29 勉強の時間
「これがひらがな、それからこっちがカタカナ。こいつら覚えないと、漢字の読み方がわからないからまずここからな」
「ひらがな、かたかな、ね? わかった。教えて?」
その日の夕食後、おれと葵は早速文字の練習を開始した。
テキストはおれが買い揃えていた小学生用のドリルだ。ひらがな、カタカナから始まって、五十音を覚えたら小学校一年生の漢字から徐々に進んでいこうと考えている。ひらがなが読めないと漢字辞典も国語辞典も引けないし、漢字の読み仮名が読めない。先は長いように感じるが、一番の近道であるだろう。
あ、い、う、え、お……とおれに続いて読み上げる葵が愛らしい。客間に出した小さなテーブルに並んでふたり、子供のようにひらがなを音読していく。一巡目にして音は覚えたらしい。真剣な表情で文字を追っていく彼女を横目に、これは習得も早そうだなとおれは思った。
今日の昼休み、おれは時間を見計らって現場近くのタバコ屋へ行き、公衆電話から神原アンナさん、もといアーレリーの職場に電話を掛けた。誰かほかの人が出ないようにと念じながらコール音を聞いていると、彼女の硬質な声が返ってきてほっとした。
用件はもちろん、アル…葵が目覚めたことを伝えるためだ。アンナさんにアルが目覚めたこと、もう歩けるようになったし食べ物を食べることもできるようになったことを話すと、「そう、よかったわね」、というちょっとそっけない返事が返ってきた。
あまり歓迎していないような声色に首を傾げつつ、今一度『神原葵』の戸籍上の“設定”を確認した。今朝親父に話したときにも思ったが、おれの中でも情報が不十分で上手く説明できなかったからだ。
そうして確認できた事項を整理すると、まず『葵』は『アンナ』の妹という位置づけになっていること。年齢は二十三歳、日本人とロシア人のハーフ。ただし本来は存在するはずのなかった“妹”なので、神原の家では葵の存在を関知しないということだった。
どういうことかと尋ねたら、戸籍をいじるのにやはり天使の特殊能力を使ったためで、うまく誤魔化して一人分増やしたのだという。増やしてしまって迷惑にはならないのかと聞いたら、『神原』の両親はもう亡くなっているため、まず影響はないと言われた。本当はもっとつっこんでいろいろ聞きたい気もしたが、なんだかアンナさん自身が話したくなさそうな口ぶりだったので聞くことはできなかった。
もしまた何かあったら相談する、と言ってその話題は切り、おれはアンナさんにアルと会う日を作ってくれないかとお願いした。アルは、葵はアンナさんに会いたがっていたし、以前元気になったら会わせるとも約束している。近いうちにぜひ会ってやってくれと言ったら、彼女は「じゃあ日曜日でいいかしら」と提案してきた。彼女がいいと言ってくれるならおれはいつだってかまわない。日曜日はちょうどおれも休みだし、アルに付き添っていける。一にも二にもなく了承して、おれは電話を切った。アンナさんの声が冴えないのが少し気にかかったが、電話口の声でもあるし、職場に掛けているから気を遣ったのかもしれない。まぁいいかと思って午後の作業に入った。
「そうだ、アル……、葵。今度の日曜日にアンナさん……アーレリーと会う約束しておいたからな。話すこと考えておけよ?」
「え、本当? ありがとうサカエ!」
ひらがなの「そ」が上手く書けず、お手本の文字とにらめっこしていたアルが、おれの言葉にぱっと顔を上げて喜んだ。その笑顔が見られるなら、おれは何度だってアンナさんに電話を掛けて約束を取り付ける。そのうち電話の掛け方も教えて、直接ふたりが話せるようにしてあげてもいい。
「うーん、でも日曜日っていつ?」
「今日が月曜だからな。火、水……あと六日後だな」
ちょうどよく日曜は過ぎ去ってしまっていたので、約束の日まで週を一回り数えなければならない。六日、と言うとアルはちょっと口を尖らせて考えた後、「分かった」と言って小さく笑った。多分彼女も遠いなぁと思ったのだろう。
再びテキストに視線を戻した彼女を見ながら、ふうと小さく息を吐いて今日の夕飯のときのことを思い出す。
もうすっかりご飯を食べられるようになったアルを入れた食卓は、ちょうど四角形の四辺に乗るように、親父、お袋、おれ、アルの順で囲った。お袋を目の前に、そして両隣のおれと親父をきょろきょろと忙しくも嬉しそうに見るアルは、食べることよりもその雰囲気が楽しいようで終始にこにこと笑っていた。食べる量はお袋が加減して、さすがにあまり多くはない。けれども彼女も“食欲”というものを感じるようになったようで、軽く一杯盛ったご飯を食べたところでお腹を擦り、「うーん、まだ入りそう?」と言って首を傾げ、おれたちはその様子を見て笑った。お腹が空いているなら、とお袋はお代わりをよそってやっていたが、それでもほんの一口と加減した。急に食べてまた調子が悪くなったらと考えてのことだろうが、アルは初めての“お代わり”に喜んで、ほんの一口のご飯を見つめて大きな目を輝かせていた。
食べ終わった後で、親父とお袋に改めて彼女の名前の話をした。アンナさんに電話で聞いた“設定”もちゃんと話して共有しておく。家で『アル』と呼ぶのは全くかまわないが、外にいるときは『葵』で統一する。『神原葵』はロシア人とのハーフってことになっているから、もし間違えて『アル』と呼んでしまっても、それは愛称だという言い訳をする、ということまで決めた。
親父もお袋も『アル』という呼び名にもう慣れてしまっていて、同じ『ア』から始まるから少しは修正も利くが、『葵』という呼び名はなかなか呼びなれないようだった。
かくいうおれ自身、『アル』と呼んだり『葵』と呼んだり、未だに定まらないままであった。つい口から零れるのは呼びなれた名前。アル自体が愛称だが、この先彼女は『アルシェネ』と呼ばれることはなくなる。名前が変わってしまって、消えてしまって、本当に気にしないのだろうかとおれは急に心配になった。
「なぁ、アル……。名前、変わっちゃって本当にいいか?」
「……うん?」
今更な質問だとは思ったが、確認せずにはいられなかった。もし彼女が『アルシェネ』という名前を失くすことに不安を感じるなら、せめておれだけは彼女をアルと呼び続けようと思ったのだ。
鉛筆を握ったままきょとんとおれを見上げてくる彼女の瞳には、『何の話?』と浮かんでいた。
「今日の夕飯の後で話しただろう? これからはアルのこと、葵って呼ぶって。でもそうすると、アルの本当の名前を呼ぶひとはいなくなっちゃうんだ。名前、消えちゃうのと同じなんだ。そういうのって……嫌じゃないか?」
おれがそういうと、彼女はうーんと考える仕草で中空を見つめた後、おれに向き直って笑った。
「名前はね、何だっていいの。それが私を呼ぶ名前なら、なんだって。サカエやお母さん、お父さんは、ちゃんと私を呼んでくれるから、アルでもあおいでも、いいの」
にっこりと笑ったその笑顔には、一切の陰りも見えなかった。本心から思っている、そういう顔だ。
「なんだってって……。だってアルシェネって名前は、ちゃんとつけてもらったものなんだろう? えっと、天使は、そう、神様が創り出すのなら、神様が名前つけてくれたんじゃないのか?」
「うん……? 神様? ……知らない、忘れちゃった」
「え、忘れたって……」
首を傾げて無邪気に笑う姿は、純真で何も知らない子供のようでいて、でもなんだかどこか何かが欠けたような不安定さも感じさせた。
「『アルシェネ』には感情なんか篭ってないの。私を示すただの記号。だからなくってもいいの。それよりね、サカエがね、私を見て、私を呼んでくれるときにね、『アル』っていってくれるのが嬉しい。それが『あおい』になっても同じだから、だからどっちでもいいの。どっちも好き」
彼女の言葉に込められた真意は分からない。『アルシェネ』から派生した『アル』には親近感を沸かせて喜ぶのに、『アルシェネ』は記号だという。もしかしたら天使として天に居た頃の思い出がそう言わせるのかも知れないが、おれにはどう捉えていいのやら全く分からない。とにかく彼女の言うことをまとめれば、『アルシェネ』という名前は消えてもかまわない。そして『アル』でも『葵』でも、感情を込めて呼ばれるのならばどちらでもいい、ということか。
「……わかった。わかんないけど、わかったってことにする。……じゃあ、アル。いや、葵。これからは君の事、『葵』って呼ぶことにするから。そうしないと人前で呼び間違えそうだし……」
これから先、彼女が外に出て行くなら必要なことだ。彼女自身を未知数の脅威から守るために。
「うん、分かった、あおい、ね? ふふ。……あ、そうだ、サカエ。ここにまた『あおい』って書いてくれる? 漢字で」
「あ、ああ。いいよ」
よし、これからは『葵』で統一する、『アル』や『アルシェネ』は胸の中に封印……と考えながら、おれは葵のお願いに従って鉛筆を握った。
今はまだひらがなを練習しているところだから、邪魔にならないようにと、ノートの端っこの方に『葵』と大きく書く。ついでに上にひらがなで読み仮名も振る。
「サカエ、『かんばら』は? それからね、サカエの名前も書いて」
おれの鉛筆が動く様をじっと見つめていた葵は、上目遣いでおれを見上げて要求を追加した。尽きることのない興味、好奇心に苦笑しながら、おれは鉛筆を走らせる。
「こっちが『神原』な、それから……『日向栄』、だ」
あんまり字には自信はないが、それなりに上手く書けたと思う。少し大き過ぎた感はあるが、バランスはまずまずだ。なにしろこの先彼女がこの字を手本に練習するかと思えば、自然とかっちり書ける。
葵はおれの書いた字をじっと見つめ、ぶつぶつと口の中で復唱しながらそのすぐ下にひとつずつ書いていく。
「かん、ばら……あお、い……。ひな、た…さ、か、え……」
「おお、上手い上手い。やっぱり女の子は字が綺麗なんだな」
おれが書いたものよりも直線がまっすぐでなんだかきれいで、苦笑しながら褒めた。まったく、初めて書いた漢字とは思えないくらい上手だ。ちゃんとおれの手本を模写してかつレベルが上なんて。
「サカエ、さかえ……栄、ね?」
「あれ、なんかカタコト感が消えた」
葵がにっこり笑って呼ぶおれの名前から、少しだけ残っていた片言な感じが抜けた気がした。まさか?
「日向栄、神原葵、合ってる?」
「あ、ああ、字も合ってるし、発音も……。アル、じゃなかった、葵、何かした?」
またしても呼び間違えた名前を訂正しながら、おれは不思議で仕方がない。今までなんとなくカタカナで呼ばれていた感じがしていたのに、漢字を教えたらそれがすぐに消えた。文字を知ることでそれが発音に影響するなんて、どんな語学の天才だって瞬時には習得できないと思う。
おれがびっくりして葵を見つめると、彼女はうん?と首を傾げてきょとんとした。この表情を見る限り、彼女自身に自覚はないらしい。
「あー、いいよ、気にしないで。しかしまー、不思議だな、いろいろ」
もう何でも『不思議だな』で片付けてしまおうと思う。考えて分かることは考えるが、考えても分かりようのないことは考えるだけ無駄だ。それに答えを知ったところで、この問題は「へー、そうなんだ」で終わる類のものだと思う。
「変な栄。私、ひらがなの練習続けるね?」
葵は唇を少し尖らせて瞬きをひとつすると、鉛筆を握り直してノートに向かった。熱心で何より、だがおれだって負けないように勉強するんだ、今から。
「ああ、いいよ。おれはおれで勉強するから」
そういっておれは隣に置いておいた本とノートを手に一度立ち上がり、葵の対面に移動して座りなおした。葵はおれが立ち上がったのを見て顔を上げた。
「ん? 何の勉強?」
葵の質問におれは苦笑いをして返す。彼女に説明しても分からないだろうが、これはおれにとってものすごく重要な決断。おれ自身、なんとかなるのか不安で一杯だが、やると決めた決意の証だ。
「えっと、建築士の資格の勉強。学校出てすぐに木造建築士の資格は取れたんだけど、二級建築士の試験には落ちちゃったから。……また挑戦しようと思って」
そう、葵が文字の練習をする傍で自分自身が勉強しようと思っているのは資格の勉強だ。おれは高等専門学校の建築科を出ているのだが、出てその年に行われた二級建築士の試験では残念ながら不合格だった。実家が工務店な為なんの心配もなく大工に弟子入りできるおれは、当座必要ではない資格がとれなくとも落ち込むこともなく、また再挑戦しようとも思わずに過ごしていた。
「……仕事に必要なの? 栄の仕事って……えっと」
「大工、だよ。家を建てるのが仕事。言ってなかったか」
葵が頬に手を当てながら考えこんでいるのを見て苦笑した。そうか、おれは自分の仕事の話をちゃんとしたこともなかったっけ。
「おれと親父の仕事は大工、木で家を建てるんだ。この家だって親父が建てたんだ。親父と、じいちゃんが一緒に」
おれのとっては見慣れた和室の客間をぐるりと見渡しながら言った。葵はおれの言葉に驚いて目を丸くした。
「え、自分で建てたの? お父さんが? ……すごいねぇ、木で家を建てるのもびっくりだけど、自分で建てられるんだねぇ」
「はは、普通は建てられないよ。親父はまぁこれが仕事だし、専門だから。おれだって建築士の資格取ったら自分で家を設計して建てられるようになるんだ。今だって設計はできるけど、それは紙の上だけの話だから」
親父は一級建築士の資格を持っているため、ウチの工務店では建築設計から施工まですべてできる。小さいながらも仕事をやっていけるのはすべて親父のお陰だ。おれは建築科を卒業しただけのペーペーのひよっこで、今は現場での作業を通して腕を磨いているといったところだ。親父に指示されるままに動くだけの、子供のようだ。
いままではそれでよかった。ある程度の歳になって、機が熟せば一級建築士の受験資格も得て、資格を取って、親父の工務店をそのまま継ぐのだろうとぼんやり思っていた。しかし今は。
「おれも早く、一人前になりたいからさ。職人の腕はすぐどうにかなるものではないけど、資格試験は勉強すれば合格できるから。一歩ずつ進んでいくしか、ないからさ」
……少しでも、早く。目の前でおれの話をじっと聞いてくれる君を守っていけるように。一人前の、ちゃんとした男に、なりたいんだ。
「……ふーん? あんまりよくわからないけど……。栄もお父さんみたいになりたいってこと?」
葵は小首を傾げてそういった。その様子はとても可愛らしかったのだが、「親父みたいになりたい」ってそう解釈するか、と思って吹き出してしまった。
「っふ、はは、そうだなぁ……まぁそういうことにしておこうか?」
……親父のように。そうかもしれないな。親父のようなしっかりした男になりたいと、一家の大黒柱になりたいと、心のどこかで思っていたのかも。
おれは未だに納得のいかない顔をした葵が面白くて、テーブル越しに腕を伸ばしてその小さな頭をぐしゃぐしゃと撫でた。くるくると巻く髪がふわりとした感触と滑らかさを伝えてくる。……完全に照れ隠しなのだが、それすら彼女は気づいていないだろう。
「きゃぁ、何するの、栄! もう、ごちゃごちゃになっちゃったよ!」
今はまだはっきり言えないけれど、おれが変わろうとするのは、努力するのはすべて、目の前にいる葵のためだ。おれの気持ちを知らない彼女は、おれにぐちゃぐちゃにされた髪を口を尖らせて直しながらも、楽しそうに笑ってくれた。
「……よっし、じゃあ勉強再開するか」
「うん。あ、栄。これこれ、これって何て読むんだっけ?」
「えーっと、どれ? ああ、これは……」
寝る前までの数時間。
勉強という立派な口実付きで彼女と一緒に過ごせることが何よりも幸せに思えた。
この先もこうして、葵とふたり、のんびりした時間を送れるものだと、そしていつかは想いを伝えて、自然に一緒にいられるようになるのだと思い込んでいた。
まさか大きな波乱がこの先で待ち受けているなんて、考えてもみなかった。
GW中は頑張って更新していきたいと思っています!はい!
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