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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
18/128

15 意識無意識

 


 一晩すればアルの熱も下がるだろうと思っていた。けれどもそれは全くの見当違いで、昨晩少しだけ下がったはずの熱もまた上がり、体温計の水銀の位置は三十八度八分を示していた。アルは昨夜から一度も目を覚ましてはいない。


 朝起きてきたお袋は朝食の準備の後でアルの着替えをしてくれた。昨夜水をたくさん飲んだせいもあってかアルは全身に汗をかいていてパジャマがすっかりびしょびしょだったからだ。シーツも取り替えた分厚い冬の布団の中でアルは眠り続けている。


 「……高いわねかなり。本当に大丈夫?ひとりで」


 お昼時に開かれる同窓会に行くための準備を整えたお袋は、体温計をじっと見つめたあとでおれの顔を見た。あれだけ汗をかいていて熱が下がらないのは何故だとその顔は言っている。アルの熱は本当だったら医者に連れて行かなければならないくらいの状態だと思うが、昨日話し合ったとおりうちで看病することは変わっていない。つまり親父とお袋が揃って出かけてしまえば後はおれひとりでアルの面倒を見ると言うことだ。


「大丈夫だよ、昨夜もなんだかんだなんとかなったから」


 いろいろお袋にいえないことも起こったけれども、それは心の中にしまっておく。とにかくお袋がいてくれれば助かることもあるが、ほんの昼間の時間だ。おれひとりでなんとでもなる。


「そう? ……じゃあ行ってくるわね。アルちゃんには悪いけども」


「ああ、アルだってむしろ行ってくれなきゃ後で気にするだろう。心配要らないよ」


 そんなやり取りの後で、おれはめかしこんだ親父とお袋を玄関で見送った。ふたりとも申し訳なさそうに、心配そうに何度もこちらを振り返ったがおれは追い払うように手を振った。アルのことが心配なのか、おれが頼りないと言いたいのかどちらだか分からないが、とにかく数年ぶりの同窓会なのだ。楽しんでくればいい。

 




 時刻は昼前。


 アルは昨夜トイレに起こして以来一度も目を覚ましていない。お袋が着替えをさせている間も目を覚まさなかったと言うし、いくらなんでも一度起こさなければならないかと思う。しかし昨夜のように意識が浮上してくるリズムがないようで、寝言を言うでもなく、深い深い眠りの中にいるようだった。


「そろそろ起きてくれないかなぁ」


 一縷の望みをかけておれはアルに声を掛け、身体を揺すった。もう無理矢理でも起こして水を飲ませ、トイレに連れて行かなければならないだろう。汗をかいているのだし水分を取らなければ出て行くばかりだ。


「……アル、アル。起きてくれ」


 ゆさゆさと布団の上からしばらく揺すっていると、アルは目を覚ましてくれた。薄っすらと目を開き、眩しそうにまた目を閉じる。


「アル? 気分はどうだ。無理矢理起こしちゃってごめんな。トイレ行きたくないか? あと水も飲まないと」


「…………」


 おれが声を掛けると、アルは声にならない声で唇を動かした後ぶるっと震えた。ゆっくりと瞬きをしながらおれのほうを見ているがなんとなく焦点は合っていない様子だ。それもそうだ、高熱を出しているのだから。

 アルがなんと言っているのかちゃんと聞くために、おれはアルの口元に耳を寄せた。


「何だ、アル。もう一回言ってくれ」


「……さ、む…い……」


 とても小さな声だったが、今度は何とか聞き取れた。しかし……『寒い』だって? さっき汗をかいて冷えたパジャマを着替えたのだし、こんなに布団を被っているのに寒いとなれば更に布団を掛けるくらいしか思いつかない。おれが悩んでいると、アルは再び布団の中で身体を震わせ、身を縮めた。


「さむい……、寒い……」


「アル……。わかった、布団をもう一枚増やすからさ、眠る前にトイレに行っておこう、な。起きられるか?」


 高熱が過ぎると逆に寒くなると聞いたこともある。うわごとのように『寒い』を繰り返すアルが可哀想だったが、今はとにかくやることをやって、また眠るしかないとおれは考えてアルの背中を支えて起こし、トイレに連れて行った。


 ふらふらと半分眠った状態でアルはトイレから出てきて、ドアのところで倒れこみそうになったのを慌てて支える。本当はトイレの中まで付いていきたいくらいには心配だが、そこまでは……できないだろう。膝をすくって抱えあげた身体は熱を帯びて火照っているようで、しかし肌の表面ははなぜか冷たい不思議な状態だった。


「アル? 大丈夫か?」


 客間へと歩いていく間に声を掛ける。至近距離にあるアルの瞼が震え、おれの声に応えて目を開けようとしてくれているのが分かった。薄く開いた瞳は涙で潤んでいて、あの印象的な緑がかった瞳は茫洋と霞んでいる。


「……大丈夫だ、無理して話さなくていいぞ、辛いもんな」


 見えていない瞳で必死に唇を動かそうとしているその様子にそう声を掛けて、力を入れ過ぎないように注意しつつ抱きしめた。話ができないほど辛いアルに話しかけるなんて馬鹿だ。声が聞きたいのはおれが楽になりたいだけで、アルに無理をさせているのと同じことだと思う。そんな簡単なことも分からないほどにおれは混乱して、心配だった。


 再び布団の中にアルを横たえ、布団を掛けようと身体から手を離した。するとアルは縋りつくように手をつかんできた。意外なほどに素早い動作に驚いたが、手だけではなく腕まで抱え込むようにくっついてくるアルを見て、おれの体温を無意識に求めるほどに寒いのかと思った。


「アル……そんなに寒いのか」


 目を固く閉じたままおれの腕に頬をこすりつけてくるアルを見ておれは小さく呟いた。右手が拘束されてしまったので、角度的に上手く使えない左手を伸ばし掛け布団を掴み、アルの上に掛けた。すでに分厚い布団を掛けているがまだ寒いのなら二階から自分が冬に使っている羽毛布団を取ってこようと思った。だがおれの右腕はいまだアルに掴まれ、布団の中だ。


「アル、布団取ってくるからさ、離してくれるか」


 聞こえているかどうかも分からなかったが、そういいながらがっちりと掴まれた右手を引き抜こうとした。が、抜けない。少し動いた瞬間に、引き抜こうとしているのが伝わったのだろう、アルは更に力を込めて腕にしがみついてきた。アルは相変わらず目を閉じたまま何も言わない。呼吸のリズムから察するにおそらく眠っているのだろう。無意識だというのにこれほどまでに温かさを求めるなんて、とおれは切なくなった。

 


「……アル……」


 名を呟くと、彼女は大きく身を震わせた。『寒い』と口で言われるよりも、アルが寒さに震えているのが分かる。おれの腕のわずかな体温を求めるように、アルは更に擦り寄ってくる。布団の中でがたがたと全身を震わせているのが振動によって伝わった。

 こんな状態のアルから、無理矢理腕を引き剥がして布団を取りに行くことなどおれにはできなかった。おれの体温でいいのなら、分けてあげたいと思った。


「アルの震えが収まるまで、だからな。うん」


 自分に言い聞かせるように呟いておれは掛け布団をできるだけ小さくめくり、アルの横に身体を滑り込ませた。布団の中はアルの熱でだいぶ温かく、はっきり言っておれの出る幕でもないような気がした。しかし高すぎる熱によって身を震わすアルは、おれが入ったことで一瞬冷えた空気に身震いした後で、熱を発する身体に気づいたのか全身でおれに擦り寄ってきた。

 まるで猫のようにおれの懐に納まったアルはそれでもまだ寒いようで震えは止まらなかった。おれのシャツを両手で掴んでこれでもか、と密着してくる。


「うう、そんなに引っ付くなって……」


 ある程度というか、ほぼそうなると予測した上で布団の中に入ったのに、おれは身体で感じる予想外の柔らかさに思わず呻いた。布団の中で密着状態なんて、考えてみたら精神的なダメージがでかい。飛びそうな理性を必死で手繰り寄せるように視線をあちこちに彷徨わせて気を紛らわせる。

 手で触れてしまったら何だか歯止めが効かないような気がしていたので、両腕は小さく万歳の形で固めていた。おれは人間カイロだ、という心持ちで、布団の中で直立状態を保っていた。しばらくそのままじっとしていればアルにおれの体温が伝わって震えも止まるだろう、そうしたら布団を抜け出して……と考えていたのだが、アルの震えは一向に止まらなかった。

 アルはおれの胸の辺りにぴったりと頬をくっつけたまま固まっていたが、全身の細かい震えは止まらず、浅い呼吸を繰り返していた。


 ……ど、どうしたらいいんだ、これ以上……


 唯一自由に動く首を動かしてアルの眉間に寄った皺を確認した。辛そうに閉じられた瞼は固く、半開きの唇から零れる熱い吐息。おれは小さく小刻みに震える背中にそっと両手を回した。彼女をどうこうしようとかいう気持ちはこれっぽっちもなかった。辛そうなアルを見ていられずに、自分にはもうどうすることもできなくて、ただ寒さから解放してあげたいという一心だった。


 ……早く、早くよくなってくれ。これ以上苦しむ姿を見ていられない……


 そんな気持ちを込めて、背中をゆっくりと擦った。できるだけ体温が伝わるように手のひらを背に当てるように。そうして動かしていたらだんだん温まってきたのか、アルの呼吸が落ち着いてきた。それと前後してアルの左手がおれの背中に回った。先ほどまでこれ以上ないほどに縮こまっていたアルの身体が弛緩して、おれの身体にゆったりと寄り添うようになる。布団の中に埋もれるようになっていたアルの顔から、苦しみの表情が消えたのを確認しほっとした。ああ、温かくなってきたんだな、と嬉しくなって、おれは思わずアルの細い身体を抱きしめた。

 アルの心臓の鼓動も、呼吸の音も、どこか甘い香りも、なにもかもが近い。自分がアルを抱きしめているのに、逆にアルに抱きしめられているようなそんな錯覚を感じる温かさ。肩甲骨の辺りに触れる小さな手が愛おしくておれは目を閉じた。できればずっと、こうしていたい。ずっと、抱きしめていたい……。



☆ちょっと出歯がめ☆



「……ただいま」

「ただいまー、栄。遅くなっちゃってごめんね!」

「母さん、そんな大声を出しちゃ。アルさんが寝ているかもしれないし」

「あ、そうよね。ごめんなさい。……栄はいないのかしら? こないわね」

「客間だろう、きっと。うっかり寝ているんじゃないか。昨日はほとんど寝てないと言っていたし」

「そうかもしれないわ。アルちゃんの様子、見てくるわね」

「ああ」


* * *


「……お父さん! ちょっと、ちょっと!!」

「何だ、慌てて。何かあったのか?」

「うーん、あったと言えばあるし、ううん。もうとにかくこっち! 見に来てくださいな!」

「おいおい、どうした」



「……お父さん、この状況どう見ます?」

「…………寝てるな、一緒に」

「そうじゃなくて! お赤飯炊くべきかどうかってことですよ!」

「…………は?」

「だって記念すべき栄の初めてってことも考えられるじゃないですか! それに万が一、初孫が」

「ないな。十中八九何もない」

「え~~~? 言い切ります?」

「ありえん。……あの栄だぞ? 口下手で不器用で奥手なおれらの息子だぞ?」

「……そうですね、確かに」

「まぁ初孫はそのうち見れるだろうし、こういうことは外野が騒ぐもんじゃない。ほら、着替えに行くぞ」

「あら、お父さんもそう思います? 私も早いんじゃないかと思ってるんですよ。あ、そういえば!」

「……今度は何だ?」

「ふふふ~。やっぱり今日はお赤飯にしようかしら、栄きっと初めてだろうから!」

「……何がだ?」

「ふふ、キスですよ、キス! うちには病人用の吸い口とかないでしょう? 栄がアルちゃんに水を飲ませるのに口移ししているはずなんですよ、絶対!! 栄、ファーストキスじゃないかしら。ふふ、よかったわぁ~相手がアルちゃんで!」

「興奮しすぎだ、落ち着け。……それにそれは口移しであって、キスと呼んでは」

「いいんですよ、名前なんてなんだって! 好き同士がするのはキスなんです! お父さんは乙女心というものがイマイチ理解できないかもしれませんが……」

「…………なんだっていい」

「あらお父さんつれない。いいわ、とにかく早く着替えて夕飯の用意しましょ。もち米はあったかしら~」

「……可哀想に、栄」

「えー? お父さん何か言いました?」

「……いや、何でも」



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