21 本音
家に帰って玄関をくぐり、「ただいま」と声を掛けた。
もう夕食は済んでいた。台所で洗い物をしていたお袋が、手を拭きながら顔を見せた。
「おかえりなさい。どうだった? お話は聞けたの?」
「ああ、ちゃんと聞いてきた。……親父は? 風呂か?」
心配そうな顔をしたお袋にすぐに話を聞かせてあげたいが、アルを心配していたのは親父も一緒だ。できれば一緒に話を聞かせたい。おれはようやく足袋を脱ぎ、板間に上がって顔を上げた。するとちょうど良く風呂から上がった親父が、真っ白な湯気とともにお袋の横に立っていた。
「おう、おかえり。どうだった?」
偶然にもその言葉がお袋と同じだったので、おれはこっそり吹き出した。長年連れ添うと台詞まで同じになるのだろうか。どたどたと廊下を歩いて親父達のいるところまで行くと、お袋が言った。
「栄、とりあえず着替えて手を洗ってらっしゃいな。ご飯の用意しておくから、食べながら聞かせてちょうだい」
「ああ、わかった。ちょっと待っててくれ」
急いで作業着を脱いで洗濯籠に放り込み、新しいシャツに着替えた。シャワーを浴びたいところだったが後回しだ。すぐに親父とお袋の待つ居間にいこうと思ったが、その前にアルの様子を見ておきたかった。
小走りで客間に向かい、閉められた障子をそっと開いた。小さく灯された電灯の下、アルが規則的な寝息を立てすやすやと眠っていた。熱があるのかどうかはお袋に聞かなければ分からないが、呼吸の感じは悪くなさそうだ。また後で来るからなと心の中で呟いて、居間へと急ぐ。
居間に行くとおれの分だけ取っておいてくれた夕食がもう並べられていて、親父もお袋も話を聞く体勢をすっかり整えて座っていた。鼻息も荒そうなふたりを前におれは一瞬たじろいだが、そこまでアルを心配してくれているのはアルにとって悪い事ではない。むしろいいことだと言い聞かせ、卓に着いた。
「はい、栄。ご飯。……それで? アルちゃんの熱の原因はわかったの? このままで大丈夫なの?」
おれが座るやいなや、お袋はさっとご飯をよそい差し出して口を開いた。おれに飯を食べながら話せというのだろうか、口はひとつしかないのに。
「ああ、うん。わかったよ、ちゃんと黒髪美人が教えてくれたから……」
ご飯が山盛りになった茶碗を受け取りながら、おれはどこまで話したものかと考えた。アーレリーが言っていた、“生殖機能”云々の話を直接話してしまえば、『孫ができる』と大喜びさせてしまうだろう。結婚も告白すらしていないのに、もう孫の話になるなんて正直おれには圧力が大きすぎる。ここは多少濁して話すべきだろう。
そう考えたおれは、『アルは身体の中の機能を人間として生きられるように変えている最中で、このまま寝かせておけばそのうち元気になるから大丈夫』ということだけを話した。
「栄養を取らなくて寝かせておくだけで大丈夫なの?」というおれと同じ疑問を持ったお袋の質問には、「天使って頑丈だから大丈夫なんだって」と返した。初めて家に連れてきた時、あの傷や痣が瞬時に治っていったことも付け足して話すと、お袋は納得したように頷いて黙った。
親父はおれの話を黙って聞いた後、「じゃあ大丈夫なんだな?」と念押ししただけで、それにおれが確信をもって頷き返すと安心したようにため息をついて自室に引き揚げてしまった。残されたおれはすっかり冷めてしまったご飯をかき込みながら、未だあれこれ悩んでは質問をしてくるお袋と話を続けた。
「それじゃあアルちゃんにはとにかくお水をあげればいいのね? 乾燥に注意するだけなのね?」
「ああ、そう言ってた。熱は自然に引くから、待つしかないって。女の子の肌は乾燥するとダメだからって……」
おかずは麻婆豆腐だった。それをご飯の上に乗せて大口で頬張る。なから飲み込んだところでたくあんを口に放り込み、歯ごたえを楽しみながらばりばりと咀嚼する。ご飯をお代わりして、何だか今日はだいぶ腹が減っているなと思ったが、それもそのはず、おれは結局昼飯を食べ損ねていて、弁当は軽トラの助手席に忘れられたままになっていた。
お袋に怒られそうだと思いつつ、麻婆豆腐を山盛りにした。
「そういえばね、栄。アルちゃんにお水あげるのに便利なもの、発見したわよ」
「……へ?」
頬いっぱいにご飯を含んだ状態で、間抜けな返事をした。お水をあげるのに便利なもの? それは重要事項だな。
「あのね、お母さん今まで哺乳瓶使っていたんだけどね、ほら、栄が赤ちゃんのときに使っていたやつ取っておいたから、それで上手く飲めてたのよ」
な、哺乳瓶!? そんな昔のものが取ってあることに驚くと同時に、これまでお袋が哺乳瓶を使ってアルに水を飲ませていたということに驚いて、ご飯を喉に詰まらせた。
ごふごふしているおれを気にもせず、お袋は話し続ける。
「でもそれよりね、コップにストロー挿した方が吸いやすいって今日気づいたのよ! アルちゃん時々目を覚ましてくれたから、その時にちょっとづつあげたのよ。流石に寝ているときは無理だけど、いいアイデアでしょう?」
……ストロー、その手があったか。
おれはやっとのことで口いっぱいのご飯を飲み込み、うんうん頷いた。外でジュースを買ったとき以外、基本的に家では使わないものだったから、考えもしなかった。確かにあの小さい口に零さず水を飲ませるならストローは最適だろう。
「お母さんストロー買って来ておいたから、栄もそれ使ってあげなさい。……使わないならそれでもいいけどね」
お袋は言いながら立ち上がって台所へ行ってしまった。後半はもごもご濁してしかも小声だったからよく聞き取れなかった。だがあの顔は良くないことをたくらんでいる顔だと思う。伊達に二十三年も息子をしていない。
ひとり居間に残されたおれは、味噌汁をずずっと啜りながら考えに沈んだ。
……ストローか、いいな、その手があった。いやしかし、そうなるとアレだな。もう口移しをする必要がなくなって……
「いや、そうじゃないだろ。ダメだって、暴走するのは!!」
「……どうしたのー? 何か言った?」
「いや、なんでもない」
いきなりのおれの大声に不思議そうな顔のお袋が台所から顔を覗かせたが、すぐに否定して首を振った。お袋は肩をすくめて戻っていった。
……ああ、煩悩よ、消え去ってくれ……!!
おれは味噌汁のワカメと豆腐をかき込みながら心の中で叫んだ。
いい加減自分の正直な気持ちが見えてきた。……ああ、認めよう、そういう気持ちがあることは。
―アルに触れたい。キスしたい。べたべたに甘やかして、そして……
……けれどもそれはダメだろう。まだ、早い。
もしいつか、アルがおれに心を向けてくれて、そして許してくれたならそういう事だって……できるだろう。だが今じゃない。
もういろいろしてしまったじゃないか、という悪魔の囁きはもっともだが、男として自制しなければならないことだと思う。……うん、おれは男なんだ。アルを守っていく、男になるんだ。
……そう、彼女を守らなければ。他の男からも、自分の浅ましい気持ちからも。
心の中の強い決意を確かめ、だん、とテーブルに叩きつけるようにお椀を置いた。そうしたら、その大きな音を聞きつけてお袋がまた顔を出した。瞬時に状況を判断したお袋に、「お椀が割れちゃうじゃない!!」と注意されてしまった。……あう。
手付かずで持って帰ってきてしまった弁当をお袋に渡したら、アルのことを聞くために仕方なかったと意外にも許してくれた。ものすごく怒られることを予想していたのに拍子抜けしつつ、埃と汗の匂いのする自分が気になっていたので風呂に向かった。
風呂から上がりパジャマに着替えた後で、水が入ったコップを片手にアルの元へと向かう。持っているのは普通の水で自分が飲む用だ。アルの分のスポーツドリンクは彼女の枕元に置いてあるとお袋が言っていた。……ストローもセットに。
相変わらずの寝息を立てるアルの枕元に座る。
小さな灯りに照らされた寝顔はあどけなく、ずっと見つめていても飽きないほど愛らしい。おれはその寝顔を見ながらぽつぽつと今日アーレリーに聞いてきた話をした。聞こえていないことは分かっていたけれど、それでも小さな声で話し続けた。
……目が覚めたら、またちゃんと話してあげよう。アルはアーレリーに会いたがっていたから、きっと喜ぶはずだ。
夜が更けるまでずっとそうしてアルの傍にいた。本音を言えば一晩明かしたいくらいだったが、眠気に勝てず静かに二階の部屋に行って眠った。昼間アーレリーに会えるかどうかでだいぶ緊張して疲れたようだ。頭の奥の重さを感じつつ、するりと眠りに入っていけた。




