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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
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36 きれいなのは、きみ




「葵、着いたよ」


 土手の上で少しだけ開けたところに車を停めると、いつの間にかうとうとしていたらしい葵がハッと顔を上げた。すぐにおれの顔を見てどうしたらいいのかと戸惑う表情を見せる。

 おれは目をぱちぱちさせる葵を見てふっと笑みを零し、シートベルトを外しながら言った。


「ちょっと降りて話さないか」


 尋ねるような口調ではあったが、おれは葵の意見も聞かないままドアを開けて外に出た。葵はどう思ったか分からないがすぐにシートベルトを外し、助手席からするりと降りてこちら側へ回ってきた。葵が自分に従って来てくれたのを見てほっとし、バタン、とドアを閉めて深呼吸する。

 ここはいつ来ても風が気持ちいい。右手には川原、左手には一面の田んぼ。遮るものの何もない土手の上にはいつも風が吹いていて、また頭上にはただ広がる大空しかない。川の向こうにはもうすぐ沈む間際の太陽が地平線に手をかけて必死に粘っている。いつか見たような、いつも通りの太陽の光。


「……栄、ここはどこ?」


 何も言わずただ立っていたおれの傍で、葵もしばらくの間オレンジ色に染まる景色を見ていたがふと小さな声で聞いてきた。聞きたがりの葵がここまで遠慮がちになるのを見るのも初めてで、しかしその距離感を作り出したのも自分だと思うとまた、情けなさに泣きたくなった。


「葵を、最初に見つけた場所。……下りてみようか、川原まで」


 こちらを見上げてきている葵の顔もきちんと見れないまま、おれは歩き出した。ゆっくり歩いていると葵はとことこ駆け寄ってきて、おれのすぐ後ろに続いた。ついて来てくれたことにまた内心で安堵しつつ、川原へ向かう傾斜のある階段へと差し掛かって立ち止まる。階段と言ってもいつ造られたものか、整っていたのだろう大きな石は間から生えてきた草に邪魔されて、ぼこぼこと隆起していて歩きにくい。おれは一歩先に下りてから振り返った。


「……葵、手を」


 当たり前のように差し出してからハッとする。……おれの、この手を、彼女はとってくれるのだろうか。


「……うん、ありがとう」


 葵は一瞬きょとんとした顔になったが、足元を見てすぐに納得したのか少し口元をほころばせながらそっとおれの手の上に小さな手を乗せてくれた。

 緊張に固まったおれの手の上にあるするりと滑らかな白い手。その温かさを感じながらぎゅっと握り締めると、葵も同じように握り返してくれた。


 ……葵は、そうだ。おれを拒絶したりなんかしない。


 お姫様をエスコートする気持ちで一歩一歩慎重に下りていく。葵はおれの手をぎゅっと握って、バランスを取りながら下りる。 

 頼られている、とたったそれだけのことで嬉しくなるのは、もう本当に馬鹿だとしか言いようがない。


 ……違う。そこにおれの手しかないからだ。他に支えになる手がないから葵はおれの手をとるんだ。


 そう思ったら無意識に手に力が入った。


「いたいっ」


「っ、ごめん!」


 慌てて力を緩め、謝る。もうどのくらいの力で手を握っていたらいいのか、加減すらわからなかった。じわじわと滲んでくる手の平の汗もどうしたらいいかわからない。ただ離したくないという気持ちだけで小さな手を握り、心の中でまた葵に謝った。

 長くはない階段をようやく下りて、背の高い草の中に残された小さな道を辿っていく。繋いだ手はそのまま、葵も何も言わず手を握っていてくれた。

 前を行くおれは葵に見られないのをいいことに大きく息を吸って吐き出し、ごくりとつばを飲み込んだ。もやもやと重苦しく渦巻く想いをどうにも消化できずにただ、深呼吸によってやり過ごそうとした。本当は今すぐ目を閉じて立ち止まりたかった。けれども急に立ち止まるなんて不自然すぎるから出来なかった。


 ……苦しい。


 ああ、苦しい、苦しくて仕方がない。胸が押しつぶされそうに痛む。言いようのない不安感。


 繋がれた右手を離さないように必死に掴んでいるおれはなんて滑稽なんだろう。この痛みから、不安から解放されたくて仕方がないのに、この手だけは離したくない。またきつく握り過ぎないようにと思いつつも、力を緩めることはできない。するりと小さな手が離れていくことが怖くて仕方がないのだ。

 ……どうしておれは、こうなんだろう。いざというとき何も口に出せない。おれじゃなかったら、もしかしたら洋二や先輩だったら、こんな風にはならないだろう。無言のまま、歩き続けるなんてきっとしない。どこへ行くのか分からないまま手を引かれるままに歩く葵はどう思っている? ああ、何か言ってやらなくちゃダメだろう。離れないように手を握るだけじゃ何も伝わらないのに、おれは。




 無言で歩いている間に丸い石がごろごろと転がる川原まで出た。川に流されてきて角の取れた丸い石が足の下でじゃりじゃりと音を立てる。石と言っても大小様々で大きな石の上は案外歩きにくい。開けたところまでやってくるとおれ達は自然と足を止めた。


「わぁ、きれい」


 葵はそう言って夕日を見つめて一歩踏み出した。握り締めていたはずの手は簡単に解けてしまった。沈み行く太陽が見せる一時の魔法のような、オレンジと紫のグラデーションに見入ってため息をついている葵のその嬉しそうな横顔を見ながら、おれは縋るものを失くした右手をそっと動かした。するりと抜け出していったものすごい喪失感をなかったことにしたくて、すぐにポケットに汗でべとべとな右手を突っ込んだ。


「地上の空は、本当にきれいね。天界の空はいつも変わらなかったのに」


 空の上にある時の太陽は眩しくて見ていられないのに、沈む夕日はなぜか目に優しく映る。太陽をじっと見つめてその瞳をオレンジに輝かせる葵はいつもの笑顔を取り戻していた。手を叩いて飛び跳ねてはしゃぐ彼女を見ていたら、なんだか肩の力が抜けるような気がして思わず質問していた。


「天界の空ってどんな色なんだ?」


 おれが声を出すと、葵は一瞬驚いたように振り返ったが、すぐにほっと笑顔になって答えてくれた。


「うーん、くもりのときの空の色、かなぁ。青くないの。ずっと濁ってるみたいな、霞んでるみたいな、そんな空」


「へぇ、そうなんだ。晴れはないのか」


「地上みたいな天気はないの。晴れも雨もくもりも。ただいつも同じ空がそこにあるだけなの。だから……本当にきれい、地上の空は」


 そうしてまた、葵は遠くの空に視線を投げた。憧憬のような眼差しで刻々と変わっていく空の色彩を眺めている。太陽の光を反射してオレンジに染まった横顔は神秘的で美しくて。


「……きれいなのは、きみ、だよ」


 なんだかよく分からないまま口の中で呟いて、おれはその場に座り込んだ。胡座をかいた尻の下でじゃり、と鳴ってごろごろ当たる石も痛いとは思わなかった。

 座り込んで葵を見上げた。おれの前に立って太陽を眺めている彼女の背中に濃い影が落ちている。水色のワンピースの裾が風に揺れる。茶色の巻き毛が風に煽られては、右へ左へ動く。それでも彼女は立ち尽くしたまま。光を全身で浴びてそのまま空気に溶けてしまいそうな美しさを纏って。絵のように、そこにいた。


「……天使」


 ぼそりと呟くと、一拍後で葵が振り向いた。


「……え?」


 振り返った彼女の後ろから太陽の光が射して思わず顔を逸らせる。眩しさに目をつぶって、そして目を開けると、視線の先はちょうど葵を見つけた場所だった。


「あそこ」


 目線だけでその場所を葵に示す。彼女がそちらを振り向くのが視界の端に映った。


「あそこにな、葵が倒れていたんだ。……羽を背負って」


 昨日のことのように思い出す。もう一ヶ月も前の出来事で、あの時はこんな風になるなんて考えても見なかったけれども。


「……最初は死んでると思った。手も冷たくて脈もないし。羽を背負ってるのは何か、劇とかで天使を演じてたのかなって思って。上流から流れてきたんだと思ったんだけど」


 何を話したいのかもわからないまま、口が動くままに勝手にしゃべらせた。葵がいつのまにかこちらをじっと見つめていることも分かっていた。


「……本物の天使だった。……きみは」


 そっと視線を上げてみると、思った以上に穏やかな顔をした葵と目が合った。太陽の影になって暗かったけれど、じっと見つめてくる大きな瞳が、ただ静かにおれの言葉を待っているのが分かった。


「葵、……アル。おれは、君に会えてよかったと思ってる。君を最初に見つけたのがおれで、よかったって。そうじゃなかったら、いまこうして一緒にいることもなかったから」


「……栄?」


 葵は瞬きをしておれを見た。訝しげに細められた瞳は不安げに少し揺れたように見えた。


「……でもそれはおれだけのラッキーだったってこと、だよな。本当はもっとかっこよくてお金持ちで、頼りがいのある人と最初に出会ってたら、君は、もっと」


「ね、栄? 何の話をしているの?」


 じゃり、と石を踏んで一歩こちらに踏み出してきた葵を手を上げて制した。まともに顔なんて見られなくて顔を伏せたまま、左手に意思を纏わせて止まってくれと、願った。……聞いて欲しかった、ただ、今は。


「おれみたいな馬鹿で、口下手で、要領悪くて、かっこよくなくて、貧乏で、……ついでに嫉妬深い男で、本当にごめんな。本当はもっといいやつが、君を迎えに来たかもしれないのに、まさかおれみたいな、全然王子様タイプじゃないヤツで、本当がっかりだよな。ごめんな」


 ひたすら丸い石ころを見つめていたら自虐の言葉は後から後から溢れてきて、止まらずに零れ落ちた。何言ってんだ、と思いながらも、ある意味正直な気持ちだった。


「洋二みたいに明るくないし、先輩みたいに女の子をスマートに扱えないし。話も上手くないし、格好はいつも作業着で木屑だらけで、おしゃれじゃない。いいところなんてひとつもないおれじゃなくて、本当はもっといい相手が見つけてくれたかもしれないのに、おれが最初に見つけたばっかりに、君は」


「きみ、なんて呼ばないで!」


 おれの言葉を遮って葵が大声を上げたのにハッとして顔を上げた。おれの前に立ったままの葵は、両手を握り締めて涙を流しながらおれを睨みつけていた。


「……あ、あお、い……?」


「そうだよ、私は葵だよ! 栄がくれたんだよ、新しい名前! 『きみ』なんてそっけない言葉で呼ばないでよ!」


 初めて、葵が声を荒げておれに噛み付いてきた。悔しそうに歪む唇も、涙に濡れる瞳も、なにもかもが鮮烈で、おれは目を丸くしたまま動けなかった。


「それにどうして、自分じゃなかったらよかったなんていうの? 栄は馬鹿じゃないよ、優しいよ! すごく気配りが出来るし、私のこといつも見ててくれてるって、私知ってるよ!」


 何故、葵がそんなに悔しそうなのかが分からなかった。おれは呆然と葵を見つめたまま、けれども葵の言葉が脳に届いて意味を成すと、胸の奥の先ほどまでシクシクと痛んでいたところから何か温かいものが込み上げてきた。


「どうして栄じゃなかったらなんて言うの? 栄じゃなかったら、私、嫌だよ!」


 ……そういうことを、言ったら。


 叫ぶように放たれた言葉に、おれは、動いた。


 いつになく俊敏だったと思う。何か見えない力に体を押されたような、潜在能力を発揮したような、そんな素早さで。


「葵」


 おれは立ち上がって葵の顔を見下ろしていた。葵はいきなり立ち上がったおれに驚いて少し後ろにのけぞったが、背中に回ったおれの手が離れることを許さなかった。

 細い体を包むように両腕で抱く。触れたところから体温がじわりと伝わってくる。夏の夕方、風の吹き抜ける川原、ざわめく背の高い草、たゆみなく流れる水。


「……好きだ」


 至近距離にある葵の大きな瞳がゆっくりと瞬いて、大粒の涙がすっと流れていった。茶色がかった緑色の虹彩は、涙で濡れてまるで森の中の湖のように美しかった。


 その瞳を見つめながら、もう一度、口にする。


「……好きだよ、葵」



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