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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
15/128

13 戸惑い

 そのままどれくらいの時間が経過したのだろう、はっと気づいたときには外も部屋の中も真っ暗になっていて、おれは慌てて電気をつけた。眩しすぎないように調整して首を巡らせて時計を見てみたら、まだ六時、そんなに時間は過ぎていなかった。


 アルは寝かせた時の姿勢のまま目を閉じていた。呼吸のリズムから察するに眠っているのだと思う。おれは詰めていた息をゆっくりと吐き出してまたアルの額に手をやった。……冷たかった額は平熱の体温くらいに温まっていた。布団に入って眠っているうちに温まったのだろうか。


「冷えているよりはいい、のかな」


 おれはほっと息をついて立ち上がった。アルの様子が落ち着いたことを親父達に報告しておいた方がいいだろうと思ったからだ。

 親父とお袋は居間で心配そうな顔を寄せ合っていた。アルが眠っていることを伝えると、二人ともほっとしたように笑った。「じゃ、ご飯にしましょう、アルちゃんには悪いけどね」とお袋が言って、三人で夕食を取った。心配したほどはアルの様子も大変ではなさそうだったので、このまままた元気になるんだとそう思っていた。



 食後すぐに客間に戻ったらアルの姿勢が変わっていた。体を丸めるように縮め、小さくなっている。

 おれは枕元に膝をついてアルに声を掛けた。……ちょっと変な感じがする。


「……アル? どうした、どこか痛い?」


「………う……」


 アルからはまともな返事は返ってこなかった。だが少しだけ聞こえた唸るような声がおれの耳に届いた。どうしたというのだろう、さっきは全然なんともなさそうだったのに。

 額に手をやって驚いた。先ほどからほんの一時間足らずでものすごい熱さになっている。


「ちょ、アル! すごい熱だ! 大丈夫……なわけないか」


 自分の手の感覚が信じられず、おれは居間に走って戻って体温計を取りに行った。駆け込んできたおれに、親父もお袋も目を丸くしていたので、


「アルが熱出したみたいだ!」


 とだけ言い置いて、また走って戻る。


 わきの下に入れるタイプの体温計だったので、少し考えたがどうしようもなく、おれはアルのワンピースの首もとのボタンを少し外し、体温計を差し入れた。少し触れた肌はやはり、熱を持っている。じりじりと焦れる気持ちをもてあましながら体温計の計測を待ち、しばらくの後で水銀の位置を確かめた。


 ―三十八度。


 見づらいが示しているのは確かに三十八の線で、おれは眉を顰めた。かなりの高熱だ、体も痛くなっているに違いない。

 アルは横向きになって更に体を丸くした。辛いのだろう、全身に力が入っているようにがちがちだ。室内を白く照らす照明の下、アルの顔は真っ赤になっている。もうしばらくすると汗がたくさん出てくるはずだ。


「……栄、どう? 熱は何度?」


 客間の障子の影からお袋が顔を覗かせて小声で聞いてきた。


「……三十八度だ。お袋、アルのパジャマは?」


「洗っておいたわよ、ほら、そこの端っこに畳んであるのがそう」


 お袋が指差す方向をみれば、昨日着ていた花柄のパジャマが客間の隅に畳まれていた。


「……替えはないよな? 多分すごい汗かくと思うから……ってかお袋、アルの着替え頼めるか?」


「あら、栄がやれば……酷よね、それも。いいわ、じゃあ栄は氷枕とタオル用意してきてちょうだい」


 一瞬お袋はすごいことを言いかけたが、頼まれてくれた。おれはこれから何が必要なのか、頭の中で必死に考える。熱を出したときは、水分とって汗かいて熱を下げるしかない。パジャマはおれのTシャツとかジャージとかで代用して……はっ、水分?


「……お袋、家に病人用の水差しってあったっけ?」


「あらないわよ。お父さんも栄も滅多に病気しないじゃない。ご近所で羨ましがられる健康一家なのよ、うちは」


 おれの希望を打ち砕くにべもないお袋の言葉にがっくりと肩を落とした。水差しがない、となれば水分補給の方法はひとつだ、アルの意識のないうちはまた、アレを……。

 無言のまま去っていくおれの背中を、お袋が一瞬きょとんと見つめた後でにやりと笑ったことなどおれはもちろん知らない。


 がっくりしたのも束の間、おれは急いで必要なものをかき集めて客間に戻った。たぷたぷと揺れる氷枕を片手に、スポーツドリンクとタオル、パジャマ代わりのシャツなどなどをもう片方に。静かに客間に入るとちょうど、お袋がアルにパジャマを着せ終わって布団を掛け直しているところだった。


「……熱がかなり高いけど、解熱剤もやめておいたほうがいいのよね、きっと」


 お袋が小声でおれに言った。そういえば薬のことは考えていなかったが、お袋の言うとおりだろう。効く効かないの前に、変な作用を起こしては危険だ。


「ああ、多分」


 短く答えて枕元に移動し、アルの頭を持ち上げて枕を氷枕に変えた。ひんやりとした温度を感じ取ったのだろう、アルは一瞬緩んだ顔になってほっと息を吐いた。

 ……やっぱり多分、何とかこの熱を下げるしかないんだ。薬も危険だし、医者も危険。となればおれ達がなんとかするしかない。


「明日は日曜だし、栄、あなたアルちゃんの看病してあげなさい。お母さんも付き添ってあげたいんだけど、明日……」


 口ごもったお袋におれは安心させるように手を振って軽く言った。


「明日同窓会だろ? 前から言ってたもんな、知ってるよ。大丈夫だから、行ってきてよ」


「でもお父さんも……」


「あー、わかってるって、同級生なんだから、同窓会だって一緒だろ? 分かってるから、大丈夫だよ何とかするから心配しないで」


 申し訳なさそうに下を向くお袋に、できるだけ軽い調子で声を掛けた。親父とお袋がアルが来る前からずっと楽しみにしていたのを知っている。おれとしては親父とお袋が手伝ってくれるにしてもアルの面倒は見るつもりだった。一晩徹夜しても明日は仕事もないし、昼間多少仮眠を取れるくらいまでアルが落ち着いてくれればそれで大丈夫だと思う。


「……無理は禁物よ、栄。あなたまで倒れちゃったらアルちゃんを世話する人がいないんだから」


 おれの思考を読み取ったようにお袋が言う。


「大丈夫だよ、健康一家の長男だろ、おれは。体力だけが自慢なんだからさ」


 お袋の心配はもっともだが、おれは通常男性の二倍くらいの体力は身につけているつもりだ。曲がりなりにも職人で炎天下の中何時間も作業をするのだから。……睡眠不足に免疫はないが、それも最近慣れてきているし。

 おれが胸を張ってそういうと、お袋はやっと安心したようにほっと笑った。


「……何かあったら呼びなさいね」


 そういい置いて、お袋は去っていった。

 再び静かになった部屋の中、アルの寝息が苦しそうに響く。規則正しいリズムではなく、整わない息を何とか整えるときのような浅い呼吸。


 ―どうしたらいい?


 簡単に熱を下げる方法があったら今すぐに縋りつきたい思いを堪え、おれはアルの顔を見つめた。せめて呼吸が楽になればいいのにと思うが、どうしたらいいのか全くわからない。熱が高すぎるのが原因だとは思うが……。

 結局おれにできるのは水分を与えて汗をタオルで拭うことくらいしか思いつかない。ちろりと横目で青い例の缶を見てまたアルの顔を見つめる。……疚しい気持ちではないんだ、決して。


 カシッと缶の蓋を開け、準備してからアルに声を掛けた。返事がないだろうことは、分かっていたけれども。


「……アル? 水、飲める?」


「…………」


 目を閉じたままのアルはやはり眠りの中にいるようだった。おれは大きく深呼吸をしてからアルの首の下に左手を入れて上体を起こした。できるだけ布団から体が出ないように、おれが敷布団の上まで体をずらして上体を支えた。左手のひじの辺りで頭を安定させ、右手でずれた布団を掛け直す。

 手探りで缶を探し手に握って再び深呼吸した。またこれをやることになるとは思っても見なかったけれど、どうしようもない。


 意を決してスポーツドリンクを口に含み、アルの唇に顔を寄せる。

 触れた柔らかさよりも熱すぎるその熱に眉を潜ませながら、ぴったりとくっつけた唇から、少しずつ水を流しいれた。アルの喉がこくりと水を嚥下するのを見てほっとしつつ、次の水を口に含む。

 缶の半分ほどを飲ませたところで一息つきアルの様子を伺った。相変わらず顔は赤く、呼吸も荒い。


「……アル、しっかりしてくれ」


 眉を顰め、呟きと共にアルを抱きしめた。抱え込んだアルの頭はやはり高い熱を発していて、水分をとったせいかじんわりと汗がにじんできている。


「アル……」


 ―このまま熱が下がらずに、どうにかなっちゃうなんてことは、ないよな。


 もう祈るような気持ちでただ、アルを抱きしめた。自分の頬をアルの額に当てて目を閉じる。この手に、頬に感じるアルの高い体温と重みがどうしようもなく愛おしく、また恐ろしい。


 ―死なないでくれ。……どこにも、行かないでくれ。


 寄せた頬をずらし、額に口付けるように唇を押し付けていた。自分自身が熱の生み出す夢の中にいるように、恥ずかしいとか照れとかそういう気持ちすら起こらなかった。ただ、ただ願うだけ。


「……アル……」


「さ…か、え……」


 その小さな小さな呟きが聞こえた瞬間、おれは目を開け顔を上げた。すぐ至近距離にあるアルの顔を確認する。


「っ、アル!?」


 薄っすらと目をあけたアルが、涙を溜めた瞳を左右に彷徨わせていた。瞬きをした瞬間に零れ落ちる熱い雫。開いた右手の親指でそっとその涙を拭うと、アルは小さく唇を開けた。


「サカエ……ご、めん、ね……めい、わく……を」


「迷惑なんかじゃない、アル。……大丈夫か?」


 アルの言葉の先が読めてあえて遮って否定した。迷惑だなんてこれっぽっちも思っていない。ただ、ただ心配なだけだ。

 緑がかった茶色の瞳が、不安げに揺れてまた閉じられた。アルは大きく息を吸って吐き、再びおれを見上げた。唇が震えるように動き言葉を紡ぐ。


「……熱い、の。どう、したらいい、か、わからな……。それに、喉が、かわいて……る、みたい、な」


「アル……。とにかく水分とらなきゃな。汗いっぱいかいて熱を追い出すんだ」


 可哀想に、熱を出すなんて初めての体験だろう。きっと節々も痛くてどうしようもなく心細いに違いない。おれは半分ほど残ったポカリの缶を手に取り、アルの目の前にかざした。


「アル? 飲めるか? あれだ、甘い水」


 うつろな目をしたアルは、かすかに頷いて薄く口を開いた。おれは缶の飲み口をアルの唇にあて、慎重に倒していったがポカリはアルの口には入らず頬を横に伝って流れてしまった。慌てて置いてあったタオルで拭う。


「……アル? もうちょっと口開けるか?」


 おれの言葉に反応したアルは懸命に口を開けようとするが、開いては閉じ開いては閉じを繰り返し、どうも口を大きく開ける力も上手く出せないようだった。アル自身もそれがわかったようで、上手く動かない焦りを眉に寄せた。


「……ご、め、サ、エ……」


 喉の奥から搾り出すように声を出すアルが痛々しく、おれは大きく首を振った。決してアルのせいじゃない、だから気にするなと言ってやりたくておれ自身、胸が苦しくて声が出せなかった。


 ―何とかしてやりたい、何とか。


 ない頭を振り絞ることもなく方法はたった一つしかなかった。アルに水を飲ませる方法、それは幾度となく繰り返したあの手段だけ。ただ今までと違うのは、今のアルには意識があるということだ。

 意識のある彼女に口移しなどをしていいのか悪いのか、おれにはどう判断したらいいのかもわからない。嫌がられたらどうしよう、そう思いつつ他の方法もない。顔を赤くして苦しそうに熱い息を吐き出すアルを前に、やるしかない、そう思った。もしアルが嫌がっても、水分を取らなければ熱を下げることもできないのだ。


「……アル、おれが口移し、するから。……もし嫌でも、我慢してくれ。方法がないんだ」


「……くち、う、つ…し?」


「ああ」


 アルの目が疑問を訴えて瞬いたが、説明できるような言葉を持ち合わせていなかった。口に出してしまったら、アルもおれも恥ずかしくなってできなくなるような気がして。

 おれは缶に口をつけ、少な目の量を含んだ。そしてぼんやりと見上げてくるアルの目を見つめながら距離を縮めていく。


 ―頼むから、拒絶しないでくれ―


 祈るような気持ちでそっと、唇を合わせた。触れ合った瞬間、アルの唇が少し動いたがかまわず少し口を開いて水を流し込む。アルは口移しの意味さえ分かっていなかったようだが、素直に水を飲み込んでくれた。こくりと動いた喉を見て、またアルの目を覗き込む。

 アルは相変わらずぼんやりした瞳のままで、拒絶の色はない。少なくともこのまま続けていいのだとほっとしつつ、次の一口を含む。近づいていくおれの顔をアルはじっと見つめたまま、唇を開いた。


 ―受け入れて、くれている?


 目と目を合わせたまま、唇が触れ合う。アルの瞳の奥底で、鈍い緑の光が輝きつつおれの顔を映し出している。ぼんやりとそれを見つめたままでいると、閉じた唇を刺激する何か、小さなものを感じた。

 それは言わずもがなアルの舌で、唇をくっつけたはいいがなかなか水をくれないおれを急かしての行動だった。慌ててそっと口を開いたら、アルは目を細めて水を飲み込んだ。

 まさかそんな行動を予想もしなかったおれは、半ば呆然としながら顔を離した。アルはおそらくほとんど無意識に、ただ水を欲しているだけだとどこか冷静な部分のおれが言った。


 ―ほら、こんな風に舌をだして唇を舐めていても、誘ってるわけじゃないんだ、決して。


 アルは唇についたポカリの味を確かめるかのように、小さな赤い舌を覗かせていた。……正直言って今のおれには刺激の強い光景だった。上気して赤くなった頬で、熱で潤む瞳で、そんな彼女が見せる艶っぽい仕草。しかしそれは絶対に無意識の行動だと、そんな都合のいい展開ではないんだとおれは必死に考えた。

 だってアルだ。子供みたいにはしゃぐ彼女だ。きっと唇が触れ合う今だって、キスだとはこれっぽっちも考えていないはず、それより先にキス自体を知らないかもしれないじゃないか。


「……さ、かえ? ……もっと、ちょうだい?」


 ……違う、アルは水が欲しいだけ。これはおれの、おれの心の中だけの疚しい感情なんだ。


「あ、ああ……」


 改めて確認し、自分に言い聞かせたおれは、できるだけフラットな感情で三度(みたび)缶を傾けてアルに顔を寄せた。アルのほうも慣れてきたのか、口を開けて待っている。


 ―アル、君には分からないだろう。おれがどんな気持ちで、こうして君に唇を寄せるのか。


 今分かられても困るくせにと自嘲の笑みを零しながら、できるだけ作業のようにアルに水を与えた。三百四十ミリリットル入りの缶の中身が空になるまで繰り返して、まだいるだろうかとおれはアルを覗き込んだ。飲むなら台所に行って取ってこなければならない。


「アル、まだ飲む?」


 目を見ながら尋ねると、彼女はとろんとした目で口をパクパクさせた。これはまだ飲むという意味だろうと解釈したおれは、支えていた左手を下げながら、アルに言った。


「……じゃ、ちょっと待ってて、新しいの取ってくるから……って、え?」


 おれはただ、アルの上体を支えていた腕を下ろし、彼女を布団に寝かせようとしただけだ。できるだけそっと、負担をかけないようにと思って、自分も屈んだのは確かだけれど、それがこんなことになろうとは。


 アルの顔の近くに寄ったおれの顔に、アルのほうから少し顎を上げて、唇を寄せてきたのだ。


 ……あまつさえ……彼女は舐めた、のだ。



 おれの、唇、を。



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