11 はじめてのスーパー
作者体調不良により更新が滞っています。申し訳ありませんがのんびり見守ってください。
朝起きるのが辛いと嘆く洋二の苦しみがおれにもようやく分かった。「早く寝ないから悪いんだ」と叱ってきたけれども、洋二、お前の気持ちが今ならよく分かる。……寝ないんじゃない、眠れないときがあるんだな。……今日会ったら謝るよ。
目覚まし時計のけたたましいアラーム音が、ぼんやりと彷徨っていたおれの意識を集約していく。
ここは、どこだ? と一瞬本気で思ったほどに自分がどういう状況にいるのか掴めなかった。眠ったのかどうかそれすらも曖昧なまま、おれはベッドから起き上がった。ベッドに入った記憶すらないが、一応横になっていたことに安堵する。
ギシ、と鈍い音を立てた木製のベッドの端に座り、頭を抱えた。奥のほうで鈍い痛みが燻っているような感覚。……完全な寝不足。ここ数日、毎朝同じことを考えているように思う。
「……おれ、今日やってけるかな……」
頼りない独り言とともに大きなため息をつき、足に力を込めて立ち上がった。どんな理由があろうと仕事を休むことはできない。理由が、自分自身だけでなくアルにあると、親父にもお袋にも、もちろんアルにもばれる訳にはいかない。
不安定な足元が滑り落ちないよう慎重に階段を下りていき、まっすぐ洗面所に入った。鏡の中の自分は、予想通り疲れきっただるい顔で、顔色ももちろん良くない。つい昨日一昨日にも同じ顔をしてたなぁと頭の隅で思ったが、豪快に出した水でいろんなものを流すように洗った。
「あ、おはようサカエ」
ごしごし顔を擦っていたところにいきなり聞こえたアルの声。おれは驚いてびしょびしょの顔のまま振り向いてしまった。
「お、おはよう!」
「あはは、サカエ、びしょびしょよ? ちゃんと拭かないと、ほら!」
笑ってタオルを差し出してくれたアルの輝くような笑顔に見とれ、一瞬反応が遅れた。
「……あ、ああ。ありがとう」
慌ててタオルを受け取って顔を拭き、そろりと目だけを出して彼女の様子を伺った。
……やっぱり、現実だ。間違いなく、彼女はここに、おれの傍に、いる。
ここ数日の寝不足や疲れなど何でもないことのように思える。彼女が目の前にいてくれる奇跡に比べたら。
彼女に出会う前のおれは、毎晩することもなく早く寝て熟睡し、少しの疲れも残さずに朝すっきり目覚め暢気に仕事に行くだけの毎日だった。それはそれで幸せなことだと思っていたけれども、確かに健康的で模範的な生活だったと思うけれども、彼女が近くにいる幸せを知ってしまったおれは、もう前の生活の味気なさに耐えることはできないだろう。
おれの視線に気づいてアルは首を傾げた。
アルは水色のワンピースを着ていた。お袋が若い頃に着ていたものなのだと思う。ふわりと揺れる裾が可愛らしく、とても似合っている。
「その服、よく似合ってる」
思ったことをそのまま口に出した。思考がぼんやりしているお陰で、いつもの口下手も影を潜めているようだ。……もう麻痺してしまっているのかもしれない、こんな恥ずかしい台詞を真顔で言えるなんて。おれが無表情の下でそんなことを考えていたら、アルは顔を赤くして下を向いてしまった。
「……ありがと。お母さんが貸してくれたの」
……照れている、おれの言葉に。
あまりに新鮮な驚きだった。もじもじとスカートの裾を直すアルを呆然と見つめながら、おれはこれまでの女っ気ゼロの人生を振り返って確認する。女性と上手く会話し、褒め、照れさせるなんて……!
成長した自分に心の中で大きくガッツポーズをしながらおれはアルを促した。台所からおいしい香りが漂ってくる。
「あ……と、朝ごはん食べに行こうか」
「う、うん、はい」
こんな小さなやり取りさえも、おれの心を震わせる。……アル、君がいてくれることが何より嬉しいんだ、特別なんだよ。
口に出せない想いを手のひらに託し、アルの肩にそっと添えた。
「……栄、顔」
「は?」
台所に顔を出したら、開口一番、お袋が「おはよう」よりも前におれの顔を指摘した。顔? 顔ならいつも通りのあなたの息子のはずですが。
「あ、アルちゃんはそっちに座っててね。……はぁ。幸せでいいコトね。」
アルを笑顔で居間に促したお袋は、おれに向き直って呆れた顔をした。大きなため息とともに苦笑する顔は、嬉しそうにも見える。
「……ニヤつきすぎよ、注意なさい」
そういわれて、おれはようやくお袋の言いたいことが分かった。ぱっと顔に両手を当ててニヤついて垂れ下がった目じりを無理矢理上げる。……だけどお袋、お袋だって分かるだろう、おれがこんな顔をしている理由が。お袋だって嬉しそうな顔をしているくせに。
「……了解」
笑いながらそう言ったらお袋もニヤっと笑った。考えていることは同じだということだ。おれ達は無言のまま居間に行ったアルの後姿を目で追いかけた。
新聞を広げた親父に「おはようございます」と丁寧に挨拶するアル。それに照れる親父。新聞から一瞬目線をあげて小さく返された「おはよう」に、花が綻ぶように笑うアル。
「……ほんっと、可愛いわよねぇ」
感心したように呟くお袋に、おれは無言で頷いた。……ああ、本当に、アルに出会わせてくれて、本当にありがとう。誰に感謝したらいい? ああ、やっぱり神様か、天使と言ったら神様だもんな。
無言のまま感動に打ち震えるおれを一瞥したお袋は、また呆れたように笑っておれの背中を叩いた。
「ほら、ご飯にしましょう。あなたもお座りなさい、栄」
……本当に、おれの嫁になってくれたらいいのに
アルの隣に腰を下ろしながら、おれは心からそう願った。
今日は建築現場での仕事ではなく、家の隣にある作業場での木材の加工だった。だから予定していた仕事を半日で終え、昼ちょっとすぎには帰ってこられた。
仕事自体は何とか乗り切った。『半日だ、半日頑張れ!!』と心の中で唱えながら集中して、なんとかミスなく終えることができた。
遅い昼食を親父と一緒にとり、午後。
おれは軽トラの助手席にアルを乗せて買い物に向かった。おれがお袋に頼まれたお使いに一緒に行きたいとアルが言ったからだ。アルが買い物に出ると聞いてお袋も一緒に行きたがったが、軽トラには二人しか乗れない。「何買いたいの? 代わりに買ってくるよ」と言ったのだが、にこにこ笑って誤魔化された。「後でアルちゃんと二人で行くからいいわ」って、一体何を買うつもりなのだろうか。
助手席の窓を開け、乗り出すように外の景色を見るアルの服を慌てて引っ張る。
「ちょ、アル! 落っこちるから! あんまり乗り出しちゃダメだよ!」
「ねー、サカエ! 家がたくさんあるねぇ、車もたくさんねぇ! あ! あれは何? 大きい建物! 何?」
「え? あー、ただの工場だよ、モノ作ってるところ! アル! ちょっと座ってちゃんと! シートベルト外しちゃダメ!!」
前を見ながら横も気にするのは神経を使う。目を輝かせたアルは、何度注意しても何度も窓から落ちそうになり、スーパーに着いたときにはほんの十分くらいの運転だったのに疲れきってしまった。
事故を起こさなかった安堵で、ハンドルに凭れ掛かるようにしたおれを、アルは不思議な顔をして見つめてきた。
「……サカエ? どうしたの? お店、行かないの?」
「……あ~、行くよ。でもアル、ちょっと言っておくことがある」
ほんの少しのドライブでもこのはしゃぎようなのだ、見たことがないものばかり目白押しのスーパーで、アルが子供のようにうろちょろするのは確信できる。だから無駄かもしれないけれども先に注意しておきたい。
「何?」
「アル、お店の中ではな、さっきみたいに大声ではしゃいじゃダメだぞ。他の人に迷惑になるからな。いいか?」
「うん? わかった」
「勝手にどこか行くなよ? おれの傍にいろ、わかった?」
「はーい」
満面の笑みで返事を返してくれたが、おれの頭から不安は消えなかった。小学生を相手にしているような感覚、いやむしろ幼稚園児並かもしれない、この返事の頼りなさは。
一抹の不安を抱えつつ、おれたちは車を降りてスーパーの入り口へと向かった。
やってきたのはスーパーマーケットで、食料品のみを扱うがなかなか大きな店だ。お袋に頼まれたのは重い系の食品、つまり味噌や醤油、酒の類。今朝の広告をしっかりチェックしたお袋が、これとこれとこれ……と丸をつけたチラシを持ってきている。
大きなカートにかごを載せ、さて行くかと思ったおれの横で、アルはカートを見て目を輝かせている。
「……押すか? アル」
やりたいんだろうな、とそう言ってみると、アルは即座におれを見て大きく頷いた。大きな瞳が期待と興奮でさらにキラキラ輝き、その純粋すぎる表情におれは思わず笑いながらカートの持ち手を譲った。
「ほら、ゆっくり押すんだぞ、他の人とかものに当たらないようにな」
「うん」
アルは初めてのカートをおっかなびっくりしながら押し始めた。ゆっくりと言われて気を遣っているのか本当にゆっくりで、最初は微笑ましく見守っていたのだが、入り口のところで詰まってしまった。ガチャガチャ押しているがアルの力では自動ドアの溝を越えられないようだった。ハッと気づいたら後ろのお客さんが迷惑そうな顔をしていたため、おれはアルの後ろからカートの持ち手を掴み、アルごと押して中に入った。
「わ、わ、サカエ!」
急に後ろから押されて驚いたのか、アルは歩きながらおれを振り返った。おれはアルが呼ぶのに応えられず入り口から少し入って開けたあたりで横に逸れ、後ろのお客さんにすみませんと会釈をした。
「……サカエ、ごめんね?」
気づくとアルが申し訳なさそうにおれを見上げていた。アルの顔がおれの胸の辺りにある。……近い。それにいい香りがする。
アルを後ろから抱きしめるような体勢になっていたことに今更気づいて、慌てて手を離した。おれが離れたことで、アルはおれが怒っているのかと思ったのだろう、さらにしゅんとして謝ってきた。
「……ごめんなさい……わたし」
「いや、アル、違うんだ。おれは怒ってないし、大丈夫だ、大したことない」
おれが手を振って懸命に否定しても、アルは納得できないらしく申し訳なさそうに首を振った。
「……ごめんなさい、 私のせいでサカエに迷惑を……」
「いや、どっちかって言うとおれのせいだ。アルに力がないってわかってるのに、重いカート押させたから。ちょっとタイミングが悪かっただけだから、大丈夫、気にしなくていい、な?」
本当にこの程度のことを気にかける必要なんてないと思う。おれは必死になって言い繕ったが、アルは暗い表情のまま頷いただけだった。……楽しい買い物になるはずだったのに、入ったところでこんなことになるとは。
「サカエ、私、やっぱりいい、押さない。サカエこれ、押して?」
アルが俯いた顔でカートの持ち手から手を離そうとしたので、おれは慌ててそれを止めた。……本当は押したいはずだ。ここでカートを押さなくなれば、アルは今後スーパーでの買い物のたびに苦い思いをするだろう。おれはアルの顔を覗き込みながらできるだけ優しく言った。
「アル、大丈夫だ、おれも一緒に押す。な?」
カートの持ち手に添えられたアルの右手に自分の手を重ね、左手はアルの頭を撫でた。大丈夫だよ、と伝えたくて。
するとアルはおれに頭を撫でられたまま視線を上げ、頷き笑った。その笑顔が嬉しそうだったので、おれは自分の判断が間違ってなかったのだと思った。アルは子供みたいになんでも興味を示す。だから子供に接するように優しく、一緒にやったらいいのだ。
「……じゃ、買い物するか」
ようやく戻った明るい雰囲気にほっとしたのも束の間、おれは新たな問題にぶち当たった。
無意識にアルのふわふわな髪をいじっていた左手を下ろしたはいいものの、おれはその手をどこに置いたらいいのだろうか。右手はアルの手の上。まぁそれは少しずらせばいい。しかし一緒にカートを押すとなると、考えられる体勢は二つ。
ひとつは先ほどのようにアルを後ろから抱きしめるように縦になる。もうひとつはアルの右側か左側、横にくっつく形だ。おれは頭の中で二つのパターンのイメージを描いてみた。……どっちにしてもバカップルだ。
縦型はアルの温かさと柔らかさを抱きしめられるという利点がものすごくおいしいが、痛い。精神的に痛い。もしおれがそんなカップルを見たら恥ずかしさに目を逸らすだろう、そして思うだろう。『くっつきたきゃ家でやれ』、『この場をわきまえないアホ共が』と。
結局、多少は無難な“横くっつき形”で落ち着いた。おれの頭の中での数秒間の葛藤はアルには気づかれていないだろう。アルはおれの左側で、押し易くなったカートとともに楽しそうに歩き、あちこちに視線を彷徨わせている。おれに言われたはしゃがない、という約束を忠実に守っている姿は、やはり子供ではないちゃんと考えられる大人なんだと思わせる。ぴったりと寄り添った体も、約束通りおれから離れない。
……ああ、なんて。なんて愛おしいんだろう。
二人で一緒にカートを押すバカップルだと思われてもいい。この時間を彼女と過ごせるなら。寄り添っていられるなら。
人や音楽のざわめきも耳には入らない。ただおれの瞳にはアルの姿しか見えない。愛おしい、美しい人の姿しか。
「サカエ? ところで何を買うの?」
物珍しそうにいろいろなものを見ていたアルが、ふと、何も手に取らないおれを不審に思ったようだ。アルに言われてそういえば、と気づいたおれは、今まで浸っていた妄想の世界に赤面しつつ、カートをUターンさせた。
「……ごめん、通り過ぎてた」
アルに見とれすぎて買い物を忘れた、なんて言えないからそれだけを言って元来た通路を引き返す。アルは笑っておれの促す方へついてきてくれた。
それから先は楽しく、つつがなく買い物ができた。
お袋に言われていたセール品の味噌や醤油を籠に入れ、他に何かないかな、ときょろきょろする。適当に飲み物や親父の好きなツマミを選んだところで、アルに尋ねた。
「アル? 欲しいものがあったら買っていいんだぞ?」
これだけ興味深そうにいろいろ見回しているのだ、欲しいものはたくさんあったのだろう。ところがアルはきょとんとおれの顔を見て、首を振った。
「……いいの、珍しくって見てただけだから、欲しくないの」
そういわれて今度はおれがきょとんとしてしまった。……そういうものなのだろうか。女性と言うものは買い物好きで、何でも買っていいと言われれば喜んで大量買いするものだと思っていたのに。……主にお袋や親戚の姉さん方を見て。
「……本当か? 遠慮しなくていいんだぞ、お金ならお袋から預かってきたし、おれも持ってるから」
「ううん、本当に、いいの。食べ物ってよくわからないし」
それもそうか。物珍しいが、何がおいしくて好きか、アルには全く分からないだろう。この先いろいろ食べるようになれば好みや味覚もはっきりしていくのだろうけれども。
しかしそれにしても、初めて買い物にきたのに、アルのためのものを何も買わないのはどうだろう。おれが何か買ってあげたい、せっかくなのだし。そう思ってきょろきょろと視線を巡らせて、あ、と思い至るものがあった。
「アル、ちょっとこっち来て」
アルと共に再びカートを押し、やってきたのはお菓子売り場。
「女の子はみんな甘いものが好きだって言うから、きっとアルも気に入るんじゃないかと思う」
そういってアルに手渡したのは、チョコレート。
どこにでもある普通の板チョコ。本当はもっと高級なおいしいチョコレートを買って食べさせてあげられたらよかったのだけれど、残念ながらこのスーパーにはそういった気の利いたものは置いていない。もっとも、普通の板チョコでも十分おいしいとおれ自身も思っているし、きっと彼女だって気に入ってくれるはず、だ。
アルは渡されたチョコレートをじっと見つめ、そしておれを見上げた。
「サカエ、ありがとう。嬉しい!」
満面の笑顔で告げられて初めて気づく。このチョコレートがおれが彼女に渡す初めてのプレゼントになるのか、と。ちょっと安すぎるところが気にはなるが、モノは値段じゃない。気持ちが大切だ。
「ああ、家に帰って食べような」
「うん!」
この上なく嬉しそうな顔の彼女を見て、おれもつられて笑った。良かった、アルのためのものを買ってあげられて。
そのままチョコを手放さないアルに苦笑しつつ、レジに向かい、その他の重たい食品に気を取られてアルのチョコのお金を払い忘れそうになって慌てたりしたが、きちんと支払いをしてスーパーを出た。午後の太陽が斜めに差し込み始めたのを眺めつつ、軽トラを走らせ帰宅した。
おそらくおれもアルも浮かれすぎていたのだと思う。そうでなければもっと早く気づけていたはずだったのに。
アルが体調を崩して高熱を出したのは、その日の夜だった。