27 日向工務店
アルと話していたら結構な時間が経ってしまっていて、時計を見たらもう仕事に出かけなければならない時間になってしまっていた。親父はと言えば、きっともう出かけてしまったのだろうと思う。食卓に並べられたおかずは既に冷めてしまっているらしく、湯気のひとつも立っていない。唯一ほかほかと白い湯気を立てているご飯は、お袋がさっき盛ってくれた。うん、ご飯が温かければおかずが冷たくても別にいいのだ。
斜め前に座ってこちらを見つめているアルに話しかける間もなく、おれは箸を握り、猛然とご飯をかき込み始めた。
「ああ、栄、今日はとりあえず作業場に来いってお父さん言ってたわよ。足りない材料と機械運ぶからって」
「もごもご……ん、ふぁかった……」
玉子焼きと漬物を大口で頬張るおれに味噌汁をよそいながら、お袋がのんびりした口調でそう言った。最近、おれが遅刻しそうになってダッシュでご飯を食べることが多いために慣れてしまったお袋は、食卓の上に並んだおかずをおれが取りやすいように引き寄せてくれる。自分は親父と一緒にもう朝食を済ましているため、後残りはおれの分だ。
アルミホイルに包んで焼いた紅しゃけに箸をつけ、大きなかけらを口に運ぼうとしてアルと目が合った。
「……あれ、アルはご飯食べたのか?」
しゃけを空中に留めたまま、おれは言った。アルの視線はおれの箸先のしゃけに固定されていたが、自分の名前が出たことに小さく反応を示しておれを見た。
「うん、さっきちょっとだけ。そのオレンジのってしょっぱいのね。でもおいしかった」
アルは再びしゃけに視線を戻しながら嬉しそうに言った。そうか、もうご飯を食べたのか。っていうか食べられたのか。一ヶ月も飲まず食わずで寝ていた人間は、普通一分粥とかから始めるもんじゃないかな、とか思いながらちらりとお袋を見た。
お袋はおれの視線にすぐ気づいて、苦笑いをした。朝、どんなやり取りがあったのかは分からないが、とにかくアルは普通にモノを食べられるようになったらしい。
おれの箸が動くのに合わせて右へ左へ動くアルの目と首に苦笑しながら、おれは遠慮なく食事を続けた。アルがもうご飯を食べたなら残りはおれのものだから、むしろ残さない勢いで食べなければ……。
勢いよく食べ続け、ご飯とおかずが空になったところでちらっと時計を見遣ると、いつもなら本当に危ない状況だったが、とりあえず作業場に来いというなら、現場に向かうよりは少し余裕がある。
ずずず、と味噌汁を飲み干し、たんっとお椀をテーブルに置くと、そのタイミングでアルがおれに質問してきた。
「……ねぇ、サカエ。ちょっと聞いてもいい?」
「ん? 何だ?」
「サギョウバって何?」
「は? ……ああ、さっきお袋が言ったから。えっとなぁ」
てっきりご飯かおかずの話をされるのかと思ったのだが、アルの疑問は別のところにあったらしい。お袋が先ほど口にした“作業場”という言葉が引っかかっていたようだ。
「ウチの隣にある、木材を加工したり、保管してある場所。えっと……もっと簡単に言えば、おれと親父の仕事する場所」
「……ふーん?」
「……あんまりよくわかってないだろ」
できるだけわかりやすいように言ったつもりだったが、アルの表情と口調から判断するに、おそらくちゃんとしたイメージは湧いていないらしい。まぁそれも仕方がない。おれはツッコミを入れながら、アルの頭をポンと撫でた。本当は詳しく説明してあげたいし、なんなら作業場を案内してあげてもいいのだが、今は時間がない。
おれに頭を撫でられてきょとんとした顔で見上げてくるアルをその場に残し、おれは立ち上がった。
「悪い、アル。今は時間がないからまた後でな。帰ってきたら話そう」
「うん、お仕事頑張って」
アルはおれを見上げて笑顔でそう言ってくれた。今日一日の作業がいつもよりも楽しくなりそうな、そんな不思議な力を持った笑顔だった。『帰ってきたら話そう』、そういえることにも、それに返事が返ってくることにも、この上ない幸福感を感じる。離れがたさをひしひしと感じつつも、時間は待ってくれない。おれは大急ぎで仕度すべく、居間を離れた。
数分後、おれは足袋を履くのを途中までで切り上げ、居心地悪く玄関を出た。
「……いってきます」
「いってらっしゃーい」
アルが隣に座ってじっとおれの足元を眺めていたので、どうにも手が動かなかったのだ。見られるのが嫌なわけではないが、なんだか緊張してしまって金具が上手くかみ合わなかった。足首辺りまで固定して、残りは作業場まで行ってから留めようと足早にそちらへ向かう。無邪気に手を振っているアルをちらりと見て、夕方までの元気を補給した。
軽トラの脇を通り歩くこと少し、親父の乗っている大型トラックを横に更に行くと作業場の入り口が見える。入り口とはいっても、この小さなドアを使って中に入ることはほとんどしない。普段は大きなシャッターを上げてそのままそこから出入りするのだ。
『日向工務店』と、どーんと掲げられた看板の下のシャッターが上まで上がっており、そこから入っていくと親父が板材の前でなにやら計算をしていた。周囲には材木屋が持ってきた多種多様な木材が長さや種類によって並べてあり、木材を加工するための様々な機械類が設置してある。木材は倒れてこないように固定はしてあるが、ものによっては高い天井ぎりぎりの長さがあるので少し怖いかもしれない。おれは慣れてしまっているので別になんてことはないが、近所の子供達が興味深そうに覗いては目をぱちくりさせて巨大な木材を眺めているのを見たことがある。あの驚いた表情は面白かった。
コンクリートの床は木屑でいっぱいで、大きなものを踏むとくしゃっという音がする。木材を切ったり削ったりすると際限なく出るものなので、もはや積極的に掃除もせずに木屑の層は厚くなっていくばかりだ。たまに見かねたお袋が箒を手に奮闘しているが、すぐに元通りに散らかってしまうので掃除のし甲斐がないと嘆いている。
「……親父、悪い、遅くなった」
「おう、あのな、これ運んでくれ。二十な。あと釘箱に釘補充して積んでくれな」
「ああ、わかった」
親父が目の前の板材を指しながら指示してきたので了解して早速動く。くしゃくしゃと音を立てる木屑をのけながら適当な量に分けて板材を肩に担ぎ、親父の使っている大型トラックへ運んでいく。大型で運ぶのはこういったおれの普段乗っている軽トラにはちょっと積めないサイズのもので、長い角材などを運ぶときもやはりこの大型を使うのだ。大型トラックの荷台は高いので荷物は積みにくいが、おれは上手いこと荷台の縁を使いながら大きく平たい板材を積んでいった。
何度か往復して板材を運び終わったおれは、荷台の釘箱を取り出して作業場の隅に向かった。釘箱は大小さまざまな釘を入れて現場へ持っていく箱だ。現場ではここから用途にあった釘を取り出し、使う。箱を開けてみたら昨日までの作業で釘がだいぶ減ってしまっていたので、作業場の隅にあるストックからそれぞれの種類をいっぱいになるように入れ、蓋を閉めた。
釘を移すのにしゃがみこんでいたので膝が疲れ、立ち上がったときに思わずぐっと伸びをした。筋が伸びる感じがとても気持ちいい。ついでに肩を回しながら見慣れた作業場に目を走らせる。さっきアルが興味を持っていたみたいだから、今度案内してあげるとするか。まぁ案内しようにも大した大きさがあるわけでもないんだけどなぁ、などと考えながら全体を見渡した。高い天井の上の方に作られた明り取りの窓から、朝日が燦燦と差し込んで電気はいらない。広く明るい空間に、木と機械の金属の匂いがしている。
日向工務店は親父の親父、つまりおれの祖父が始めた小さな建築やだ。在来工法で木造住宅を建てる建築業を営んでいる。小さな工務店で、従業員は親父、おれ、洋二の三人しかいない。お袋が経理に携わっているがそれを入れても四人。
洋二は地元の花屋の次男で、兄貴が家を継ぐため自分は他の仕事を、と言うことで、うちにやってきた。小さい頃からよく遊んでいた弟分だったが、まさか一緒に働くことになるとは思ってもみなかった。
おれは運よく地元にあった高等専門学校の建築科を卒業してから正式に工務店に入った。小さい頃から祖父と親父が働く姿を見ていたので、その影響で大工になるんだろうなと思っていたそのまま大きくなった。二十一で卒業してからだから今年で二年。実務経験には乏しく、まだまだ学ばなければいけないことはたくさんある。
「おーい、栄、積んだか? そろそろ行くぞ」
「おお、ちょっと待った」
親父に呼ばれてはっとした。物思いにふけって釘箱をトラックに積み損ねるところだった。慌ててシャッターの前までやってきて、そこに見え隠れする人影に気がついた。
「ん? 朝から子供か。……おい、学校はどうした、学校は……え!?」
てっきり学校をサボって遊んでいる子供が暇で作業場を覗きに来たのかと思って声を掛けたのだが、そこにいたのはなんとアルだった。
「おいおいアルさん、どうしたんだ、こんなところで」
トラックの陰にいた親父も、おれの素っ頓狂な声を聞きつけ、アルがいるのに気づいたようだった。なんというか、小汚い作業場にそぐわない水色のワンピースは、枯れた荒野に咲く一輪の花のようで、ものすごい違和感があった。
アルは驚いた顔をしているおれと親父の顔を見てにっこりと首をかしげ、手に持っていた包みを持ち上げた。
「お母さんが、お弁当持って行ってって。サカエ、持って行くの忘れたでしょ?」
「え、ああ、そっか。ありがとな。あ、でもちょっと待ってくれ」
アルが差し出してくれたお弁当を受け取りたかったが、先に重い釘箱をトラックに積んでしまわなければならなかった。しかし釘箱を横から直接積むことはできない。なにしろ荷台は高いし、縁が固定されているのだ。釘箱を肩に担いだまま、上手くバランスを取りながら慌ててトラックの荷台に上がろうとタイヤに足を掛けたおれを制して、親父が軽々と荷台に上って箱を受け取ってくれた。そして黙って顎をしゃくり、アルと話をするよう促してくれる。
「……ありがと、親父。……っと、アル、ありがとう。」
親父に礼を言って、それからアルに向き直って弁当を受け取った。さっき玄関を出るときに、そういえばお袋はおれに弁当をくれなかった。そして気づく。お袋はわざとおれに弁当を渡さずに、アルに届けさせたんだな。
思わず家の方を見ると、物陰からこちらを伺っていたお袋がさっと引っ込むのが見えた。……ああ、確実に面白がってる。
「サカエ、ここがサギョウバなの? なんだか大きな建物ね」
アルは大きな目を更に大きくして作業場の中を覗き込んでいた。彼女としては朝、気になっていたサギョウバに早速来ることができて嬉しいんだろう。おれはお袋の思惑に内心ため息をつきながらも、アルが嬉しそうならいいか、と流すことにした。
「アル、見てもいいけどあんまりうろうろするなよ。いろんな機械があるし、長い材木もある。何かあったらいけないから、中には入るなよ。わかったか?」
シャッターの内側に首を突っ込んできょろきょろしていたアルにそう釘を刺した。しかしこれはアルだけに言うせりふではない。近所の子供達が無邪気に遊びに来たときにも毎回同じ事を言っている。作業場の中には刃物もあるし、重機や回転カッターなど、操作を誤れば命に関わる危険のある道具がたくさんある。子供たちがいたずらをしてしまって何かがあれば、取り返しがつかないので、そのことだけは毎回真剣に言って聞かせている。見るだけなら良し、勝手に入るな、と。しかしそうはいっても子供は子供、危険を認識できない幼さがある。はーいと元気よく返事した数分後、中に落ちていた端材を拾って遊んでいた少年たちがいて、その時は拳骨を落としてきつく叱った。その子たちに関してはそれ以来、無邪気に遊びに来なくなったがそれも仕方がないと思う。
アルは子供のようでいて大人の分別がある。前にスーパーに行ったときに言い聞かせを守ったのと同様、彼女は神妙な顔つきでこくりと頷き、シャッターから一歩はなれた。
いつも応援ありがとうございます。
活動報告でも凹んだコメントを出していますが、時代設定に変更をかけざるを得なくなったため、これより修正に入ります。修正箇所としては『携帯電話』関連の部分がなくなるだけで、ストーリー上大きな変更にはなりません。ただちょっと、時代が昔にズレたのね、と思っていただければそれで大丈夫で、読み直しの必要はないようにしたいと思いますのでご了承ください。
行き当たりばったり的で非情に申し訳ありませんが、これからもお付き合いください。よろしくお願いします。
蔡鷲娟