30 緑の公園で
そして次の日曜日。
アンナさんに指定された待ち合わせの場所は、市立図書館前。駅からほど近い場所にある市の中央図書館は周りを木々に囲まれて建っている。木に囲まれているのか、ちょうど公園の中に造ったのかは定かではないが、自然の中にあってとても居心地のいい図書館だ。おれの家からは少し離れているから昔は自転車で来たこともあったが、車を使えばすぐなので免許をとってから頻繁に来るようになった。
図書館の前の目立つ場所ではなく、図書館のすぐ脇にある公園のベンチに葵とともに腰を下ろした。お袋のお下がりではあるがお気に入りの水色のワンピースを着た彼女は、おれの隣で気持ち良さそうに上を見上げ、葉の間から見える青い空に目を細めている。地面につかず少し浮いた両足はご機嫌にぶらぶら揺れている。風が吹き抜けてはざわめく木々、揺れる陰。夏の暑い最中にあって涼しい公園には、ちらほらと散歩をする人も見える。木で作られた遊具で遊ぶ子供達の姿も。
「……平和だなぁ~」
ふうと大きく息を吐いて思わず呟いた。ここ一週間の気ぜわしさと言ったら辟易するほどで、こんなにも心休まるひと時は久しぶりだったのだ。
「ふふ、いいところね、ここ」
体重を後ろについた両腕に預けてだらっと首を落としたおれを見て、葵は笑った。彼女の前髪をふっと風が揺らしては通り過ぎていく。眩しすぎる笑顔に見とれつつも遠い気持ちになる。……この無邪気な笑顔に癒されながら、また翻弄されながら過ごした一週間。何があったのか、というと。
あの日、『作業場で妖精』を見てしまった洋二は、その翌日の朝にもひょっこり作業場に顔を出した。「まだ自転車が直らなくって」と言っていたが、辺りをきょろきょろ見回して何かを探す素振りを見ておれはすぐに気づいた。ああ、こいつは葵を探しに来たんだな、と。
まだ諦めてなかったのか、というよりやっぱりまぁ、騙されてはくれないよなぁと思っていたら、あいつはおれにこう聞いてきたのだ。
「兄貴……、兄貴も見たっすよね? 妖精さん。だってあんなにはっきりしてたんすよ、絶対いたっすよね? 兄貴の背後にいたっすよね? ……あれ、変だな。兄貴……。もしかして、あの時わざと邪魔しなかったっすか? 兄貴がおれの頭押さえてたせいでおれ……」
途中から洋二が正解にたどり着きそうになったので、思案顔でぶつぶつ考えこんでいたのをいいことにそっと離れて逃げた。親父に洋二を大型に乗せてもらえるように頼み、ひとりでそそくさと軽トラを発車させてしまう。
だが逃げたところで所詮は同じ職場で働く同僚だ。少しの時間差で現場に着いた洋二は、おれが逃げたことでますます確信を深めたらしい。四六時中おれを追いかけてくる疑惑の視線。仕事してんのか、と言いたくなるほどにねちっこくついてくる視線にほとほと疲れ、おれは洋二にはっきり言ってやろうと思った。
けれども……。一体なんて言ったらいい?
お前が見た彼女はおれの彼女候補だから、手ぇ出すな? ……いや、『候補』っていうところがかっこ悪い。
お前が見た彼女はおれの……嫁さんになる人だから。 ……いや、いやいや、それはちょっと……葵に告白すらしてないのに。婚約者だなんて。
……悩んだ挙句、結局洋二に言える言葉が見つからず、ものすごい疲労感と共に家路についた。ああ、明日からどうしよう。また洋二はしつこくおれを見てくるんだろうなぁ。また明日も家に来るかもなぁ。
家の玄関をガラガラと引き、上がり框に倒れこむように座る。思わずため息をついた頭上から降ってきた葵の声。
「おかえり、栄。あのね、今日のご飯はねぇ、お母さんと一緒に私も手伝ったのよ。野菜を切ったの。ふふ」
嬉しそうに笑う彼女の顔を見上げ、おれは思った。……そうだ、彼女に告白すれば、そして了承してもらえれば、洋二に胸張って言えるんだ。
……今思えばなんて無謀かつ浅はかな思い付きだったと後悔する。しかしその時のおれは妙案だと思ったのだ。
緊張にどくどくと鼓動する胸を押さえながら、おれは意を決して葵を見た。
「……葵。あのさ、……」
「ん? なあに?」
「……す、」
見上げた彼女の目は、何も知らない純粋さと無垢に満ちた彼女の目は、緊張にがちがちになったおれの固い表情を映し出している。今、彼女の瞳に映っているのは確かにおれだというのに。おれの目にはもはや彼女しか映らないというのに。
きょとんとした表情に表れている、明らかな感情の温度差。
このおれのとんでもない緊張も早い鼓動が意味することも、この雰囲気も。何一つ彼女には伝わっていない。……おれの伝えたい言葉も、きっと。
「す、きやきが食べたいなぁと思ってたんだけど、違うよな?」
「え? すきやき? えっと、お母さんは今日はカレーだって言ってたよ?」
……やっぱり言わなくてよかったと彼女の笑顔を見て泣きそうになった。涙がうっかり零れてこないように、慌てて笑い顔を作る。
「ああ、そうか、カレーでもいいんだ、別に。そっか、葵が作ったんなら楽しみだな」
「うん、早く着替えて来てね!」
ぱたぱたと台所に走り去る葵の後姿を眺めながら、おれは途方もない脱力感に襲われた。
―好きだ、とも言えないなんて。
言っても分からないだろう、今の葵には。おれの『好き』がどれくらいかなんて、彼女にはきっと分からない。告白されるのかな、といった微妙な空気感が掴めない彼女に言ったところで「好きってなあに?」と返されるのがオチだろう。もしそう返されたらおれの心への衝撃が強すぎてすぐには立ち直れないと思う。だから言えなかった。なかったことにするしか、おれには。
「あああ……。もう、おれどうしたら……」
あれか、何か? 『告白』とは、『好き』とは、『恋人』『結婚』『夫婦』とは何かを逐一説明すればいいのか? それでアレコレ説明した挙句、「おれは君が『好き』で『恋人』になりたくてゆくゆくは『結婚』して『夫婦』になりたい」って言えばいいのか?
……葵なら、なんて答えるだろうな。
「うん? いいよ?」 なんてきょとんとした顔で言うかもしれない。全く言葉の中身を理解しないままに。
「それじゃダメなんだよ~!!」
玄関先で足袋も脱がないまま、頭を抱えて悶えていたおれに、冷たい声が降ってきて我に返った。
「……邪魔だ、栄」
「うっ、親父……」
冷たく低い声に、本当に邪魔に思っているような冷たい視線。息子がこんなに困っていると言うのにそういう冷たい態度を取るのか、親父。とじっと見つめていたら。
隣に座り込んでさっさと足袋を脱いだ親父は去り際におれを横から蹴っていった。ドカッという鈍い音とゴンという音が玄関に虚しく響く。ちなみにゴンは、おれの頭が下駄箱にぶつかった音だ。
「……どうせおれがダメなんですよ」
自虐の言葉を吐き出しながら足袋を脱ぐおれは、相当情けない背中をしていたと思う。
その後の一週間の様子は大体予想がつくだろう。
しつこい洋二をかわしながら、葵の無垢な笑顔を見ては何も言えず……を繰り返す日々。夕食を食べた後で葵とふたりで過ごす勉強の時間は癒しではあったが、ひとたび洋二のことが頭に浮かび、『告白』の二文字が頭を過ぎるとそわそわと不審になってしまい、葵に笑われた。……癒されつつも心をすり減らすおれ。
「ああ、でも、本当に。緑が気持ちいいなぁ」
葵と同じように上を見上げて深呼吸したら、緑に包まれた新鮮な空気が肺に行き渡ってすっとした。高いところから生い茂る緑の葉によって遮られた日光は、地上まで熱を届かせることはできない。きゃらきゃら笑いながら遊ぶ子供達の声が聞こえて、そういえば子供の頃親父につれてきてもらってよくこの遊具で遊んだよな、と懐かしく思い出した。あの頃も楽しかったし大好きだった場所だけれども、緑に抱かれたこの公園は大人になってからのほうが居心地がいい気がした。
「ね、栄。アーレリーはまだかなぁ?」
その声に葵を見ると、やっぱり今日の日を楽しみにしていたのだろう、そわそわと辺りを見回して見知った姿がないか探している。その挙動に苦笑しながらおれは腕時計を確かめる。
「んと、そうだなぁ。十時って約束だったから、あと十分くらい? ちょっと早く来すぎたかな」
遅れると困るので早く来たのだが、葵には待つ時間が苦痛だったかもしれない。唇を尖らせて足をぶらつかせる葵は、待ちぼうけをくらう子供のようで可愛かった。……この子供らしさが、愛おしいときもあるし苦悩の種になるときも、あるんだよなぁ。
「Excuse me? Could you tell me where the post office is?」
ぼんやり葵を見つめていたら、頭上からいきなり高い声が降ってきたので驚いて前を見る。おれと葵の座るベンチの前に、外国人の女性が立っていた。金髪碧眼。深い彫り。ああ、西洋の人だなとすぐに分かる造作。
「Excuse me?」
あわわ、英語だ、どうしようと慌てたが、よく見てみれば目の前の女性が首を傾げて見つめているのはおれじゃなくて葵だった。同じく首を傾げた葵がこちらを見て「どうしよう」という顔をするのを見て合点がいった。
葵の顔つきはそう、わざわざ戸籍をハーフにしたほうがいいだろうと判断するくらいには西洋人の顔立ちに近かった。大きな目、長い睫毛。高めの鼻、そして金に近いほどに透き通った茶色の細い髪。
葵ならば英語が分かると思って話しかけたのかと納得していると、葵が口を開いた。
「うーん、栄。郵便局ってどこにあるか知ってる? 知ってたら教えてあげられるんだけど」
おれはその言葉にはっとして葵を見つめた。郵便局? ああ、もしかしてこの外国の人、郵便局に行きたいのか? そして葵は言葉が分かった?
「えっと、公園をそっちの方向に出たら道の向かいだよ。すぐそこ」
おれはその方向に指をさしてそういった。女性もそれに反応したが、いまいちおれの言っている意味が掴みきれなかったようで、困ったように首を傾げて葵を見つめた。
「What kind of meaning is it? 」
「meaning? 意味ならそのままなんだけど……」
葵は戸惑ったように呟き彼女を見、そしておれを見、瞬きをして不思議そうな顔をしながら再び女性に向かって言った。おれの指した方向を指差しながら。
「The post office is over there. It's the side opposite to a way. Just there.」
「Oh, I see. Thanks a lot!」
女性は嬉しそうな顔をして去っていた。さすがにおれだって最後の台詞くらいは聞き取れた。ありがとう、と。手を振りながら歩いていく女性に向かってしばしにこやかに手を振り返していた葵は、女性が見えなくなった頃におれに向き直り、また不思議そうな顔をした。
「栄……。なんであの人、栄に言われてわからなかったの? 私、栄の言ったこと繰り返しただけなんだけど……」
「ああ、あの人が話していたのは英語で……。おれは英語話せなかったしあの人も日本語わかんなかったんだろうなぁ。葵は英語も上手なんだな、やっぱり」
「ん? エイゴ?」
「……それが天使の特性よ。どの世界のどの言語であっても操れる。自分がどの言語で話しているかっていう意識もなくね」
「アーレリー!」
「あ、アンナさん」
背後から聞き覚えのある硬質な声が響いておれ達は同時に振り返った。そこに立っていたのは相変わらずの美人オーラを撒き散らすアンナさん。今日はミニスカートではなく深緑のズボンと白いシャツ、胸元にはズボンと同系色のリボンが結ばれている。長い足がすらりとのびて本当にモデルのようだ。
「アーレリー!! 本当に……、本当に地上にいたのね!」
葵は感極まったように立ち上がり、アーレリーに抱きついた。アンナさんは抱きつかれて一瞬バランスを崩したが、すぐに体勢を整えて葵の頭を撫でた。やんちゃな妹を慈しむような表情で。
「……久しぶりね、アルシェネ。……いえ、もう『葵』だったわね、私の妹の」
そのままアンナさんの胸に顔を押し付けたまま黙り込んだ葵の頭を撫でながら、彼女はおれを見た。「仕方ないわね、この子は」と言わんばかりの顔で先ほどの会話の続きを語る。
「……アルシェネが日本語が上手なことに驚きはしなかった? 別に日本語だけ話せるんじゃないのよ。さっき言ったとおり、どの言語でも相手に合わせて話すことができる。相手がイギリス人ならイギリス英語、中国人なら中国語。少数言語だって話せるの」
「それは……便利、だなぁ」
思ったことだけを吐息に乗せて呟くと、アンナさんは苦笑した。
「そうね、便利と言われればそのひと言よね。ただ、話せるけど文字は理解できないのがちょっとね」
あ、やっぱりそうなんだ、とその言葉でおれは葵が文字を理解しないことへの疑問が解けた。
「でも、日本語独特の言葉とか……そういうものも分からないときって時々あるよな?」
「そうね、自分の中で認識していない概念は理解できないこともあるわ。天界にはないモノ、事象、思想、そういうものは言葉に乗せることはできてもわかっていないこともあるわね」
「ふうん……」
なかなか難しい話だ。どんな言葉でも聞いて話せるのだから便利は便利だが、すべてが分かるわけではない。まぁそれもそうだ、住んでいる世界が違うのだから様々な事柄の認識だって違うだろう。意思疎通が取れるだけすごいってもんだ。おれとしてはこうして葵とアンナさんと話が通じていること以上にありがたいことはない。
おれとアンナさんが話をしている間、葵はじっとアンナさんにしがみついたまま離れようとしなかった。お母さんにくっつく子供のようだ。それだけ会いたかったのだろう、とおれは葵の気持ちを察した。
「……で、ふたりは積もる話があるんだよな? おれあっちにいるからさ、気兼ねしないでふたりで話すといいよ」
それはアンナさんと葵を合わせる約束をしてからずっと決めていたことだ。天使同士、いろいろ難しい話もあるのだろうしおれがいるとできない話もあるだろうから、何を話すのかが気にならないと言えばウソになるし、気になるのが正直な気持ちではあったが席を外そうと思っていた。
おれは少し離れた木の陰にあるベンチを指差し、そそくさと離れていった。おれの声が聞こえたのか、葵は顔を上げおれを見たが、ひらひらと手を振って笑ってやると、彼女も笑顔を返してくれた。気を遣ってくれてありがとう、というような、申し訳なさの感じられる笑みだった。
宣言通り木の陰のベンチに腰掛けたおれは、一度振り返ってふたりの様子を伺った。茶色のくるくるした髪に水色のワンピースを着た可愛らしい葵と、長くまっすぐな黒髪を流し白いシャツの似合うまさに美女、といったアンナさんが並んでベンチに腰掛けた姿は、まるで一枚の絵のようだ。溢れんばかりの緑とそこに差し込む光の中に映し出される美しい二人の姿。一瞬どころではなくしばらくぼんやりと見とれてから、はっと周囲を見渡す。
午前の公園、いるのは子連れのお母さんやおじいちゃんおばあちゃん。声を掛けてきそうな若者はいない。危険はなさそうだと判断したおれは、一人することもなくごろりと長いベンチに横になった。どうせ聞き耳を立てても聞こえないし、聞くつもりもない。連日の心労で疲れが溜まっていたおれは、薄目を開けてなにやら楽しげに話し出したふたりの姿をもう一度確認したあと、いつの間にか眠りの世界へ旅立っていた。
作中の英語、文法・用法等間違いありましたらぜひご指摘ください。(ちょっと怪しいなぁと私も思っているので(^^;)
意味は
女性:「すみませんが、郵便局はどこでしょう?」
<栄のジェスチャーを見て>
女性:「それは一体どういう意味なんでしょう?」
葵:「意味? 意味ならそのままなんだけど……」
葵:「郵便局はあっちです。道の反対側。すぐそこです」
女性:「ああ、わかりました。ありがとうございます!」
……という内容です。英語が分からなくても分かるように書いたつもりですが、いかがだったでしょうか?




