14 熱に酔う夜
先ほどまでだって確かに触れ合っていた部分だけれども、今の状況は確実に違う。
お互いに柔らかさを押し付けあった間から生まれていく熱。そして隙間から顔を出しては滑るように掠っていく小さないたずら。妖艶さを隠さずに微笑む瞳を見ていられずに目を閉じたら、感触がさらに鮮明になっておれを刺激するので、慌ててまた目を開けた。
……何なんだ、この状況……!
おれの動揺を知ってか知らずか、アルは唇を離そうとはしない。それどころかごそごそと両腕を持ち上げておれの首に回してきた。そうして更に密着した唇を、味を確かめるように舌を出して舐めてくる。器用に動く舌の感触に固まったままでおれは頭を巡らす。
……いやいや、これはアレだ。アルはスポーツドリンクの味とか甘さが気に入ったんだ。それでさっき自分の唇を舐めてて、今度はおれの唇に残った味を舐めて……。いや、アル…! 欲しいんだったら持ってくるからってさっきおれ言ったよな? もうおれの唇に味なんか残ってないよ! だから離すんだ、アル。じゃないと……!
おれは必死に葛藤しながら腕に力を込めた。まずはアルの腕を外して、距離をとらなければ。しかしアルはおれが何をしようと思っているのかに気づいたようで、さらに力を込めておれの首に腕を絡めた。
……ちょ、アル! これ以上このままじゃ、おれ……!
アルは瞬きして不思議そうにおれを見つめ、目を細めた。……まるで誘っているように。
……い、いや、そんなことは……アルに限ってそんなことはない! ダメだ、暴走するなよ、おれ! 前科があるんだからな、いくらアルが離してくれないからって、自分からいくことは自制しないと……!
おれがおろおろしているのが面白いのか、アルはにやりと笑い、唇を解放してくれた。その笑顔は今まで見たことのないような、アルらしくはない妖しさ。
アルはこんな顔もするのか、と少しの違和感を感じながら、ようやく改善した状況にほっと息をついて顔を離す。ついでに首に回った腕もとろうとするのだが、アルは笑ったまま拘束を解いてはくれない。
「……アル? あの、あれだよ。……甘い水が欲しいんだろ? 今持って来るからこの腕解いてくれないか?」
密着からは離れたものの、まだ近い距離で顔を突き合わせたまま、おれは懇願の視線を送った。アルが何を考えているのか分からない。前から分からなかったけれど、今は更に分からない。おれにどうして欲しいというのだろうか。
アルはおれをじっと見上げたまま、首を横に振った。離さない、ということだろうか。それでは困る、このまま身動きできないのはいろいろ困ることが多すぎる。
「なぁ、アル? どうしたんだ、一体何が……」
「……サカエ? あのね?」
ようやくアルが声を出してくれたので、ほっとしながら先を促す。
「ん? 何だ? 」
「うん、あのね。……もっと、欲しいの」
「うん、だから水だろ? 取ってくるから離してって……」
やっぱり水が欲しかったんだと納得して手を離すように言おうとして、アルの瞳がきらりと光ったのに目を瞠った。アルはおれの首に回した腕をするりと動かして悠然と微笑んだ。艶のある笑みには色気が多分に含まれていて、おれは目を大きく開けたまま無意識にごくりとつばを飲んだ。アルはにっこりと笑ったまま、赤く濡れた唇を開く。
「……違うの、欲しいのは、ね……」
アルは思わせぶりに呟きながら、光を放つ瞳をゆっくりと閉じた。
―ここまでされて理解できないなら、おれは男としてどうなんだろう。
そう思ったが最後、おれは必死に押さえつけていた衝動を解放し、誘われるままその赤い唇に熱を寄せた。
ぴったりと唇が触れ合うと、アルは薄目を開けて嬉しそうに笑った。その顔を半目を開けて見ながら、おれはアルの柔らかい唇を食むように何度も口付けた。口移しの触れ合いではなく、貪るような、キスを。
アルもそんなおれに応えるように、積極的に動いてきた。角度を変えて交わる唇は、まるで意思が疎通されているかのようについては離れ、またついては離れる。呼吸の間すらも同じタイミングで、離れるのが嫌だというように一瞬の後ですぐにまたお互いの唇を貪りあう。
唇を押し付けるだけのキスに物足りなくなったのも、やっぱり二人同時で、お互いの目を見つめあい、笑みを零しながら自然に舌を交わした。アルの小さな舌は挑戦的におれの領域に侵入してきて誘う。おれはそれを押し返しながらも絡め、アルの口の中を舌先で探る。上あごをなぞったら、覆いかぶさったおれの下で、アルの身体が震えた。アルの閉じていた瞳がすっと開いて艶然と微笑み、下にいるが故に口の中に溜まってしまった混ざり合った唾液を、彼女はタイミングを見計らって当たり前のようにこくりと飲み下した。そしてまた、微笑む。
―どこもかしこも、何もかもが愛おしい。
突き抜けるような衝動を全身で感じながら、おれは一度唇を離した。そして至近距離でまたアルの顔を見つめる。貪っていたその小さな唇は唾液に濡れて艶っぽく腫れているようだ。痛くないものかとそっと右手の親指で拭ってみたけど、彼女はにっこりと笑うだけだった。そしてまた、その唇で紡ぐ。おれを壊すような、ひと言を……。
「ねぇ、サカエ? もっと、ちょうだい……?」
溺れるように、おれは堕ちていった。彼女に誘われるまま、衝動に任せて存分に。
激しすぎるキスについていけなくなった彼女が漏らす声も、溢れる唾液が奏でる水音も、交し合う視線も、舌の熱さも、唇の感触も柔らかさも、全てがおれを煽って止まらない。……止まらない。
―アル、大好きだ、愛している……
この想いを受け止めてもらえたと思っていいのだろうか? このままおれは、君の全てを奪ってしまっていいのだろうか。なぁ、アル。尋ねたら返事をしてくれるかな。欲しいんだ、君が、君の全てが。……ああ、でも、アルは今熱を出しているしな。身体にさらに負担をかけるわけにも行かないよな。そうだよ、だって、いま、君は、熱を……
「熱!!!」
がばっと顔を上げたら、ふたりの間に透明の糸が伸びてふっと消えた。うわぁ、これが、と照れる暇もなく手で口を拭ってアルの様子を伺ったら、彼女はいつの間にかまた、眠りの世界へ落ちていたらしく、結局最後はおれ一人が暴走していたのだった。
「そうだよな、アルは熱があるんだから、無理させちゃダメだったんだよ!」
今更な事実に気がついておれはがっくりとうな垂れた。病人に熱烈なキスをするなんて、どんな無神経男だ。いくらアルから誘ってきたこととは言え……。そこまで考えて、おれはある事実に気がついた。
「……まさか、熱に浮かされて無意識だった、とかないよな……」
ちろりと半眼で彼女を見下ろせば、赤い顔はそのまま、深い呼吸とともに熟睡している様子だ。
「いつもよりなんか、すごく色っぽかった、し。普段のアルならあんなこと、しない、よな」
すやすやと子供のように眠るアルを見ていたら、自分の考えを肯定された気分になって、再びがっくりと肩を落とした。
―あんなキスしといて、それが熱の所為とか! ありえないし! ってかないよなぁ~。
しおしおとうな垂れつつも、アルの身体をきちんと布団で覆い、乱れた彼女の前髪を整えた。唾液で艶っぽく濡れた唇も、親指でそっと拭う。ふわりと柔らかい感触と、滑る生ぬるい感触を同時に感じながら、すやすやと眠る寝顔を見つめる。
……ああ、この唇とキスしたんだなぁ、さっきのは間違いなくキスだったよな。うん。舌……も、絡めたし、な。うん。
赤くなっているだろう頬を両手で挟むと、やっぱり熱かった。
……それにしても気持ちよかった。うん、すっごく良かった。……また、できるのかな……
そのまま妄想の世界へ飛び立ちそうな自分の頬をばんと叩いて無理矢理止めた。おれは何故いつも自分の都合のいい方向へばかり考えてしまうんだ。少しはアルのことも考えて……!
「……あれ、でも。アルから誘ってきたんだし、熱に浮かされてとは言え、アルにもそういう気持ちがあったと思ってもいいのかなぁ?」
寝顔をじっとみつめても、返事は返ってこない。ものすごく色っぽかった先ほどのアルは、無意識下にいるもうひとりのアルなのだろうか。いつかまた、あの姿をおれに見せてくれるときがくるのかな。いや、どっちのアルだって大好きだけどな。
「大好きって」
自分の考えに自分でツッコミを入れつつ、おれは立ち上がった。次にアルが目覚めたときに飲ませるスポーツドリンクを取りにいくためと、それと、トイレに行く必要があった。
「……好きになってくれたのかな、少しは」
期待半分、諦め半分の言葉を呟きながら、おれは客間の障子を閉めた。先ほどの情熱的なキスがアルの本心だったらいいと願う心にはそっと蓋をして。
それから先は、時間を見計らってはアルを起こし抱きかかえトイレに行かせ、意識があるうちに水を飲ませたりしながら(口移しでなくなんとかコップから飲んでくれた)過ごした。汗で水分が出るからといって、飲むものを飲んでいるのにトイレに行かなければまた先ほどのようにお腹を痛くするかもしれないと思ったからだ。アルはほとんど深く眠っていたが、時々浅くなるときがあって、寝言のようにおれの名を呼ぶのでそういうときを狙って声を掛けて起こすと目を開けてくれた。
自分の名前を寝言で呟いてくれるのは正直嬉しかった。アルの心の中におれがいる証拠のように思えて、知らず知らずのうちににやにやしてしまって、ハッと気づいては顔を直すことを夜中繰り返した。
夜も深まって丑三つ時。灯りを落とした部屋で、規則的な寝息を立てるアル。氷枕の中身を入れ替え、先ほどまた熱を測ってみたら少しだけ下がって三十七度七分だったから、少しは楽になってきたのかなと思う。おれは少し眠気はあったが、気分的には到底眠る気持ちになれなかった。
眠るアルを隣に、やることもなくぼんやりと座り込んでいたが、そういえばと思うことがあって自室へ上がっていった。
「お、あったあった。いや懐かしいな」
持ち出してきたのは国語辞典と植物図鑑。国語辞典は中学校から高校時代に使っていたもので、植物図鑑は小学生の頃に親父がどーんとセットで購入してきたものだ。シリーズ物で、他に動物図鑑と昆虫図鑑、乗り物図鑑とか宇宙の図鑑なんかもあった。部屋の本棚の一番下にずっとしまわれていたそれを、引っ張り出してきたのはアルが元気になったら一緒に見ようと思ったからだ。
灯りを落としてしまったので読めないかなと思ったが、丸く光る月明かりに照らされた縁側は結構明るかった。客間に続く障子を半開きにして、縁側に座り図鑑を開く。明るいとは言っても文字がぎりぎりで読める程度の明るさだ。まぁぼんやり眺める程度なら十分かと思いながら、ぱらぱらとページをめくる。
「えーと、何だ、夏の花だから……この辺か? あ、あった。ひまわり」
昼間アルが好きだといったひまわりのページを開いて、よく見えるようにそのまま縁側に寝そべった。板敷きの縁側は夜なのもあって多少ひんやりしたが、すぐに体温で温まって気にならなくなった。
大輪を咲かせる黄色の花は、図鑑の中でも大きく描かれ存在を主張していた。緑色の大きな葉も、太い茎も、何もかもが夏を代表しているように力強い。お袋が庭に植えたのにも何か理由があるとか言っていたけど何だったか。おれは首を巡らせて夜の月明かりの下で首を垂らして揺れるひまわりを眺めた。図鑑と同じ花が、暗い中でもやはり、存在を主張していた。
「ひまわり……へぇ、漢字もあるんだな。おお、よく見たら名前のまんまか、太陽に向かって咲く花だもんなぁ」
アルが目を覚ましたらぜひ教えてあげよう、漢字に興味持ってたしな……
……なんて思いながらぼんやりしていたら、いつの間にか朝になっていた。
「……はっ?」
燦燦と降り注ぐ朝の光が、もう夜ではないことを寝不足の目に痛いくらいに教えてくれてしきりに瞬きをした。図鑑を開いたままで突っ伏していたところから察するに、やはりあの時腹ばいになったのが敗因らしい。
「うわ、アホかおれ。……って、アル、アルは大丈夫か?」
目やにのついた目を擦り、口の端のよだれを拭いながら客間の障子を開けたらアルは相変わらず布団の中で寝息を立てていて、一瞬で緊張の解けたおれは大きくため息をつきながらその場に座り込んだ。
「……はぁ~」
一晩中起きて世話をするつもりだったのに情けない。時計を見たら五時半で、多分そろそろお袋が起き出してくるだろう。おれは情けなさでいっぱいの心を掻き毟るように髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回した後、顔を洗いに洗面所へ向かった。