ちょっと横道⑥ 変化
「栄、この漢字の書き方、これで合ってる? 読み方は……『カン』?」
「ん? どれだ? ……ああ、合ってるよ。『カン』、輪っかの意味だな、『環』は」
「えっと……カ、カ、カン……あ、本当だ。『まるいかたちをした、中が空になった輪』だって。すごいね、栄!」
「ふふ、伊達に日本人二十三年やってない。葵こそすごいな、もうそんな漢字まで勉強してるのか」
いつものように夕飯を食べ、それぞれお風呂に入った後で、私と栄は客間にテーブルを出して勉強道具を広げていた。私は栄が買ってくれた漢字練習用のドリルとノート、そして辞書を広げ、その向かいで栄は建築士試験のためのいくつかの参考書とノートを開いている。お互いの勉強をそれぞれやっているのだが、私が疑問を尋ねると栄は顔を上げて教えてくれる。それがどんな小さなことだったとしても栄は丁寧に教えてくれる。
手元のノートと参考書に視線を落とした栄は、難しそうな顔をして首を捻ったけれど、すぐにぱっと明るい顔をしてまた楽しそうに鉛筆を動かしだした。そうやって熱心に勉強をしているから、私もあまり声を掛けないようにして、自分の勉強に集中する。集中しようとする。
でも、何故か上手く意識が纏まっていかない。
以前は時々顔を上げて、私の勉強がどのくらい進んだか確認してくれたり、書き間違いを指摘してくれたりした。慌てて書き直す私を見てふっと笑って、また視線を下に戻して、しばらくするとまた私の顔を見ていたりした。
「ね、栄……」
小声でそっと呼びかける。
「……んー?」
栄は鉛筆のお尻のほうでガリガリと頭を掻いて、反応を示してくれた。でも、目線は本の上。
――ねぇ、いつもなら、以前なら、すぐに顔を上げて笑ってくれたよね。
――すごいって言いながら、私の頭を撫でてくれたよね。
しばらくそのまま待ってみたけれど、栄の黒い瞳が私を見ることがなかったから、私もまた鉛筆を握り直してノートに向き直った。
「……なんでもないの、ごめんね」
呼びかけてしまったのを詫びるつもりで小さく呟いてみたけど、栄からの返事はなかった。
朝、「いってらっしゃい」を言うと嬉しそうに笑って「いってきます」と返してくれるのは変わらない。
夕方、「ただいま」と帰ってきて、その日のあれこれを話ながら一緒にご飯を食べるのも。
お風呂に入って寝るまでの間、客間でテーブルを出してふたりで一緒に勉強するのも。
何かを聞いたら優しく教えてくれるのも、「おやすみ」と声を掛けて電気を消してくれるのも。
でも栄は変わった。
おやすみの挨拶が『キス』と呼ばれることを知った夜。
キスにはいくつか種類があって、恋人同士がする特別なキスもあると知った夜。
あの夜の栄が少しおかしかったことには気づいていて、『ああきっと明日の夜からはおやすみの挨拶はしないんだろうな』って頭の隅でぼんやり思った。でもそれだけだと思っていた。
朝になったらきっと笑顔で起きてきて、「おはよう」って言ってくれると思っていた。何も変わらない、今までどおりの毎日を過ごせるんだと。
だから次の日の朝、「おはよう」と言った私に、笑って「おはよう」と返してくれた栄に、ほらいつも通りだと思った。何だか嬉しくなって一歩近づいた時、栄が困ったように笑ってさりげなく一歩引いたことにその時は気づかなかった。
ご飯を盛った茶碗を渡したときも、「そこへ置いて」と受け取ってくれなかったのも気にしなかった。時間がないのを気にして急いで食べていたから、食べ終わって「私が片付けるから」と言ったのに、「いいから」とやんわり断られたことも。
違和感を感じたのは、「いってきます」の声と共にいつも伸びてきて頭を撫でてくれるはずの大きな手が、直前で行き場を失ったように止まり、引っ込められたときだった。栄は一瞬戸惑うように視線を彷徨わせ、再び小さな声で「いってきます」と言ってそのまま玄関の扉を閉めた。……何故、と思った。何故撫でてくれないの、いつものように、と。
「……そろそろ寝ようかな、私。明日はお母さんと買い物に行く約束をしているの」
「へぇ、そうなのか。じゃ、そろそろ終わりにするか。……わ、もうこんな時間か、早く寝なきゃな」
私がそう切り出したら、栄はさっと時計に目を走らせて、勉強道具を片付けだした。ノートを閉じ、参考書をまとめて重ね、テーブルを畳むために客間の端へ持っていく。私はまとめた自分の勉強道具を抱えて栄の動きを見ていた。
「ん? どうした、葵?」
立ち尽くしたままの私を不審に思ったのか、栄は首を傾げてそう言った。向けられた黒い瞳が、久しぶりに私を見ているような気がした。
「……ううん、なんでもない。布団敷かなきゃね」
背中に視線を感じながら、私は勉強道具を一式、いつも置いている場所に戻した。私が見ていないとき、栄は私を見ている。背中だけで感じる視線。振り向いたら多分、彼は別の方向を向く。
「手伝うよ」
「あ、いいの、ひとりで出来るから。栄は早く寝て? 明日もお仕事でしょう?」
栄がどんな表情をしているのか見ることもできないまま、私はそう言った。なんでもないように、押入れの襖に手を掛けて、てきぱきと布団を取り出す。
気配で栄が迷っているのが分かった。立ち尽くしたまま、どうしたらいいか考えあぐねているのが。私がひとりで布団を下ろし、シーツを伸ばし始めた頃、立ったままだった栄が、ぽつりと呟いた。
「……うん、じゃあ、おやすみ」
私は座り込んでシーツを整えていた手を止め、栄を見上げた。
「うん、おやすみ」
上手く笑えたかどうかわからない。ただ、栄が大きく目を見開いてたじろぐのが見えた。何か言おうと口を開くのに、戸惑うようにまた閉じて、目線が逸らされた。
――ねぇ、栄。聞いてもいいかな。
「ね……栄。私、わたしは……」
ゆっくりと栄の視線が私の顔に戻ってきた。何を聞かれるのかと、何を言われるのかと、少し怯えているような目。栄はその目でたくさんのことを語る。彼が気づかないうちに。
だからやめた。聞かないほうがいい、聞くことなんてできなかったんだもの、最初から。
「ごめん、何でもないの。……おやすみなさい。また明日ね」
今度こそちゃんと微笑んで言えたと思う。「おやすみ」って、大切に言えた。
栄は少し眉を寄せて、何かを言おうと身を乗り出したけれど、ふっと目線を彷徨わせた後で曖昧に笑って言った。
「……うん、また明日」
そう言って床に置いてあった勉強道具を持ち、障子を閉めて去っていった。
私は彼の足音が遠ざかっていくのを、布団の上に座り込んだまま耳を澄まして聞いていた。もう寝ているだろうお父さんお母さんに気を遣って、出来るだけ音を立てないようにゆっくりと階段を上っていく音。聞こえなくなるまでじっとして、そしてようやく息を吐いた。
栄は、変わった。
私の頭を撫でることがなくなった。
隣に座ることも。
すぐ近くで並んで歩くことも、手を繋ぐことも。
おやすみのキスをすることも、されることも。
……なくなった。
「アルちゃん、アルちゃん! こっちのお洋服も素敵じゃない? ああ、アルちゃんは何でも似合っちゃうから選ぶのが大変ね! でも楽しいわ」
「いえ……そんな、何でも似合うなんてことは……。私、今までは白っぽい服しか着たことがないし……」
「あら! じゃあなおさらカラフルなの着なきゃ! 若いうちよ、おしゃれを思いっきり楽しめるのは!」
お母さんと私は一緒にデパートにやってきていた。最寄り駅まで歩いていって、その後一駅だけ電車に乗った。お母さんは「運転免許を持っていないから、車はあっても運転できないのよ」と申し訳なさそうに言ったけれど、私は初めて乗る電車にびっくりして、車じゃなくてよかったとさえ思ってしまった。
窓から流れていく景色が早すぎて線に見えるのが面白かった。そして、大勢の人が同じ箱に乗って移動することも興味深くて、ついきょろきょろしてしまった。平日の午前だから空いているとお母さんが言うとおり、車内の椅子はほとんど空いていた。これが満杯になるほど人が乗り込んで移動するなんてちょっと想像できない。お母さんと並んで座った席の向こう側、大きく切り取られた窓の向こうで緩やかに変わっていく景色。灰色の建物群と固まってひしめき合う家々の屋根。
天界では移動は各自で行う。天使たちには翼があるから空を飛んで移動できるし、神々にいたっては飛ぶよりも早い瞬間移動ができるので(能力差はあるが)、移動手段として乗り物を必要としないのだ。
がたんごとんと音を立てて走る電車。眩しいほど差し込んでくる太陽の光。青すぎる空の青。天界にはない音、色、匂いがこの世界にはたくさんある。
ゆっくりと停まった電車を降り、切符を改札に通す。お母さんに一つずつ教えてもらいながら、置いていかれないように必死についていく。少し歩くと駅から直結しているデパートの入り口があって、そこから店内に入った。入ったとたん、すっと冷たい空気に包まれて驚いていたら、「エアコンが効いているのよ、こういう大きなお店は」とお母さんは額の汗をハンカチで拭きながら笑った。そういえば電車の中も少し涼しかった気がする。……本当に、何もかもが新鮮で面白い。この世界は。
広いデパートの服売り場で、お母さんは楽しそうにいろいろな洋服を手にしては私に当て、にこにこ笑いながら籠に入れていく。色とりどり、形も様々な服の間を魚のようにすり抜けながら服を選んでいくお母さんの後ろを、私はただついていくだけだ。
楽しそうなお母さんの様子に、私もつられて笑いながら、何の気もなく近くにあったスカートを手にとってみる。
「……ふふ、栄も一緒にいたらなぁ」
不意に零れた言葉にハッとして、すぐに口を覆った。お母さんには聞こえていなかったようだ。楽しそうに歌いながら、更に先のほうへ視線を移動させていく。
押さえた手を少し離し、ふうと大きく息を吐き出して、目を閉じる。
……ああ、何で、栄のことを思い出すの。
今朝もほとんど私を見ずに家を出て行った栄の後姿が頭の中に描き出された。玄関から車に乗り込むのをじっと見ていたら、ふっと顔を上げて手を振ってくれた、栄。笑ってくれたけれども、どこか辛そうな、そんな笑顔。
何故だか胸の辺りが痛むような気がして、いつの間にか頭の中が栄で一杯になっていたのに気づいて、頭を振った。ぶんぶん振ったら振り過ぎたようで、目の前がくらっと揺れた。少しよろめいたけれど倒れるほどではなかったのでじっとしていたら、すぐに元に戻った。両手で顔を覆って俯いたまま、大きく息を吐き出す。
……栄は、ここにはいない。そしてきっと来ない。私と一緒には。
当たり前の事実とわきまえるべき現実を頭の中で並べ顔を上げたら、そこにいたはずのお母さんの姿が消えていた。
「あれ? お母さん?」
きょろきょろと周囲を見渡したら、向こうの通路にお母さんの頭が見え隠れしている。私がぼんやりしているうちに、どんどん進んでしまったのだろう。慌てて追いかけると、お母さんの足元にあるお店の赤い籠はいつの間にか服で一杯になっていた。……思わず確認せずにいられなくて尋ねる。
「……お母さん、これ、お母さんのものも入ってますよね?」
「あら、アルちゃんどこ行ってたの? ねぇ、この色はどうかしら、ちょっと明るすぎるかなぁと思ったんだけど……あら、いいわね。何でも似合っちゃうのねぇ本当に!」
そういって笑いながら、お母さんは明るい夕日の色のワンピースを無造作に籠の中に放った。また増えた籠の中身に目を瞬かせながら、もう一度お母さんに尋ねた。
「お母さん? これ、全部私のものっていうことはないですよね?」
まさか、と思いつつ希望を込めて言った。また目の前の別の洋服に夢中になっているお母さんを覗き込むように聞くと、お母さんはきょとんとした顔で首を傾げた。
「うん? そうだけど? アルちゃんはお洋服持ってないんだもの、これくらいは必要よ。まだ足りないくらいだわ」
さも当然、と言わんばかりの表情に、私は慌てて両手を振って待ったをかけた。
「お、お、多すぎます!! 私、こんなに要りません!」
慌てる私に、お母さんは余裕の表情で笑うだけだ。
「いいのよ、遠慮しなくても。アルちゃんは私たちの娘になったんだし、それに栄からもアルちゃんの為にってお金もらってるからね。たくさん買って、着て見せてあげたほうが喜ぶわ」
「……栄が、お金を……? 私の為の?」
「アルちゃん? どうしたの?」
……どうして、どうして? 栄。どうして私に、そんなことをするの?
ぽた、と涙が顎を伝って落ちていくのが分かった。一筋、するりと落ちていく熱い感覚。
「え、アルちゃんっ!? ど、どうしたの……!」
お母さんが慌てて私の肩を掴み、顔を覗き込んでくる。私はただ、胸が苦しくて、何かが詰まってつかえてしまったみたいに苦しくて、重くて、痛くて、それしか感じられないままただ涙を流していた。分からなかった。何故涙が落ちるのか。
「あ、アルちゃん、とにかく移動しましょう、ね? ちょっと落ち着いて話してみましょう」
痛みに縮こまった私の背中にお母さんの温かい手が置かれた。私はただ頷いて、促してくれるその手に従った。
お母さんに従って歩いて行った先には、ベンチが置いてあった。売り場の外れ、人も通らなそうな一角に置かれたベンチ。「ここなら誰にも邪魔されないから」と、お母さんはバッグからハンカチを取り出して私の瞼に当ててくれた。私はぺこりと頭を下げてお礼の意を示し、黙ってハンカチを目に当てた。
「……それで、一体何があったの? お母さんに話してくれない? もちろん無理にとは言わないけれど……」
お母さんは私の背中をゆっくり擦りながら、小さな声で言った。心配が声に滲み出ているようだった。無理矢理聞き出そうとするわけでもなく、ただ心配してくれているのが分かって、ぐっと涙が溢れた。
……『お母さん』って、こんな風に優しいものなんだな。
『娘』だと言ってくれる『お母さん』から向けられる、陰りのない感情。その美しい何かに心が満たされ、その安心感に私は更に泣いた。
『家族』について知った気になっていた私だったけど、初めて心の底から思った。……本当に人間は優しい。天界には、天使の間には存在していない、『やさしさ』という感情。その感情がこれほどまでに温かく、ふわりと包まれるような気持ちだったと、資料を読むだけでは決して分からなかった。
ひとしきり泣いて、瞼が重くなった頃。涙と呼吸が落ち着いてから、私は少しずつ語り始めた。
洋二さんと映画に行った日。谷中さんの車に乗って付いていってしまった日。あの日の夕方、栄が口にした言葉のいろいろ。『自分が最初に見つけなければ、もっといい男が迎えにきたかもしれないのに、ごめんな』と言われたこと。『好きだ』と言われて抱きしめられたこと。『特別な好き』があると知ったこと、でもそれがどんなものか分からないこと。
おやすみのキスのこと。恋人同士がする『特別なキス』をされたこと。そしてその次の日から、栄が私を避け始めたこと。触れてくれないこと、目を見てくれないこと、話しかけてくれないこと……
「……なるほどねぇ。それでここ一週間ばかし、栄の様子がおかしかったのね……」
ぽつぽつと途切れ途切れに話したのに、お母さんには私が言いたいことが伝わったようだった。お母さんは頬に手を当て、ため息をついた。私はお母さんのハンカチを握り締めたまま、今の気持ちを素直に口にする。
「私、知らないうちになにか失敗してしまって、でも栄はそれを私に言えないのかもしれない。言ってもわからないから、言いたくてイライラしてるのかもしれない。……嫌われて、しまったのかもしれない……」
「まぁまぁ! 嫌われるなんて、そんなことありえないわ! 栄がアルちゃんを嫌いになるなんて、天地が引っくり返ってもありえないことだってお母さんは思うのよ!」
弱弱しくなっていった私の言葉に覆いかぶせるように、お母さんが早口で言った。
ありえない、とお母さんはそういうけれど、私には……すぐに信じられない。だって、栄は、今の、栄は……
「私を……好きだって言ってくれました。でも今私のことを見ないのは、何故? 私に触れようとしないのは、何故? 避けるのは、何故? ……嫌いに、なったからでしょう? もう話しかけたくないし、見たくないから、でしょう?」
「アルちゃん……」
「……私、このままでいいのかな。……このまま、あのお家にいても、いいのかな……」
私は手元の水色のハンカチを見つめたまま、思ったことを吐き出した。昨夜栄に聞きたかったこと。でも聞けなかったこと。もし栄に「出て行け」と言われたらと思ったら、怖すぎて聞けなかったこと。
涙で色の変わったハンカチをぎゅっと握り締め、嫌な想像を頭から追い出したくて目を閉じた。
「……っ! アルちゃん!!」
いきなり大きな声で名前を呼ばれてびっくりしているうちに、伸びてきた腕にひっぱられ、ぽすんと柔らかいお母さんの胸に抱きこまれた。肩と頭を抑えられるように抱えられ、お母さんの表情は見えない。
「お、かあさん?」
慌てて呼び返して離れようと手に力を入れたけれど、お母さんの力は案外強く、離してはくれない様子だった。どうしたらいいかわからずに、でも無理に離れることもできなくて、私は体の力を抜いてお母さんに寄りかかった。ちょうど右耳のあたりに、お母さんの胸が当たっていた。体温と一定のリズムを刻む鼓動が、柔らかく私を包み込んでくれた。
「……アルちゃん、ダメよ。暗いことを考えるのは」
力を抜いた私を宥めるように、お母さんの手が私の頭を撫でた。……人間の、子供になったような気分だった。こうして子供をあやす様子を見たことがあったから。
「あのね、アルちゃん。栄は、あの子は真面目で、頑固で、そういうところはお父さんに似たのかなって思うんだけど、どうも頭で考えすぎちゃうところがあってね。今は、きっとあの子の考えもアルちゃんみたいに変に暗い方向へ行っていて、考えすぎちゃってるんじゃないかなってお母さんは思うの」
とく、とく、と耳の中に響く鼓動と、撫でられている感触が心地よかった。温もりに眠気すら誘われるほど。
「あの子は、アルちゃんを嫌いになったりしてないわ。それはお母さんが保障する。……絶対よ。だから、少し待っててあげてくれないかしら。そのうちちゃんと気づいて、ちゃんとアルちゃんに向き直るから。……ね?」
お母さんの話は、分かるようで分からないような、曖昧な感じだった。でも真剣に話してくれていることは分かった。本当の栄の気持ちは分からないけれど、お母さんのことは信じようと思えた。
「……はい」
しっかりと抱き寄せられたまま、お母さんの腕の中で私は返事をした。もぞもぞと動いたらお母さんは解放してくれて、私の顔を覗き込んで目じりを指で撫でて眉を顰めた。
「トイレに行って、顔を洗いましょ。それでその後はご飯を食べて、また買い物再開しましょう」
優しく響くその声に、この人に出会えてよかったと心から思った。しかし後半、にっこり微笑んで言われた台詞に、先ほど置きっぱなしにしてきた洋服が満載の籠を思い出して顔が引きつった。
「えっ、あ……はい」
「デザートも食べましょうねぇ。ふふ、甘いものは女の子を元気にするのよ、知ってた?」
ああ、あの洋服、本当に買うのかな、いくらくらいするのかな……と遠くに意識を飛ばしかけたら、お母さんは妙に楽しそうに言った。甘いもの、地上に来てからいろいろ食べた。お饅頭、飴、プリン、チョコレート……。ふと栄と初めて食べたチョコレートが、何故か記憶の中で苦いものに変わっていく気がした。
「……知らなかったです」
「たくさん食べましょ! さ、まずは顔を洗って、ね?」
明るい笑顔のお母さんにつられて私も笑った。甘いものを食べなくても、お母さんが笑えば私も、元気になれそうな気がした。




