32 好き、だから
正直何を食べたのか、味なんてちっとも分からなかった。
昼食を済ませた後、ぶらぶらと三人、先ほどまでいた図書館の隣の大きな公園へ戻ってきたところだ。午前中にアンナさんとふたりで座っていたベンチに、今は一人腰掛けて空を見上げている葵の背中。
小柄な体の折れそうに細い腰。不安げな顔で時折こちらを振り返るのを見ては、大丈夫だと手を振ってやる。何度も確認した腕時計にまた視線を落として残りの時間を考える。死刑執行ってこういう気分だろうかと変な考えが頭を過ぎった。……時刻は十二時四十六分。
ふと目に入った看板を頼りに入った中華料理の店でランチの安いセットがあったので、おれは適当に目に付いたエビチリのセットを頼んだ。大きなメニューの影に隠れつつも向かい合わせで座った葵とアンナさんを窺うと、葵は実は初めての外食だったので店のメニューに興味津々で、おれの挙動不審さには気づいていないようだった。
葵はアンナさんにこれは何だ、こっちはどうだと尋ね尽くし、散々悩んでようやく食べるものを決めた後、今度は内装のあれこれが気になったようで、中国っぽい飾りやらなにやらに目をきょろきょろさせながらアンナさんを質問攻めにしていた。
アンナさんはおれを気にしつつも葵に合わせようと思ったらしく、おかしな質問にも逐一答えてあげていた。何を話したらいいかと内心びくびくしていたおれを余所に、女性二人は和気藹々と会話を繰り広げている。ちょっとした疎外感を感じつつも笑顔の葵を見、ここにアンナさんがいてくれてよかったと心底思った。
葵がアンナさんと話していてくれたお陰で、おれは心をもやもやしたもので一杯にしたまま、とにかく目の前の料理を腹の中に収めることに徹することができた。とはいえ何を食べたやら味なんて分からなかった。ただお腹を一杯にすることだけを考えて、箸を運んだだけ。
量があったので食べ過ぎるほどに膨れた腹を押さえながら歩いて戻ってきた公園は、午前中に来たときには何て気の休まる素敵な公園なんだろうと思ったのに、今はその緑の囁きさえおれの情けなさを笑っているかのようで、まるで違う景色に見えた。
時刻は十二時四十八分。また葵がこちらを振り返り、もじもじとスカートの裾を直すのが見えた。
「もうすぐね」
時間を気にするおれに当然気づいているアンナさんは、時計を見ずに言った。
午前中、おれが洋二がうっかりふたりをナンパしていることに気づかずに寝こけていた木の陰のベンチに、今はアンナさんと腰掛けていた。まっすぐには座らずに葵の方に体をねじって、無理矢理座っている格好だ。葵の方から見ると向かい合ったおれとアンナさんの姿が木の両脇に見えているだろう。
「……本当に、よかったの?」
風の切れ目を計ったように呟かれた言葉は、木々のざわめきに遮られることなくおれの耳に届いた。
「……ああ」
情けなくもおれはそういうしかない。決して本心から良かったと思っているわけではない。それでも、こうすることしかできなかったから。
「……おれには葵の行動を止める資格もないし。誰とどこに行こうが、葵の勝手だろう?」
「あなたは、あの子のことが好きなのだと思っていたのだけれど」
別に同意して欲しかったわけでも否定して欲しかったわけでもないけれど、アンナさんはおれの言葉に返事をせずにそう言った。その視線は一瞬、向こうにいる葵の背に投げられ、再びおれに向かって戻ってきた。黒に近い群青色の瞳がじっと、おれの真意を読み取ろうとするように向けられてくる。その視線の静かさに耐え切れずにそっと、顔を背けた。
普通の人ならばそんなにじっと誰かを見つめたりしない。ましてや恥ずかしがりやの日本人は、目と目で見詰め合って会話したりなんてしない。アンナさんは、さすが天使というべきなのだろうか、人の心の機微をよく分かっているくせにあえてそれを無視する。責めるようにじっと据えられた視線は未だおれの横顔に注がれている。
「……好きだよ、そりゃ」
顔を逸らしているというのに感じる視線に根負けするように言葉を搾り出した。大きな声では言えないから、できるだけ小さく。
……好きだよ、好きだ。その感情にぶれはない。だけど。
「葵……アルにはさ、もっと出会いがあるんじゃないかって思ってしまったんだ」
「……え?」
アンナさんがきつい視線を送るのを止めたのが分かった。表情を見なくても分かる。何言ってるんだ、という顔をしてるだろう。
「たまたま、さ、おれが最初に見つけてアルを連れ帰って。おれは勝手に彼女のことを好きになったけど。……アルには、もっといい男がどこかに待ってるかもしれないって、彼女自身に選ぶ権利があるんじゃないかなって思ったんだ」
言いながら心が締め付けられるように痛んで、でもできるだけ顔には出さないように気をつけながらアンナさんの顔を見た。彼女は困惑、といった表情をしていて、おれが何を言いたいのか掴みきれていない様子だった。
「……好きなんだよ、アルのことが。だからこそ、おれ一人に縛り付けておくことはできない。彼女の可能性の芽を、摘んでしまうことなんて、できないんだ」
だから。……だから。許すことしかできない。たとえその相手が洋二だとしても、あいつには絶対渡さないぞと胸に誓っていたとしても。彼女が誰かとどこかに行くのを自分の勝手な気持ちで縛ってしまうのはあんまりだと、自由を奪うわけにはいかないと思う。
「……でも、もしアルが別の誰かを好きになったらどうするつもり? あなたのその言い方では、最終的にはあの子が選ぶということでしょう?」
「…………」
的確すぎるアンナさんの言葉。もちろんその結末を考えなかったわけじゃない。頭の中に過ぎったけれどできるだけ考えないようにしていた最悪のラストは、アルがおれではない他の男を好きになることだろう。言葉にされることではっきりしたそのイメージはぐさりと深く、おれの胸をえぐる。
……彼女が、ほかの誰かを。好きに、なったら。
ちょうどその時、葵の待つベンチに男―洋二が近づいてくるのが見えた。ギクシャクと歩く洋二のおかしな歩き方はものすごく緊張している様子が遠目でもわかる。あいつは軽くて、女の子大好きと公言してはばからないが、実はそこまで女慣れしていない。『女の子には弱いんだよ、洋二は。壊れ物扱う感じで逆に近づけなくなっちゃうタイプ?』と、あいつの実兄である洋一が前にぽろっと零していたのを急に思い出した。それにおれ自身、一緒に働いている同僚なのだし、あいつがどういう人間なのかはよく分かっている。……だから、多分。洋二なら葵を変に扱うことはないと思う。
洋二が緊張しながらもそっと差し出した手を、葵はこちらを気にしながら取った。洋二は顔を伏せてがちがちに緊張しているのでこっそり見ているおれとアンナさんには気づいていないだろう。しっかりと葵の手を握り締め、なにか一仕事終えたようにほっと息をついてまた、ギクシャクと車に向かって葵をエスコートしていく。葵はちらちらとこちらを見て、見えなくなる一瞬前に小さく手を振った。
「……あんな風に、誰かが本当にあの子を連れ去っていくとしたら? あなたがやっていることって自分の為にはならないわよ?」
タイミング良すぎるアンナさんの容赦ない言葉が左耳を突く。硬質の、少し低めの声が冷静な分析と共に的確なことを言っている。だからこそ痛い。胸に刺さるように。
「……そうだな」
おれは葵に向かって振り返しそびった右手をゆっくりと下げた。手をあげたけれども、にこやかに見送ってやれる余裕なんかなくて、結局動かすことができなかった右手。
「自分で自分の首を絞めてるよな。……うん、それはわかっているんだ。どうしたっておれよりいい男はうようよいるし……。まぁ洋二なら勝てる自信あるけど、ふ、もっといい男が現れたらなんて、考えたくもないな」
肩を落とし、右手を見つめながら笑ってしまった。面白おかしい笑いじゃない。本当に馬鹿な自分に対する、自嘲の笑みだ。
「そう思ってるなら何故……」
分からない、という気持ちを声に乗せたアンナさんを見ずに零した。
「それでもな、彼女のことを考えると、そうしたくなるんだ。……自由で、いてほしいんだよ」
日常の、おれにとって当たり前のことすべてが彼女の目に新鮮に映り、好奇心を持って見つめるのなら、それは人との出会いだって同じだと思う。
本当は、本当のことを言うならば、あの家に閉じ込めて誰にも会えないようにしておきたい。新しい出会いなんて、特に男との出会いなんて絶対にないように、細心の注意を払って守っておきたいし、万が一誰かを好きになどならないように徹底的に邪魔したい。おれしか見えないように、ゆくゆくは親父やお袋とも接触を絶って、ふたりきりでどこかに閉じこもりたい。仄暗い妄想ならいくらだって溢れてくる。
でもそれは……おれの自己満足で。本当にそんな風にしたらあの瞳の輝きもなくなるだろうし、そのうちおれの手を拒むようになるだろう。
この世界に落ちて何も知らない彼女を、籠の鳥になどできるはずもない。……だから。
「おれの気持ちより、彼女の気持ちを優先させたいんだ。彼女には好きに過ごさせてやりたい。いろんなところへ行って、いろんな人と出会って。それで……いつか……」
いつかは。
―彼女自身の意思で、おれのことを選んでくれたら。
言えない言葉を喉の奥に飲み込むように沈黙すると、アンナさんはすっと立ち上がって、高いところでため息混じりに小さく零した。
「……馬鹿ね、本当に」
意外と優しく響いた声にそっと顔を見上げてみたけれど、ちょうど逆光になってしまっていたのと、少し横を向いてしまっていたためにその表情はよく見えなかった。本当にはっきり言ってくれる人だ。それが今は逆に助かるけれど。
「ああ、本当だな」
馬鹿だと思う。いい男に出会った後でおれを選んでくれる確率なんてぐっと低くなるだろうに。……自信なんてない。むしろこれは、細い細い糸を掴むような、千切れないようにそっとそっと触れて願うような、そういう心境だ。
籠から出た小鳥が、また自分で籠に戻るなんて滅多に聞かない話だというのに。それでも、おれは。
―淡い期待に縋り尽くしか、できないんだよ。
アンナさんはおれの隣に立ったまま、それきり何も言わなかった。心を読むのが上手いアンナさんは、おれが口にできなかった小さな願いに気づいただろうか。うな垂れたおれの視界に入る彼女の黒いハイヒールのとがった踵は動かずにただ、そこにいてくれた。何を思っているのかは分からないけれど、木々のざわめきの中でただ傍にいてくれるその存在は、葵が寄せる信頼そのもののように思えた。……沈黙が、重くない。こういう人だからきっと、葵もアンナさんのことを姉のように慕うのだろう。
折りしも下から吹き上げるような風が耳を塞ぎ、透明な沈黙も一緒に空の上に飛ばしてくれたようだった。
咄嗟に目を閉じ、風が止むのを待って顔を上げたおれは、風に煽られてもなんら頓着しない落ち着いた様子のアンナさんを見上げた。普通はこういうとき、女の人はわーとかきゃーとか言うものかなと思ったけれど、乱れたのはその長い黒髪だけで、めんどくさそうに手櫛で髪を整えた超絶美人は鞄を持ち直して一歩踏み出した。
「……じゃ、私は帰るわね。何かあったら連絡ちょうだい」
「あ、ああ。ありがとう、付き合ってもらって。なんか悪かったな」
立ち上がりつつ意識を切り替え、無難な言葉を口にする。他に何と言っていいのか分からなかった。今日は元々葵と話してもらうために呼んだので、一応目的は達成できたといえるだろうが、別れ際に当の葵がいないことを今更申し訳なく思った。まぁまたいくらでも機会は作れるか、と頭を掻きながら彼女を見遣る。
アンナさんはそのまま二三歩歩いたが不意に立ち止まり、こちらを振り返った。まっすぐな長い髪が、風に踊らされて揺れる。その抜群の存在感。普段は故意に消しているという、自分の存在を今、惜しげななくさらけ出して。
「……あなたのそういうところ、嫌いじゃないわ」
じっとおれの目を見つめてくる漆黒の瞳に、群青の光が灯るのが見えた。星屑の夜空のような色を湛えた大きな瞳から感情を読み取ろうとしたけれど、あいにくそんな高等技術は持ち合わせておらず、おれは肩をすくめて言葉を受け流した。
そういうところってどんなところかね、と思ったけれども、おれが口を開く前にさらりと手を振って、彼女は再び踵を返し行ってしまう。歩きにくいだろう地面の上を高いヒールの靴で颯爽と歩き去って行くその後姿は、いつか見たときと同じで彼女の硬質な空気を固めたようにすっと一本通った意思を思わせた。
「……嫌いじゃない、ね。まぁ馬鹿なおれに対してはまずまずの評価じゃないか?」
アンナさんの後姿を見ながら力なくベンチに腰を下ろした。どさっと座り込み、頭を抱えて思いっきりため息をつく。
今頃葵は、洋二とどうしているだろうか。
変なことをされていないだろうか。困っていないだろうか。……泣いていたりはしないか。
嫌な妄想ならいくらでも思い浮かぶ。そんなにもやもやするならついていけばよかったじゃないかと頭の中でもう一人の自分が叫ぶ。
……ばーかばーか。悔やむくらいなら洋二と映画なんて行かせなきゃよかったのに。映画なんて自分で連れて行けばよかった話だろうが。ばーかばーか。
「だぁー!!!もうっ!」
ぐるぐると渦巻く黒い気持ちを吐き出すように思わず大声を上げて、ここが公園だったとすぐに思い出す。一瞬にして集まった視線に居心地の悪さを感じながら、何事もなかったかのようにぐっと背伸びをひとつして歩き出した。
「……さーて、とりあえず帰ろう」
誰に向かってでもなくわざとらしく呟いて、散会していく視線を避けるように駐車場に向かう。
……とりあえず家に戻って待機だ。映画が終わったら電話するようにと、葵にはテレホンカードを渡してある。電話番号はあの驚異的な記憶力で一発で覚えてしまったし、公衆電話の使い方も一応口で説明した。分からなくなっても洋二が分かる。
映画ならばおよそ二時間くらいだろう。ものすごく憂鬱で落ちつかない二時間になりそうだと、ため息と共に首を回した。ボキっという、ものすごく疲れた日の夕方のような盛大な音に自嘲の笑みを零した。




