ちょっと横道⑦‐2 望み
「うん、いい頃合いだね。ではトマトを入れてもう少し煮込もう」
「…………はい」
おじいさまと私は並んでキッチンに立ち、ふたりで料理を作っていた。時刻は午後四時。
朝、家の中に招かれた私は紅茶を一杯ご馳走になった後で寝室に案内された。時々ぎしりと音をたてる階段を上っていって入った部屋は、かつて娘さんが使っていたという可愛らしい内装と天蓋つきのベッドのある部屋だった。
「朝早く出てきたのなら少し眠るといい、昼には起こすから」とおじいさまは言って去っていった。ひとりになった知らない部屋でしばらく立ち尽くしていたけれど眠る気にもなれずに、ふらりと窓際に寄った。
背の高い木に囲まれた緑の庭。おじいさまが手入れしているのだろうか、様々な植物がいくつかの区画に分かれて計画的に植えられているのが上から見ると分かる。緑の中から顔を出しているガーベラの赤、あれはグラジオラス、あっちはゼラニウム……。花の名前が頭に浮かんで思わず目を閉じる。
教えてくれたのは栄だった。廊下にふたり並んで座って、指を指しながらひとつひとつ、花の名前を教えてくれた。実のなる木もたくさんあって、食べるのが楽しみだねと笑いあった……
太陽の眩しさに疲れて室内に視線を戻し、今度は部屋の中に置かれたものをひとつずつ眺める。白とピンクのレースが掛かったベッド、足の高い机、木の椅子。小さなランプ、ぬいぐるみ。棚に並ぶたくさんの本、壁の絵。初めてきた部屋なのにどこか覚えがある、むしろ使い慣れていたはずの調度品たち。足元のぎしぎしと時々音をたてる木の床。
思い返してみれば天界にいたとき自分に宛がわれていた部屋も、靴を脱ぐことはしなかったし、寝るときはベッドだった。本を読むときは机に向かって椅子に腰掛けて読んだ。本来天使は眠りを必要としなかったけれど、時々ごろりと横になってはひと時、人間になったような気分で目を閉じた、そんな部屋があった。
開け放たれた窓からふいに吹いてきた風に、目を閉じれば浮かぶのは違和感。
本来慣れているはずなのはこの家のこんな部屋だというのに、なぜかあの家で過ごした感覚が馴染んで消えない。
素足で歩く畳の感触。べたりと座り込んでみんなで囲む食卓、ご飯を食べると時々寝転がるお父さん。出したりしまったりがなんだか楽しかった布団。
部屋を渡る風も、においも、感覚も何もかもが違っている部屋で、私は何をすることもなくただ、窓辺に立ってぼんやりしていた。泣きそうに胸が苦しいのに気づいているのに必死に気づかない振りをして、でもなぜそうするのかもわからず、ただ座っていた。
……コンコン、とドアをノックする音にハッとすると、私は床の上に座り込んで膝を抱えていた。いつの間にか眠ってしまっていたようだった。
ドアを開けて目の前に立っている人を見て、一瞬自分はどこにいるのだろうかと慌ててしまう。
「お昼にしよう」と微笑むおじいさまの声に、ああ、私はアーレリーのところに来たんだ、と思い出す。
――自分からここに来たというのに
おじいさまと昼食にパンを食べ、その後夕食の準備をするというので手伝うことにした。「こんなに早い時間から?」と尋ねたら、「私の唯一の得意料理は時間がかかるんだよ」とおじいさまは笑って身体を揺らした。
――見たいのはこの笑顔じゃないって
玉ねぎをひたすら刻む。お母さんに料理を教えてもらっていたから、包丁の使い方は分かる。役に立ってよかったと思いながら隣で大きな鍋とにらみ合いをするおじいさまを見上げる。おじいさまは時々涙を拭っては「見ないくれ」と恥ずかしそうに笑う。玉ねぎの香味が涙を誘うのかもしれないと思いつつ、刻んでいる私はなんともない。いっそ玉ねぎのせいにして泣いてみるのもいいな、なんて思って、何故泣きたいのと自分に問いかけ首を振る。
――どうして、そう思うの?
おじいさまは牛肉の入った鍋と対峙し、真剣に灰汁を掬っている。大切かつ根気の要る作業なのだそうで、もうかれこれ一時間以上は湯気の熱気と格闘している。
私は刻んだ玉ねぎ、にんじん、セロリなどを別の鍋に入れ、炒め始めた。いい香りが立ち上って思わず笑顔になる。おいしい料理になるだろうと思っておじいさまを見上げたら、「焦がさないようにね」と汗を拭いながら笑い返してくれた。
午後の光が差し込んでくる台所に並んで、立ち上る良い香りを嗅ぎながらしばらく無言で鍋と向き合った。
玉ねぎが茶色く変化して焦げそうになる直前のタイミングで火を止め、おじいさまを伺う。この後の指示を聞いていないのでどうしたらいいかわからない。けれども彼は窓の外に広がる庭を見ながら、ぼんやりと呟いた。
「……この料理は妻が作ってくれたオリジナルでね。祖国の味を懐かしがる私になんとか近いものを食べさせようと奮闘してくれて」
昔を思い出すように遠い目をしながら語りだしたおじいさまの邪魔にならないよう、私は黙って話を聞いていた。
「スビェークラ、日本語ではビーツ、という野菜を大量に入れてつくるスープがあるのだがね、当時はロシア料理に使う野菜や調味料などは日本にはなくて、もちろんビーツなんか手に入る由もなかった。妻は見た目だけ似た赤カブや大根なんかを使っていろいろ試してくれたんだが、なかなか思うような味にはならなかった。……そのうち赤カブを使うのを諦めてね。とにかく私の舌に合う味を作り出すのに没頭し始めて、だんだんロシア料理からは離れていった」
おじいさまは愛おしいものを見る目でスープの表面をぐるりと撫でるように混ぜた。
「……離れていったのだがね、不思議と妻の料理はおいしかったんだ。ロシア料理にも挑戦していたが案外私は日本食も好きで、特に妻が作るものは何でもおいしく感じられることにだいぶ経ってから気づいた。……そして思ったのだよ、彼女が作ってくれるものならばなんだっておいしい。無理して祖国の味を再現する必要なんてないのだ、と」
ふつふつと弾ける泡、立ち上り続ける湯気。おじいさまの前髪は汗なのか湯気なのかわからないがしっとりと濡れ、暑いだろう首には玉のような汗が浮かんでいる。それでも右手に持ったお玉を楽しそうに動かして水面の灰汁を丁寧に掬っていく。
「そして妻の奮闘の結果、これが私が一番気に入ったシチューだ。……妻は几帳面な人でね、レシピをちゃんと残してくれていた。私がいつか作ると予測していたのだろう、絵が入って分かりやすいものを書き残してくれていた。彼女が亡くなってしばらくして、そのレシピを見ながら作った最初のときは驚いたよ」
おじいさまはすっと私を見た。綺麗な青い瞳は、思い出に浸る感傷ではなく、心から溢れる愛情と話を聞いて欲しいという純粋な想いを映してキラキラと輝いていた。
「このシチューの隠し味はなんと味噌なんだ。まさかシチューにそんなものをいれていたなんて思ってもみなくて半信半疑だったのだが、入れると入れないとでは味が違う」
ふふふ、と笑い、視線を鍋に戻してまた彼の話は続く。
「……彼女は私の好みを知って、私の為に料理してくれた。この料理を作る度、妻が私をどれだけ愛してくれていたかを思い知る。私ももちろん負けないくらいに愛していたと自負しているがね、さてどれくらい妻に伝わっていたのかは分からない」
灰汁がだんだん少なくなって、透明になってきたスープを見つめながら、おじいさまの言葉に寂しさが過ぎった。私はその切なそうな横顔を見ながら、胸がぎゅっと締め付けられるような気がして思った通りを口にした。
「伝わって、いたと思います。たくさん。……だっておじいさまが愛してくれていると分かっているから、奥様は頑張れたのでしょう? 自分が死んでもきっと思い出してくれると思ったから、レシピを残したのでしょう? それは、おじいさまの愛が奥様に伝わっていたからだって、私思います」
自分でも何を言っているのかよくわかっていなかった。けれども亡くなった奥様を大切に思うおじいさまの気持ちも、おじいさまにたくさんの料理を残した奥様の気持ちも両方分かると思えた。胸が痛むほどに伝わってきたから、それを疑問に思う必要なんてないと、自信を持つべきだと思った。だから、とおじいさまの顔を見上げれば、おじいさまはその青い目を優しく細めて私を見下ろしていた。
「……あなたは優しいひとだね、アルシェネさん。……ありがとう」
にっこりと優しく微笑まれ、私は慌てて目線を下げた。そんな風に言われるなんてなんだか居心地が悪い。
「あなたは誰かを思い遣る気持ちを知っている。そして愛する術も知っている」
頭の上から降ってきた声が、今までの声と違って聞こえてハッと顔を上げる。独特の低い声が深みを帯びる。詩を吟ずるように、格言を口にするように。きっぱりと言い切り、告げられた言葉。
「……愛する、術、を……」
――知っている、の? 私は。 ……わたし、が?
おじいさまは私の目を見てふっと笑った。馬鹿にするようではなく、慈しむような目で。
「迷うのであれば、気づいていないだけ。……今に分かる、自分の中に特別な気持ちがあることを」
またも確信を持って告げられた言葉に私はどうしていいかわからず、戸惑う。だって分からない、どうしておじいさまがそんな風に言えるのか。
……私にはわからないのに、『特別』、が。
視線を迷わせながら次に続く言葉を言えない私の頭を、おじいさまの大きな手がぽん、と撫でた。安心させるように、大丈夫だよと言うように、大きくて暖かな手が私の頭をポンポンと撫でる。
――さかえ
心の中で、何かがはじけたような気がした。はちきれそうに何かが詰め込まれていた場所で膜が割れ、ぽろぽろと中身が零れていく、そんな感じ。
――さかえ
おじいさまの手が頭から離れ、目じりをすっと拭ってくれた。それで気づく。泣いていたことに。
目を閉じることなく次々に零れ落ちていく涙をそのままに、潤んだ視界に映るのは心配そうに見つめてくる青い目。
――ああ、本当は。 黒い、瞳が。
目を閉じたら栄の顔が浮かんできた。笑ってる顔、すねている顔、照れている顔。遠くを見つめるときの様子、眠っているときの様子。
「……それでいいんだよ。思い浮かぶままに思えばいい。それが、本当の、気持ちだ」
途切れることなく浮かんでくるのは栄の名前、顔、しぐさ、温もり。見つめていたいのはあの夜の闇のような黒い瞳、触って欲しいのは仕事をするひと独特の、ちょっと硬くなった指。聞きたいのはあのちょっと低い声。優しく耳に残る、栄の、声。
――さかえ、栄。 ……会いたい、よ。
ハッと目を開けておじいさまの顔を見る。おじいさまは何もかもが分かっているようにゆったりと微笑んだ。
「見つかったかな?」
「…………これが、本当の、気持ち……?」
栄に、会いたいと思う。
「……『特別』、なの? さかえ、が?」
「大丈夫、焦る必要はない。時間が解決してくれることは世の中には実にたくさんあるものだ」
戸惑う私におじいさまは悠然とそう言った。そして鍋の火を止め、中の牛肉を取り出しに掛かる。
「……さて、こちらは時間との戦いなので早めに動かなければね。早くしないとアンナが帰ってきてしまうから。……さあ、手伝ってくれアルシェネさん」
「え、あ、はいっ!」
茶目っ気たっぷりに片目を閉じて言われた私は、直前までの戸惑いをどこかに忘れ、慌てて返事をした。
空気を一瞬にして変えたおじいさまは、機敏にキッチンを動き回る。私は炒めた野菜の中に、おじいさまの作ったスープを加えるように指示され、そのように動く。おじいさまは取り出した牛肉を切り始めた。
コトコトと煮える音と包丁がまな板に触れる音だけが空間を支配する。
鍋をかき混ぜながら、私は先ほど至った結論を頭の中で反芻する。
栄が、私の『特別』なのか。それは『特別に好き』ということなのだろうか。会いたいと思うのはそういうことなのだろうか……
「アルシェネさん、混ぜないと焦げてしまうよ」
おじいさまの声が降ってきて、はっとして腕を動かす。いつのまにか思考に気をとられてぼんやりしていたらしい。おじいさまの得意料理を私が失敗させるわけにはいかないと、気を入れなおして鍋に向かう。
おじいさまが隣でくすっと笑う気配がした。私は恥ずかしくてそちらを向けず、鍋を見つめ続けた。……なんだか、何もかもがお見通しだなぁ……
「別に何もかもが分かっているというわけでもないのだがね」
心を読まれたようなタイミングの良い発言にぎょっとしておじいさまを見上げる。
「……あなたはよく顔に出るから。ふふ、私も伊達に年は食っていないしね」
ふと、楽しそうに笑うその様子が、アーレリーによく似ていると思った。笑い方も、どことなく。
「ア、ンナとよく似ています。おじいさまは」
思わずぽろりと口に出してしまって、すぐにまずいことを言ったと思った。『おじいさま』とは言ってもアーレリーとは血のつながりなんて有り得ないのは分かりきっているというのに。おじいさまは人間で、アーレリーは天使なのだから。
言ってしまってどうしたらいいかと内心動揺していると、おじいさまはにっこりと笑みを深めた。
「そうかい? ずっと一緒に暮らしているから、似てきたのかもしれないね」
「……あ、そうです、ね……?」
「六年前に妻を病気で妻を亡くして、娘も旦那と共に飛行機事故で亡くした。たった一人生き残ったアンナと私はかれこれ四年、一緒に暮らしている。……たったふたりの家族だから、似ることもあるだろうね」
「……あ、の、私……、すみません」
奥様だけでなく、娘さんも亡くしているとは思わなかった。やはり聞いてはいけないことだった。
「いや、いいんだ。大丈夫なんだ、もう。私にはアンナがいるから。あの子がいなければ私はどうなっていたか分からないが、今の私にはアンナがいる。唯一の大切な家族だ」
私はなんと返したらいいかわからなかった。
『家族』は、血のつながりがなくてもなれるものなのだろうか。
おじいさまはもしかしたら、アーレリーを本当の孫だと信じているのかもしれない。でも真実は違う。アーレリーはおそらくそれを隠している。私に『アンナ』と呼ばせるのは、自分が本当は別人であることを、おじいさまに知られたくはないから。
黙り込んで鍋をかき混ぜる私の沈黙を不審に思った様子もなく、おじいさまはなんでもないように言う。
「アルシェネさんにもいるのだろう? 大切な家族が」
問われて、思わずおじいさまを見つめ返してしまう。青い空のような瞳は優しさを湛え、じっと私の返答を待っている。でもその瞳は語っている。私がなんと返すか、もう、わかっている、と。
「……い、ます」
『家族』。そう呼んでいいのかわからないけれど。あの家で過ごしていた間、私は『家族』として扱ってもらっていた。あの家族の中に、仲間に入れてもらえていた。だから、きっと、そう言ったっていい。
「そうだろうね、大切にされていたのが分かるよ、あなたを見ていると」
青い瞳を見つめていたら、言葉がぽろりと零れ落ちた。おじいさまの空はなんでも知っていて、分かっていて、包み込んで守ってくれるような、そんな優しさに満ちていたから。口が勝手に動いていた、考えるよりも先に。
「……もどれる、でしょうか」
唐突な問いにも関わらず、慈愛に満ちた笑みでおじいさまはゆっくりと頷いてくれた。
「……戻れるさ、あなたが望むなら」
どこに、とも口にしなかった。けれどもおじいさまは欲しい言葉をくれた。
本当は、あの家に帰りたいと思っていること、そもそも出てきたくなんてなかったこと。戻ることができると、希望をくれた。
帰りたい、あの場所へ。
――でも。
「私は望むけれど、私が傍にいることを彼が望まない」
昨夜。少しだけ触れた指が弾かれた瞬間、お茶碗が落ちるのと同時に分かった。
嫌われたのだ、と。
もう、ここにはいられないと、その瞬間に思った。そして家を出た。出るしかなかった。
だから、私がどれだけ望んでも、会いたくても、傍にいたくても。
栄が望まないのなら、私は彼の元へ帰ることはできない。一緒にはいられない。
ふっと浮かんだのはあの栄の困った顔。何かを言おうとして、でも言えない、そういう葛藤を抱えて辛そうに私を見る目。
――あんな顔をさせるくらいなら、もう帰れない。
全ての原因はきっと、私にあるから。
「……真実は当人のみぞ知る。……とも限らないね、この場合は」
「……はい?」
おじいさまが突然、ぼそりと呟いた。よく聞き取れなくて聞き返したのだが、おじいさまは笑って首を振った。
「いや、本当に難しいものだよ、こういった問題は。ただ、傍から見たならすぐに分かることもあるのだなと思っただけで」
「……?」
「ふふふ、心配しなくとも大丈夫、何もかもが上手く行くさ。彼があの子の話したとおりの人ならば」
おじいさまはわざとはぐらかそうとしているのか、笑ってはっきりと話してくれない。眉を顰めてもう一度聞き返そうとしたら、先を越されてしまった。
「うん、いい頃合いだね。ではトマトを入れてもう少し煮込もう」
私のかき混ぜる鍋を覗き込み、おじいさまは動き出した。冷蔵庫にトマトを取りに行くようだ。機敏に歩いていく後姿を恨めしく見送って返事をする。
「…………はい」
アーレリーが帰ってきたら是非聞いてみたい。このおじいさまはいつもこうなのかと。高みから全てを見下ろし、把握し、そのくせ全てを明かさない物言い。知識と経験のなせる業なのかもしれないが、こちらとしてはなんだか遊ばれたような気分だ。
不満でいっぱいの気持ちを紛らわせようと息を吸い込んだら、おいしいスープの香りで胸がいっぱいになった。一瞬何もかもがどうでもよく感じられた自分がおかしくて、笑ってしまう。
ああ、食べ物ってすごいな、なんて思ってため息をつき、そっと鍋をかき混ぜた。




