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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
23/128

20 見も蓋もない

 



 風の音だけが支配する、人気もなく暗い土手の上。ベンチの傍らにぽつりと立った電灯のみがあたりをぼんやりと照らしている。土手の形を表すように、点々と並んだ電灯がカーブを描いて続いている。そんな場所で。


 おれは考えを整理しながら座っていた。傍らには今だ笑いの収まらない黒髪美人ことアーレリー。一体何がそんなにツボだったのかは分からないが、とりあえずそっとしておく。


 アルの熱の原因、それは人として必要な機能を作り出しているから、だと言う。それが“生殖機能”だと言われるとちょっと恥ずかしくなってしまうのは何なのだろうか、まあいい。とにかくそういうことなら事情は分かった。けれどもこのまま、布団に寝たきりで栄養を取らないのは大丈夫なのだろうかと思う。やっと起きられてスープなんかを飲んでいたアルだけれど、おれの家に来てからまともに栄養を摂取していない。


「……ちょっと聞きたいんだけど、いいか?」


 今だ肩を震わせて笑っているアーレリーに声を掛ける。そろそろいいだろう、おれをネタにして笑うのは。彼女はおれの声を聞いてこちらを見た後、大きく深呼吸を繰り返して息を整えた。


「あー、笑い死にってこうやって起こるのかしら? 貴重な体験だったわ、ありがとう。……それで?」


 ……それはどうも、おれをネタに笑い死にされたら寝覚めが悪すぎる。死ななくて何よりだ。


 毒舌は腹の中だけにして、質問を受ける体勢を整えたアーレリーに向かって尋ねる。


「アルはもう人の身体になっているんだろう? まだまともにご飯を食べていなくて、栄養が足りないと思うんだが、どうしたらいい? 無理にでも食べさせた方がいいのか?」


「んー、ご飯ねぇ。食べた方がいいのかもしれないけど、あの子に聞いてごらんなさいな。食欲があるなら食べた方がいいわ。もっとも、“食欲”っていうのがどんなものかあの子自身が分からないかもしれないけどね」


 見も蓋もない話だ。結局どうしたらいいかわからない。


「それじゃアルは『食べたい』って言わないだろう? おれが聞きたいのは、このまま食べなかったらどうなるかってことだ。衰弱して、それで死んじゃったり、なんてことにならないか……」


 そう、心配なのはそれだ。万が一のことを考えると恐ろしくて仕方がない。何も手を打たずに彼女が弱っていくのを見ていられるはずがない。もし死なれたりしたら……なんて考えたくもないのだ。


「ふふ、大丈夫、それはないわ。天使って頑丈だもの」


「……そういうものなのか? 今は人間なんだろう? 人間はわりと脆いんだぞ」


 余裕そうに聞こえたアーレリーの言葉に不審を持って食らいつく。


「人間といっても完全な人間ではないのよ。天使プラス人間の機能の一部って言った方が良さそうね。つまり大元の身体が天使じゃない? 人間のように貧弱に作られていないわけ。だからたとえ食物を摂取しなくても、ちょっとやそっとであの身体が朽ちることはないし、回復も早い。……思い出して御覧なさいな、あの子川で見つけたときは傷とか痣とかぼろぼろだったじゃない? あの傷はどうなった?」


 そう言われて思い返してみれば、お風呂に入れている間にみるみる治った傷を見て、アルが天使だと改めて信じたのだった。アーレリーの言うとおりだ。


「ね? だからそう簡単に死なないから、今回の熱だって見守るしかないのよ。そのうち自然に収まって元気に動けるようになるからそれまでお水だけあげておけば。……乾燥は良くないわよね、女の子のお肌には」


 おお、やっぱり乾燥はするのか。そうだよな、アルの唇は普通に乾いていたもんな、やっぱり水分は大切だ。……と、そこまで考えておれはまたある問題に行き当たった。……また口移しをするのだろうか……。いやするわけにはいかないだろう。おれがまた暴走してしまいそうだ……暴走、口移し、キス……ああ、あのキスは本当に本当の……うう。


「何赤くなってるの? アルの裸でも思い出した? お風呂に入れたのなら見てるわよね」


 さも当然のようにさらっと言われ、おれは思わず吹き出した。


「な、な、なんでそんな……! 今……!」


「あら違った? まぁいいじゃない? どうせ夫婦になるのなら、その先はやりたい放題なんでしょう?」


 ―や、やりたい放題って、そんな……! 


 女性とはこんな風に明け透けにモノを言うものだろうかと、おれは気を遠くしながら思った。それともアーレリーが特殊なのか? そうだよな、彼女は人間じゃなくて天使なのだから、恥じらいとかそういう感情は持ち合わせて……。


 ……あれ、天使って感情がないんじゃなかったっけ。


 はた、と気づいたおれは、真っ赤になっているだろう顔をできるだけ平常心を保ちつつアーレリーに向けた。


「……なぁ、どうしてあなたはそんなに人間っぽく笑ったりするんだ? 天使って感情がないものだって聞いたけれど、あなたには十分感情があるように思える」


 今まで違和感を感じないほどに普通に会話をしていて、天使云々の話を知らなければ、人間じゃないと言われても到底信じられなかっただろうと思う。それほどアーレリーは普通の人間の女性と同じだった。だからこそ余計に不思議だ。地上の食べ物や道具、常識やらいろいろなものを知らないアルと比べると、こんなにも違うものか、と。

 いきなり変わった話題に面食らったのかアーレリーは一瞬大きな目を丸くしたが、すぐに苦笑いとともにおれの疑問に答えてくれた。


「今更な質問ね。いいけど。……そうね、私ももともと感情を持っていたわ。アルほどではなかったけれど、存在に対する疑問を感じる程度にはね。まぁ地上に来て長いこと経ったから、人間の真似が上手くなったのよ。それだけの話、何事も慣れよね」


 彼女は苦笑しながら手をひらひらとさせ、目線を遠くに投げた。どうやらあまり聞かれたくない話題らしい。触れられたくない話なら、おれだって空気が読めないほど無粋ではない。


「まぁ、そうだな」


 『何事も慣れ』という言葉に同意を示し、黙り込んだ。本当は何か気の利いた台詞を思いつければよかったのだろうけど、なんといったらいいのかわからない。アルがここにいることがとんでもないイレギュラーなら、同じ天使であるアーレリーがここにいるのは一体どうしたことか。疑問はあったが聞かないほうがいいのだろう。


 おれが何も言えないうちに、アーレリーは黒い髪をまたゴムでくくって立ち上がった。


「……さて、お話はこんなところかしら? もうすっかり暗くなっちゃったし、そろそろ失礼するわ」


 長い髪を背中に流した彼女はすっと振り返って言った。電灯の明かりに照らされた整った顔には、何の感情も浮かんでいない。相変わらずの美人オーラを存分に放っているだけ。

 そんな冷淡な美を見上げながら、とりあえず聞きたいことは聞けただろうかと頭を巡らせた。……うん、当面アルをどうしたらいいかは分かった。大丈夫そうだ。おれも立ち上がり、礼を言う。


「ああ、悪かったな、仕事終わりに。ありがとう、いろいろ」


「いいのよ、アルをあなたに押し付けたのは私だしね」


 彼女は停めたままの自転車に向かってすたすたと歩いていく。歩く後ろ姿すらモデルのように颯爽としていて、顔は力で誤魔化せても、この姿勢とか歩き方はどうにも目立つんじゃないかなとおれはこっそり思った。

 後ろでにやにやと笑っていると、自転車のハンドルに手を掛けたアーレリーが不意に振り向いて驚く。


「そういえばあの子の戸籍のことだけど、あの子の容姿からいって日本人と外国人のハーフがいいだろうと思って準備はできているの。苗字はどうにもならないから了承してほしいけど、名前もこちらで決めてしまっても?」


「え、名前? 戸籍?」


 いきなりの話におれは付いていけずに戸惑いを返した。


「そう、戸籍。いじってあげるって言ったでしょう? 名前はアルシェネのままでもいいけど、日本人名をつけて、『ハーフ』ですって言ってしまったほうが目立たなくていいかなとは思うのよ、私のように」


 ああ、それで『神原アンナ』さんだったのか。謎がまたひとつ解けた。彼女は鼻も高いし純日本人とは言い難い顔立ちだが、髪も黒っぽいし、名前が日本人なら周囲に溶け込むのも容易だろう。ハーフと言ってしまえばなおさらだ。

 しかし、名前か。アルに日本人名。名前……。


「戸籍的には私の妹ってことにするわ。だから苗字は『神原』に決まってしまうのだけれど、何もなければ私が勝手に決めるわ。そうねぇ……神原……」


 すぐにも帰りたい、といった様子で自転車にまたがったアーレリーは、適当な名前を考えている様子だ。それを遮っておれは告げた。もし新しい名前をアルにあげるならば、これがいい。


「……あおい。葵にしてくれ」


 おれが急に強く言ったせいか、彼女は一瞬驚いた顔をしたがすぐに平静になって頷いた。


「あおい、草冠のあの字ね? ……わかったわ、ではあの子は『神原葵(かんばらあおい)』になるから。そう伝えておいて」


「……ああ、よろしく」


「ふふふ、じゃあね。次に会えるのは婚姻届けの提出のときかしらね、楽しみ」


「………そうだといいが」


 ものすごく面白がっている様子のアーレリーに意趣返しはできないかと、考えた末に彼女の言葉尻に乗った。本心でもあったが、おれの台詞を聞いたアーレリーは意外だったのだろう、目を見開いた後で深い笑みを零した。

 それはまるで聖母マリアのような、慈悲深い笑みに見えた。もちろんおれはマリア様の笑顔をよく見知っているわけではないが、その時はそう感じたのだ。全て分かっているような、包み込むような、静かで温かい笑顔。


 冷淡さを持った美貌の主は最後に温かい印象を残し、自転車を漕ぎ去っていった。すっかり暗くなってしまった土手の上、彼女の群青に光る髪が点々と灯る電灯の下で存在を主張して風になびく。視界からいなくなるのをぼんやりと見送ったおれは、ひとつ背伸びをして軽トラに乗り込んだ。


 ―さぁ、帰らなくては。アルが待っている、家へ。


 軽快なエンジン音を立てて土手を下り小道を走りぬけた軽トラは、夜の闇を照らしながら家路を急いだ。




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