2 傷だらけの天使
軽トラの助手席に女性をそっと乗せてシートベルトをした。外から見れば眠っていると思われるだろう。運転している間もチラチラと横目で気にしつつ、さほど遠くはない自宅へ帰り着いた。所定の位置に車を停め、再び助手席へと回る。
親父とお袋には何て言ったらいいのだろうかと考えながら、おれは再び女性を抱きかかえた。羽は水分が抜けたのか、ずいぶんふわりとした感触になって腕をくすぐった。閉じられた瞳は未だ開かない。そういえば羽が消えたときに息を吹き返すとか言っていたけれど、それはいつなのだろうか。
とにかく風呂の支度をするんだったな、と女性を抱えて使えない両手を無理に動かし、なんとか玄関のドアを横にずらしたところで、おれはその場で固まってしまった。
カラカラ…と開いた玄関の音に反応したのだろう、タオルでごしごしと頭を拭きながら上半身裸で廊下を歩いてきた親父が、こちらを見ずに声を掛けてきた。
「おう、帰ったのか。遅かったじゃねーか。風呂、あいたぞ」
そこまで言ってから顔を上げた親父が、おれ同様にぴしっと固まった。
目線だけがおれと女性の間を行き来している。口がパクパクと開いては閉じ、右手が徐々に上に上がっていく。人差し指だけを伸ばした格好で。
「お、おま……、そ、そのじょ、女性……は?」
親父はおれと違って口下手ではない。だからわなわなと震えながらおれを指差したこの様子はかなりの動揺の表れと言っていいのだ。しかし問われたおれも、親父に返す答えを準備しきれていなかった。おれは口下手な上に不器用だから、こんなときにうまいことを言って逃げるような話術も残念ながら持ち合わせていない。
「……あ~、えっと、その」
目を泳がせながらもどうしたものか、と考えていたところ、玄関先での声が聞こえたのか台所からお袋が顔を出した。
「なぁに、二人して玄関先で。お父さん、シャツを着てくださいな。外から見えてしまいますよ。栄も早く……」
そこまで言っておれに視線を合わせたお袋は、手に持っていたお玉をカシャーンと床に落とした。おれとしては額に手を当てて『あちゃー』といいたい気分だ。
小さな目を限界まで大きく大きく見開いたお袋が、信じられない、と言った表情でゆっくりとこちらに近づいてきた。立ち尽くした親父の隣までじりじりとやってきたお袋は、無言のうちに親父と顔を見合わせ、再びこちらを見た。
二対の視線にロックオンされたおれは、本当に本当にいたたまれない気分を味わっていた。この二人の表情も、驚愕の有様も、おれにとっては納得がいくものだ。なにしろおれは、二十三のこの年まで彼女どころか女友達一人、家に連れてくることもなく、そういう浮いた話すらなく女っ気ゼロの日々を送ってきたのだ。
その口下手、不器用、甲斐性なし三拍子揃った息子が、女性を、しかも抱きかかえて連れ帰って来たのだ。それは天変地異の前触れとも言うべき、驚愕に値する出来事だろう。
無言に耐えかねておれは口を開いた。何をどういったらいいかと全く整理のつかないまま。
「……あ~、えっと、その、この人、は……」
ごくり、と両親の喉が期待で鳴ったような気すらした、その時。
腕に抱きかかえた彼女の体が少しだけ宙に浮き、その真っ白な翼がふわりと広がった。と思ったら、瞬時に彼女の体に吸い込まれるように消えたのだ。
羽が消えた後で再び手に戻った重み。先ほどよりも少しずっしりとくる。まさかさっきまで軽かったのは、羽が支えていたせいなのだろうか。そんなことを考えていたら、腕の中の彼女が、ピクリと身じろぎしておれは固まった。
おれと両親、それぞれの目がまん丸に見開かれ緊張し見守る前で、彼女は「かはっ」と少しむせた後、呼吸を始めた。呼吸に合わせて小さく上下する胸。薄く開かれた唇、震える睫毛。……『息を吹き返す』、まさに、その瞬間だった。
おれはぼんやりと呼吸する彼女を見つめていた。目の前に両親が立っているのも忘れて、ただ、彼女の瞳が開かれるのを、今か今か、と。
無意識のうちに腕を動かしてその冷え切った体に触れるまで、お風呂に浸からせて温めてあげなければならないことすら忘れていてはっとした。
―しまった
おれはすぐに顔を上げてお袋に言った。
「風呂、あいてるんだよな? この人、今まで川に浸かってて冷え切ってるんだ、温めないと」
固まっていた時間と空気を無理矢理動かすように言ったおれの言葉に、お袋はハッとしてすぐに反応した。二、三歩の距離をさっと動き、おれの腕の中の女性を見つめた。
「……ええ、なら温めのお湯からゆっくり温めないと。あら、傷だらけね、沁みるかもしれないわ。……さぁ、早く」
そう言ってお袋はさっさと風呂場に移動した。多分親父が入ったお湯に水を足して温くしてくれるのだろう。おれは両足をすり合わせて靴を脱ごうとして、仕事に行った帰りだというのをすっかり忘れていた。足元は足袋だった。簡単に抜けるものじゃない。
こんなときに、と焦りながら、腕の中の彼女をそっと玄関に横たえた。そして急いで足袋の留め具を外していく。もどかしさにイライラして余計に手間を食った。
そしてようやく足袋を脱いで玄関に片足をかけ、再び彼女を抱き上げた。よいしょ、と抱き上げた瞬間に未だにそこに佇んだままの親父と目があった。親父は、先ほどの驚愕の表情からはだいぶ落ち着いて、何か考え込んでいるようだ。
「なあ、お前……」
腕を組み、じっと見つめてくる視線をまっすぐに見つめ返した。
「ん? 何?」
返事をしたというのに親父は何も言わず、手で『早く行け』と意思表示をしてそのまま、居間へ続く障子を開けて行ってしまった。おれは首を傾げて親父を見送り、彼女を抱え直して風呂場に急いだ。
問題はそこから先だった。
おれは風呂で彼女を温めることしか考えていなかった。だが、『風呂に入る』ことはつまり『裸になる』ということだ。おれはそれを頭で考えることなく無意識のうちにお袋に任せるつもりでいた。しかし頼りにしていた当のお袋は、お湯を温めに準備した後で、非情な一言を放った。
「まだご飯ができてないから、後はひとりでなんとかしてね。お父さんが待ちくたびれちゃうから」
それだけを言って、お袋は去っていってしまった。そして残されたおれとまだ意識の戻らない彼女。
もわもわと湯気を立てる湯船を前に、おれはどうしたらいいのかと途方にくれた。しかし、このままぼーっとしていては彼女の体には絶対によくない。あの黒髪美人も言っていたじゃないか、低体温はまずいと。
おれは意を決して風呂場マットの上に彼女を下ろした。頭を湯船に寄りかからせるようにする。そして『すみません』と心の中で念じながら、もうぼろぼろにあちこちが切れてしまっているワンピースを脱がす。脱がすというより、ちょっと手に力を入れたら切れてしまったため、もう仕方がないと思って破っていった。風呂から出たら何かお袋の服を借りたらいい。どうせこのワンピースはもう着れないのだし……と自分に言い訳をしながら。
何とか彼女から服を取り去り、できるだけ直視しないように顔を背けつつ洗面器ですくったお湯を体に掛けていった。少しずつ温めないと、よく分からないけど体によくないだろう。冬のかじかんだ手を熱いお湯につけたときの、なんともいえない痛さと感覚を思い出して、おれはできるだけ刺激しないようにお湯をかけた。最初は足に、そして腕、体。長いことお湯をかけて、彼女の脈を取ってみた。
とくんとくん、と確かに感じる脈動。ちょっと遅いような気もするけど、だいぶ温まってきた頃に、湯船に入れることにした。
「……失礼します……」
控えめにそういったのは、先ほどまでとは違って、自分の手が直に彼女の肌に触れるからだ。もちろん、できるだけ見ないようにして顔は背けているが、指先に触れた柔らかな感触に心臓が跳ねたのは仕方のないことだと思う。何しろこんなふうに女性に触れたことなどないのだから。
そろり、と慎重に彼女の体をお湯に沈めていく。前を見ていなかったのもあるがあまりに慎重にしすぎて加減が分からず、自分の手の甲が湯船の底につくまで屈んで、バランスを崩しそうになって慌てて手を離したときについうっかり見てしまった。
おれはすぐに顔を明後日の方向へ背けたが、目はしっかり画像を捉えてしまっていて脳裏に焼きついてしまったようだ。……好みの大きさだ、と考えて直後にぶんぶんと頭を振った。気を失っている女性に対してなんて失礼なんだ! と思う反面、動揺している自分が何だかすごく滑稽に思えた。
「……ばかだな、おれ……」
ため息と苦笑いとともに呟いて、これは人命救助だと、気を入れなおした。追い炊きのボタンを押して、湯加減を確認しながら、お湯で濡らしたタオルで彼女の顔をそっと拭く。
「あれ、さっきはここに傷がなかったっけ?」
独り言を呟いて目を瞬かせた。先ほどまであったはずの傷が消えている気がする。大きなあざも、たくさんあったはずなのに。慌てて腕や足を確認したら、腫れていた足の怪我も腫れが引いてきているようだ。細かい傷などはもう見えない。
「……人間じゃない、って言ってたもんな」
傷も腫れも引いて、どんどん元の顔に戻っていく彼女を見ながら、ぽつりと呟いた。思ったとおり鼻筋の通った整った顔。緩やかなカーブを描く頬、小さな唇。……あんなにばさばさしていた大きな翼も一瞬で消え、傷も怪我も恐ろしいスピードで治っている。
―天使って、本当だったんだ
温まってきて赤みの差してきた頬に、無意識に手を伸ばして撫でていた。するりとしたきめ細かい滑らかな感触。自分の肌とは全く違う、女性の、感触。
しばらく無言で頬を触っていて、突然ハッと自分のしていることに気がついて手を引っ込めた。絶対真っ赤になっているだろう頬を押さえて、おれは自分で自分に拳骨を落とした。
「……だからっ、なんで、おれっ……!」
自分でもコントロールできない不思議な衝動に頭をくらくらさせながら、なんとか彼女を温めることに専念した。
だがその後も十分温まったと判断した後で湯船から引き揚げる時に極端なくらいに緊張したり、更に水気をふき取らなければならないことに気づいて真っ赤になったりした。
どうしようかと思っていたときに、夕飯の支度を終えたお袋が、彼女に着せる浴衣と共に現れて思わずすがり付いてお願いしてしまった。後はよろしく頼む!と。しかし意識のない人に着物を着せるのは容易ではなく、結局彼女の体を支える時に直接肌に触ってしまってどぎまぎする羽目になった。
ようやく落ち着けたのは、彼女の髪をドライヤーで乾かし、客間に敷いた布団の上に寝かしつけた後だった。
夏ももうすぐ、という気温ではあるが、温まった体がまた冷えても困るので厚手の布団をかけてやり、彼女の落ち着いた寝息を聞いておれはほっとした。呼吸も脈も、おそらくは正常だ。足が折れてる、とかだったら医者に連れて行かなければならないが、先ほどまでの時間の間に傷は全てふさがり、一番酷かった足の腫れももうすっかり引いて、ただ眠っているといった感じだ。
おれは眠る彼女の枕元に座って、その穏やかな寝顔を見ていた。胡座で肩膝をついて、膝の上にあごを乗せた格好でしばらくじっとしていた。……不思議な、気持ちだった。家の中に女性がいるなんて。しかもこんな可愛い……。
「か、可愛いって、おれ何を……」
自分の考えに自分で突っ込みを入れて、膝におでこをぶつけた。さっきから頭の中がぼんやりしているし、独り言が多い。
不思議な気持ちだ。帰り道に天使を拾ってくるなんて、今朝の自分は全く想像していなかった。夕日を見ていた自分が、あの白い塊に気づけたことに、おれは感謝したい気持ちだった。彼女を見つけられて、良かったと思った。それがどういう理由でそう思うのかは分からなかったけれど。
廊下を歩いてくる音が聞こえたと思ったら、開けっ放しにしていた障子の脇からお袋が顔を覗かせた。
「栄、ご飯は食べないの? 温め直してあげるからこっちいらっしゃい。それから話もしないと、そのお嬢さんのこと」
それはそうだと思った瞬間、ぐるる~と腹の虫が鳴った。時計を見れば時刻は八時過ぎ、いつも六時半には夕飯を食べるのに今日はお腹が空いた事すらすっかり忘れてしまっていた。おれの返事を待ってそこで待っているお袋がなんだか心配そうな顔をしていたので、おれは苦笑して立ち上がった。静かに眠っている彼女を一度振り返って確かめ、お袋と一緒に客間を後にした。
「……と、こういうわけで連れ帰ってきたんだ。親父とお袋も見たろう? あの子に羽が生えてたの」
お袋が温め直してくれた夕飯を頬張りながら、おれは今日の夕方の成り行きを語って聞かせた。普段口下手なおれも、家族の前では普通に話せる。いつもこうだったらいいのだけれど、やっぱり人前では何故か上手く話せない。
親父はひとりで酒をちびちび飲みながら、お袋はお茶をお供に黙って話しに耳を傾けていた。息子が突然連れ帰ってきた女性が人間じゃないなんて聞かされては腰を抜かすだろうかと思ったが、既に羽が消えるところを目撃してしまったため、隠さずに伝えてしまおうと思ったのだ。上手い言い訳が思いつかなかったから、というわけではない、決して。
「あ~ら~、じゃあどうなのかしら。天使と人間って結婚できるのかしら?」
湯飲み茶碗を握ったままのお袋の間延びした発言に、おれは吹き出しそうになってぐっとこらえた。慌てて味噌汁の椀を掴んで口の中のものを一気に流しいれる。……嫁問題、それがあった。
「……かあさん、急に何言ってるの。け、結婚なんて、おれ、そんな……」
「あら、だって可愛い子じゃない? 栄だって多少なりとも好意があって連れ帰ってきたのではないの? それにお風呂に入れてあげてばっちり見てしまったのではないの、裸」
小首を傾げながらおっとりと言ったお袋に、おれはがっくりと肩を落とした。そこに追い討ちを掛けるかのように親父も口を開いた。
「……責任は取ってやらにゃいかん」
「責任って、おれは別に何も……」
親父が重苦しくも言い切った言葉に反論しようとして、何も疚しいことはなかったと言いかけたおれだったが、不意にあの形のいい胸が頭の中を過ぎって口を噤んでしまった。いや、あれは仕方のないことだ、人命救助だったし、見ただけで触れてないんだぞ……!
おれの頭の中での必死の言い訳がばれたのか、親父は酒をぐいっとあおって言った。
「嫁入り前の娘さんの裸を見たとあったらな、昔は責任を取ったもんだ。……触ってなくてもな」
「お、親父……」
何でこんなに結婚押し押しの展開なんだ、と頭を抱えたくなっておれは涼しい顔をしている両親に向かって言った。
「そ、そりゃおれはあの子の裸を見たけど、根本的にあの子は天使なんだ、人間じゃないんだよ? それでもいいって言うのか? それにあの子がどんな子か、性格とか全然わからないのに!」
両親の考えが全く読めないおれは、勢いだけで捲くし立てた。本当に意味不明だ、息子が女性を連れて帰っただけでこんなことを言い出すなんて。おかしすぎる。
しかしお袋はにっこりと笑って優しく言った。
「天使だって言っても、見た目は私達と変わらないじゃない。それに優しそうな顔をしていたし。性格って顔に表れるものだから、母さんはあの子いい子だと思うわ?」
確信を持ってにこにこと笑って言われた言葉に、おれはどう反論したらいいか分からずうな垂れた。お袋は言い出したら決して自分の意見を曲げない。職人気質でものすごい頑固な親父以上に頑固なのが実はお袋なのだ。親父もそういうお袋の性格を知っていて、最後には折れてしまう。結局お袋が言っていることが正しかった、ということが多いので、親父もなかなか大きな顔をできないのかもしれない。親父も敵わないお袋に、おれが口で敵うはずもない。敵前逃亡さながら、おれはじりじりと後退を始めた。
「……い、いや、と、とにかく、話はあの子が目を覚ましてからにしようよ、な。結婚なんて早すぎだ、ね」
言いながら食べ終わった食器を重ね、わたわたと立ち上がって台所へ持っていく。お袋はにこにこしたままおれを止めず、逃亡成功か、とほっと胸を撫で下ろした。
「栄」
部屋を出て行こうとしたとき、黙っていた親父がおれの名を呼んだ。まだ何か言おうというのかと恐る恐る振り返ってみると、親父はこちらを見ないまま手酌で酒を注ぎながら言った。
「明日は現場休め。……面倒みてやれ」
誰の、とは聞かなくても分かる。しかし仕事を休んでまであの子についていなくとも、お袋が家にいるんだし大丈夫だと口を開こうとしたが、お袋が笑ったままゆっくり首を振っているのをみて、おれは言うのをやめた。
「……わかった、ありがとう」
代わりに了承の返事をして居間を後にした。お袋が頷きながら手を振っているのが横目に見えた。
何故そんなにもおれにあの子と結婚して欲しいのか両親の考えは全く分からなかったが、おれは無意識のうちにあの子のいる客間に足を向けていて、ハッと気づいたときにため息をついた。……こんなんでは親父とお袋のことを言えない。彼女のことがどうにもこうにも気になっている。それは事実だ。
すやすやと寝息を立てる彼女の隣に再び腰を下ろし、おれは片肘をついて呟いた。
「……結婚、なんて。こんな風にどさくさにするものじゃないよなぁ……?」
柔らかな月明かりに照らされた彼女の顔は、ドキドキするほど美しかった。