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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
14/128

12 急変



 おれたちは夕方の縁側で並んでチョコレートを食べていた。

 さっき買ってきたばかりのチョコレートをアルが手放さなかったので、「そんなに握ってると溶けちゃうぞ」と言ったからだ。


 おれの台詞に首を傾げたアルは、本当に溶けてしまうのか確かめるべく、しぶしぶ周りの紙を剥がし、銀紙を破った。


「あ、ほんとだ」


 銀紙の端から中を覗いたアルは、瞬きをしながらおれの顔を見た。おれとしては予想通りだったので、アルの驚いた反応が楽しくてにやにやしてしまう。


「むー、サカエいじわるだ。笑ってる」


「ごめんごめん、いじわるじゃないって。アルの反応が面白かったから、ちょっとな。……それで? アル。チョコは食べないと溶けちゃうぞ。じゃなきゃ冷蔵庫にいれないと」


「溶けちゃったらどうなるの? なくなるの?」


「いや、無くならないけど食べられなくなるなぁ。そのまま持ってたらな、どろどろーって溶け出して手がべったべたになるぞ」


 そこまで言うと、アルは慌てて銀紙を大胆に破り、茶色いチョコにかじりついた。ちょっと溶けかかったチョコレートが、アルの口の中で更に溶けていくのだろう。アルは不思議そうに首を傾げながら口をもぐもぐさせていたが、はっとおれに向き直って目を見開いて言った。


「……口の中で無くなっちゃったよ?」


 どうしてそうなったのか全く分からない、というその表情に、おれは吹き出したくなるのを堪えて言う。本当に、可愛い。


「ああ、チョコレートはそういう食べ物なんだ。普通の食べ物はもぐもぐ噛んで飲み込むものだけど、チョコは温度が高いところでは溶けちゃう性質だから、口の中に入れると溶ける。で、いつの間にか飲み込んじゃうだろう? だから無くなったと感じたんだ」


 おれの説明にアルは手元のチョコをじっと見て、「ふーん」と言った。そしてもう一口齧る。


「……不思議ね、でも甘くておいしい」


 にこっと笑ったアルから、チョコレートの甘い香りが立ち上がってくる。女の子はチョコレートみたいだと誰かが言っているのを聞いたことがあったけど、本当にそんな感じだ。


 ―アルはチョコみたいに甘い笑顔をおれにくれる。甘い気持ちも。


 ほんわかした気持ちで笑顔をアルに向けて頷くと、アルはチョコレートを差し出してきた。


「はい、サカエも、食べて?」


 なんの他意もない、ただ共有したいという思いから差し出されたチョコに、一瞬ぐっと詰まった。……これは、このシュチュエーションは何だ? あれか、『あーん』か、そうなのか!? それとも間接キスと言うべきか? どちらにしても、どちらにしても、何だ、この甘い感じは!!!


「? サカエ? チョコ嫌い?」


 おれが何も言わずに固まってしまったのをどう思ったのか、アルが首を傾げて聞いてきた。……嫌いじゃない、もちろん、チョコは好きだし、アルに差し出されて食べないなんて選択肢もない……!


「あ、いや、好きだよ? じゃちょっともらう」


 おれの言葉ににこっとしたアルは、おれが食べやすいように口元までチョコを持ってきてくれた。おれはチョコを見つめてごくりとつばを飲み、そして口を開いた。

 歯を立ててひとかけらチョコを割って顔を離す。嬉しそうに笑うアルの顔を見ながら、どんどん溶けていくチョコを味わう余裕なんてなかった。ただ感じたのは、いつものチョコよりも数段甘かった、ということだった。


 ―まるでカップルだろう、こんなの


 夕方の縁側、おれの顔が少し赤くなっていることはアルには気づかれなかったようだ。嬉しそうにチョコを齧るアルは、その後も何度かおれにチョコをくれ、板チョコが全部なくなるまで甘い空気が途切れることはなかった。




「ねぇ、サカエ。あそこに咲いている花は何というの? 地上の植物には名前があるって聞いたわ」


「え? ああ、あれのこと?」


「そう、大きな葉っぱに大きな花の黄色いあれ」


 チョコを食べ終わって甘くなった口を、麦茶で中和している頃だった。不意にアルが庭に咲いている大きな花を指差して言ったので、おれはアルの指の先に咲く花を見て、確認してから答えた。


「あれはひまわりだよ。夏に咲く花なんだ。真ん中の部分は種で、油が取れる」


「ひまわり、かぁ……。黄色くて大きくて、まるで太陽みたいな花ね」


 アルの素直な感想に、おれも一緒になってひまわりをじっと見つめた。花なんて普段、注意して見ることもないし、咲いていることに気づくことすら稀だ。ひまわりは有名な花だから名前も知っているが、他に庭に植えられた様々な植物の名前を、おれは答えることはできないだろう。

 お袋が縁側の目の前、塀沿いに育てているひまわりは、太い茎をぐいぐい伸ばして成長し、今十本くらいが重そうな花をつけ太陽の方角を向いている。


「太陽みたい、っていうのはあながちずれてないよな。ひまわりは太陽の方角に向かって咲くんだって、どこかの本に書いてあった。ひまわりは太陽が好きなんだ」


「そうなの? ふふ、素敵ね……私も太陽好きだし、ひまわりと一緒」


 ひまわりはそっと吹いてきた風に大きく揺れながらも存在感を放ち続ける。こんなに大きな花を今まで見過ごしてきたことが驚くべきことのように感じる。アルが植物に興味があるなら、これから勉強して教えてやらないとなと思ってぼんやり前を見ていた。アルも無言で、風に揺れるひまわりに魅入っている。


 ……ひまわりか、ひまわりなら確か隣町に大きなひまわり畑があるって洋二が言ってたな……、今度



 そうやってしばらくぼんやりしていたが、こてん、とアルの頭がおれの肩に凭れ掛かってきて、おれは考えを中断した。


 チョコを分け合って食べ、縁側で寄り添って花を見ていることだけでも幸せでぽわぽわしていたのに、またも訪れたカップルシュチュエーションに、おれの鼓動は大きく跳ねた。

 こんな風に、おれに体重を預けてくるということは、アルにもおれへの特別な気持ちがあると思っていいのだろうか。目線は前に固定したまま、知らず知らずのうちに止めていた息をゆっくりと吐き出した。


 ……いや、落ち着け、おれ。アルのことだ、何の他意もないに違いない。疲れたとかそういうアレだ、うん。


「……アル? どうした? 疲れたのか?」


 十二分に思考と鼓動を落ち着かせた後で、おれはアルに声を掛けた。角度的にはアルのつむじしか見えない。


「……う……ん、なんかちょっと……よくわからないんだけど……」


 アルの声の弱弱しさに、おれははっとしてアルの体に腕を回し支えてから、その顔色を伺った。……赤い? いつもの頬よりも、若干赤くなっている気がしてアルに問いかける。


「アル? 熱いのか? 水飲むか?」


「ううん、なんか……体が重いの……お腹も痛い、ような……」


「お腹?」


 お腹が痛いと聞いておれはハッとした。そういえば、食べるのが初めてなアルには、トイレだって初めてなんじゃないか? 自分が行くのが当たり前すぎて、トイレの使用法まで教えていなかったことに気づき、おれは真っ青になった。

 待てよ、アルが家に来てから何日目だ? 固形物をあまり口にしていないとはいえ、水とかスープとか普通に飲んでたのに、ずっとトイレに行ってないなんてありえないだろう、そりゃ体調も悪くなるよ!


 おれは慌ててアルを抱きかかえ、廊下を急いだ。台所に顔を突っ込んでお袋を呼ぶ。


「お袋! 悪いんだけどアルに、そのトイレの使い方教えてやってくれないか? 男と女じゃ違うんだろうし、その……」


 切羽詰ったおれとは間逆の、のんびりした響きが返ってきた。


「あら、トイレのことなら前に教えておいたわよ。初めてじゃないわ。どうしたの、アルちゃん。お腹壊しちゃった?」


 お袋はいつも通りの口調でそういいながら、おれに歩み寄ってきて腕の中のアルの顔を覗き込んだ。


「いや、よく分からないんだけど、お腹痛いって言うから、おれ、トイレに行ってないんじゃないかと思ってさ」


「……アルちゃん? おトイレの使い方は分かったのよね? あれから行ってないの?」


 おれの腕の中でじっと目をつぶっていたアルは、お袋の優しげな声に目を細く開けた。


「……は、い、分かります……でも、いつ行ったらいいかわからなくって……あれからは、まだ……」


「あら、それはよくないわね。栄、とにかくトイレに連れて行って篭らせてあげなさいな」


「お、おう」


 おれはお袋に言われるままにアルをトイレに連れて行った。心配だが流石にトイレの中で見守るわけにも行かず、アルをひとり残し、ドアを閉めた。

 女性はトイレの音を他人に聞かれるのも嫌だろうと一旦はそこから離れたが、アルが心配で心配で、何かあったら駆けつけられるよう廊下の端で待機していた。


「あれかしらね、アルちゃん」


「うわ、びっくりした!」


 突然お袋が背後から話しかけてきた。廊下の端はつまり台所の入り口だった。お袋はおれが驚いていることを意に介さず話を進める。


「赤ちゃんと同じ感じ? いつおしっこするとかうんちするとか赤ちゃんってコントロールできないじゃない? アルちゃんの場合は体も心も大人だから、お漏らしするとかそういうことはなくても分からないのかもしれないわね、トイレに行くタイミングが」


「あー、そういうものか」


 何もかも初めてのアルだ、そうなのかもしれない。お袋の妙に説得力ある見解に、おれは唸って頷いた。

 天使には食事も睡眠も必要ないなら、排泄だって必要ないはずだ。そんな彼女が人間の体になった。いままで必要なかったアレコレが必要になって、でもその必要性にアル自身は気づけないに違いない。

 お腹が空いたとか喉が渇いたとかいう感覚が掴み切れていないんだろう、それまでその感覚はなかったのだから。同じようにトイレだって、「いまだ!」というタイミングが全く分からなかったのだろう。だから腹が痛いというシグナルを送ってきて初めて、その可能性に気づいたということだ。


「あれね、アルちゃんに子供と同じ教育したらいいのかもね。起きて、おトイレ行って、顔洗って歯磨きして、ご飯食べて……みたいな。人間は一日こんなことしてるのよって具体的に」


「……うかつだったな、気づけなかったのは」


「そうね、私たちにとっては当たり前だからなかなかね。これからは気をつけましょう。……でも大丈夫よ多分。トイレから出てきたらまた客間に寝かせてあげなさい、ああ、お布団敷いてくるわね」


「ああ、ありがとう」


 お袋が客間に向かったところで、トイレから水を流す音が聞こえてきた。おれは短い距離を走っていって、ドアが開くのをじりじりしながら待った。ドアの隙間から顔を出したアルは、疲れきった様子で声もない。


「アル? 大丈夫か?」


「……う、ん……」


 肯定の返事を返してくれたものの、足にも力が入らない様子だったので、おれはアルの肩に手を回した。


「ちょっと抱き上げるよ、いい?」


 アルが拒否しても抱っこして運ぶつもりで体勢を作りながら尋ねた。アルは真っ白な顔で目を閉じ、辛そうに頷いた。トイレに行かなかったことでこんなにも体調を崩すものかと眉をひそめながら、おれはアルの膝下に手を入れて抱き上げた。

 アルはぐったりと体重を預けてくる。相変わらず軽いが、おれに遠慮なく凭れ掛かってくるのだから相当辛くて意識の働かない状態なのだろう。

 客間に入るとお袋が整えた布団の枕元に座っておれを待っていた。そっとアルの体を横たえたら、お袋が心配そうに顔を覗き込む。アルは目を閉じたまま、ぐったりとして何も言わない。もしかしたら意識が曖昧になっているのかもしれない。


「……思ったより顔色悪いわね、アルちゃん。お医者様呼んだほうがいいのかしら」


 お袋の呟きを、おれは布団を掛けながら聞いていた。同じことを考えていた、医者を呼ぶべきなのだろうか、と。でも。


「……でもアルは天使だ」


「そうなのよねぇ……人間になってるってアルちゃんは言ってたけど、もし、もしもよ? お医者さんに診せて人間じゃないってばれちゃったら、アルちゃんどこかの研究施設とかに連れてかれちゃったらどうしようってお母さんは思うのよね」


 内容にはつっこみどころがあるが、お袋は手を頬に当てて至って真剣に考えている。ちょっとぶっ飛びすぎじゃないかと思うが、おれも大体似たようなことを考えていた。


「医者におかしいと思われるのも問題だけど、それより先にアルがここにいることが他人にバレるのがそもそも問題だよ。昼間はうっかり連れ出したけど、よく考えたら彼女はまだ人間としての戸籍がない。この人誰ですかってなったら身元を証明するものがないから、どっか連れてかれちゃうのかも」


 あの黒髪美人も言っていた、『警察に電話しても身元不明になるだけだ』と。おれは今頃になって昼間スーパーに連れて行ったことを後悔した。

 アルは見た目は外国人だ。髪も染めたような色ではなく透明感のある茶色だし、瞳の色や顔の造作など日本人離れしている。誰かおれの知り合いに見られていて、あの子誰だよといわれたら、おれは何て答えられただろう。


 考えを言い合ったおれたちは、視線を合わせたあとでアルの顔を見つめた。血の気が引いた顔色で、眉が辛そうに少し寄っている。……本当は医者に診せたい。体調が心配でたまらない。だけど。


「……医者には、診せない。ここに、アルがいることは誰にも言わないほうがいい」


 アルを見つめたまま静かに呟いたおれの顔を見て、お袋は頷いた。


「できる限り様子を見て、私たちで看病しましょう。それしか、ないわ」


 いつになく真剣なお袋の声を聞きながら、おれはアルの額に手を遣った。ひんやりとしたおでこは汗をかいたようにじっとりとしている。今のところ、熱はなさそうだ。

 お袋は静かに客間を出て行った。多分親父にアルのことを伝えにいったのだろう。おれはアルの顔を見つめたまま、その場から動くこともできずにじっと座り込んでいた。



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