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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
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4 これは、キス

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「兄貴、眠そうっすね」


 舎弟(しゃてい)洋二(ようじ)にそう言われた瞬間、おれは大きなあくびを零していた。そしてタイミングのよさと間抜け顔を笑われてぶすりとしたおれの不機嫌な雰囲気を感じとったのだろう、察しのいい洋二は「あっ、親方に呼ばれてる!」などと言ってさっさと逃げて行ってしまった。


 今朝は気がついたら朝になっていた。少しは眠れたのだと思ってほっとしたが、やはり睡眠が足りていないようだ。現場で集中できないことは、ここでは大きな事故につながる。寝不足だからと言って気を抜いては人命に関わるのだ、気合を入れなければ。おれは顔を洗おうと端っこにある水道まで歩いていった。

 ざばざばと流れる冷たい水で顔を洗ったら少しすっきりした。頭に巻いてあるタオルを外して顔を拭く。

 現場は一昨日よりは少し進んでいるようだ。洋二が親父の指示でいろんな場所を走り回っているが、おれが行ってやらなければならない作業も山積みだ。おれは湿ったタオルを頭に巻き直し、足袋の感触を確かめてから足場の方へ向かった。




 昼休み、弁当を食べてから休憩しているとまた洋二が声を掛けてきた。おれとしてはこの貴重な昼休みに少しでも寝ておきたいのだが、彼にはなにやら聞きたいことがあるらしい。


「ね、ね、兄貴。兄貴ったら!」


「……なんだ」


 不機嫌な低音にも洋二は怯まない。もっとも、これくらいで怯むようでは職人などやってられないとは思う。おれよりも怖い先輩方がたくさんいて、毎日叱られながらの作業なのだ。なにしろ大工の仕事は大仕事でかつ繊細だ。大勢で一緒にやっていくから守らなければならない決まりごともたくさんあるし、作っているのは大きなものだがとても神経を使う。間違いは許されない。だから若いうちはものすごく叱られる。おれも未だに若手のうちだからよく怒鳴られている。洋二の場合は器用で立ち回りも上手いからそれほどでもないようだが、それでも屈強な男達の間で揉まれて、おれ程度の威嚇では怯みもしないのだろう。

 洋二は興味津々、といった目を光らせながらおれを見つめている。


「兄貴、もうすぐ結婚するんすか? 親方が昨日嬉しそうにしてたんで、みんなで噂してたんすよ!」


「はぁ!?」


 洋二の言葉を聞いて、おれは思わず声を上げた。どこから漏れたんだ、その話!! 親父か? 親父なのか!?


「だって親方に聞いたら、こう、目じりを下げて『ん、いや……栄が、な』とか言うんすよ、もう結婚話しかないんじゃないかって! 兄貴ぃ、一体いつの間に彼女さん作ったんすかぁ~」


 洋二の親父の物まねが妙に似ていて、何だか実際のところが目に浮かぶようだった。はっきりと『結婚』とは言っていないが……親父め、何で仕事場まで話広げてんだよ!!


「ね~兄貴ぃ! こないだまでそんな話一切なかったじゃないすか、羨ましいなぁ! ねね、可愛いんすか、彼女さん」


 尚も言い募ってくる洋二の鼻に軽く裏拳をお見舞いし、黙らせた。


「ひでぇ、兄貴! いいっすよ、親方に聞いてくるっす!」


 洋二は鼻を押さえながらも走り去ってしまった。親父に聞いたところで大した情報は得られないと思うし放置だ。

 おれは邪魔者の消えた日陰で横になり、眠ろうと目を閉じた。……洋二め……。絶対に言うもんか。可愛いに決まってるだろうが! 今朝だって……。


 おれは寝ようとしているぼんやりとした頭の中で、今朝の出来事をつい反芻してしまった。




 今朝、出かける前に彼女の様子を見に行ったおれは、再び乾き始めていた彼女の唇を見てまた水をあげなくてはと思った。台所に行き昨夜同様ポットに入れた水にポカリスエットの粉末を溶かし込む。ポットとコップを持って引き返してくると、枕元に正座し彼女の上体を起こして覆いかぶさるようにした。

 昨夜はかなり薄暗かったが今は朝だ。彼女の顔もはっきり見えて何だか気恥ずかしい。それでも、いや、これは病人介護なのだ、と必死に言い聞かせておれは口移しで水を与えた。


 ポットの半分ほどを与えたあたりで、彼女の目が薄っすらと開いた。明るい光の中で見た彼女の瞳は見慣れた黒ではなく、緑がかった茶色だった。

 ぷるんと潤ったピンクの唇を動かして、彼女は小さな声で言った。『ありがとう』と。そのはにかむような笑顔がなんとも可愛くて、おれは思わず彼女を抱きしめたくなって……自制した。なんとか、踏みとどまった。しかしあの笑顔を思い出すたびに胸が震えるほど可愛いと思う。誰にも見せたくない、そう思えるほどに。



 午後の仕事は精神力だけで乗り切ったように思う。結局昼休みも熟睡できず、とにかく集中することだけを考えてひたすらに仕事をした。事情を何も知らない、材木屋(ざいもくや)の親父に、「何か鬼気迫るものがあるねぇ」とのほほんと言われ脱力したが、そうでもしなければとてもではないが失敗しそうで怖かったのだ。


 ようやく定時になって仕事もひと段落ついた頃にはへろへろになっていた。今日こそはきちんと寝なければ持たないと、心に決めて家に帰った。ただそのことだけを考えていたため、帰りにスーパーでポカリの粉末と缶入りのものをまとめ買いしたものの、病人用の吸い口を買って帰らなかったのは自分の首を絞める結果になったといえる。




 夜、夕食も風呂も済ましたおれは、昨晩と同じく彼女のところへ行った。昨晩と違っているのは今日は既に飲み物を手に持ってきていることで(今日は缶入りのものを選んだ)、今晩はとにかく早く済ませてとにかく寝るんだと、そればかりを考えていた。


 三度目ともなると慣れたもので、おれは手早く彼女の頭を持ち上げて体勢を整えた。だいぶ顔色も良くなっているし、『ありがとう』とお礼を言ってくれることから考えればちょっとずつ意識を取り戻しているのではないかと思う。そろそろ水分だけではなく栄養も取らなくては餓死してしまうのではないかと心配になって、おれはその怖い妄想を首を振って頭から消した。


 甘ったるいポカリを口に含んで唇を合わせる。


 彼女の方もわかってきたのか、自然に唇を開いてくれた。水を流し込んで唇を離す。そしてまた口に含んで流し込む。その繰り返しだ。


 作業のように繰り返し、おれも慣れてきたものだな、と思って唇を合わせたまま薄く笑った。すると動いた唇に反応したのか、彼女が唇をすぼめる様に動かしてきて「……ん」と声をもらした。びっくりしてそのまま顔を離そうとしたら、くっついた唇が離れるときに「ちゅっ」という音が聞こえた。


 まだ減っていない缶を振って量を確かめ、すやすやと気持ちよさそうに眠りながらもほんのちょっと唇を動かす彼女を見て、おれはため息をついて再び水を口に含んだ。


『ちゅっ』


 とたんに口に含んだポカリを吐き出しそうになって慌てて飲み込んだ。……生生しく耳に残る音。何度も、何度も、壊れたレコーダーのように再生されるリップ音。


 口の端から零れてしまった水をぐっと拭い、おれはまた少し混乱してきた。……顔は、絶対に真っ赤になっていると思う、絶対に。


 ……彼女からすればなんてことのない、無意識の動きだ。キス、などではない、絶対に。

 おれは、ただ、彼女が自力で飲めないから、手を貸しているだけで、もちろん彼女にキスしたいからだとか、そういう不純な動機からでは決してなくて……。


 おれはぐるぐる考えながら彼女の顔を見つめていた。今にも目を開けそうにふるふると震える睫毛、額にさらりと流れる細い髪。桃色に染まった頬。そして瑞々しく濡れる唇―。




 気がついたときには、おれは彼女の唇を舐めるように貪っていて、その柔らかい質感と温かさに酔いしれていた。


 何度も何度も、角度を変えて啄ばむ様に唇を合わせる。止まらない衝動に身を任せるように、何度も、何度も。


 ……どれほどの間そうしていたのだろう、いつのまにか彼女の呼吸の邪魔をしていたようで、穏やかだった呼吸は少し乱れ、時折零れる艶やかな声がおれの耳を刺激した。


 ――これは、キス、だ……。


 そう思ったときには遅かった。おれは一気に血の気が引く思いがして顔を上げた。初めて味わう血が一気に落ちていく感覚。ものすごく冷たく、怖い感覚。


 絶望的な気分のまま彼女を見れば、彼女は上気した呼吸のまま、頬を更に赤く染めていた。口が動いているところを見ると、もう少し水が欲しいのだろう。

 おれは視線を彷徨わせて放りだしてしまった青い缶から中身が零れて畳を盛大に濡らしているのを一瞥し、ふらりと立ち上がって部屋を後にした。


 台所の手前で壁にごつんと額をぶつけた。……最悪だ。


 おれは、彼女になんてことを……。



 その後はただ彼女の渇きのことだけを思って、新たなポカリの缶を手にして客間へ戻り、機械的な動きに徹した。できるだけ彼女に触れないようにと思って唇を完全に触れないようにしたけれども、隙間から水が零れて彼女を濡らしてしまい、慌ててふき取ろうとして逆に余計に触れてしまうことになってしまった。


 ……何もかもが裏目にでている。


 新しい缶の中身がだいぶ軽くなったところで、おれは大きくため息をついて彼女から離れた。彼女は再び眠りに落ちたようだ。安らかな眠りに。……おれの疚しい心には気づかないままで。


「……気づかない方が、いい」


 襖を閉める前に自嘲のように呟いて彼女を見た。そういえば今夜は彼女の『ありがとう』を聞いていない。そう思った後で苦笑いをして静かに襖を閉めた。……聞けるはずもない。欲望のままに口付ける男などに、お礼を言う女性があるか。


 今夜は更に眠れない予感がしていたが、連日の寝不足のためか、思ったよりは素早く眠りの世界に入っていくことができた。




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