42 幼馴染、襲来
大変間が開きました…!すみません!!
ハッと気づくと時計の針は十二時を過ぎていて、周りにいたはずの他の職人たちの姿は見えなかった。
誰か声を掛けてくれたっていいのにと思いながら、汗を拭きつつ外に出る。ちょうど日陰になったところに置かれたクーラーボックスを覗くと、やはりおれの弁当しか残っていなかった。
「おーい、栄、こっちだ」
「やっと来たか、お前集中しすぎだよ、何度も呼んだのに」
背後から呼ばれて振り向くと、職人の一人が箸を咥えたままおれを手招きしている。もう屋根も葺いて外壁もでき、残すは内装のみとなった新築の家の庭先。隣の家の木によってできたちょうどいい日陰にブルーシートを広げ、何人かの職人が集まって思い思いにくつろいでいた。ヨシさんとタムさんは弁当組ではないのでどこかに昼を食べに行ったのだろう。親父もいないところを見ると、冷房をかけたトラックで寝ているに違いない。
呼ばれてはいるけれども、これ以上ネタにされる気も誰かと話をする気にもなれなかったおれは、片手を上げて軽トラを指差し少し頭を下げる。その動作で何が言いたいか伝わって、みんなは肩をすくめて手を振ってくれた。
軽トラに乗り込んでエンジンを掛ける。この暑さで普通に車内にいたら熱中症になってしまう。バッテリーが気にはなるが少しくらいは、と冷房のスイッチを入れた。
勢いよく飛び出してくる冷たい風を顔に受け、少し涼んでから弁当を開ける。お袋が毎日作ってくれる弁当はいつも通りの味で、黙々と口に運ぶ。
おいしい、はずなのにどこか味気ない弁当。そう感じるのも何もかもが自分の心次第だと分かっていて、機械的に飲み下しては次を口に入れる。全て腹に収めるとものすごい満腹感が襲ってきた。もともと空腹を感じてもいなかったのだ。腹に手を置き、目を閉じて大きく息を吸い、吐いた。
……腹は苦しい。胸もなんだか苦しい。でもどこか感じている寒々しいほどの喪失感。
最近の弁当には一品か二品、葵が作ったものが入っていた。お袋に習って『教えてもらった料理を入れたからね』と笑う葵の笑顔が瞼に浮かぶ。そして今日、当たり前だが葵の作ったものなど入っていない。弁当にすら残る彼女の痕跡に戸惑う。
冷房の風の心地よさに身をゆだねながら、この先自分はどうしたらいいのだろうかと途方にくれた。日々の生活に、家の隅々に、彼女と過ごした思い出がたくさんたくさん残っている。思い出すたびに辛くなるのに、消すこともできずに憔悴していくんじゃないかという予感。
ふっ、と口元だけで笑う。……本当に情けない男だな、我ながら。
――コンッ
窓を叩く音がして薄く目を開ける。聞き違いじゃないかと思ったけれど、車の窓の外には人影があった。
「……あれ、お前、なんで」
「よっ、優雅だね、冷えた車の中でお昼寝なんて」
一瞬女性かと見間違えるほどの中性的な顔立ちの幼馴染。片手を上げて笑顔を見せたのは洋二の兄、洋一だった。
洋二がいまどきの若者っぽいかっこよさを持っているとするなら洋一の持っているものは……美しさだ。美しい、なんて女性に対する形容かと思ったらとんでもない。洋一を見れば男でも女でも同じように感嘆するだろう。そういう容姿を持った男が笑顔で手を振っている。
昔から美形兄弟、と思っていたけれど久しぶりに会った兄の方は、更にその笑顔の威力をいや増しているようだった。輝くような美しい微笑みが……なんだか怖い。
エアコンを切ってついでにエンジンを切り、車を降りる。しばらく電話すらするのを忘れていたので洋一が元気にしてるかも知らなかった。もっとも弟の方とは毎日のように会っていたので、洋一に何の異変もないことは知っていたのだが。
「どうした、こんなところで」
ひとまず声を掛けると、洋一は近くに停めてある白いバンを指差して肩をすくめた。何週間か前に洋二が乗っていた『さいとうはなや』の文字入りバン。良い思い出ではない。
「配達の途中。ちょうど昼に掛かったから休憩中かと思って寄った」
「あ、ああ、そうか。それで? 何か用か?」
花屋を継ぐ、と洋一が言ったとき、そりゃぴったりな家業で良かったな、と思った。麗しい顔で女性客をがっちり掴めるに違いない。だが案外力仕事な花屋の作業をこなせるのか、と言うほど華奢な身体付きであってどっこい、泣く子も黙るヒーローさながらの武道の達人だ。昔近所をたむろしていたヤンキー兄ちゃんの集団を蹴り技だけで伸した武勇伝の持ち主(ちなみにその武勇伝にはおれも加担している)。そこいらの男もびっくりな力が、この細身の腕についているとはぱっと見思わないだろう。
その腕が――いきなりおれの目の前に飛んできて、思わず両手でガードした。
「……ちぇ、相変わらず反射神経いいね、栄」
「いきなり殴りかかるな、洋一」
片や勢い良くパンチを繰り出し、もう片方は両手でその拳を押さえている。ガードできた時点で終わるかと思った攻防は、洋一が拳に力を込めてくるので終わらずにじりじりと力比べに移行する。
「栄……僕に話すことはないの……? 親友の僕にさ」
「よ、洋一……怖いぞ、顔が。台無しだぞ」
別に極悪面で迫られているわけではない。洋一の顔は満面の笑みだ。しかしその綺麗な笑顔の下から渦巻くような怒りをひしひしと感じる。昔から洋一は笑顔で怒るのだ。……怖すぎる。
「誤魔化そうとしても無駄。とっとと白状しなよ。親友の恋話をさ、馬鹿な弟から聞かされる兄の心情、君にはわかるかな?」
『氷の王子』の異名を持つ洋一の冷え冷えした笑顔に見つめられ、おれは思わず視線を逸らす。
「うっ……、ご、ごめん。別に隠してたつもりはなかったんだけど」
「ってことは話してくれるんだよね? 『あおいちゃん』のこと」
「うう……わかった、わかったから! 押すの止めろ、顔近いっ!」
じりじりと圧し掛かるように距離を縮められ、気づけばおれはトラックに押し付けられてしまっていた。氷の笑顔との距離はわずか数センチ、こうすれば観念するだろうと計算ずくの行動であるとわかっていながら、おれは降参するしかなかった。
ぱっと手を離し一歩下がった洋一は、にこっと首を傾げながら機嫌良く言った。
「はい、じゃあ話してねー。最初から、今までの流れ全部よろしく」
「いや、全部って……お前、それは」
『全部』、と言われて思わず顔が引きつる。全部というのは全部、なのだろうが、葵に関することを全て話すべきなのだろうか……と迷っているのが顔に出ていたのだろう、洋一は眉を寄せて先手を打ってきた。
「ぜ・ん・ぶ。はい、話す。……あ、別に色っぽい話は必要ないけど話したきゃどーぞ」
「な、なに色っぽい話って……」
その単語によってかつて自分がやらかしたいくつかの前科が頭を過ぎり、思わず顔を背けた。
「うわ、なにその反応。あー、僕としてはきょとん顔で首傾げて欲しかったのにー。赤い顔する栄なんて考えられない……」
洋一は残念そうに額に手をあてて首を振った。そのわざとらしさにこっちもがっかりする。
「それっておれのこと馬鹿にしてない?」
「うん、してる」
「……オイ」
「まぁいいから、蛇足だったね! さっさと話して、はいどーぞ」
「う…………」
テンポよく丸め込まれて二の句が継げない。
だがもちろんおれが迷っているのはそういうアレコレの暴走話を話すかどうかではなく、彼女が人間ではないことを話すかどうかだった。
ちらっと目線を上げて洋一の顔を見遣る。洋一は暑い最中にも涼しげな顔をしておれが話し出すのを待っている。もうかれこれ二十年以上の付き合いだ。ヤツが見た目どおりの王子様などではなく、自分の考えを笑顔で押し通す鉄のような頑固者であることなど百も承知なので、こうまで迫られては話すしかないな、とはもう分かっていた。
笑顔の下の圧力を感じながらおれはため息と共に観念する。……どう思われようと、洋一だけには真実を話しておこう。
こうなっては洋一から逃げられる気がしない、というのは半ば言い訳で、本当は誰かに話を聞いて欲しくて仕方がなかったのかもしれない。親父とお袋、事情を知っているとはいえ両親には話せない気持ちを抱え込んで飽和状態だったから。
「……じゃあ話すけど、洋一、おれは決して嘘は言わないぞ。疑うんだったらむしろ聞かなかったことにしろよ、いいな?」
「うん? よくわかんないけど栄が嘘つけるほど器用だなんて僕は思ってないし? そんなに奇想天外な話をするつもりなの?」
真剣な顔で洋一を見て言うと、洋一はきょとんとして首を傾げた。しかし笑いながらちゃんと聞こうとする意思を持った目でこちらを見返してくれた。
「まぁかなりの奇想天外さだ。別にネタじゃない、真剣に本当の話だからな。いいか、聞いてから後悔するなよ、そんでおれのこと頭おかしくなったとか思うなよ。……ああ、長い話になるから移動するか、ここじゃ暑くて死んじまうよ」
更に念押しして話し始めようとして、せめて日陰に移動しようと気がついた。すぐそこに小さな公園があるよ、という洋一の言葉に従ってふたり歩き出した。歩きながらぽつぽつと語り始める。葵との出会いのことを、最初から、そのままに。
「うーわー、女の子超苦手な栄がどこで女の子と出会ったんだろうと思ってたけど……。逆に納得できるかも、その状況」
木々に遮られた日光の光和らぐ日陰で、ベンチに並んで腰掛けて風に吹かれる。洋一は笑うでも驚くでもなく、うんうんと頷きながら顎に手を当てて考え込む仕草をした。
川原で水に浸かった葵を見つけたこと、舞台衣装かと思っていた羽が本物だったこと。葵が天使であることを分かってもらうために、呼吸も心音もなかった状態から羽が消えると同時に息を吹き返したことや、一月以上飲まず食わずでも外見に変化がなかったこと、すぐに歩けるようになったこと、そしてあらゆる言語を操る能力があることなども話した。
おれや両親にとっては目の前で起こったことだったので、信じる信じないよりも先にそれが事実だった。だが話を聞いただけで洋一にわかってもらえるかどうかが心配だった。別に頭が急にメルヘンになったわけでもないし、ネジが一本飛んだわけでもない。どんなに信じられないような話でも、本当なのだと分かってほしかった。
祈るような気持ちで洋一を見つめていたら、洋一は力の抜けた様子でふにゃっと笑った。
「そういう突発的でかつ強引な要素がないと、栄は一生独り身かななんて思ってたから。天使でもなんでも、出会えてよかったねぇ」
「……信じるのか、おれの話」
あっさりと受け入れられたのに逆に驚いて問い返してしまう。
「だって栄が信じろって言ったんじゃないか。まぁ多少……頭だいじょうぶ? って思わなくもないんだけど、別に。女の子嫌いな栄に起きた奇跡でしょ、そう考えればなんてことないね」
洋一はそういって肩を竦めた。おれはなんと言っていいのかわからず呆然と洋一を見つめた。信じてもらえたのは嬉しいが、おれの将来について真剣に心配されていたのだと思うと複雑な気持ちだ。とにかく嫁が来てくれれば! という考えはまるで両親のそれと酷似している。……微妙だ。天使だろうが妖怪だろうが、おれが女の子を好きになることが奇跡だと言われているようだ。なんだかものすごく馬鹿にされてはいないか? と思っていたら、洋一がおれの頭を小突いて思考を遮った。
「……で? 洋二が話してたのは? その『天使のあおいちゃん』が出て行ったってのはどういうこと?」
そういえば元々洋一が気になっていたのはそこの話だったか、と思い直して口を開く。何をどういったらいいかは整理がつかなかったので、ぽつぽつと思ったままを口にだして並べるように話す。
「あ、ああ、それはその……同居してたとは言っても、おれ達別に、恋人ってわけでもなくて」
「ふんふん?」
「葵に至っては『好き』がどういうことかとかも分かってなくて、おれの気持ちも……告白はしたけど、まぁわかんないっていうか」
「それで?」
洋一が調子よく相槌を入れてくれるので、おれは地面に視線を固定して思ったままを口にする。ここ数日、ずっとモヤモヤと心の中に燻っていた想いを吐き出していく。
「おれとしてはその……いつか好きになってくれればって思ってたんだけど、なんか……彼女を家に閉じ込めておくのはダメだろうと思って、でも外に行けば……おれなんかよりももっといい男がごろごろしてるし、もしかしたら彼女は、もっといい男との出会いがあるのかもしれないな、なんて思って」
「…………」
「そう考えたら怖くなって。彼女はおれのことをなんとも思ってないのに、おればっかり好きな気持ちを押し付けて、いつか彼女が誰か本当に好きになれる男と出会ったときに、おれの存在が邪魔になるんじゃないかって……」
「で、どうしたんだ。……避けたんじゃないだろうね。急に距離感変えた、とか」
黙って話を聞いていたと思ったら、先読みしたようにおれの行動を当ててきたので驚いて顔を上げた。
「……なんで分かる」
驚きの表情で洋一を見上げたら、洋一は一瞬目を瞬いてから嫌そうな表情で脱力しながら言った。
「おっ、まえ……栄~、もっと早く相談してよ、そういうことは~」
がくーっと脱力した洋一は、ベンチに座った体勢のまま上体を前に折り曲げて固まった。小さく畳まれた、と言うべきだろうか。両膝の間に頭を落としこんで最上級にうな垂れている、といった様子だ。
「えーと、洋一? ど、どうした」
こういう場合はなんと声を掛けたらよいのか、とおろおろしながら洋一を覗き込んだ。
「どうしたもこうしたもないだろうが! なんでもっと早く相談しないんだこのアホっ!」
洋一は勢いよく顔を上げただけでなくそのまま立ち上がって、全身でおれに怒鳴りつけてきた。思わず両手で耳を塞ぎ、縮こまる。すると洋一はおれの手を無理矢理耳から剥がし、耳元で大きく息を吸った。
「馬鹿ー! この鈍感! 恋愛音痴!! わかってんだからそういう時はおれに相談しろよっ! 経験ないのに自己完結なんて馬鹿としか言い様ねぇよっ!」
耳元で大声を出されてあまりの声に上体を大きく逸らす。鼓膜をつんざくような大声で耳がおかしくなりそうだ。
「よ、洋一、聞こえてるからちょっと声でかいって」
おれが抵抗すると、洋一はおれのティーシャツの胸の辺りをぐっと掴んで顔を寄せてきた。つばが飛んでくるんじゃないか、という勢いで怒鳴ってくる。
「大体お前、その自己否定なんとかしろっ! 昔っからそうだけどその超後ろ向き発想いい加減にしろよ! お前は自分が思ってるよりいい男だって認めてやれ、ってかなんだよその、『他にいい男がいるかも~』なんて考え、どうしてでてくるんだ!? てめぇのこと好きにさせれば済む話だろーがっ!」
『氷の王子さま』の面影など既にない。
洋一は常に笑顔の下に全ての感情を隠していて、傍から見れば冷静沈着、眉目秀麗。だからこその『王子』なのだ。でもその作られた仮面の下で感情の触れ幅が臨界点を突破するとこうなる。
中性的で優しく温和な雰囲気はどこかへ吹っ飛び、荒々しい男の顔が姿を現し言葉遣いさえ変わってしまう。別に『王子』なんて呼ばれてなくても洋一は本来温和で大人しい性格なので、一旦爆発するとすごいのだ。年に一回、あるかないかの切れっぷり。滅多にないこの洋一の怒り様に、おれは胸倉をつかまれているにも関わらずぽかんとしてしまった。
「なんで怒ってるんだろう、なんて顔してんじゃねーぞ、栄。お前がここまで馬鹿だったとは知ってたけど予想外だったよ、馬鹿中の馬鹿、アホ中のアホ! ……もしかしたら洋二のほうがまだマシかも」
洋一の勢いがようやく落ち着いてきた。疲れたのかもしれない。怒るのには大概エネルギーがいるものだからだ。洋一はおれのシャツを掴んでいた力を抜き、ベンチにぐったりと座りなおした。そのがっかりと落ちた後頭部を見つめつつ、おれはわけも分からず隣に腰掛ける。
「……ってかさ、こんだけ馬鹿にされたら反論したっていいんじゃないの? 栄は。洋二よりもアホって言われて腹立たないの?」
洋一はぐったりしながら顔を上げておれに問うてきた。その視線を受け止めながら、はて、と考える。
なにしろ洋一の勢いに驚いて、話の内容は頭半分だった。ただ、洋二よりもアホと言われて、以前のおれなら怒っただろう、洋二には悪いが馬鹿にするなと思っただろう。でも今は……
「自分でもそう思ってるって顔してるよ、ホント、自己評価低いんだから」
「……はは、そうかな。でも本当に、情けないなって思ってるから」
嵐のように巻き起こって過ぎ去った洋一の怒りで、おれの気持ちも何だか落ち着いた気がした。本音が出る。洋一は、決しておれを本当の意味で馬鹿にしたりはしない、受けとめてくれると思えるから。
「……勝手に、好きになって。結構暴走、して。いつか離れるんだって思いながら、離さないって独占欲、出してみたり。好きになってもらえないかなって思ってるのに、それはないってブレーキかけて、距離置いて。……挙句出て行かれて」
はんっ、と自嘲の笑いを零しながら続ける。
「いなくなって、ああやっぱり離れる運命だったなんて思いながら、もどってこないかな、なんて。帰ってきて欲しいなんて自分勝手なことばっか考えてる。……自分がこんなに情けない男だって知らなかったよ。洋二のほうがきっとマシだよ、本当に」
「ははは、栄もようやくそういうこと言うようになったんだな。ひょっとすると恋愛経験なしで一生独身かも、いやいやお見合いでなんとか? とかって真剣に心配してたのに」
洋一がおれの肩にぽんと手を置いて揺らしてくる。何だか嬉しそうに笑っているのを見ておれが首を傾げる。怒ったり笑ったり、今日の王子は表情豊かだ。
「栄の、それはさ。栄が彼女を想って手を離すのはそれは優しさから来る行動だと思うよ。お前は昔から他人に優しいから」
「…………」
「けど行き過ぎればそれは優しさなんかじゃない。……臆病、だよ。自分を好きになってもらえなかったとき、とかいつか離れるときを想像して、それ以上傷つかないように先へ進めなくなってるんだ」
「臆病……、か。そうかもな」
洋一の言葉をちゃんと咀嚼して、ものすごく納得して頷く。自嘲、と言うよりはもっと馬鹿馬鹿しいなぁと思って笑ってしまう。
「はは、栄、お前本当に変わったよ。恋愛って仏頂面のヤツを表情豊かに変える効能もあったんだな。おれは付き合い長いし、大体何考えてるか分かってたけど、今のお前は誰が見たってすぐ分かる顔してる。恋愛に悩んでますって顔」
「……うそだろ」
そんな風に表情を読まれるのは恥ずかしすぎて嫌だ。よく言われるところの「顔に書いてあるよ」状態なのだろうか。思わず両手で顔を隠したら、洋一は楽しそうに笑う。なんだか久しぶりだった。中学校以来かな、というようなのんびりとした空気感。
幼馴染で小さい頃から一緒だったが、高校は洋一は商業系に進んだので離れてしまった。卒業してからはお互い家業を継ぐために家に入ったので、仕事で忙しく偶に飲みに行く程度だったから。こんな風に昼間の公園で、緑の木の下で風に吹かれながら話をするなんて何年ぶりだろう。
「……で、話の続きだけど。悩みまくってるのはもう当然だし頑張れって感じなんだけど、お前はもっと自分に自信持っていい。『他にいい男が~』とか言ってたけど、お前だって相当いい男だ。ちゃんと仕事してる。収入はまぁまちまちだろうけど貯金してるだろ? 風邪もひかない超健康体、酒も嗜む程度。タバコは……あれ、そういや止めたの? 吸ってないね」
洋一はもともと吸わないが、会った時におれが吸っていたことを思い出したらしい。おれは不意に車のダッシュボードに入れっぱなしのタバコを思い出しながら頷いた。
「あ、ああ。葵が……嫌いだったらやだなと思って……」
「ぷっ! あー、もう、メロメロだよね、ホント! あーあ、栄のこんな姿を見られる日が来ようとはね!」
人が正直に話をしたら洋一は口を押さえて笑う。酒に酔ったってそんな態度とらないだろう、というようなへらへらした様子で、右手を振って大笑いしている。洋一の中でおれがどれほどの堅物だったか知らないが、笑われ続けるのは正直気に入らない。ぶすっとした表情で洋一を止める。
「……話を先に進めてくれ。居た堪れないから」
「はーい。……っとね、そうそう。栄はさぁ、自分では否定してたけど、中学高校の頃だって結構モテてたんだよ? 背も高かったし運動得意だったし? まぁ顔は僕のほうが残念ながら整ってるけど栄だって十分カッコいいよ」
「……そこに自分の自慢は要らないぞ」
「あら、ツッコミが。……まぁ僕としてはね、栄がどうしてそんなに自己評価低いのか不思議で仕方がないんだけど、自己評価低いのって周りの人を傷つけることもあるって知ってた?」
……知らなかった、というのが顔に出たのだと思う。洋一を見て目を瞬かせたら、ヤツはまた噴出しそうになって堪えた。……全く失礼なヤツだな。王子の異名は返上しろ。
「例えばさ、ご両親の気持ちを考えてみようか。栄が自分を卑下しておれはダメなヤツだーって思ってたら、栄を育てたお父さんお母さんが悲しむと思わない? 私たちがダメだったのかなー、とかって思っちゃうんじゃない?」
「あー。……そう、かもな。でもお袋はおれのこと、『そんなに情けない息子に育てた覚えはありません』って言ってたぞ」
「あはは、お母さんの方が一枚上手! ……でもそう言えるのは息子に自信を持ってるからさ。ちゃんといい息子に育てたぞ、文句あるかって思ってるからそう言える。そこで栄が『でもおれは~』とか言ってたら、お母さん立場なくない?」
「う……」
確かに、そうだ。そう思う。おれが自分を否定して自信を持てなくなるほど、おれを育ててくれた親父とお袋を否定することになる。
「自分をちゃんと正当に評価してやりなよ。過剰に自信を持つのはよくないけど、栄は謙虚すぎ。ちゃーんといい男なんだからさ、『おれ以上のいい男なんて現れない』とか思ってりゃいいんだよ。……自信持って、臆病にならずに行動する。それが今の栄に必要なことだ」
洋一がいつもの感情を隠した王子の笑顔ではなくて、心からの感情を映した優しい笑みをくれた。正直、目の前の良すぎるほどにいい男にそう言われても自信なんて持ちようがないだろって思わないでもない。だが他でもない洋一がそう言ってくれるなら、それは確かなことだろうとも思えた。洋一に認められているくらいは、おれもおれ自身を認めてやっていいだろう、と。
「…………そっか」
大きく息を吸って、吐き出しながら言葉を乗せた。吐き出した空気と共に、心がふわりと軽くなった気がした。
ほっと脱力したおれの隣で、洋一も嬉しそうに笑った。緑の葉っぱが優しく風に揺れる。
「そのあおいちゃんが出ていっちゃったのにも何か理由があるんだよ。ちゃんと迎えに行って、話聞いてやれ。で、連れ戻してきたら今度は口説き倒す。『おれのこと好きになってもらえるまで離さない』とか言っちゃえば?」
「……いや、それはどうなんだ」
「そのくらい束縛してあげた方が喜ぶ子だっているよ。大体さ、あおいちゃんが天使なら、他に行く場所あったっていうのが驚きだよ。突然現れて栄が拾ったようなもんだろ? 栄の家より他に行くとこないのかと思ったから」
「ああ、それは友達が……」
言いながらおれは、今更な事実に気づいていた。葵を突き放すような態度をとって、それで葵がどうするかまで考えていなかった。戸籍ができたとはいえ、人間社会の煩雑な仕組みを何一つ知らない葵を放り出すような真似をしていたのではないか。偶々アンナさんがいて、アンナさんの家に行ってくれたからよかったが、そうでなければ葵は路頭に迷っていたかもしれない。
さっと血の気が引くような気がして体が震えた。なんて無責任な、考えなしな行動だったろう。おれは自分の臆病さで葵をひとりにするところだった。本当は何が何でも家に置いて、守らなければならなかったのに。
「……友達がいたんなら、そんな深刻に考えなくたって大丈夫だよ。安全なんでしょ?」
おれの顔色を読んだのか、洋一が肩を軽く叩きながら静かに言った。おれの感情はもはや、洋一やアンナさんの前で隠せなくなっている。
「起きてしまったことはもう過去だ。取り返しがつくことなら今、何とかしたらいい。気持ちがすれ違ったってやり直せるさ。本当にそうしたいと思うのなら、何とかなるよ」
今ほど洋一の言葉が胸に染みたことはなかった。いつの間にこんな大人みたいなことを言うようになったんだろう。淡々と語られる言葉が優しく、捻くれた心にさえも素直に浸透する。
「……ああ、ありがとう、洋一」
素直な気持ちが礼の言葉になって溢れた。
「どういたしましてー。……ったく、大事になる前に相談して欲しかったけどね、こっちとしては。……さて、帰りますか。そろそろ怒られる時間じゃない?」
そう言われて腕時計を見る。時刻は一時十五分。
「うわっ、休憩十五分も過ぎてる!」
慌てて走り出すおれの後ろから、分かっていたのだろう洋一は余裕の顔で笑いながらついて来る。おれが親父に怒られるのも織り込み済みなのだろう、憎たらしいほど涼しい笑顔に文句を言ってやろうとして……止めた。
もう動き始めている現場の職人達の姿を横目に軽トラまで走りこんだおれは、洋一に手を振って別れようとした。だが洋一は「ちょっと待って」と言って自分のバンの後部ドアを開けてもぐりこんでしまった。
「なんだよ、洋一! 早く行かなきゃおれ親父にどやされるって!」
そわそわと背後を気にしながら待っていると、少しの後で車を降りてきた。にこにこ笑いながら後ろ手に何か隠している。
「はいっ、仲直りに持って行きなね」
洋一が差し出してきたのは小さな花束だった。さすが花屋の跡取り、この短い時間で可愛らしい花束を仕上げるなんて。
「寄せ集めで悪いけどさ、水につけて置けば持つから枯れないうちに今日の夕方にでも行っておいでね。あおいちゃんによろしく。あ、後でちゃんと紹介してね」
洋一は言うだけ言ってさっさとバンに乗り込んでしまう。ああ、花なんて持ってたら今日アンナさんの家に行くのは確定か。……いや、洋二は完璧にそれ狙いだろう。
受け取ってしまった花束を恨めしく見つめていたら、洋一がクラクションを鳴らしてゆっくりバンを発進させる。
「ちゃーんと今日行くんだよ! 枯れさせたら承知しない!」
窓から顔を出して大きく手を振る洋一に、ひとまず手を振って応える。そんなに念押しされたら行かないとは言えない。
「……わかったよ、ありがとなー」
テールランプで返事をしつつ去っていく洋一のバンを見送って、ふう、とため息をついた。
「……嵐のようだったな、王子襲来」
ぼそりと呟いて手元の花を見つめる。色とりどりの花の中に一輪、小さなサイズのひまわりを見つけ笑みが零れる。知らないだろうに葵の好きな花を選んでいるとはさすが王子だな、なんて思いながら歩き出した。
車の中にはお袋に押し付けられた葵の服、そして菓子折り。手には洋一の花束。
ぼてぼてと歩いてひとまず、花を水につけておくために水道の方へ向かっていたら二階から顔を出したタムさんとヨシさんが大声で怒鳴ってきた。
「おーい、栄! 嫁さん奪還作戦立てたからな!」
「三時の休憩で作戦会議なっ!」
その声に他の職人達も顔を出してにやにやと笑う。「おー」とか「あはは」とか楽しそうなざわめきの中で、親父も口元に笑みを浮かべてこちらを見ていた。
手に小さな花束を持ったおれを見て何かを察したのか、もそもそと何か呟いて踵を返していった。
『よかったな』、と動いた気がした。
――ああ、本当に。
おれはなんて幸せな人間だろうな。
みんなが応援してくれて、背中を押してくれて。
これでひとりだけうじうじしているなんて、冗談だよな。
水道にあったバケツに少し水を入れて、その中に花束を入れた。「暑いけれど夕方までもってくれよな」と心の中で声を掛けて歩き出す。
――葵、本当に、ごめんな。
会いに行くよ。
もう、臆病、やめるよ。




