35 不穏な車中
太陽はだいぶ傾いたとはいえ日が長い夏。帰り道は葵を乗せているのでエアコンをつけている。まだまだ明るいの夕方の道を走らせていると、山を降りた辺りで葵が目を覚ました。しばらくぼんやりした顔で辺りを見回していたが、運転席のおれに目を留めて、「あ、栄だ」とふにゃりと笑った。
「……おはよ、葵。よく寝てたな」
「うーん、お団子いっぱい食べてねぇ。今日はなんだか疲れちゃって……」
目を擦りながらまだ眠そうに言う葵におれは苦笑した。
「ああ、そうかもな。午前中アンナさんと会って、午後は洋二と映画、それから先輩とドライブ。一日でだいぶ人に会ったんだし、無理もないよ」
「んー、そうだね。映画館ねぇ、びっくりしたよ。人がいーっぱいいたの! 洋二さんにくっついていくのが大変だった!」
そう言われてみれば、公園にもたくさん人がいたし、映画館にも人は多かっただろう。ずっと家にいて他人を知らない葵が急に外界に出たのだから、知らず知らずのうちに疲れが溜まっていたはずだ。
「……あー失敗したな。せめてもっと小分けにするべきだったか」
今日はアンナさんと会うだけで、洋二とのデートなど最初から阻止するべきだった、と今更ながら反省した。たくさんの人の中に分け入っていくことは案外力を消耗するのだ。映画館なんて人の多いところに行かせるべきではなかった。
「ん? こわけって?」
「あー、いや、なんでもない。……葵、まだ疲れてるんだったら寝ててもいいぞ? 家までまだしばらくかかるから」
「ううん、もう大丈夫だよ。それより栄、どうして栄がいるの? たっくんは?」
「は? たっくん?」
葵の口から零れた『たっくん』という名前におれは思わずアクセルを踏み込み、慌てて前を走る軽自動車との距離を確認し瞬きをした。……たっくんって、まさか。
「巧、だから『たっくん』って呼んでって言われたよ? 栄の先輩でしょ?」
「……谷中め」
谷中巧、それが先輩のフルネームだ。たっくんは先輩が女の子、しかも気に入った子にしか呼ばせない愛称だ。巧、という名前に関しては『女の扱いが巧だよね、さすが巧くん』なんてもっと上級の先輩から嫌味を言われたりするネタになっていたのを思い出した。
「葵、あの人のことは『谷中さん』でいいんだ。おれからすれば先輩だけど、葵にとってはただの知り合いだから、さん付けでちょうどいいよ」
「ふーん、そうなの? じゃあそうするね」
何がたっくんだ。そんな可愛らしい愛称で呼ばせてたまるか。先ほどまで少し見直していた先輩ではあったが、今のやり取りで再び、やつの評価は地の底へ落ちた。あの野郎、二度と葵に会わせるか! 素直でかつ世間のことは何も知らない葵は疑いもなくおれの言うことを聞き入れてくれて、次の話題に移る。
「洋二さんもねー、たっく……谷中さんもねぇ、面白かったよー。栄の話いっぱい聞いた!」
ニコニコしながら話出した葵に何故かちくりと胸を刺すような痛みを感じながらも、そ知らぬふりをして車を走らせる。夕方の国道は、午後よりも混んでいる。
「へぇ、何の話したんだ?」
「んーとね、洋二さんとは仕事中の話。栄は仕事中にぼーっとすることが多いって洋二さん言ってた! でも尊敬してるって、栄はすごいんだって言ってたよ」
「……ふ、洋二。フォローできたつもりでいるのか……? 後でシメる」
話を始めたのならば右車線を飛ばすよりも、少しスピードを落として左車線を走ったほうがいい。バックミラーで後続車を確かめ、慎重に車線を変更する。葵が乗っているので普段より三割り増し丁寧な運転に自然となっている。
「それでね、谷中さんは栄が高校生だったときの話聞いた! 栄はばすけっとぼーるが上手いって言ってたけど」
「ああ、バスケな。葵はよくわかんないか? 今度見せてやる」
「わーい! でも栄より谷中さんのほうが上手いんだって言ってたよ、本当?」
「……あの人は。上げて落とすのかよ」
「それからね、栄にデートコース仕込んだから楽しみに、とかね。でも女の子の扱いのあれこれは分かってない、とかね……」
「うわ、何て話をしてるんだあの人。……葵、それ忘れていいから。もう先輩から聞いた話は忘れて!」
「うん? じゃあ洋二さんの話は?」
「洋二か、何聞いたんだ?」
「あのねぇ……」
……こんな風に他愛もない話がずっと続いた。
葵は洋二と先輩から聞いた話を嬉々として話した。おれはそれに相槌を打ちながら、だんだん大きくなってくる胸の奥でチクチクと刺す痛みを無視できなくなっていた。
洋二、洋二、先輩、洋二、先輩、先輩……繰り返される他の男の名前と楽しい出来事。葵を笑わせているのはおれではなく、今日を一緒に過ごした他の男。……そんなに楽しかったのなら、よかったけれど。でも本当は、おれが、その思い出を。
……作ってあげたかったのに
次第に笑顔を保つこともできなくなってしまっていることにも、ぼんやりしてしまっていて葵の話を聞いていなかったことにも気づかなかった。
「……それでね、栄。……あの……栄、栄?」
「…………ん? ああ、悪い、今聞いてなかった」
葵に呼ばれてハッとして正気を取り戻した。運転は問題なくできていたが、まるで別の世界に行っていたかのように、耳が音を捉えるのを止め、頭も何か別のことを考えていたような気がする。今まではこんなことはなかった。葵の話を聞かずに無視することなどなかったのに。
「ごめんな、葵。で、何の話だったっけ?」
ちょうど信号待ちで車が停まったので慌てて頭を振った。葵にむかって笑おうとして、それまで顔が笑っていなかったことに気づいた。動きの鈍い頬の筋肉を動かして葵に向き合えば、葵は何かを感じとったのだろう、会話を再開することなくじっとおれの顔を見つめてきた。すっと真顔になった葵の、大きなあの独特の色の瞳がおれをぴたりと見据えていた。
「……栄? どうかした?」
おれの不安を見抜いているのか、はたまた葵自身の不安なのか。大きな瞳が揺れ動いておれを見ている。
「……いや、何でもない、よ」
何をどういったらいいかわからずすっと視線を外すと、ちょうどよく信号が青に変わったのでこれ幸いと発進させた。
葵は未だおれの横顔を見続けていた。なんだかんだうるさく話していた車内が一気に静かになって、エンジンの音とエアコンの風が出てくる音、そしておれの軽トラを追い越していく右車線の車の音だけがしばらく聞こえていた。
しゃっ、という車を追い抜かれる音がいくつ通り過ぎた辺りか。葵はおれを見るのを止め、もぞもぞと座りなおした。きちんとそろえた両膝に置かれた両手。顔を見たら多分、唇がとんがっているのではないかとおもう。……不満の表情で。
「……葵、話してくれて、いいんだぞ?」
あまりの沈黙におれのほうが耐えかねてそういった。弾かれるように葵は顔を上げてこちらをみたが、すぐにしゅんとしてまた俯いてしまう。
「ううん、いいの。栄の邪魔は、したくないから」
自分が話し続けていることがおれの運転の邪魔になったと思ったのだろうか。聞き分けの良すぎる子供のようなことを言う葵の本心はどこにあるのだろうか。おれが発している不機嫌な気配を敏感に察知して黙り込んだ葵。何を考えているのか、わからない。
「……邪魔じゃない。……ごめんな、葵のせいじゃ、ないんだ」
なんでこんな雰囲気になってしまったのだろう。さっきまであんなに楽しそうに話をしていたというのに。弾けるような笑顔と嬉しそうな声がこの狭い車内に溢れていたのに。でも重苦しい沈黙とお互いを探る気配に満ちてしまったのは、葵のせいじゃない。全部、おれのせいなのだ。
……なんで、こんな上手くいかないんだろう
再び激しい痛みが胸に突き刺さった。先ほどまでの針を刺すような小さな痛みではない、大きな強い痛み。
一瞬止まりそうになった息を必死に吸って痛みをやり過ごした。ハンドルはしっかり握ったまま、車体がぶれないように細心の注意を払う。葵は下を向いたままだったのでおれの異変には気づいていないようだ。
深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせようと試みる。痛みは断続的に続いていたけれど、必死で息を吸ったり吐いたりしているうちに落ち着いていく。そしてその痛みとは反対に、何故胸が痛むのかその答えが見えてきたような気がして。情けなさに涙が出そうになってまた呼吸が乱れた。
……ああ、もしかしたら。
おれ、だから、ダメなのかな。
「……な、葵」
流石に薄暗くなってきた空を見ながら、出来るだけ優しい響きになるように声を出した。
胸を刺すような痛みを宥め誤魔化すように、左手で心臓を押さえながら。
「ん、何……?」
慎重な様子でおれを窺う葵がなんだか悲しい。そんな表情をさせてしまっているのは他でもない、おれ自身で。
「帰る前にちょっと寄り道していいか? 見せたい場所があるんだ」
「うん、いいよ」
あっさりと返事が返ってきて、おれは少しほっとした。これで嫌だ、といわれたらおれはどうしたらいいか分からなかった。もっとも葵がそういう風に断ることも考えにくかったが。
無言を保ったまま、葵はドアに寄りかかるようにして身を縮め、窓の外を見上げていた。空を眺めるのが好きな彼女はしばらくの間そうしていた。おれは気まずくなってしまった車内の雰囲気をどうすることもできずにひたすら車を走らせた。
家に向かっていたが少しだけ方向を変えて寄り道することにした。
日が落ちる前に行きたい場所。
目指すのは、あの。
葵と初めて出会った川原。




