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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
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3 水分補給、それとも?

お気に入り登録ありがとうございます!!



 翌日、現場に向かう親父を見送っておれは家にいた。本来なら休めば誰かに負担のかかる仕事だが、工期にはまだ十分余裕があるし、親父もそれを見越しての指示だと思う。骨組みが仕上がってだいぶ家らしくなってきた今の現場の状況を頭に描きながら向かった先は、やはり客間だった。


 静かに襖を開け、中の様子を探る。薄暗い室内、布団の中心が盛り上がっている。彼女はまだ眠っているようだ。足音を立てないようにそっと枕元まで近寄る。彼女は昨日寝かしつけたときのまま、仰向けで熟睡していた。

 そういえばずっと同じ体勢だとよくないと聞いたことがある。もしかして体を動かしてあげた方がいいのだろうかと首をひねって考えた後、こういうことはお袋に聞いてみようと立ち上がりかけた。


「……ん……う……」


 かすかに聞こえた声に、おれは目を見開いて彼女を見た。


 彼女は身じろぎして仰向けから横向きに自分で寝返りを打ったのだった。起きるのかな、と思いおれはそのままじっと息を潜めて待っていたが、目の覚める気配はなく、彼女は寝続けた。


 先ほど一瞬だけ聞こえた声が、耳の中でずっとこだましている。……また、聞けないだろうか。可愛い声、だった。

 そう思っては何だか胸が締め付けられるように痛んで首を傾げた。心臓でも悪くなったか? まだ若いのになぁと胸をさすってみたら別に痛みもしなかったので、気にしないことにした。





 昼食を食べて彼女の様子を見に行き、暇をもてあまして本を取り出して彼女の傍で読んだ。お袋がお使いに行くのを見送ってまた客間に戻り、洗濯物を取り込むのを手伝ってまた彼女のところへ戻った。夕飯を食べ、風呂に入った後も、彼女は相変わらず眠り続けていた。


 このまま起きないのではないかと心配して、細い腕を布団から引っ張り出して脈を取ってみたが、特に変なところはなかった。呼吸もおかしくないし、本当にただ、深く眠っているだけだと思えた。


「……いつ目覚めてくれるのか……」


 すっかり暗くなってしまった夜、一番小さな電気をつけた薄暗い部屋の中、枕元でまた胡座を組んで片肘をついて呟いた。


 今日は休んでしまったが、明日は流石に仕事を休めない。親父がいいと言ったとしても、自分だってちゃんと職人なのだ、まだまだ修行中とも言えるしそうそう休んではいられない。

 明日、自分の居ない間に目覚めてしまっても、お袋が家にいるしちゃんと言付けていこう、そう思って時計を見た。まだ九時だった。朝も早いし、普段何もなければ寝てしまう時間だったが、今日は眠る気にはなれなかった。もう少し、彼女の様子を見ていたい、そう思ってしまった。ぼんやりと彼女の寝顔を見つめ、時間が過ぎていくのをただじっと待っていた。





 どのくらいそうしていたのか、いつの間にかうとうととしてしまっていたらしい。時計を見れば十一時。親父もお袋もとっくに寝て、家の中は静まりかえっている。こんな時間ならちゃんと布団に入って寝なければと、大きなあくびをした。


「……ん……あ……」


 一瞬幻聴かと思って動きを止めたら、再び望んでいた声が聞こえておれは彼女を見た。そして固まった。彼女が薄っすらとその瞳を開けていたから。


「……あ……れ……」


 小さな唇が動いて、掠れた声を出した。まだ瞳は開ききっていない。とろーんとした眠そうな目を半開きにして、ゆっくりとまばたきしている。まだ夢心地といった様子だ。

 おれは目を見開いて彼女の様子を凝視した。そして何て言ったらいいのかと、危険はないからまだ眠っていていいとか言えばいいのだろうかと、頭の中でぐるぐる考えたまま何もいえずにいた。


 しばらく固まっていたら、彼女の唇がまた動いた。しかし声は出ない。


 はて、と思ってそのまま様子を伺っていたが、しきりに口を動かすものの声が出ない様子だ。どうしたのだろうと口元をじっと見てようやく、おれは彼女の唇が乾いてかさかさになっていることに気付いた。


 ―水分が足りてないんだ!


 おれは慌てて台所に飛んでいって、飲み物を探した。風邪を引いて寝込んでいる時と同じだろうから、ただの水よりスポーツドリンクの方がいいに違いない。おれは手当たりしだいに棚を開け、どこかにしまってあったはずのポカリスエットの粉を探した。汗を掻いた時はこれ、という宣伝につられてお袋が何時だか買っていた青いパッケージの粉末。慌てていたのでそこら中が滅茶苦茶になってしまったが、なんとか発掘できた。後で片付けますと心の中でお袋に侘び、手近にあったガラスポットに粉末を入れ水を注ぐ。

 このポットは確か一リットルも入らなかったよなぁ……と『一リットル用』と書かれたの粉末のパッケージを見て濃度のことを考えてはみたが、もう粉は入れてしまったし水はこれ以上入らない。もどかしさにイライラしながら味見したらそこまで甘くなかったのでよしということにして、また飛ぶように客間に戻った。


 彼女はまだ目を開けたり閉じたりして完全には意識を取り戻してはいないようだった。おれはポットと一緒に持って来たコップにポカリを注ぎ彼女の口に当てようとしたものの、このままでは角度的に零れてしまうと思案した。その結果、彼女の頭を枕ごと起こして、角度をつけてから彼女に水を飲ませることにした。


「ちょっとごめんね」


 小さく断りを入れてから枕の下に手を入れた。そうしてできた隙間に自分の左ひざを差し入れて段差を作った。そしてさらに左腕で体を支え安定させてから、コップを彼女の唇に近づけた。


「……お水だよ、ちょっと甘いけど。飲んで」


 そういってコップを少し傾けてみたけれど、意識がはっきりしていないせいなのか彼女の口の中にポカリはうまく流れていかない。どうしたらいい、うちには病人用の吸い口なんてないし……。


 彼女の口がまた動いて、必死に何か訴えようとしているようだ。おれは上体を屈めて彼女の口元に耳を近づけた。


「……み……ず……」


 ひどく掠れた小さな声が聞こえて、やっぱり水を欲しがっていたのだと思った。それと同時に、今日一日付きっ切りで様子を見ていたのに何故少しも水分を与えてやらなかったのかと自分の行動を悔いた。


 彼女は水を欲している。けれどもコップからは水を飲めない。それなら自分ができることはただひとつだった。


 おれは一口、甘いポカリを含むと、彼女の乾いた唇に自分の唇を当てた。


 ドラマでみたことのある口移しをしようとしているのだけれど、彼女の唇は閉じたままで、おれはどうしたらいいのかわからない。顎をつまんだりして開けてもらおうとしたけれど、目を閉じた彼女は、また眠ってしまったのだろうか、反応が薄い。


 どうにもならなくておれはとりあえず口に含んだ分を飲み下して、方法を考えた。やっぱりドラマはドラマだ、現実は上手く行かないもんだ。

 おれは考えながらも彼女の乾いた唇を見つめた。桃色の小さな唇の痛そうにめくれた皮が可哀想で、そっと手を伸ばして触った。やっぱりざらざらしていて乾燥がひどい。なんでこんな風になるまで気づかなかったんだとへこみながら、自分の唇を噛んだ時に、あ、と思った。


 おれは再び顔を彼女に近づけ、唇にそっと舌を這わせた。


 ……舐めてみたのだ。せめて唇が潤ってくれればなぁと思っての行動だった。しかしこれが良かったようだ。

 何度か舐めていると彼女の口が薄く開いた。これはチャンスだと思って、おれは急いでポカリを口に含み、唇を押し付けた。少しだけ口を開けたら思ったとおり水が彼女の口の中まで届き、こくりと嚥下した喉の動きを見てほっと胸を撫で下ろした。 


 一度飲んだ後は簡単だった。彼女の方も意識がない中で水分を欲していて、おれに向かってねだるように口をパクパクさせた。おれはとにかくそのまま水分を与え続けた。夢中でただ、彼女が欲するままに。

 



 ひたすら繰り返して回数も分からなくなった頃、自分の唇に触れる暖かくぷるりと柔らかい感触におれは、はた、と目を見開いた。


 眼前に大きくぼやけた彼女の顔。瞳は閉じたまま、今ではまた再びすやすやと寝息を立てている。おれはと言えば、いまだ唇を彼女に押し付けたまま、動けずにいた。


 ギクシャクと数秒間かけて体を起こし、コップに注ぎ足ししていたポットを見れば、すっかり空になっていた。


 おれは呆然とその空のポットと手元のコップを見つめ、そして彼女の顔を見た。水分を取って落ち着いたのだろう、呼吸も楽になったかのように見えた。そして先ほどまで触れ合っていた場所―彼女の小さな唇を見て、おれは無意識に自分の唇に手をやっていた。


 ―いま、さっき、おれは彼女に口づけていたのか……?


 自覚したとたん、何かものすごい恥ずかしさが襲ってきて、おれは薄暗い部屋の中で茹タコのように真っ赤になってしまった。


 ―しかも舐めた……! おれ、舐めてたぞ、彼女の唇……!!

 

 今更ながら自分の行動が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、どうにもならない恥ずかしさで悶絶した。大声で叫びたい気分でもあり、穴を掘ってもぐりこみたい気分でもあった。しかし、未だに彼女の上半身を支えたままだったため、動くことはできなかった。

 おれは静かに大きく息を吸い、吐き出し、気持ちを落ち着かせてから彼女の頭を元に戻した。そっと膝を抜いて枕を下げると、彼女もほぅっと息を吐いた。


 彼女が笑ったように見えて、おれも思わず笑っていた。よかった、何はともあれ水分が補給できてと、おれは落ち着いた気持ちで立ち上がった。少し変な体勢をしていたから足と背中が痛んだが、大したことはない。襖を開けて出て行こうとしたら、小さく声が聞こえた。


「あ…りが……と」


 途切れ途切れの『ありがとう』が、確かに耳に届いた。それに驚いて振り返ると、薄暗い中で彼女は眼を開けてこちらを見ていた。口元は笑っている。おれは意識が戻ったのかと慌てて枕元まで戻ったが、彼女の瞼は再び閉じ、規則正しい呼吸が聞こえてきた。


「な、何だったんだ……?」


 無意識の中で自分に礼を言ってくれたのだろうか。……だとしたら何ていい子なんだろう。おれはひとつ息を吐いて彼女の乱れた前髪をそっと直した。そして今度こそ自室に戻ろうと立ち上がって襖を開けた。廊下に出て襖を締め切る前に、小さな声で呟いた。


「……おやすみ」



 その時のおれは知らなかった。


 二階にある自室に戻って布団に入ってから、何故か彼女の唇の感触を思い出してしまって眠れなくなることなど。


 ……キスではない、あれはそう、病人介護なんだ、看病の一環なんだ……!


 そう必死に言い聞かせては、蘇る生々しい感触に悶え苦しみ一夜を明かすことになるなんて。





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