ちょっと横道⑦‐1 家出
朝日が昇って辺りが薄明るくなってきたのを確認して、私は立ち上がった。
一睡もしなかった。布団も出さず、ただ夜の闇を見つめて朝が来るのを待っていた。
お母さんに買ってもらった鞄に入るだけの着替えをしまいこんだ。鞄はあまり大きくなくてほとんど入らなかったけど仕方がない。本当は私が持っていってもいいものなのかすら判断がつかなかったけれど、お母さんが『私の為に』と買ってくれた洋服や鞄だ、もし置いていったらお母さんが余計気にするだろうと考え、できるだけ小さく畳んで入るように工夫した。
文字の練習に使っている栄が買ってくれたノートやドリルは、一度は置いていこうかと思った。けれどもこれは確かに私の為のものだった。そして私にはまだ文字の、漢字の練習が必要だった。教えてくれる人がいなくなっても、もう独学で勉強する方法も分かっていた。小さな鞄の隙間に筆記用具を押し込み、ノートなどは手で抱えていくことにした。
薄っすらと差し込んできた朝日に、庭のひまわりが色づきだした。さわさわと風に揺れて私を見つめるように立っている。大好きな花。けれども今は何故か、行動を監視されているような、そして責められているような気がして見ていられなかった。
玄関から自分の靴を持ってきて廊下の窓を開ける。玄関のドアはスライドさせるとガラガラと音がする。まだ眠っているだろうお父さんもお母さんも、栄も起こしたくはないし今は会えない。そっと隙間を空けた窓から靴を履いて外に出る。
朝なのに空気がじっとりと暑い。重たい空気が身体に纏わりつくようなあまりいい朝じゃなかった。風が吹いているのが救いで、そうでなかったら息苦しいくらいの湿度だ。
開けたときより慎重に窓を閉めていく。ガラス越しに映るすっかり見慣れた、ずいぶん長いこと過ごした“自分の部屋”。窓を閉め、一歩、二歩と下がっていき家全体を眺める。お父さんお母さんの部屋。そして栄の部屋。
……びっくりさせるよね。手紙は書いたけれど、直接言えなくてごめんなさい。たくさんたくさん、お世話になったのに、ごめんなさい。
大きく頭を下げて、そして顔を上げた。これ以上ここにいると泣きそうだった。だからもう何も見ないようにして歩き出した。
門を出て、左へ。
アーレリーがどこにいるのか、彼女から発せられる気配で方向は分かっていた。近くに行けば行くほど、もっとはっきり分かるという確信もあった。だから家を出てきた。アーレリーには迷惑だろうけど、行く場所があったから。これ以上、この家には留まれないと思ったから。……栄の傍には、いられないと思ったから。
どのくらい歩いたのか、日は高く上がっていき、気温もだいぶ高くなった。家々からは仕事に行く人や学校に行く人が出てきて道には自動車も増えた。
私は坂の一番上にある家の前にたどり着いた。門の向こうにはたくさんの花や木が植えられた庭が広がっていて、その奥にレンガ造りの大きな家が見えた。どっしりとした赤い外壁と三角の屋根、四角い窓が多いところなど栄の家とは全く違う造りだった。
確かに感じるアーレリーの気配。けれどもここまで来て私は、一体どうすればいいのか分からなくなった。
アーレリーに何をどう説明したらいい? この家に、置いてもらうことができなかったら。ううん、アーレリーに本当に迷惑だったら……
「……っ、アル!!」
名を呼ばれてハッと顔を上げると、アーレリーが玄関から出て庭を横切ってくるのが見えた。なにやらものすごく慌てている。やっぱり、来てはいけないところに来てしまったのだろうか。
「ア、アーレリー、私……」
「なに、どうしたのよ? ……その荷物、もしかして」
何をどういっていいやら纏まらず、アーレリーを見つめたら、彼女は私の手にした荷物を見て大方の予想をつけたらしい。眉を寄せて一瞬怖い顔になったけれど、すぐに首を振って早口で言った。
「……いいわ、詳しい話は後で聞く。だけどこれだけは覚えておいて? この家にいるときは私のことは『アンナ』と呼ぶこと。 いい? 必ずよ?」
「え? えっと、うん。わかった」
何度も念を押して言われるその勢いに飲まれて、私はこくこくと頷いた。アーレリー、ではなくてアンナはぎぎっと音をたてる門を開け、私の腕を掴んで家のほうへと歩き出す。
「私はこれから仕事なの。家にはおじいさまがいるけど……天使とかの話はしないでちょうだい、知らないの、彼は。それからあなたの名前は『アルシェネ』で。『神原葵』はひとまず仕舞っておいて。詳しい話は帰ったらするから、いい? 余計なことは言わないようにね」
庭を抜けて玄関にたどり着くまでに、アーレリーは小声で且つ早口でそう言った。私はとにかく頷くしかなかった。よく分からなかったけれど、この家においてもらえるようだ。そのために必要ならば私はアーレリーの言うことを聞かなければならない。
「……ったく、あの男、後で文句言ってやる」
ぼそっと低い声で呟いたアーレリーに聞き返そうと思った瞬間、玄関の扉が内側から開かれた。分厚い木の扉の向こうから現れたのは、白髪の老人だった。空のような青い瞳。きちんとした服をきちんと身に着けた、落ち着いた雰囲気のひと。
「おじいさま、私の友人のアルシェネです」
アーレリーは何食わぬ顔で私を紹介した。私は慌ててぺこりと頭を下げ、口を開いた。
「は、初めまして、アルシェネと言います。えっと、その……」
「急で申し訳ないのですがおじいさま、アルシェネをしばらく家に泊めてもいいでしょうか。昼間はおじいさまとふたりになってしまうのですが……」
名前を言ったはいいがその先はどう続けたらいいか迷っているうちに、アーレリーが隣から口を挟んだ。「いいでしょうか」と了承を得る聞き方をしているのだけれど、どうももう決めてしまっているように聞こえた。私はよくわからないながら必死に老人を見上げてそして頭を下げた。
視線を下げたら老人が杖をついているのが見えた。足が悪い人なのだろうか。ふと老人の手が私に向かって『上を向きなさい』と言うように動くのを見て、顔を上げてみると彼は柔和な顔で私に微笑んでくれていた。
「アンナのお友達ならば大歓迎だよ。ゆっくりしていきなさい」
その笑顔にほっとして、私も思わず笑みを零した。とても厳格な人に見えたけれど、優しそうだった。『よかったわね』と言うように、アンナの手が私の背に触れた。とにかくここに置いてもらえるようだ、とほっと息を吐いたら、家の中から電話のベルの音がした。
「私が」
アーレリーが身を乗り出すのを手で制した老人が、杖をついているが素早い足取りで電話へ向かった。
「……アル。詳しくは帰ってから聞くけど、何があったの? 家を出てきたんでしょう? ちゃんと話をしてきたの、日向さんには」
老人が見えなくなったのを見計らってアーレリーが耳元に小声で話しかけてきた。間近で見つめるアーレリーの瞳。昨夜一晩中見ていた夜空のような深い紺色の瞳。その美しい色に見つめられて、少し迷って、でも一言ではとても言い表せなくて。ただ今の気持ちを告げた。
「手紙を……書いてきた。でももう、帰れない、かもしれない……」
「……はぁ?」
アーレリーが呆れたような声を出して何かを言おうとしたとき、老人が奥から彼女を呼んだ。
「アンナ、電話だ。ヒナタさんという男性」
ひなた、という名前に私は思わず驚いて息を詰めてしまった。アーレリーは私の背中をポンと叩いて部屋の中へ入っていく。私は追いかけることもできずその場に立ち尽くして、持っていた鞄のもち手をぎゅっと握った。
……栄、もう私がいないことに気づいたのね。
びっくりしたよね。……それともいなくなってよかったって思ってるかな。
そう考えた瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んで震えた。何か強い力で握りつぶされたような、鋭いもので刺されたような痛み。
ぽろりと涙が一粒零れ落ちたのに気づいて、慌てて目を擦った。……いけない、こんなところで泣いちゃダメだ。
いつの間にか目の前に老人が戻ってきて私を見つめていた。涙を零したことを誤魔化そうとにこっと笑ってみたら、にっこりと笑顔を返してくれた。相応の年を、時間を過ごしてきたひとの持つ独特の雰囲気、そして時間を刻む身体。皺の寄った笑顔にぼんやりと魅入って、何故か落ち着く雰囲気を持っているこの人に似た誰かを、私は知っているような気がした。
「……お嬢さんのことは『アルシェネさん』とお呼びしても?」
低い、少し掠れた声で問われて頷く。そしてまだ、老人の名前を聞いていないことに気づく。
「あの、おじいさまのことは、なんとお呼びすれば……?」
「私のことは、そうだね。『おじいさま』で構わないよ。見た目の通り『おじいちゃん』、だから」
片目を瞑って楽しそうにそういうので、私は頷いて了承した。彼とそんなやり取りをしているうちに、アーレリーが戻ってきた。長い髪の毛を気だるげにかきあげて、不満そうな表情をしている。
「……ひとまず預かるって言っておいたわ。今日はとにかくおじいさまとゆっくりしててちょうだい。話はまた夜に、ね?」
「……うん、ありがとう、ア、ンナ」
呼び名を間違えそうになったのを敏感に察したらしいアーレリーが一瞬私を睨みつけたが、すぐに何事もなかったかのように身を翻した。近くに置いてあった鞄を掴んで外に出る。
「じゃあ私は仕事に。……おじいさま、いってまいります」
「ああ、行っておいで。気をつけて」
「……いってらっしゃい」
アーレリーは二輪の、自転車と言ったか、乗り物に乗って颯爽と走り去った。相当急いでいた様子に今更ながら申し訳なく、今日帰ってきたらたくさん謝ろうと心に決めた。
「さあ、アルシェネさん。どうぞお入りなさい」
おじいさま、が玄関の扉を支えて私を促した。……見慣れない玄関、建物、雰囲気、匂い。両手で鞄の持ち手を握り直して一歩踏み出す。別の家に来たのだと、あの家を離れてきたのだと、改めて思った。
何がどうなるかなんて全く想像していなかった。ただどうしたらいいかわからなくて、離れることしか思いつかなくて出てきた。
何かが変わる予感はしていた。それが何か、なんて全く想像もできないまま。




