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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
51/128

41 励ましと迷いと




 また、朝が訪れた。


 何が起ころうとも日は毎日、昇って落ちてを繰り返す。残酷なほど融通の利かない世界に舌打ちをしてベッドから降りる。


 今日くらいは日が昇らなくたっていい。いやむしろ彼女がいない世界なら、いっそおれが寝ている間に崩壊していたって構わない。


 傍若無人な言葉ばかりを頭に並べて、作業着に着替える。洗面所で顔を洗い居間に顔を出すと、お袋も親父もいつも通りの朝を迎えていた。


「おはよう」


 一声かけて定位置に座る。


「おはよう」


「おはよう、栄」


 もう既に食事を始めている親父を横におれも箸を取り、食卓を眺めた。玉子焼き、しゃけの塩焼き、きゅうりの漬物、野菜の煮物。差し出されたご飯と味噌汁を受け取って口をつける。いつもの味だ。


 いつもの味、いつも通りの食卓。けれども絶対的にいつも通りでない空気感。

 お袋も親父も無言で食べ進めていた。おれも何も言わずに箸を進める。

 四角いテーブルの一辺。ぽっかりと穴が開いたようにすら思えるほど、不自然にいない存在。


 かちゃかちゃと食器の触れる音だけが響いて、そのうち親父が食べ終わり立ち上がった。


「栄」


 移動の途中で頭の上から呼ばれて顔を上げる。


「今日は、大丈夫か」


 そういわれて大丈夫じゃない、なんて言えるはずもないだろう。


「大丈夫だ」


 ひと言そういうと、親父は無言のまま離れていった。しばらく親父の去っていく足音を聞いてからまた箸を持ち直すと、今度は目の前にいたお袋の視線にかち合った。


「……なんだよ、お袋」


「お袋じゃなくてお母さん。……今日、仕事終わってからでいいからアルちゃんのところへ荷物、持って行ってあげてくれる? アルちゃんの鞄小さかったから、がんばって詰めたみたいだったけど洋服結構残ってたの」


 お袋は何てことないように言った。葵のところに行けって何の拷問だ? 洋服なんてどうでもいいじゃないか、と一瞬思ったが、お袋がせっかく葵の為に買った服なのだ、渡してやりたいのだろうと思った。どうせアンナさんに渡せば事足りると考え了承した。


「……ああ、わかった」


「それから……人様の家にお世話になるのだし、菓子折りのひとつもと思って準備したから、一緒に持って行ってね。くれぐれもちゃんと挨拶してくるのよ」


「…………」


 お袋が何を言いたいのかいまひとつよくわからない。菓子折りを持って挨拶って一体何の挨拶だ? 葵がしばらくお世話になりますって、葵はだって、もう……


「しばらくお世話になりますが連れ帰りますからってちゃんと言ってくるのよ? アルちゃんには会えなくても、ちゃんとお家の人には」


「お袋、葵は、アルはもう、うちの子じゃ」


「ないなんて言わせないわよ」


 お互いの言葉を遮りながら言い合って、視線がまたかち合う。お袋の目は静かに怒っていた。


「あなたをそんな情けない男に育てたつもりはないって言ったわよね? 今だってそう思ってるわ。たとえアルちゃんが家出してしまったとしても連れ戻してくるくらいの甲斐性はあるってお母さん信じてる」


「…………」


「いいわね? ちゃんと挨拶してくるのよ。ただ荷物だけ置いてきたら承知しないわよ」


 お袋はそう言い残して、空いたお茶碗を重ねて台所へ消えていった。

 とりのこされたおれは、茶碗に一口だけ残ったご飯を見つめ、しばらくぼんやりしていた。


 葵を連れ戻す。

 それができるのならば……。でもできない理由が自分の中にあった。


 がたん、と台所から音がしてハッと時計と見上げたら、もう仕事に出なければならない時間だった。慌てて最後の一口のご飯を口に放り込み、味噌汁で流し込む。バタバタと洗面所に向かい身支度をして玄関に走る。

 そこに置いてあったのは弁当の入った袋と、葵の服が入っているのだろう大きめの旅行鞄、そして紙袋。

 おれはため息をひとつ落とし、全てを引っつかんで玄関を飛び出した。

 すでにトラックに乗り込みエンジンをふかしていた親父は、走ってきたおれを一瞥すると車を発進させた。おれもすぐに軽トラに飛び乗って後に続く。親父がおれを待っていた理由など考えたくもなかった。



 十五分ほどトラックを走らせ、通いなれた現場に到着する。お袋に持たされた鞄と紙袋はそのままに、弁当の入った袋だけを掴んで車を降りる。弁当は車においておくと暑すぎて悪くなってしまう。現場においてあるクーラーボックスに入れて保冷剤と共に保管するのが夏の習慣だった。

 親父の弁当や他の職人達の弁当が入ったボックスに自分のものも重ね入れ蓋を閉じると、それを待ち構えていたかのようにおれの周りに人が集まってきた。気まずそうに頭を掻いているもの、目を合わせ辛そうにそっぽを向くもの、落ち着かない雰囲気だ。


「な、なんすか、皆して……」


 せわしなく視線を動かしてみんなの顔色を窺っていたら、集団の向こう側で親父が背中を向けてそ知らぬふりをしているのが見えた。……ああ、なんか、わかった気がする。


「いや~、栄、お前若いんだし、まだチャンスあるって! 元気出せよ!」


 おれの右肩をバシバシ叩きながら突然切り出してきたのは、左官職人のタムさん。


「ってか奪還してくりゃいいんだよ、ただの喧嘩だろ?」


 左から絡むようにおれを覗き込んでくるのは板金工のヨシさんだった。

 周りを囲う年もバラバラな男達はそれぞれうんうん頷き、同情的な視線を投げてきた。何が起きているのかなんとなく察したおれは呆気にとられて口を聞けなかった。おれが周りを見渡すだけで何も言えないのをどう思ったか、真ん中から洋二が人を割って出てきた。


「兄貴ぃ~! まさかおれのせいじゃないっすよねぇ~! おれが葵さん連れ出したりしたから、ふたりの仲が悪くなったとかぁ~」


 両手を胸の前で組んで、目をうるうるさせている。中腰に膝を落として見上げてくるのは何の真似か。


「……洋二、気持ち悪いから止めろ」


 ひとまず思ったことを口にして、洋二がわざとらしく落ち込むのを目にしてからため息をつく。そしてキッと顔を上げ、この状況を作り出した元凶に視線を定める。


「親父、一体何を言ったんだ」


 低く冷ややかな声を出すと、集団の向こうで親父がそっとこちらを窺って片手を上げ、そそくさと去っていった。その仕草さえもわざとらしくて腹立たしい。

 親父が去っていくのを一緒に見送っていたタムさんが、わかってるよ、と言わんばかりの強さでおれの肩を叩く。


「やー、ヒナもショック受けてんだよ、せっかく嫁さん連れてきたってのに出て行かれちゃったんじゃ」


 あまりに包み隠していない情報に驚く。まさかとは思うが親父が積極的に話をしたとは思えない。 


「……親父が、そう言ったんですか?」


「いや、昨日お前急に休みだったろ? その時点でなんかおかしいなーと思ってたんだがよ。ヒナの様子がそわそわおかしいんだよ、あのヒナがだぞ? 仕事中に時々上の空なんだよ!」


 おれの質問に答えたのは左隣のヨシさんだった。ヨシさんの言葉をタムさんが繋ぐ。


「おかしいな~と思ったんで問い詰めたわけだ! したらヒナがよ、『栄の嫁……候補が出てった』って。おっちゃんたちはまず驚いたよ、栄にそんな相手がいたことによ!」


「あ~、まぁ、それは、ええと」


 おれは曖昧に笑って頭を掻く。この場をどう切り抜けるかと頭をフル回転させる一方で、案外堪え性のない親父に悪態をつく。

 親父……そわそわしてたってなんだよ! ペロッと本当のこと言うなよ!


「おっちゃんたちはお前がこーんなちっちゃい時から見てるだろ? どんどん大きくなってこんな立派になってよ! そろそろ嫁さんもらう頃かとは思ってたけど、まさかもう候補がいたなんてな!」


 タムさんが大げさな身振りと共に面白おかしく話す。周りの人間たちはにやにやと面白いものを見る雰囲気だ。つい先ほどまで殊勝な顔をして『元気出せよ』という様子だったのに、すっかりこの状況を面白がっている。


「おれはてっきり嫁探しから面倒みてやんなきゃなんないと思ってたんだよ、なにしろ栄ときたら女の子を見るとそそくさ逃げ出すようなやつだしな~。それがいつの間にか嫁さん候補と同居してたなんて、おっちゃん一本取られたぜ!」


 あははは……と笑いに包まれる皆の真ん中で、おれは居心地悪く苦笑いのまま固まっていた。ああ、もう、この状況、どうやって収集したらいいんだ。というより仕事はどうした、仕事は。しなくていいのか職人達よ。


「あ~と、そろそろ仕事始めましょう、ね。ヨシさん、タムさん、話はまた後で……」


 おれは逃げの体勢に入った。後で、とは言っているがもちろん口先だけだ。この話に更に突っ込ませるつもりは毛頭ない。しかしヨシさんもタムさんもおれの口車に乗せられる事はなかった。がしっと肩をつかまれて、物理的にも逃げられない。


「いや、きちっとしておかなきゃなんねーよ、栄。何しろおれたちに残された道は二つに一つだ、なぁ?」


「おおとも、嫁連れ戻し大作戦を展開するか、新しい嫁探し大作戦を練るか、どっちかに決めとかなきゃ動けねぇからな!」


 ……どっちも結構です、大丈夫ですから放っておいてください。

 うな垂れたおれの頭越しに、いつになく意気投合したヨシさんとタムさんが鼻息荒く確認し合っている。見なくてもふたりの目がキラキラと少年のように輝いているだろうことは分かる。そして周りの職人達だって成り行きにわくわくしているに決まっている。

 思えばおれはこの人たちの間で遊ばれてきたよなぁ、昔から。と、遠い目になって現実逃避しかける。しかしおれが逃げ腰になっていることに目ざとく気づいた洋二がまた要らない発言を投げてきた。


「あ、あにきぃ~! おれ応援するっす! 葵さん連れ戻してくださいっす! 葵さん、絶対兄貴のこと好きっすよ、大好きっすよ! おれの出る幕どころか谷中さんの出る幕もなかったんでしょ? 連れ戻してあげてくださいよ、きっと待ってるっす!」


 お前は黙ってすっこんでろ! という意思を詰め込んだ視線を洋二にこれでもかと叩きつける。が、当の本人はぽやっと首を傾げるばかりだ。おれの気持ちなんて何一つ伝わっていない。その証拠に洋二はああ、とばかりに目を輝かせてこうのたまったのだ。


「兄貴、とっくに決心してるっすか! 葵さん奪還作戦っすね!? おれ協力するっす、もちろん!」


 ちーがーうー!!! どうしてそう変な方向に取るんだ!!

 

 おれは目を見開いて洋二に言ってやろうとしたが、おれが声を出すより早く、隣のタムさんが身を乗り出す。


「おお、そうか栄! お前やっぱ男だな! 惚れた女は連れ戻すべし!」


「あ、いや、だからちょっとそれは……」


「うむ、流石はおれたち皆の息子だな。ヒナの息子にしておくのはもったいない。よし、おれたちも協力するぞ」


「いや、だからですね? ひとの話は聞きませんか?」


 タムさんは痛いくらいの力でおれの背中を叩き、ヨシさんは感慨深く頷いて涙を拭う仕草をする。そしてそのまま周りの男達とやんややんや話をしながら自然に場は散会していく。

 「こーしちゃおれんな、詳しい作戦を練るぞ」、とか「ヒナ、ヒナはどこ行った! 栄の嫁がどんな子か聞いておかねば作戦に支障がでるぞ」とか、「おれっ! おれ知ってるっす!」とかいう声ががやがやとだんだん遠ざかっていくのをポツリとひとり、眺めて呟く。


「…………だから、誰かおれの話聞いてるか?」


 無理矢理コントに出させられ、オチも知らずに笑われ役を買って出て取り残された気分だった。なんなんだろう、この状況。

 そう思って立ち尽くしていると、後ろから気まずげな咳払いが聞こえ、緩慢な動作で振り向く。


「……親父、どうするんだ、これ」


 背後で俯きながら気まずそうにそっぽを向いていたのは、他でもない厳格な棟梁であるはずの親父だった。

 どうでもいい話に職人が盛り上がるのは常だが、仕事の時間中にも咎めずに放っておくのは親父らしくない。普段なら無駄話をしている職人に一喝、雷を落としているはずなのだ。

 おれはこの一連の騒動の元凶を思いっきり睨み付けた。尊敬する父親だが、息子を笑いものにするなんて一体何を考えているというのか。


「……まぁ、ほっときゃいいさ、あいつらは。どうせなんにも策なんてでない。そもそも女にモテるタイプなんかじゃないんだしよ」


「そういう話を聞いてるんじゃなくて、どういうつもりかって事だよ。葵のことはどこまで話したんだ」


「なにも話しちゃいない。ただ『栄の嫁候補が出てった』と言っただけだ。嫁、と言い切らなかっただけマシだと思え、この間抜け。詳しい話なんかしたらお前もっと笑いもんにされてるぞ」


「うっ……」


 途中まではおれが親父のことを責めていたのに、途中から逆に責められて何も言えなくなる。親父の言いたいことなんていわれなくても分かる。つまり同居はしていたものの、結婚はおろか恋人ですらなかったのはおれの行動が遅い所為で、その上出て行かれたなんて間抜け以外のなにものでもない、と。


「お前は言葉が足りねぇんだよ、栄。ちゃんと話して連れ戻して来い。母さんにもそういわれたろ?」


 肩を落としたおれの前で、親父は親父の顔をして小声でそう言った。昨夜から本当は言いたかったに違いない。昨夜は親父と一言も言葉を交わさなかったから。


「う……ああ……。でも……」


「でもじゃねぇ、こういうときは男から行かなきゃなんねぇんだよ。ぐずぐずするな、おれの息子なら」


 親父はおれの眉間を人差し指でぐっと押して、捨て台詞を言うように去っていった。一瞬見えた顔はちょっと赤くなっているようだった。おれは押されて痛みの残る眉間を手で擦り、親父の背中を見送った。

 がやがやと動き始めた現場で、ぽつんとひとり、取り残されて呟くしかない。


「……なんだかなぁ。本当におれの話、誰も聞いてくれないし」


 葵を迎えに行けと誰もが言う。

 迎えに行けるものならとっくに行っている。

 

 ……行けない、行けるわけがない。


 おれから距離を置いたのに。避けたのに。それを察した葵が出て行ったのに、帰ってきてくれなんて、言えるのか?

 おれから手を離して、葵を自由にしたというのに。連れ戻して、そしておれはどうする?

 葵にどう接したらいい。何を話したらいい? どんな顔をして向き合えばいい?


 たらりと汗が伝い、目に入った。染みるような痛みに片目を瞑り、急いで水道の方へ向かう。蛇口を全開に捻って、目を洗って、そのまま頭ごと水の中に突っ込む。勢いよく落ちてくる冷たい水が心地よく、Tシャツの襟が濡れようともどうでも良かった。ぼたぼた落ちていく雫を掬って顔を洗う。どうにもならないおれの心を、どうにか鎮められないかと真剣に思う。


 もし葵が家に戻ってきてくれたとしても。


 彼女が好きなのに、好きすぎて苦しいくらいなのに、それを押し付けるのが怖い。

 ……溢れるような想いを、隠しておくことなどもうできない。

 

 怖い、自分が。


 自分を好きにならなくても、それでも守ると決めたのに、他でもない自分が彼女を苦しめてしまうのが。

 あの純粋な優しい笑顔が、また自分の所為で翳っていくのをおれは見ていられるのか――?



「おーい、栄ー! こっち手伝ってくれー!!」


 大声で呼ばれてハッとする。


「……うーっす、今行きます!」


 ぼたぼたどころでなく流れる水が、髪を伝ってシャツを盛大に濡らしていることに今更気づく。蛇口を捻り水を止め、腰に引っ掛けていたタオルでがしがしと頭を拭き、シャツは一度脱いで絞る。びしょびしょだけどこんなに暑いのだ、動いているうちに乾くだろうとまた着て歩き出す。


 ひとまずは仕事だ。葵のことは、閉まっておこう。

 じりじりと照りつける太陽、青い空、大きな入道雲。ザクザクと音を立てて歩いていく間に、閉まっておこうと思いながらしまいきれずに溢れ出す想いが、胸の辺りをジクジクと焦がすように傷める。大きな棘が刺さって抜けないとして、もし本当に心臓ならおれはもう死んでるな、なんて馬鹿なことを考える。


「おーい、さかえぇー!! まだかー!?」


「はーい、今すぐ!」


 感傷を振り払って大声で返事をする。……とにかく、今は仕事だ。



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