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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
33/128

28 作業場に妖精



 アルはゆっくりと後ろ向きで歩き、作業場全体を見渡すように首を巡らせた。その瞳にはいまだ、興味深く観察する輝きがキラキラしている。そんな楽しそうな表情を見ながらおれは和んでいた。そういえば仕事が、とはっと気づくと親父もトラックの荷台から降りた反対側からアルを見てぽやんとした顔をしていたので、まぁいいかとそのままぼんやりアルに視線を戻す。


「ねぇ、サカエ。あの字は何て読むの?」


 不意に彼女が右手を上げ、人差し指で上のほうを指した。アルの指の示す方向を辿ってみると、そこには作業場の屋根に大きく掲げられたウチの看板があった。なるほど、漢字への興味も一ヶ月前と変わっていないようだ。


「あれは『ひなたこうむてん』って読むんだ。『日向』はおれたちの苗字、名前で、『工務店』は、大工ですって意味だな」


「ひなた……ふうん。ああやって書くんだね? ね、サカエ、今日帰ってきたらカンジ、教えてくれる?」


「ああ、いいよ。約束したもんな。……あ、そうだ。すっかり忘れてたけど」


 顔を上げて看板の字を見ていたら、アルに大切なことを言っていなかったのを思い出した。アルに相談もせずに決めてしまった上、今の今まで報告さえも忘れていたが。


「アル、君のここでの名前を決めたんだ、アーレリーと」


「うん? ここでの名前?」


 そう、決めたことすら忘れるところだったが、こうしてアルが一ヶ月の眠りから覚めて外を出歩くようになったのなら、この世界での彼女の身分をきちんとしておかなければならない。戸籍はアーレリー、アンナさんがいじってくれているだろうから、後はおれ達家族とアルがそれを認識しておけば済むのだと思う。どうやって戸籍を増やすのかは知らないけれど、天使的不思議パワーを行使してちょいちょい、とやってしまうのかな、とおれは完全に投げている。


「いい機会だから親父も一緒に聞いてくれ。……あのな、アーレリーはここでは『神原アンナ』って名前なんだ。アルはその妹ってことで彼女が戸籍を作ってくれるって言ってた」


 おれの呼びかけにトラックの向こうから回り込んできた親父は両腕を組んで真剣な面持ちで頷いているが、アルは幾度か瞬きをして首を傾げた。多分唐突すぎてよく分かっていない部分があるんだろう。


「アル、戸籍ってな、ここで生きていくために必要な身分証明なんだ。ないと困る、いろいろ。……それはアーレリーがなんとかするって言ってたから心配は要らないと思うんだけど、アルにとって覚えておかなきゃならないのは名前だ、自分の」


 できるだけ分かりやすいように簡潔に言う。もしまだ納得いかないようなら今日帰ってきてからゆっくり説明するとして、とりあえず言っておかなければならないことだけを今は。

 アルはなんとなくおれの話が飲み込めてきたのか、ゆっくりと頷いておれの目を見た。


「アルシェネ、のままだと日本人っぽくないからちょっと良くないんだ。それでおれが……勝手で悪いんだけどアルの新しい名前、考えた」


 そこでごくりとつばを飲み込んだ。今更ながらこの名前をアルに告げるのに戸惑う。もし気に入ってもらえなかったら、嫌がられたら……。そんな悪いイメージが頭の中をぐるぐるしたが、時既に遅し、だ。多分アーレリーはとっくにアルの戸籍を用意しているだろうから。

 おれは心を落ち着けるためにゆっくりと息を吸って、吐き出した。この間にもアルと親父の無言の視線がおれに注がれている。


「……神原(かんばら)(あおい)になった。『神原』はアンナさんの苗字だから変えようがなくって、『葵』の方は、その……おれが……」


 口にした瞬間はちゃんとアルを見ていたが、次第に声が小さくなってしまって、終いにはアルから視線を逸らしてしまった。アルの大きな瞳を、透き通った輝きを見ていられなくなってしまった。


「……サカエ」


「あ、はい」


 アルがおれを呼ぶ声が、なんだか低く響いてどきっとした。思わず「はい」で返事して彼女を見ると、アルは真剣な顔でおれを見ていた。


「カンジあるの?」


 アルは一歩おれに近づきながらそう言った。じっと上目遣いの大きな瞳は逸らさないまま。おれはその静かな迫力に内心たじろぎながら頷いた。


「え、漢字? あ、あるよ……。えっと、ちょっと待ってな」


 書くものなんて持っていないが、棒があれば地面書ける。きょろきょろと周囲を見渡して、隅に生えた木の枝を拾って来、アルの近くまで戻ってしゃがみこんだ。がりがりと地面に字を書くおれに習って、アルもしゃがみこんでおれの手元を見つめている。はっきりは分からなくても、もともとアルには漢字は読めない。大体の形が伝われば、と思って書いていく。


「……ん、これだよ。……『神原葵』」


 書いてころんと枝を手放し、アルの顔を覗き込んだ。どんな反応をするだろうか、怖いけれど気になる。


「これが……私の、名前……」


 ぼんやりと呟いてじっと地面を見つめた後、彼女はぱっと顔を上げておれを見た。おれを見て、笑った。光が溢れてくるような、満開の笑顔で。


「嬉しい、サカエ。私の名前、漢字ができた! ふふ、私これから『かんばらあおい』になるのね! あおい……ふふ」


 その弾けるような破顔に、おれも思わずほっとして笑った。ああ、喜んでくれた、良かった。その気持ちが胸いっぱいに広がって体が溶けそうだった。

 おれ達はふたりして地面にうずくまったまま、顔を突き合わせて笑った。おれはアル……葵が嬉しそうだったのが嬉しくて、葵はおれの顔を見、地面の文字を見、きゃらきゃらと笑った。午前の気持ちのいい空気の中に、彼女の笑い声がすっと溶け出してなじみ、消えていく。その心地よさと言ったら。だんだん照りつけてくる太陽の暑さなど少しも気にならないくらいおれは嬉しくて仕方がなくて、笑う彼女の顔をずっと眺めていた。


 親父のほっとしたような、呆れたようなため息が頭上から降ってきてようやく、おれは顔を上げて立ち上がった。そう、出勤時間はとっくに過ぎている。さすがの親父も怒っているだろうと恐る恐るそちらを見るも、親父の表情はいつも通りの落ち着いた様子で、怒りの色はなかった。


「……じゃあ、あれか。これからは『アルさん』じゃなくって『葵さん』って呼べばいいのか?」


 両腕を組んで仁王立ちした親父が、おれを見ながら言った。視線がちらりと下に行き、未だ地面を見つめているアルに走ったが。なにやら戸惑いの様子が垣間見えて可笑しくて、内心で笑ってしまった。


「うん、そうだね。家の中ならアルでもいいと思うんだけど、対外的には……。えっと『神原葵』は外国人とのハーフってことになるらしいからそのつもりでよろしく」


「……お、おう」


 『神原葵』の“設定”を簡単に話して片手を挙げると、親父は“ハーフ”という言葉にたじろいだ。この年代の人は大概そうだが、親父もやっぱり横文字はあまり得意じゃない。


「ま、今日帰ってから落ち着いてまた話そうよ。お袋にもまだ言ってないし……」


「ああ、そうだな、そうしよう。……じゃあそろそろ出かけるか。ア……葵さん、おれたちは出かけるから家に戻ったほうがいい」


 一瞬アルと呼びそうになって言い直したのが分かって、おれはくすっと笑ってしまった。まぁ人のことを笑ったがおれだってきっと呼び間違えるに決まっている。一ヶ月も呼びなれた名前をすぐに変えるなんて器用な真似はできない。

 親父に声を掛けられたアルも、自分のことだと気づかなかったようで、数秒後に「え?」と顔を上げて改めて自分に向けられた言葉だと認識し、頬を染めて立ち上がった。皆これから、おいおい慣れていけばいいと思う。……自分も含めて。


「えっと……じゃあ、いってらっしゃい。サカエ、お父さん」


「ああ、じゃあな。……あお…い。もし自分で言えるようならお袋に言っておいてくれ、名前が変わるって」


「うん、わかった」


 呼び間違えなかったが、『あおい』と呼ぶのはなんだかすごく照れる。アルと呼ぶのに慣れすぎたのかもしれない。了承の返事とともにこくりと頷いたアル……葵は、にっこり笑って手を振ってくれた。葵に見送られたおれと親父は、それぞれ軽トラと大型トラックに乗り込んだ。と、その時。


「おーい、親方ぁ、兄貴ぃ~!! 待ってくださいっす~!」


 塀で囲われた作業場の敷地の外から、聞きなれた声が響いてきた。……洋二だ。あの間延びした話し方。そしておれを兄貴と呼ぶのはあいつしかいない。なんで朝からウチに来るんだと不審に思っていると、ぜーはーと息を乱しながら大型トラックの前まで走りこんできた。


「どうした、洋二。まだ現場に行ってなかったのか?」


 親父が運転席の窓を全開にし、膝に両手を当てて息を整えている洋二を見下ろして聞いた。おれは一度乗り込んだ軽トラから降りて、洋二の傍まで行ってみた。


「ぜー、今朝っ、ちゃり、壊れてっ……修理、してみてたんすけど、直らなくって」


 そう、免許はあるが車を持っていない洋二は、現場まで自転車で来る。建築現場が遠いようならおれが迎えに行って一緒に行くこともあるのだが、今回の現場は比較的近所な事もあり、洋二は自転車通勤をしているのだ。


「で、どうしようかと思ったんすけど、今ならもしかして親方達まだいるかもと思って……来たんす。はぁ、よかったぁ~」


 ようやく整った息を大きく吐いて、洋二は安心した笑顔を見せた。そういうことなら仕方がない。今日は偶々出発が遅れたから間に合ったのだ。こいつはホント、運もいいんだ。天はヤツに整った顔と幸運を与えている。……頭の中身はアホだと思うが。


「……わかった。じゃトラックに乗れ。すぐ出発するから」


 親父はそれだけ言って運転席の窓を閉めた。本来なら遅刻している時間だが、今日はおれ達自身、出発が遅れているから洋二を責めるつもりはないらしい。すぐにエンジンをふかし始めた大型の脇に佇む洋二の肩をおれはぽんと叩いた。


「ラッキーだったな、洋二。ほら、とっとと乗れ、置いてくぞ」


「はいっ、すいませんっす! ……あ、……れ?」


 おれが軽トラの方へ促して歩き出すと、洋二は元気よく返事をしておれの後を追ってきたのだが、なにやら妙な疑問の声が聞こえてきた。振り返ってみると、洋二は首だけを別な方向へ向けて固まっている。


「おい、洋二? ……あ」


 変なポーズで固まった洋二の視線の先を追ったら、そこには軽トラの助手席側の影からこちらを伺っている葵がいた。

 おれはあちゃーと思って額に手を当てた。こっそり見ていただけのつもりだったのに洋二に見つかってしまって、葵は戸惑いの表情でトラックにしがみつきおれに助けを求めている。洋二は目を丸くしたまま、瞬きもせずに葵を見つめていて、おれとしてはどう繕ったものかと大きくため息をついた。


「あ、あ、兄貴……。作業場に、女の子が、いるっすよ……。しかも、超……可愛いっす……。やばいっす……」


 両手を胸の辺りで何か物を掴みに行くような格好で固定し、そのまま洋二はじりじりと葵に近づいていた。おれは咄嗟の俊敏な動作で洋二と葵の間に回りこみ、洋二の額にぐっと手を当てて無理矢理止めた。洋二はおれより若干背が低いから、こうしてしまえば葵の姿は見えないはずだ。


「洋二。お前、寝ぼけてるんだよ。うん。夢だよ、夢」


「何言ってるっすか、兄貴。起きてから結構時間経ってるっす。頭なら超冴えてますよ。……ああ、可愛い……」


 我ながらどうしようもない言い訳だと思った。洋二は視線をおれの体を透視するように遠くに投げては頭を動かし、何とかおれの背後の葵を見ようとする。だからおれは左右に揺れる洋二のこめかみをしっかと押さえ、これ以上ない握力で動かなくした。すると洋二は諦めたのかふっと目を閉じ、今度は瞼の奥で夢見るようにアルの姿を追っているようだった。口からは呪文のように「可愛い……」やら「花の妖精?」などというメルヘンな言葉が零れ、だらしない顔つきになっている。おれが頭を抑えているせいで足は前進せずにその場に留まっているが、両手は未だわきわきと妙な動きを続けている。……おいおい、半分以上夢見心地じゃないか。


「葵、……アル。今のうちに家に戻れ。大丈夫だから」


 洋二を抑えつけたまま、おれは振り返って彼女に小声で言った。何が大丈夫なのかも分からなかったが、とりあえず安心させようと思ったのだ。おれの後ろですっかり怯えた表情をしていた葵は、おれの言葉に無言で頷いて一歩二歩後ずさりし、踵を返して家に走り去った。

 葵が視界から消えたのを確認し、おれは息を吐いて洋二から手を離した。そして何と言ったらいいのかと迷ったが、先ほどの延長で下手な誤魔化しを続けることにした。


「……な、夢だったろ。ほら行くぞ」


 せいぜい騙されてくれ、と願ったら、洋二は押さえつけられていた額とこめかみを痛そうに擦りながら、茫洋とした顔で周囲を見渡し、そしておれに向かって噛み付くように言った。


「ひどいっすよ兄貴!! せっかくの出会いを! 妖精さんだって何だって、おれには大切な出会いなのに!」


 何だその反論は。


「……夢は夢の中だけにしておけ。乗らなきゃ置いていくぞ」


 冷たい視線と低い声でそういい置いて、おれは運転席側に回った。前方に停まっていたはずの親父の大型トラックはとっくの昔に出て行ってしまっている。多分、窓を閉めて冷房を掛けていたのだろう、こっちのてんやわんやには気づかずに行ってしまったに違いない。洋二ははっと周囲を見渡し、軽トラがエンジンをふかしているのに気づいてサッとドアを開けて滑り込んできた。……さっきまでの動揺はどこへやら、ちゃっかりしている。


「よろしくお願いしますっす!」


 シートベルトをきっちりつけて、洋二は前を見て言った。その視線がふっと横にずれ、サイドミラー越しに周囲を確認しているのが分かったが、おれはあえて何も言わずトラックを発進させた。


「あーあ、すっごい可愛かったのに。本当に夢見てたのかな、おれ……」


 洋二が窓の淵に頬杖をつきながらぼそっと呟いた言葉にも、おれは何も返すことができずに無言で車を走らせ続けた。


 ……うん、半分以上騙されてくれてる。このまま忘れてくれよ、洋二。


 洋二には悪いとも思ったが、葵を紹介する気も譲る気もさらさらなかった。だから何も言わない。……言えない。


「……頑張んないとな、おれも」


 信号待ちでしばらく停まった後、車を発進させながらそう呟いた。

 何も言えないのはおれ自身のせいだ。アル…葵との関係を明確に言える言葉を持っていないから。おれたちの今の関係は、……なんだろう、一緒の家に住んでいる、それだけの関係なのかもしれない。


 ちらっと洋二の様子を伺うと、洋二は頬杖をついたまま未だ物思いにふけっているようでおれの声は聞こえていないらしい。ぼんやりと窓の外を眺めている。

 徐々に現場に近づいていく見慣れた風景の中で、おれはおれで考えに耽る。……おれは彼女が好きで、それは間違いのないことなんだけど、彼女の気持ちを確かめてはいないし、おれも彼女に自分の気持ちを告げていない。だから、もし洋二に「あの子は誰っすか」なんて聞かれても、返す答えがない。


 ……「恋人だ」って、「おれの彼女だ」、って堂々と言えるようにならないと、せめて。


 決意を込めてぎっとサイドブレーキを引いた。シートベルトを外し、ドアを開けたところで洋二がはっと顔を上げた。


「あれ、もう着いたっすか!」


 その間抜けな言葉にふっと笑いを零し、おれは荷台に積んである道具入れを下ろしにかかる。慣れた木箱の感触も、その重みも、おれの決意をより確かなものにする実感を与えてくれる。


 ……悪いな、洋二。お前の見つけた妖精さんは、おれの天使なんだ。やるわけには、いかない。


 洋二のお陰で少し目が覚めた気がする。おれは、そう、頑張らないとならないんだ。ここから。


「……うっし、やるぞ」


 掛け声と共に重い道具入れを担ぎ、『遅かったな』という顔でおれを待つ、親父の元へと歩いていった。 




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