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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
16/128

ちょっと横道③ その感情の名は


 ふわふわ、ふわふわと揺れているみたい。温かい何か柔らかいものに包まれて、揺られている感じ。


 ―あったかーい、お風呂みたい。


 そう思っていたのもほんの少しで、温かさは次第に、熱さに変わっていった。

 上がり続ける温度、体の内側から発せられる熱、そして痛み。柔らかかった何かも今では身じろぎするだけで肌への刺激が痛い。……ああ、どうなっているの、わたし。

 どうしようもできずに、体を丸めて、そして思い浮かべたのは、頼りになるあの人の姿。


 ―サカエ、痛いよ、熱いよ。……助けて。


「……アル? どうした、どこか痛い?」


 呼んだらすぐにサカエが返事を返してくれて驚いた。……傍にいてくれたの? 私の声が聞こえたの? サカエ、ねぇ、変なのよ、熱いの。助けて!


「………う……」


 でも言いたいことは何一つ言葉にならずに、ただうめき声が零れただけだった。体が重い、痛い。動かない、声も出ない。


「ちょ、アル! すごい熱だ! 大丈夫……なわけないか」


 意識も何かに囚われているように、自由にならない。サカエの声に返事がしたいのに、音さえも次第に遠くなっていく。近くに聞こえていたはずのサカエの声もいつの間にか聞こえなくなって、また暗い闇の底へ……。

 



 浮き沈みする意識が次に感じたのは、潤い。あ、水だ、と思った瞬間に喉の下に落ちていった。


 ―おみず、もっと、欲しい。


 わたしの心の中の声に応えるように、潤いは次々に落ちてくる。温かい水はなんの抵抗もなく喉を通り過ぎていく。味なんて分からない。でも、なんだかサカエにもらったあの甘い水のような気がした。普通の水とはちょっと違う、重さをもった水。


「……アル、しっかりしてくれ」


 あ、サカエだ。サカエの声。

 返事をしようとして口を開くのだけど、開いているつもりで全く動かない。体が自分の意思で動かない。

 ぎゅっと外から力が加わったのが分かった。そっと、何かに包まれている。


「アル……」


 掠れたサカエの声が、切なそうに私を呼ぶ。


 ……サカエ、どうしてそんな風に私を呼ぶの?


 聞きたいけれど、深い水底でもがいているみたいに、私の声は表に出ない。

 ふと、額に温かさを感じた。柔らかな質感の何かが、額にスタンプを押すように押し付けられては離れていく。


 ―温かい、何だろう、気持ち、いい? 降り積もる羽みたいに優しい、何か。もっと、ずっと、続いて、もっと……。


「……アル……」


 繰り返し呼ばれる自分の名前に、意識がふわりと上昇していくのを感じた。それと同時に体の感覚が私の元へ戻ってくる。


 ―ああ、サカエだ、サカエに抱きしめられているんだ。


「さ…か、え……」


 やっと口に出して呼べたのに、ひどく掠れて小さな声で、悲しくなって眉を寄せた。瞬きをしたら熱い熱い涙が、頬を伝って落ちた。何故か潤んだ視界の中で、サカエが指で涙を拭ってくれたのが分かった。ひどく優しいその指。またサカエに心配を掛けて、そして迷惑をかけている。


「サカエ……ご、めん、ね……めい、わく……を」


「迷惑なんかじゃない、アル。……大丈夫か?」


 ……迷惑をかけているに決まっている。サカエは優しいから、何も言わないだけで。


 ごめんなさいと言いたくて、やめた。どうしようもないのだ、自分には。何故こんなに体が重く、動かなくて、熱くまた痛いのか原因も分からなければ対処法だって分からない。迷惑をかけているのは分かっているけれども、サカエに頼るしかない。辛すぎて自分じゃどうにもならないのだ。


「……熱い、の。どう、したらいい、か、わからな……。それに、喉が、かわいて……る、みたい、な」


 正直に告げたら、サカエは渋い顔をして心配そうに目を細めた。


「アル……。とにかく水分とらなきゃな。汗いっぱいかいて熱を追い出すんだ」


 サカエはそう言って、傍らのあの見覚えのある入れ物を手に取った。それを私がよく見えるようにと目の前に持ってきてみせてくれるのだけれど、ああ、おかしい。焦点が、合わない。


「アル? 飲めるか? あれだ、甘い水」


 目線も定まらないまま、ただ頷いた。熱すぎて喉が渇く。さっきも水をもらっていた気がするけど、まだ、足りない。口を少し開いたら、サカエが容器の口を当ててくれて、水が流れてきた。けれども私の口には入らず、顎を伝って流れ落ちてしまった。

 流れた水をサカエが拭いてくれて、私は申し訳ない気持ちだった。せっかく飲ませようとしてくれているのに、飲めないなんて。


「……アル? もうちょっと口開けるか?」


 遠慮がちなサカエの声に、さらに申し訳なくなって必死で唇を動かすのだけれど、あれ、今動いているの? よく分からない、とにかく重くて、動いているのかすら分からない……。


「……ご、め、サ、エ……」


 『ごめん』すらちゃんと言葉にならない。唇さえも思うままに動かない苛立ちに焦る。

 どうしたら、いいの。またサカエに迷惑かけてる。サカエは何かを考え込んでいる。きっと私がちゃんとできないから、サカエも怒ってしまったのかもしれない。表情がなんだか険しいのだもの。


 ―サカエ、お願い、見捨てないで。


 願うように見上げているとサカエは何か決意したみたいに口を開いた。


「……アル、おれが口移し、するから。……もし嫌でも、我慢してくれ。方法がないんだ」


「……くち、う、つ…し?」


「ああ」


 『くちうつし』ってどんなもの? ううん、どんな方法だとしてもサカエのしてくれることだもの、嫌だなんてありえないと思う。

 ほとんど見えているのかいないのか分からないほど霞んだ視界の中で、サカエが動いたことは分かった。そしてサカエの顔がだんだん近づいてくる。私の顔に、影ができる。


 ―ああ、サカエ。そんな辛そうな顔、しないで。ごめんなさい、私のせいで。


 唇に、温かくて柔らかいものが押し付けられて少し驚いた。けれどもそのままぼんやりしていると、口の中に水が落ちてきた。瞬きをひとつしてもう一度サカエを見上げたけれど、伏せられた瞼に隠れてあの黒い瞳は見えない。それでも状況はなんとなく分かった。そうか、『くちうつし』って、口から口へお水を移動することなのね。

 考えながらも水を嚥下してサカエを見ていると、彼は私の様子を伺いながらまた水を含み、顔を寄せてきた。私は水が零れないようにできるだけ口を開けてそれを待った。


 ―はやく、ちょうだい。そのお水は甘くておいしいの。


 サカエの唇が押し付けられて、また水が落ちてくるのを期待したのだけれど、サカエは口を開けてくれない。私は今度ははっきりと私の目を見つめてくる黒い瞳を見つめ返した。


 ―どうしたの、サカエ?


 表情の読めないサカエの綺麗な黒い瞳の中に、私の顔が映って見えた。物欲しそうにする私の顔。


 ―与えられているというのに何て浅ましい。じっと待つのが私の置かれた立場でしょう


 どこか冷静な部分の私が後ろの方から叫ぶ声がする。そうよね、できるだけ迷惑かけないようにって決めたのよね。だったら。

 

 ―待つ、待つの? 待つべきなの? 欲しいのに、甘い水が。そうでしょう? そうなんでしょう?


 欲しがる私がそれに対抗している。そして勝手に行動する。纏まらない意識、ただ、何か強い感情が、理性に打ち勝って動くのが分かった。


 口の中で唯一動かせる舌を動かして、サカエの閉じた唇を刺激する。少しだけ触れたら、サカエはびくりと身を震わせて口を開いてくれた。そして流れ込んでくる、待ち望んだ潤い。甘い甘い水。


 ―そうだよ、これが欲しかったの。


 欲しがる私が、欲望が、満足気な声を上げて喜んでいる。けれどもまだ、満たされない。それが分かる。ぺろりと唇を舐めたら、やっぱり甘い味がした。


 ―ああ、私、これが好きなの。もっともっと、欲しい。


 それを与えてくれるサカエを期待の目で見上げるのだけれど、彼はまた何かを考え込むようにじっとしたままで、動こうとしない。戸惑うように視線を彷徨わせては私を見つめてくる。


「……さ、かえ? ……もっと、ちょうだい?」


 するりと出て行った言葉に、また理性が反発していた。勝手に行動する欲望を叱っているのだけれど、その声は小さい。彼女もまた、闇の中に引きずり込まれそうになっている。

 私の中心はその攻防を傍で眺めては立ち尽くすだけ。私は……どうしたらいいのかわからない。けれども強く主張する欲望に私自身も引きずられている。……欲しい、欲しい。


「あ、ああ……」


 了承の返事が返ってきたことにほっとして欲望が笑った。にやっという笑い方を、下品だとかなんとか非難しながらも、理性はその気配を徐々に薄めていく。


 サカエの顔が再び近づいてきて、また柔らかい唇の感触が降って来た。そして素敵な味のする水。こくこくと飲み干すとサカエは次の一口をくれる。何かに戸惑っていた先ほどまでの彼とは違い、間を置かずに与えてくれる。

 ぼんやりしながらまた瞳の中の感情を探ろうとするのだけど、彼の瞳はあまり多くを語らないようだ。ただ少し、揺れているように見えるだけで。


 ―サカエ、何を考えているの? サカエ、どうしたの?


 唇同士を合わせたまま、私の意識は更に混濁してきた。理性が苦しそうに叫んでいる。中心にいる私もまた、落ちていきそうな感覚から一生懸命踏みとどまってサカエを見つめる。


 ―優しいサカエ、困らせているなら、ごめん、なさい


 ―だけどね、サカエ。もっともっとちょうだい、欲しいの私。甘いお水も、その柔らかい感触も。たくさん、欲しいのよ。


 ああ、何かがおかしい。バランスが崩れている、完全に。今までは理性の方が絶対的に強かったのに、なぜ今欲望にこれほどまでの力があるの?……欲望、強く望む気持ち、そんなものが私の中にあったなんて……


 ―ううん、違うよ。生まれたの。熱の中から、今生まれたところなんだよ……


 くすくすと笑いながら欲望が説明をする。生まれた? どういうこと? 子供のような甲高い声を響かせる欲望は、私の戸惑いにさらに声を上げて笑った。


 ―ニンゲンってそういうものなんだって。欲望が強いんだって。身体が今ニンゲンに変わろうとしているんだよ。だから感情だって生まれるよ、ニンゲンの持つ感情は強いし、たくさんあるんだから。


 甲高いその声の反響に揺さぶられて、既に落ちそうになっている私の意識が一瞬途切れた。欲望が何を言っているのか、理解したいのにその時間すら与えられない。……自分の、中のことなのに。


 ―だぁーいじょうぶだよ。次に目を覚ましたときには分かるから。さあゆっくり眠っていて。後は私の自由にするね。


 ……自由って何をするつもりなの? 私の意識が沈んでも、あなたは起きていられるの?

 不安に駆られて最後の最後まで踏みとどまるのだけれど、子供のような欲望はもがく私をくすくすと笑うだけで。


 ―ふふ、ちょっとならね。でも勘違いしないで? 私はあなたの中の一部なんだよ? あなたがしたいと思うことを私がやっているの。いずれ分かる、すぐに統合するから安心して……


「アル、まだ飲む?」


 遠くの方からサカエの声が聞こえた。でも返事もできない。私はもう沈む寸前で、目だって見えていないのに。するとひとり元気な欲望が、また勝手に身体を動かした。……自由には動かない身体で、ただ口を開けただけだけれど、サカエはまだ私が水を欲していると理解したようだ。


「……じゃ、ちょっと待ってて、」

 

 サカエが返事とともに、私の身体を横たえる感じが伝わってきた。支えられていた腕の力強さと温かさが離れて少し切ない気持ちになった。そんな私の思いを見透かすように、欲望がにやりと笑い気配を増した。


 ……何を、したいと……?


 ―うん? だって途中からお水より欲しかったものがあるでしょう? それが私が生まれた本当の理由だよ。大丈夫、安心して眠ってて。


 ……ちょっと、待って……


 そう言おうと開いた口に何か、柔らかいものを感じた。慣れたような感触の、何か。でもそこまでで最後、私の意識は完全に闇に絡め取られて落ちた。欲望が私の顔で楽しそうに笑っていた。



 ……お水よりも、欲しかったものって、何……?




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