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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
21/128

18 『アンナ』さん


「ぎりぎりかな、『アンナ』さんはいるだろうか……」


 時計を気にしながら軽トラを降り、役所の入り口まで走る。今日『アンナさん』の正体を確認しておかなければ、もし別人ならば明日は違う役所に行かなければならない。重大な任務だ、遂行せねば。


 入り口に駆け込んで、国際交流係の窓口を見た。


 ……いた、確かに黒い髪の女性。首の後ろでひとつにまとめているが、長い黒髪が背中に流れている。


 終業間際に駆け込んできた汚い作業着のおれに注がれる視線もなんのその、おれはその人の顔を確認すべく近づいていく。

 机に向かって書き物をしているその女性は、頭部しか見えない。しかたなく窓口まで言って声を掛ける。何と言っていいのかわからずに、お決まりのあの言葉。


「あの、すみません」


「はい?」


 おれの声に反応して顔を上げた女性。それはあの日見た黒髪美人のようで、違うようで、どことなくはっきりしない茫洋とした感じの女性だった。長い黒髪、切れ長の瞳。それは合っている。だがあの時感じた、ものすごい美人の印象はない。

 まさか人違いだったかとおれが言葉を継げずにたじろいでいると、その女性は瞬きをひとつし、意外そうな顔で首を傾げた。


「あら、あなた」


 そういった瞬間、彼女の持っていた茫洋とした感じはどこかに消え、強烈な美人のオーラがおれに突き刺さるように発せられた。あの、逃げたくなるような、逆らうことを許さないような、自信に溢れた美人が持っている空気感。


「……アーレリー……」


 おれが会ったのは、この人だ、“黒髪美人”。確信を持って名を呟くと、目の前の強烈な美人はにっこりと目を細めておれに一枚のメモを差し出した。


「仕事が終わるまでもう少しなの。悪いけどメモのところで待っていてくれるかしら?」


 窓口の上を滑ってきたメモを掴み内容を確認したおれは黙って頷いた。彼女はおれが訪ねてくること、話をしたいということを分かっていたのだ。やっぱり美人は何か特殊な力があるのだろうか、恐ろしい。

 しかしメモから視線を上げ再び彼女を見ると、先ほどまでの強い印象はまた立ち消え、再びなんてことない普通の雰囲気の女性がそこに座っていた。


「……え?」


 おれの間抜けな呟きが聞こえたのだろう、黒髪美人もとい目の前の女性はふっと笑って口を開いた。


「人違いじゃないわ、とにかくそのメモの通りに」


 そう言ったきり、彼女はまた机の上に視線を落とし、書き物を再開した。


 ……訳が分からない。だがこのままこの窓口にぼーっと立っているのは明らかに不審だ。おれはそろりと辺りを見回して、終業間際で暇な人たちが何気ない不利を装ってこちらを気にしているのを見た。ああ、注目されている、逃げよう。


 ぺこりと頭を下げて窓口の前を離れると、おれはすたこらとロビーを抜けた。役所の人間はやっぱり暇なんだな。昼間話を聞いた老人介護係のおっさんもわくわくした様子でこちらを見ていたし。もの言いた気なその視線をさらりと無視して入り口を出て、軽トラまで戻ってから大きくため息をついた。……見世物の気分ってこんなか。


 そして手の中でくしゃりと丸めてしまったメモを広げ、再び確認する。


 <あの土手の下、アルが倒れていたところで。五時十五分には行けるかと。>


 後十五分ならば先に行って待っていよう。おれは軽トラのエンジンをかけ、指定された土手に向かった。







「……あ、母さん? アルはどう、まだ熱が? ……ああ、そう。分かった。こっちは黒髪美人と会えたよ。今待ち合わせしててこれから話聞くところだから。……うん、分かってる、……うん。じゃあちょっと遅くなるから、先にご飯食べてて。……はいはい、じゃあね」


 ガチャン、と受話器を置いて、電話ボックスを出た。土手に行く道すがら見つけたのでとりあえずお袋に連絡を入れたのだ。世には携帯電話なるものが登場しているようだが、あんな大きいものを携帯なんてできるか、と思う。それになにより金がかかりすぎる。まぁ金持ちの道楽だな、と思いながら再び軽トラに乗り込み、何もない土手の上の道を走る。


 風が吹き抜ける土手の上、おれは軽トラの影に座り込んで夕日を見つめていた。習慣になっていたはずの夕方のこの時間の過ごし方も、アルと出会って以来ご無沙汰だった。トラックに置いてあったタバコも、減ることはなくただそこに放り投げられていた。ここ数日存在すら忘れて一本も吸っていなかった。

 やっぱりおれはタバコが好きなわけじゃなかったんだなぁと思う。急にタバコを吸わなくなってもニコチンを求めて禁断症状を起こすこともなかったし、吸いたいとも思わなかった。禁煙したくてできない人には悪いが、すごくいい体質なのかもしれない。

 数本残ったタバコのパックは車の物入れの中に放り込んでしまった。もうこれを機にタバコをやめてしまおう。タバコ嫌いな女性は多いし、アルがタバコ嫌いだったらへこむ。おれが吸うことも知らないうちにやめてしまったほうが懸命だ。


 沈んでいく夕日をぼんやりと眺めながら初夏の風に吹かれていると、自転車のブレーキの音がした。続けて自転車を立てるときのあのガチャンという音。


「ごめんなさい、お待たせして。あなたが安西(あんざい)さんに私のことを聞いたりしたから、帰りにまた捕まったのよ」


 黒く長いまっすぐな髪を風になびかせながら現れたのは、黒髪美人ことアーレリーだった。いや、『アンナさん』と呼ぶべきなのだろうか。しかし何の話だろうか、捕まったとは。


「は、安西さん?」


「そうよ、老人介護係の窓口にいた」


「ああ、眼鏡のおじさん」


 興味津々の様子を隠さずにこちらを見ていたおじさんの顔を思い浮かべ、あの人ねと思う。アーレリーは疲れた様子で髪をかき上げ、首を鳴らした。


「あなた昼間来たんでしょう、私を探して。午後役所に戻ったら噂になってたのよ、アンナちゃんの彼氏かなって。もう最悪」


「わ、悪かった……そういうつもりはなかったんだけれど」


 あまりにイラついた様子の彼女を前に、おれは素直に謝った。やっぱり美人は怖い。……あれ、そういえば今の彼女は前に会ったとおりの美人だな。役所にいたときは普通の女性の感じだったのに。


「役所にいるときはね、というか普段は私、気配を殺しているの。あの暇な人たちの中に埋もれて隠れるためにね」


 おれの疑問が手に取るようにわかるのだろうか、彼女は気だるそうに話を続ける。


「人間の中じゃ、私たち天使は目立ちすぎるみたいで。道行く人皆に声かけられたり見られたりしてたら疲れるじゃない? だからちょっと気配を消してね、印象とか顔を変えているのよ。……分かる?」


「美人だから声かけられるんだろうけど……。顔を変えてるって、天使だからできるんだよな?」


 至極もっともな疑問だと思う。気配を消すことはおそらく人間にもできる。訓練次第だろう。でも印象や顔を変えるなんておよそ普通の人間にはできない。天使の特殊能力だとするなら、アルにもできるのだろうか?


「そうね、能力を使えばさして面倒なことではないわ。でも今のアルにはできないわね」


「え、どうして?」


「力のほとんどを人間になるために費やしているから、よ。……あなたが聞きたい話って多分このことじゃない?」


 話が分からずに首を傾げたおれにアーレリーは複雑な感じで笑い、土手に設置してあったベンチを指差した。髪と同じ色をした瞳が、何かの感情を灯して揺れているが、何を思っているのかは分からない。


「座りましょう、立っていても仕方がないし」


「……あ、ああ」


 風の吹き抜ける土手の上、頭上を遮るものは何もない開放的な場所にちょんと置かれた石造りのベンチにふたり並んで座った。何かコーヒーでも買ってくれば良かった。自販機を探そうにも一面の自然、田んぼと川しかない。

 おれがきょろきょろと辺りを見回していると、優雅に足を組んだアーレリーが口を開いた。


「それで? あなたが私の名前を知っていると言うことは、アルは目覚めたのね?」


「あ、ああ、そうなんだ。一度目覚めて、その時にあなたに会った話をしたらアルはすぐにあなたが『アーレリー』だと分かってそれで……」


 おれの言葉を遮るようにしてアーレリーは笑った。


「ふふ、そうでしょうね、あの子のことを『アル』って呼ぶのは私くらいしかいなかったでしょうから。それで? あの子は今?」


 会話は一方的にアーレリーのペースで進む。おれは元々人と話すのが得意ではないし、やっぱり“美人”の雰囲気に飲まれそうになりながら必死だった。


「……えっと、一度目覚めて、一日半くらいかな元気にしてたのは。一昨日の夕方急にお腹が痛いって言い出して、また布団で寝てたんだ。しばらくしたら高熱が出て……今もまだ熱が下がっていないってお袋が……それでどうしたらいいか聞きにあなたを探して……」


「まぁ、そうなの……あら……まさか……」


 どう話したらきちんと伝わるのかを考えながら話したせいで、つっかえつっかえではあったがまぁ上出来だと自分では思う。アーレリーはおれの言葉に反応して何かを考えこんでいるから、話は伝わったのだろう。しばらくすると彼女は顔を上げて思案顔のままで話し出した。


「そうね、私の推測では……」


 もったいぶるように切られた言葉を促すように無言で待った。一体アルに何が起きているというんだ、おれはどうしたらいいんだ、教えてくれ……!


「寝かせておくしかないわ、それは」


「…………え」


 あまりに簡潔な言葉におれは固まってしまった。ものすごく期待していたのに、寝かせておくしかないってそれ解決方法でも何でもないんじゃ?

 おれはあまりにも間抜けな顔をしていたらしい。アーレリーは少し吹き出すように顔を歪めてからこほんと咳払いをして顔を背けた。


「あのね、前例がないから推測でしか話せないけれども、それでもいいかしら?」


 ちらりと視線だけ流され、おれは大きく頷いた。


「……アルの身体は今擬似的に人間になっているの。あの子が天使として持っている力を利用して、まぁ羽を媒介にして体の中身を作り変えたって言えば分かりやすいのかしらね」


 そういえば前にアルもそんなことを言っていた。天使の身体のままでは栄養が取れなくて存在できなくなるから人間の身体にとかなんとか。おれはうんうん頷きながらアーレリーの話を聞く。


「一度目覚めたときに、人間としての身体は一応できたと言えるでしょうね。そこまでなら確信を持っていえるわ、私も同じだったから」


 アーレリーはまた言葉を区切って、おもむろに後ろでまとめていた髪のゴムを解き、その長い黒髪を風に躍らせた。

 絹糸のように流れる艶やかな髪は、夕日に照らされてやはり群青色に見えた。黒よりももっと神秘的な、夜の空のような。


 おれが何も言わないのを不審に思ったのか、アーレリーはこちらをちらりと見てため息をついた。そんなにがっかりされても、おれは元々話が多くない人間なんだ、悪いな。だが何か言うことは……とひねり出すようにして質問をした。


「……えーと、と言うことは、あなたも元天使、今人間ということ?」


「……あなたって……。まぁいいわ。……私は今でも天使よ。ちょっとだけ人間の構造を取り入れて食物を摂取できるようにしただけ。力はほぼそのままだし、だからこそ顔の印象変えたりちょっとした能力を使えるの。でもアルは違う、もっと完全な人間に近づくために、今身体の中身を新しく作り変えている」


 ため息と共に囁かれた言葉に、おれは眉を寄せた。同じ天使で、でも違うというのは一体なんなのだろう。


「今アルが高熱を出して寝込んでいるのは、重要な、そして力をものすごく消費するある機能を作り出しているから。……それもあの子の力が強いからこそできるのでしょうけど、結果的には良かったのかしらね」


「……悪いけどもったいぶらないで全部教えてくれないか? 話が見えない。アルが苦しんでいる理由も、どうしたら楽になれるかも知りたいんだ、アルを助けたい」


 何度も途切れるアーレリーの言葉におれは少し苛立ちを感じていた。彼女自身も考えながら話しているせいもあるんだろう。でも分かっていることなら全部教えて欲しい。おれには今情報が少なすぎるから。

 アーレリーはおれの言葉を聞いて一瞬目を丸くして驚いた様子だったが、すぐに余裕を取り戻してくすっと笑った。足をまた優雅に組み替えて、手を口元に持っていって笑っている。


「ふふふ、本当に……何の因果か誰のたくらみかは知らないけど、面白いことになってきたわね……。はぁ、ごめんなさい、分かったわ。とにかく最初から話すから聞いてちょうだい」


 ぶつぶつ楽しそうに呟いていたが、大きく深呼吸した後は表情を切り替えておれに向き直った。何が面白いのかは全く分からないが、話を聞けば分かるかもしれない。おれは黙って頷いた。




自販機はあるけど携帯電話はまだショルダーフォンだった時代を設定しています。

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