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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
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38 決意のキス




 四人でとった夕食の後、おれは洋二に電話を掛けた。心配してくれていたのだろう、ワンコールで取られた電話に噛み付くように「ハイ、斉藤です! 兄貴っすか!?」と言った洋二に、おれは「もしおれじゃなかったらそれ恥ずかしくないか?」と返して笑った。

 先輩は何もしなかったこと、葵は無事に連れ帰ったことをさらっと話し、後はまた明日詳しく話すから、と言って電話を切った。洋二は話を聞きたがっていたけれど、一方的に会話を打ち切れる電話の利便性を利用させてもらう。

 夕飯の席で散々お袋に責められたおれとしては、もう洋二とあれこれ会話をする精神力は残っていなかったのだ。


 お袋曰く、そもそもすべておれが悪いらしい。


 洋二と映画に行かせたのはおれなので、そこは確かにおれも同意するところだ。だが先輩に連れて行かれたことに関しては不可抗力ではないだろうか。そう反論すると、もし洋二と映画に行かせず、映画なら自分が連れて行っていれば先輩に車で攫われることなどなかったじゃないか、と更なる反論が返って来てしまった。

 うっとおれが押し黙ると、沈黙を保つ親父と、目を丸くしておれとお袋の攻防を見守る葵を尻目にお袋は懇々と女性の扱いについて語りだした。曰く、家から連れ出したときは家に帰らせるまでしっかり面倒を見なければならない、とか、離れるなんてもってのほかで、トイレさえ外でちゃんと待っているのが筋なのだ、とか、茶碗に盛った白米もお椀の味噌汁もすっかり冷めてしまうのも気にせず、延々と語り続けた。

 途中、そっと静かに席を立った親父が風呂に入って出てくる頃になってようやく、「はい、おれが悪かったです、もうしません、ごめんなさい」と土下座で謝るおれを(台詞は棒読みだったが)、なんとかお袋も落ち着いた様子で「わかればよろしい」、と解放してくれた。葵は食べ終わっても動くことができずに、ひたすらおれたちのやり取りを間に挟まる位置取りで聞いていたわけだが、おれが冷え切った夕飯をかき込みだすとほっと肩を落として茶碗と箸を持って立ち上がった。

 半ば意地のように、残ったおかずとご飯を胃に詰め込みテーブルの上を片付ける。本当に疲れる一日だ。最後の最後までこんな風だなんて。ため息をつきながら茶碗を流しに持っていくと、『誰のせいよ』と再びの睨みが襲ってきたのでそそくさと逃げた。お袋があんなに凶悪に怒るのは、果たして過去の経験からか、それとも葵を溺愛しているからか。……おそらく両方なんだろうな、と思いながらバスタオルとパジャマを持って風呂に逃げ込んだ。






「栄、今日は勉強しないで寝てもいいかな? 車でたくさん寝たのに、なんだか眠くなっちゃって」


 風呂から上がった後、きちんと髪も乾かして縁側に来た葵は、あくびをしながらそういった。とろんと眠そうな目を擦っている様子では、たとえノートを開いたところで十分と持たないだろう。縁側に座り込みぼんやりと外の風に涼んでいたおれは、よいしょと立ち上がって背伸びをした。


「ああ、いいんじゃないか、おれももう寝るよ。今日は本当に疲れる一日だったし、もう遅いし」


 帰りも夕飯も遅くなってしまったので、なんだかんだもう時計は十一時を指していた。明日仕事なのを考えると、もう寝るのには遅すぎるくらいだった。

 押入れから布団を下ろして敷き始めた葵を手伝い、寝床を整えてやると、葵はすぐに布団にもぐりこんで寝る体勢になった。だいぶ暑くなってきたので薄い夏掛けを使っているのだが、それを足元から首まですっぽり被った葵は、電気の紐を握ったおれを制するように素早く言った。


「……栄、おやすみの挨拶は?」


「…………」

 

 なんだかんだ、習慣になってしまっていたので言われるだろうと思っていた台詞ではあったのだが、今日はさすがに、それをすることはできないとうやむやに流してしまうつもりでいた。おれは電気の紐を持ったまま、明後日の方向を向いてなんでもない風に言った。


「あのな、葵。おやすみのキスって、本当は日本じゃやらないんだ。アメリカとか、ヨーロッパの人の風習だから、おれたち日本人はしないの。だから、これからは……」


「だって今日までしてた。毎日」


「うっ……」


 下から鋭い突っ込みが入り、おれは言葉を濁らせた。……確かに、おいしい状況だななんて思って毎日ぽっぺチューを受け入れて、さらに偶に返したりなんかしてしまっていたおれではあるけれど。浅はかな過去の自分を恨めしく思いつつ、なんとか回避できないものかと必死に言葉を探す。


「そ、そうなんだけど! でも日本人的習慣ではさ、キスは、その、親しい人と……ってか好きな人としかしないから。だから、その、おれたちがほいほいするような、ものでは……」


「でも栄、好きって言ったよね? 私のこと好きって言った。私も、栄が好きだよ? キス、しないの?」


「う……」


 またも飛んできた鋭い指摘に、おれはぐうの音もでない。なんという記憶力と反応スピードなのだろうか。ちょっとは昔の発言を忘れ、曖昧にしてくれたっていいのに。


「私と栄、親しいひとじゃ、ないの? 親しいひとなのに、好きなのに、キスしないの?」


「あ~……う~……」


 どう誤魔化すべきか、と悩んでいるうちに、葵は畳み掛けるようにおれの言葉尻を捕らえては反論してくる。おれは説得を諦め、どさっと葵の枕元に座り込み、逆に聞いてみることにした。要は、考えることを放棄したのだ。


「……そういうならさ、聞くけど。葵はおれと、その、キスしたいの? おやすみの挨拶、したいの?」


「うん、したいよ」


 あっさり返ってきた返事に、また安易な質問をしたと頭を抱えたくなった。いや、実際抱えていた。胡座をかいた両膝の上に肘をついて、思いっきりがっくりと頭を抱えた。おれがそうして下を向いていたら、葵は上半身を起こしておれを覗き込むように言った。


「……栄は、嫌なの?」


「いっ……嫌なわけ、ないけど」


 嫌なんかじゃない、そんなはずがない。葵が勘違いをしているのをいいことに、あの柔らかい唇がおれの頬に触れる感触も、滑らかな頬に唇で触れることができることも、正直夢のような素敵な状況だった。その夢に溺れ、今の今まで葵を騙してきたことの報いが、返ってきたのかもしれない。


「じゃ、いいでしょ?」


「いや、だからっ……っ!」


 短絡的に結論付けた葵に向かって否定しようと振り向いたおれの唇に、頬よりももっと柔らかいものが触れた。

 思ったより身を乗り出してきた葵の唇と、おれの唇が。


 触れて、離れた。


「……っ、ごめ……!」


 慌てて体を引いて謝って、唇を手で押さえた。絶対顔は真っ赤になっている。キスは、葵とのキスは、彼女が知らないだけで実はもう、何度もしてきているのだけれど。

 ……こんな風にお互い意識があって、不意打ちみたいなキスは。


「ん? どうして謝るの?」


 顔を真っ赤にして照れているおれとは対照的に、きょとんとしたいつもの顔で首を傾げた葵には照れた様子など欠片もなかった。それを見てああ、と妙に納得したが、どう説明したものかとまた困ってしまう。


「んーと。あのなぁ、唇と唇が触れるキス、は。恋人同士とか、夫婦がするもの、だから。だから、その……」


「……恋人同士、夫婦」


 葵が呟くように反復したのを聞いて、何とか言葉を繋げる。


「そう、恋人同士とか、夫婦とか。好き合ってる人同士だったらな、好きだよって意味でキスするんだ、け、ど……」


 途中からなんだか余計なことを言っている気がして尻すぼみになっていく。ああ、今絶対、余計なこと言った……。


「好きだよ、って意味なの? じゃあお父さんとお母さんもするの?」


「あーそりゃ若い頃はしただろうなぁ。今じゃどうか知らないけど」


 素直な葵の疑問に苦笑しながら答える。親のキス事情なんて知りたくもないからどうだっていいけれど。葵が爆弾を投げてこないよう、おれは必死に気を逸らすための言葉を考えた。


「だからな、葵。おれたちは……」


「好き合ってる人同士だよね!」


「あー……」


 気づいてしまったか、そこに。おれは意識を遠のかせたい衝動に駆られつつ、また頭を抱えた。いいことに気がついた、と言わんばかりに嬉しそうな葵は、キラキラした笑顔をこちらに向けてくる。


「栄は私のこと好きで、私も栄が好きだよ? ね、好き合ってる同士、でしょう?」


 もし犬のような耳としっぽが生えていたら、褒めて褒めて、と言ってぱたぱた動いていただろう。すっかり掛け布団を蹴飛ばして座り込んだ葵は、おれの返事を待って期待に満ちた目で見上げてくる。

 ……でも、な。大切なことをひとつ、見落としてるぞ。


「ん、ある意味合ってる。でもちょっと違うんだよ、葵」


 苦笑しながら葵の頭を撫でる。犬みたいだと思って触れば、葵の髪の毛はふわふわしていて茶色い小型犬のようだ。


「好きは好きでも、唇にキスする人の好き、は『特別な好き』なんだ」


「特別な、好き」


 おれに頭を撫でられるまま、葵は復唱して考え込む表情になった。その言葉を、頭の中で理解しようとするように。真面目な顔で黙り込んだ葵を見ながら、おれはようやく話がつきそうだ、と安堵していた。だって葵は知らないのだ。『特別な好き』がどんなものか。だからこれ以上反論できないし、キスしようとも言えないはず。


「……わかったか? じゃあ電気消すから、早く布団に……」


 うやむやなままに電気を消してしまおうと立ち上がりかけたおれに、葵が口を開いた。


「栄?」


「……ん?」


「キスは、好きだよって意味、なんだよね?」


 葵はおれを見上げてそういった。疑問系の語尾ではあったが、それはおれの返事を求めているのではなくて、自分の中で確信を得たくてそう言っているときの響きだった。おれは葵が何を言いたいのか分からないまま、でも肯定することもできないまま黙っていた。


「『特別な好き』、は分からないけど、」


 じっと見つめてくる葵の、その大きな瞳が。


「でも私は、栄が好きだよ?」


 木々に囲まれた森の中の湖のような瞳が。

 徐々に近づいてくるのは見えていたけれど。


 目を見開いたまま、ゆっくりと重なる唇を回避することなどできなくて。

 おれはその温もりを受け入れた。


「……好き」


 そしてほんの一センチくらいの距離で囁かれた言葉は、おれの理性とかそういうものを荒々しくぶっちぎる威力を持っていた。


「だから、ね、さか…んっ」


 葵の言葉を遮って、呼吸を奪うように口づけた。驚きに見開かれる目を確認して、わざと見ないように目を閉じて抱きしめる腕に力を加えた。腕の中にすっぽりと納まった細い体は一瞬固まって逃げようとしたけれど、逃がすつもりなんてさらさらないおれから逃げられるはずもなく。葵がどんな顔をしているかも何を思っているのかも無視したまま、おれは重なった唇の感触を捉えるのに没頭した。

 触れるだけのキス。けれども何度も角度を変え、味わうように唇を動かして思うが侭に動く。いつか眠っている彼女と交わした激しいキスが脳裏に浮かんで、またキスしているという事実に震えるほどの喜びを感じていた。そして思う。やっぱり『安全』なんて保障できないもんだな、なんて。


 しばらくして薄目を開けて至近距離にある葵の顔を見てみたら、いつの間にか目を閉じて、おれのキスを受け入れてくれているようだった。緊張に固まっていた体も弛緩して、体重をそっとおれに預けてくれている。


 ……ああ、何を思っているの?


 少しだけ唇を離して呼吸する間に、眉を顰めて葵を見つめた。


 『特別な好き』を知らないのに。おれのことを、そういう意味で好きなわけじゃないのに。

 こうやっておれのことを受け入れるのは、何故?


 キスの間に呼吸することを学び始めたのか、葵が薄く唇を開いた。その時喜びを露にどくどくと激しい鼓動を打ち続ける心臓の音が一瞬、止まったように思えた。同時に、心の中に一点の黒い闇が浮かんで広がり始める。


 ――ちょっとは思い知ればいいんだ。おれが何を思っているのか。


 少しだけ顔を離して唇も少し離した。突然始まって突然終わったキスにぼんやりとした目で葵がこちらを見遣った。


「……さかえ? あの……え、なっ、んんっ……!」


 終わらせたつもりなんてなかった。いつの間にか黒い気持ちが体を支配していた。

 一瞬だけ離した体を再び引き寄せ、先ほどよりも強い力で彼女を抱きしめる。驚きの形に開かれた唇に、しないつもりでいたもっと大人のキスを仕掛ける。あっけなく侵入を果たしたおれの舌は、奥のほうで縮こまっている彼女の舌を捉えて絡みつく。葵が驚愕に目を見開いて、そしてぎゅっと目を瞑るのを見つめていたおれは、更に冷たい気持ちになって口付けを深めた。


 ――これが、おれの『好き』なんだよ。身勝手に君を奪う行為すら簡単にやってのけるほど、暗くて醜いモノが、おれの抱える『好き』なんだ。


 いっそ拒絶して突き飛ばしてくれればいいのに、と思いながらも、片手でがっしりと腰を抱きもう片方で後頭部を押さえて逃がす気なんて全くない自分に笑いが込み上げる。唇だけじゃない、ぴったりとくっついたお互いの体から感じる熱と柔らかさは、ずっとこうしていたいと思えるほど幸福をもたらすのに、おれの心の中でざわめく黒い闇が、心は決してひとつになってないと叫んでは警告する。


 長いような短いような。でも本当はほんの少しの時間だった。

 熱く貪っていた舌を解き、そっと葵を解放する。今度は上手く息が出来なかったのだろう、胸を大きく上下させて必死に呼吸する彼女の唇を親指で拭って、目を合わせないまま立ち上がった。


「……『特別に好き』な人とはこういうキスをするんだ。おれは葵のことが『特別に好き』だから、だから……」


 だからキスした、なんていい訳にもならないことは百も承知で。


「……ごめん。もう、しないから。……おやすみ」


 ちょっとだけ振り返って、呆然とおれを見上げている葵を一瞥し、電気の紐を引っ張った。訪れた闇の中で葵が何を思うのか、それに気遣えないままおれは客間を後にした。客間の障子を閉めても葵は一言も発せず、きっとあのままぼんやりしているのだろうとだけ思った。

 縁側を離れ、二階の自室へとなるべく音を立てないように階段を上がる。電気をつけてはいないが、二階の窓から入ってくる月明かりで全く見えないわけじゃない。


「ごめん、本当に」


 階段の踊り場の窓から月を見上げ、ポツリと呟いた。

 もっとちゃんと謝るべきだったな。驚いただろうな。悪いことを、した。


 訳もわからず翻弄され、取り残された葵が布団の上で座り込んでいるのを想像して、やりきれなくなって髪の毛を掴んでぐしゃぐしゃに乱した。

 明日になったらどんな顔をしておれの前に立つのだろうか。どんな顔をして、葵の前に立とうか。


 自分のしたことがどれだけの影響を持つか、わかっていながらあの時止められなかった。

 肌で感じる呼吸、熱、感触。……もうこれが最後だと、覚悟してしたキスだった。だからやめなかった。

 心の中でちゃんと決意した上で触れたのだ。


 ……もう二度と、彼女には触れない。

 

 好きだから、守りたい。

 純粋で綺麗な彼女が穢れないように、自分が守りたい。自分から、守りたい。

 真っ黒で汚い、泥のようなおれの感情に飲み込まれて羽ばたけずにもがく鳥にしたくないから。

 好きだから、自由でいて欲しい。

 真っ白なままで、まっさらなままで。


 好きだから、おれはこの手を離す。

 これ以上、彼女を穢さないように。


 ……そう決意した。




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