5 緑がかった茶色の瞳
「酷い顔ねぇ、栄」
朝一番で顔を合わせたお袋にそう言われて洗面所に行くと、熟睡したはずなのに疲れきった表情のおれがいた。眠りはよかったはずだ。疲れも取れているし、頭もすっきりしている。しかしいろいろ考えすぎているのがよくないのかもしれない。顔色ははっきり言って悪かった。
バシャバシャと冷たい水で顔を洗って大きく息を吐いた。再び鏡の中の自分の顔を見て、殴りたくなって拳骨で自分の頭を殴ってみた。……それなりに痛かった。だが、それだけだ。なんの反省にもならない。
昨夜彼女にしてしまったことを考えると、おれはどうしたらいいのかわからなくなる。眠り込んでいる女性に、しかも見ず知らずの女性だというのに、何の許可も取らずにキ、ス……するなんて。
昨夜は恥ずかしさで真っ赤になった。でも今朝は考えれば考えるほど血の気が引いて真っ青になっていく。……彼女に謝らなくては。そう思って、おれは朝食の前に彼女の眠る客間を覗きに行った。
廊下から続く襖をそっと開けると、やはり彼女は眠っていた。もし起きていたら、すぐに謝れたのにと落胆したが、それはものすごく自分勝手な考えだと気づいてまた頭を殴った。
縁側の雨戸はお袋が開けたようで、障子から朝の光が緩く差し込んでいる。空気を入れ替えた方がいいかもしれないと、おれは障子を開け彼女の顔に直接日光が当たらないように調節した。
初夏の朝の空気がするりと入ってくる。昼間はそれなりに暑くなるが、今はまだ涼しい。庭の木々が朝露に濡れて輝き、新鮮な緑のにおいがそのまま部屋の中にも満ちる。
おれは彼女の枕元に正座して、深く頭を下げた。彼女の耳には届かないにしても、今謝っておきたい。もちろん彼女が目覚めてからまたきちんと赦しを請うつもりだが、自分の心のためにも勝手ではあるが今謝りたいのだ。
「昨夜の……ことは……。その、悪かった……」
言葉が上手く組み立てられずに、おれはなんてダメなんだろうかと、頭を下げながら泣きたくなった。もっと上手い言い方があると思う。こんな言い方では彼女にきちんと伝わらないだろう、許してもらえないだろうと自分でも分かるが、おれの口はうまいこと動いてはくれなかった。
「……な、にが……?」
不意に頭の上から小さな声が返事をして、おれはがばっと顔を上げた。
何度か聞いた可愛らしい声。女性らしい、柔らかいその声とともに、彼女がはっきりと目を開けておれのほうを見ていた。
すっと目線があった瞬間、おれは話すことも動くこともできずに固まってしまった。彼女の意識が戻った。おれを見ている。話しかけている。彼女が、おれに……。
固まってしまったおれを見て彼女はどう思ったのか、目線を周囲に走らせてまた口を開いた。
「……ここは、どこ?」
おれは彼女の質問に答えてやりたかったが、どこから説明したらいいものか、結局またいつもの口下手が災いしてしまった。
「あ、えっと、ここは、その……」
「あら、目が覚めたのね? よかったわ」
おれがあわあわしている背後から、のんびりした声が響いた。朝飯に来ないおれがここにいると分かっていたのだろう、エプロン姿のお袋は様子を見に来たのだ。おれは救世主の到来に安堵した。おれの代わりにうまいこと説明してくれるだろう。
お袋は障子の影からひょっこり顔を覗かせ、彼女の目が開いていることを見てすぐに柔らかい笑顔になった。そのまますっと音も立てずに客間に入ってきて、おれが正座している隣に座って彼女に向かって微笑む。
「……具合はどう? 何か食べたいものはあるかしら。お腹は空いている?」
声を掛けられた彼女は、最初驚いたように目を見開いていたが、お袋がにこにこ笑っているのを見て安心したのか、横になったままで小さく首を振った。そして先ほど俺が答えられなかった質問を、今度はお袋に尋ねた。
「……あの、ここは、どこ、ですか?」
「あら、ここは私達の家よ。あなたが川岸で倒れていたのをこの子が連れてきたの」
そう言えばよかったのか、とおれは内心でうな垂れた。確かに簡潔に事実を伝えている。彼女はお袋に視線を合わせたまま、ぼんやりと呟いた。
「……川、で……?」
不安そうな顔とまだ弱っている様子の彼女を見て、お袋は安心させるように優しく言った。
「そうよ、でも大丈夫。体も温めたしね、後は体力を回復させるだけよ。意識が戻ったのなら何か食べないとね。温かいものを何か持ってきてあげるから待っていらっしゃい、ね?」
お袋の言葉に彼女は二、三度大きく瞬きをして、きょとんとした顔になった。そして何を思ったのか体を起こそうとして失敗した。少しだけ起き上がったがすぐに支える力を失って、彼女の頭はポスンと枕に戻ってしまった。
起き上がれなかった彼女は、泣きそうな顔をしておれとお袋を見上げた。
「あ…の……、わたし……」
弱弱しい彼女の声に、お袋は何もかも分かっている、というように大らかに笑い、布団をかけ直した。
「大丈夫よ、心配することなんてないわ。元気になるまで寝ていていいのよ」
顔を近くに寄せてそう囁いたお袋に、彼女は申し訳なさそうにこくりと頷いた。やはり女同士だと簡単に通じるものがあるのだろうか、と除け者状態のおれが考えているうちに、お袋はさっと立ち上がった。最後に一声、
「ああ、栄、早くご飯食べないと遅刻するわよ。お父さんはもう出かけましたからね」
と彼女にかけた優しい言葉の五分の二くらいのそっけなさでおれにそう言って、あっけなく立ち去っていく。
取り残されたおれは、ぼんやりと天井を見上げる彼女に視線を戻し、何か声を掛けなければと必死にない頭を巡らした。焦れば焦るほど何を言ったらいいかわからなくなるというのに、おれは普段以上に緊張していた。
不意に彼女がぽつりと言った。
「……ここは、地上なの?」
その問いが何を意味するのか、おれにはよく分からなかった。ただ、天使なら本来住んでいたのは空の上なのかなと単純な考えを口にした。
「……地上、だよ」
おれの言葉にはっとした彼女は、さっと視線をおれの目に合わせた。緑がかった茶色の瞳は、吸い込まれそうなほど大きく見開いて、不思議な光を放っている。彼女はおれの真意を読み取ろうとしているかのようにしばらくそのまま無言でおれを見つめ続けた。
このまま彼女の視線を受け止め、おれも彼女を見ていたかった、聞きたいことも山ほどあった。しかし時間も時間だし、仕事を休むわけにも行かない。おれは名残惜しかったが彼女に向かってできるだけ優しく微笑んで言った。
「……大丈夫、後でゆっくり話をしよう? 危ないことは何もないから、安心して」
小さい子供に諭すような言い方だったが、驚くほどすんなりと言葉が出て、言っているおれ自身がびっくりしてしまった。彼女はおれが口下手なのは知らないから、不思議そうな顔をしてしばらくおれを見上げていたが、小さく頷いて返事をしてくれた。
彼女が頷いたのが嬉しくておれはいつもの顔からは想像できないほど優しい顔になっていたと思う。そしてその時になってようやく、自分の手がいつの間にか彼女の頭を撫でていたことに気がついた。
「あ、ご、ごめん……」
慌てて手を離してすぐに謝ったが、彼女は布団を持ち上げて顔を隠すようにしてしまった。……嫌われてしまったかもしれない。おれは自分の手をのこぎりで切り離したいくらいの絶望感に襲われた。
「……じゃあ……」
しょげ返った本当に小さな声で彼女にそれだけを言って客間を後にした。
……この手はっ! なんで勝手に彼女に触れてるんだ……!! 彼女に触れていた左手の甲を、右手で思いっきりつねって叩いた。これで彼女に嫌われてしまったのだとしたら、おれは情けなさと後悔で生きていけない気さえする。
ちらりと振り返って彼女の様子をもう一度確認したら、彼女は布団の中から片腕を出して、先ほどおれが触れていたあたりを不思議そうに撫でていた。やっぱり嫌だったのかなぁと思って去ろうとしたら、彼女は不意に笑みを零した。
その笑顔がなんだか、照れているような嬉しそうなものに見えたのは、おれの願望、なのだろうか……。