37 特別な、好き
夕暮れのオレンジに染まる、川原。太陽はほとんど沈み、だいぶ薄暗くなってきている。
おれは葵の背中に回した右手をそっと離した。その手を葵の頬に持ってきて、涙を拭う。筋になってしまった涙の跡を親指でそっと拭ってやると、葵は再びころりと、涙の粒を落とした。
「……すき……」
葵はおれの目をまっすぐに見つめ返したまま、唇を震わせるようにそっと呟いた。濡れた瞳で呟かれたそのひと言に、胸が打ち震えるような歓喜を覚え早とちりするようなおれではなかった。
「すき、すきって……誰かのことを、大切に思う、気持ち?」
自分の中の知識に問うように、不思議そうな顔で首を傾げた葵を見て苦笑した。……ああ、やっぱり。『好き』って言葉を知らなかったんだな。
「……そうだな、そう言ってもいいかもな。葵からすれば、親父も、お袋も、アンナさんも、『好き』ってことになるんだろう?」
「うん……。栄も、『すき』、だよ?」
忘れないように付け足してくれた優しさを嬉しく思いながら、葵の頭を撫でた。ふわふわの髪がおれの無骨な指にするりと絡みついては離れる感触が気持ちいい。
「……ありがとう。でも、おれの言った『好き』、は、もっと特別なものなんだ」
そう、親愛の情でも家族の情でもなくて、もっと重く、もっと苦しく、綺麗さのかけらもないような、感情。
葵は分からない、といった表情でおれの言葉の続きを待っている。けれども教えてやれない。こんな醜悪な感情を彼女の純粋な心に触れさせるなんてできないから。
――自虐意識の塊で、自信なんて全然なくて。もっと相応しい誰かがいるんじゃないかなんて寛容なように見せかけて実は、誰にも渡さないと心の奥底では嫉妬深く目を光らせている、こんなおれを。
優しい、なんて言ってくれるから。
おれじゃなきゃ嫌だと、言ってくれたから。
嬉しくて、君が『好き』を分からないのをいいことに告白までして。
何も知らない君を、騙すみたいに自分に縛り付けようとするおれは。
好きになってもらえる自信もないのに、君を好きなことを放棄するつもりなんて欠片もないおれは。
――泣きたくなるくらい、情けなくて醜いから。
「……いいんだ、わからなくて。葵は、そのままでいい」
できるだけ優しい笑顔になるようにと祈りを込めて笑って、頭を撫でた。黙って撫でられている葵は不満に口を尖らせるかと思ったのだけれども、おれの予想は外れて彼女の瞳は不安げに揺れた。
「……わかりたい、よ。『特別なすき』って、なに……?」
おれを見上げてくる純粋な二つの瞳に、途方もない罪悪感を感じて目を閉じた。
地上に落ちた天使を、おれはおれの醜悪な想いで汚しているのかもしれない。
「……いつか、わかるよ。葵にも」
うまいことも言えずに、笑って誤魔化した。今度は唇を尖らせて不安げな顔をしてくれた葵が可愛くて、声を上げて笑った。葵は馬鹿にされたと思ったのか、悔しそうに顔を背けた。
不貞腐れた子供のような背中を見つめ、おれは祈った。
――頼むよ、聞かないでくれ。おれの黒いところなんか、見せたくないんだ。
「そろそろ帰ろうか、葵。お袋が心配して待ってるから」
すっかり暗くなってきた川原で、むくれてこちらを向かない背中に声を掛けると、葵はそろりと顔だけこちらへ向けて訝しげに言った。
「……どうしてお母さんが心配しているの?」
「そりゃ葵が谷中先輩にのこのこ付いて行ったからさ。……ああ、いい機会だから言っておくな。これからおれの知り合いだとか言うヤツに声掛けられても付いてくなよ? 嘘ってこともあるし」
「……? 谷中さんは栄の先輩でしょ? 嘘じゃないでしょ?」
葵は小首を傾げて不思議そうな顔をしている。そりゃ何も知らない葵からすれば先輩はただの『おれの先輩』だろうけれど、悪名高い女好きの谷中巧を知っているおれやお袋(ついでに洋二も)からすれば、『連れて行かれた』という事実は恐怖に値する。連絡するのを忘れていたけど、お袋も洋二もすごく心配していることだろう。
「それは嘘じゃないけど、あの人に関してはちょっと危険があったんだ。葵はまだわかんないこと多いんだから、一人でふらふらしちゃダメ。地上には変な人間もたくさんいるんだから。……わかった?」
「うん、わかった。……でも栄と一緒ならいいんでしょ? 栄に付いていけばいいんでしょ?」
葵が世間知らずなことに託けて、ひとりで出歩かないようにと釘を刺したら意外な反撃が来た。確かに言葉の外に『おれと一緒にいればいい』とこっそり含ませたが、そんなにストレートに受け止められるとは思わなかった。全く疑いのない、信頼されきった目に見つめられ、たじろぎながらも頷くしかない。
「あ、ああ、そう……だな。それならまぁ、安全だ、な」
本当に『安全』かどうかなんてある意味保障できないけど、と頭の隅のほうでちらりと思ったが、いくつかの秘密の前科をぐっともみ消して笑顔を取り繕った。
「じゃあ帰ろう、お母さんもお父さんも待ってるね」
いつのまにか機嫌を良くした葵が元気よく歩き出した。と、とたんに丸い石に足を取られて転びそうになってバランスを崩す。
「きゃあ!」
「……っと、大丈夫か?」
おれは咄嗟に葵の腕を掴んで抱き寄せ、何とか転ばずに済んだ。足元の石は丸いとはいえ、転べば痣になるだろう。不安定な体勢のまま危なかった、と息を吐き、葵の顔を覗き込んだ。おれの腕にしがみついた葵は、驚きの表情で瞬きをして固まっている。
すっと鼻で息を吸い込んだら、花のような甘い香りが肺一杯に広がってドキッと鼓動が跳ねた。……腕に抱きこんだ温かい体。これ以上力を入れたら折れてしまうんじゃないかと思うような細い腕。でもごつごつなんかしていない、柔らかい感触。同じシャンプーを使っているのにどこか違う、芳しい香り。
不意に転がり込んできた愛しいひとの温もりと優しい香りに、おれは考えることを放棄してただ腕に力を込めた。今は、ただ、感じていたい。この温もりがおれの傍にあることを。確かに、触れているんだということを。
……もう一度、好きだと言おうか。
『好き』がどういう感情なのか、『特別な好き』を彼女に懇々と説いて聞かせてみるのはどうか。
おれがどのくらい重たい感情をもてあまして彼女を見つめているのか、抱きしめているのか、分からせてやりたい。
……わかって、ほしい。
「……栄、いたい」
小さな声が耳に届き、おれはハッとして腕の力を緩めた。数秒の間であったのだろうが、おれは葵を強く抱きしめすぎたらしい。葵がちゃんと立っているのを確認してそっと解放する。
「あ、ごめんな。大丈夫か?」
力を入れすぎてしまったせいでどこか痛めてしまってはいないかと尋ねたのだが、葵は笑顔で首を振った。
「ううん、栄が助けてくれたから平気。ありがとう」
今、抱きしめられていたことをちっとも気にしていないというような、邪気のない笑顔。素直な心の表れた、透き通るような笑顔が、逆におれを打ちのめした。
「……帰るか。気をつけろよ、足元」
どこにも遣りようのないモヤモヤした思いを抱えたまま、かといって何も知らない葵にこれ以上何も言えず。ため息とともにそれだけ言って一歩足を進めると、じゃり、と小石が音を立てておれもバランスを崩しかけた。不安定な足場に悪態のひとつもつきたくなったけれども、先ほどの嬉しいハプニングはこの小石のお陰とも言えると思い直し、小石をひとつ蹴り飛ばすことで許すことにした。
こつん、こつん、と他の石に当たりながら遠くへ転がっていく石を見ていたら、葵が黙っておれの手をとった。驚いてそちらを振り向くと、嬉しそうに笑う彼女がいた。
「栄の傍にいると、安全、だから」
小さな手にぎゅっと力を込めて、葵はおれの右手を握った。他意はないのだろう、にこにこと笑っておれの顔を見ている葵は、親兄弟と手を繋いで嬉しそうにする子供のようだった。
……がっかりさせたり、喜ばせたり。葵は本当に、無意識に人を翻弄するのが上手い。
ほどよい力加減で握られた手を、できるだけ優しくそっと握り返した。今度は痛くしないように、慎重に慎重に。
「……じゃ、行くか」
そうしてじゃりじゃりとふたり、小石を踏んで川原を歩いていく。薄暗い視界で転ばないようにゆっくりと慎重に歩く。細い小道の両脇で邪魔をしてくる雑草を掻き分け、ぼこぼこの階段を一歩ずつ上っていく。
一段上がるたびにきゅっと力が篭って、体重を掛けられる右手が嬉しい。上りづらい階段で、自分を頼ってくれていることが、本当に小さなことだというのにこの上なく嬉しくて、ついにやけてしまう。前を歩いているから見られたりはしないという安心感が手伝って、だらしない顔のまま手に掛かる重みに浸った。
階段が終わりに近づいて、薄暗い土手の上でおれたちを待つ軽トラが視界に入ると、そこにたどり着きたくなくて自然と足が遅くなった。太陽は沈んだけれど、まだ夜とはいえない、薄暗い夕方の空。薄墨のような青い空気が軽トラまでの道行きを何とか邪魔してくれないかと苦々しく周囲を睨みつけてはみたけれど、願い虚しくすぐに軽トラまでたどり着いてしまった。
……離したくない
未練がましく右手に少しだけ力を込めると、葵がすぐ隣からおれを見上げてくるのが分かった。
「……栄?」
この手を離したら、君は、他の男の下へ行ってしまうんじゃないか。
「どうしたの?」
誰にも、渡したくない。
誰にも。
「……葵」
「なに?」
これはおれだけの、我侭。
「……ごめんな」
うっかり、好きになってしまって。
「……何が?」
「ごめんな」
おれじゃなかったら、もっと幸せになれたかもしれない
おれが最初に見つけてなければ、君はもしかしたらもっといい生活が出来たかもしれない
……だから。
「……栄? 大丈夫? どうしたの?」
もし、もしもそういうやつが現れたら。君に相応しい誰かが現れたときはきっと、この手を離すから。
だから今だけは許して欲しい。
傍にいることを。手を繋ぐことを。
……君を好きでいることを。
「……ん、なんでもない。さ、車に乗って。家へ帰ろう」
おれは首を振って左手で助手席のドアを開け、葵を促した。葵は不思議そうに首を傾げたけれど、黙って車に乗り込んだ。右手は自然と離れた。どちらからというわけでもなく、すっと離れた。
助手席のドアを閉め後ろから運転席に回りこむとき、繋いでいた右手をじっと見つめておれは笑った。
……どうしようもない。本当に、馬鹿だ。
走り出した車の中、葵は不満そうにおれの顔をみつめ、先ほどの話の続きを待っているようだった。しかし、ものの十分ほどで着いた家で、車から降りたとたん走りよってきたお袋に疑問も不満もどこかへ吹き飛ばされてしまったらしい。
「大丈夫だったの!?」とわぁわぁ騒ぐお袋に、「はい、大丈夫です?」と疑問符つきの返事を返した葵は、おれの顔をふっと振り返って見た後でお袋に抱えられるように家の中へ入っていった。
その寄り添うふたつの背中を見ながらふう、と大きくため息をついておれは軽トラのエンジンを切った。とたんに訪れる静寂の中、長かった一日を振り返ってまた大きく息を吐いた。……が、ため息どころじゃない。本当は泣いてしまいたかった。大泣きするか大笑いするか、極端に感情をさらけ出したかった。心の中で複雑に入り乱れた感情を何とか整理して、吐き出したいのだけれど、涙も笑いも浮かんでは来なかった。
「……はぁ」
また無意味に吐き出された大きなため息に、さらにまたため息をついて車から降りた。
長い一日だった。そして疲れる一日だった。
これから先の日々を思うと、どうしたらいいかわからない。葵にどう接したらいいか、わからない。どんどん迷宮の奥へ奥へと迷い込んでいくような焦り。自分で自分の首を絞めている、そう分かっているのだけれど、何をどうしたら良いのか、自分の頭では判断できない。
とぼとぼと玄関までたどり着くと、遠くからお袋の声が聞こえた。
「栄ー、洋二くんに電話しておきなさいよー、心配してたからー。アルちゃーん、手を洗ったらこっちいらっしゃいねー」
葵が無事に帰ってきた事を喜ぶお袋の大きな声が家中に響き渡った。親父はきっと居間のテーブルの前で苦笑しているだろう。「はーい」と風呂場の方から聞こえてきた葵の返事。……彼女がいる、この家。
……ずっと続いたらいいのに。この幸せが。
後ろ向きな考えしか頭に浮かばない自分が、本当に恨めしかった。それでも、どうしたらいいのか、わからなかった。
長らく更新滞ってましてすみません。お待たせしました。
だいぶ間が開いてしまったので、一つ前から読み直したほうがいいかもみたいになってて非常に申し訳ないです。
栄くんと葵さんが揃って暴走してくれたお陰で最近は難産で仕方ないです。
でも途中で投げ出すことは絶対にないので気長ーにお付き合いいただければ幸いです。
はぁ、早くどっしりお父さん然とした栄くんになってくれないかなぁ、なんて遠い目をして思っております。一筋縄でいかないこのふたり。紆余曲折、が本当にくねくねしてます。はぁ。




