちが一斉に顔色を悪くして慌てて去っていくのを私はわけも分からず見送る。首を傾げてじっとしていると、頭の上でため息と共に谷中さんが声を上げた。


「おーおー、帰れ帰れ、二度と来んなよー。……どうせ店の売り上げに貢献しねぇやつらだし、正直営業妨害だ。……お、悪い、大丈夫だったか? 葵ちゃん」


 三人が駐車場から見えなくなるまで見送って、谷中さんは私から一歩離れた。私もずっとしがみついていた手をエプロンから離してほっと息をついた。


「ありがとうございました……」


 『王子』とか『魔王』とか、話の内容はよく分からなかったし、あの人たちが結局なんだったのかわからなかったけれども、とにかく助かったという安心で力が抜ける。ぎゅっと握り締めていたスーパーの袋をそっと床に下ろし、座り込みたくなるのをなんとか堪えて顔を上げる。


「ああ、間に合ってよかった。ってか栄はどうしたんだ? 今日は一緒じゃないのか」


「……っ、栄、は……」


 聞かれたくないこと、だった。すぐには答えられなくて、何をどう説明したらいいかと視線を彷徨わせていると、何かを察したのか谷中さんは私の顔を見つめた後で「ちょっと待っててね」と離れていく。

 どこへ行くのかと見ていたら、近くにいた同じ赤いエプロンをしたおじさんに少し話をして、再び戻ってくる。


「ちょっと話そうか、こっち来てくれる?」


 そう言って私を呼んですたすたと歩いていってしまう。私は行くべきかどうか迷ったけれど、行く手のドアの前で手招きして待っている谷中さんを見てそちらへ向かった。


 ――知らないヤツにはついていくなよ

 

 栄の声が耳に蘇る。……でも谷中さんは知らない人じゃないし、今助けてくれた。それに……


 ――ついていくべきひとが、ここにはいないから。



スーパーの名前は『ビッグマート ヤナカ』です。

谷中のたっくんは跡取り息子の設定です。赤いエプロンのおじさん(店長)は彼のお父さんです。

随分前に栄が『ヤナカ』に買い物に行ってうっかり目撃されたのは、意図したわけじゃなくて、特売のチラシをチェックしたお母さんにそもそもの原因が。まぁその時失念していた栄の所為でもありますが。

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